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{{二十四史}}
 
{{二十四史}}
『'''史記'''』(しき)は、[[中国]][[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に[[司馬遷]]によって編纂された中国の歴史書である。[[正史]]の第一に数えられる。[[二十四史]]のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『'''太史公書'''』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る[[紀伝体]]の歴史書で、叙述範囲は伝説上の[[五帝]]の一人[[黄帝]]から[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
+
『'''史記'''』(しき)
  
二十四史の中でも『[[漢書]]』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
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中国最初の正史。中国の歴史書の典型をなす[[紀伝体]]の史書。本紀 12巻,世家 30巻,表 10巻,書8巻および列伝 70巻から成る。著者の[[司馬遷]]が太史令であったため,最初『太史公書』と呼ばれた。[[黄帝]]から前漢の武帝までを扱っている通史。この書はまた文学としてもすぐれており,特に列伝においては,さまざまの人間像を余すところなく描き出している。南朝宋の斐いん (はいいん) の『史記集解 (しきしっかい) 』,唐の司馬貞の『史記索隠 (さくいん) 』,張守節の『史記正義』などの注がある。
 
 
[[日本]]でも古くから読まれており、[[元号]]の出典として12回採用されている。
 
 
 
==成立過程==
 
[[ファイル:Si maqian.jpg|thumb|200px|司馬遷]]
 
『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父[[司馬談]]が既に持っていた。だが、司馬談は自らの歴史書を完成させる前に憤死した。司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。
 
 
 
[[紀元前99年]]に司馬遷は、[[匈奴]]に投降した友人の[[李陵]]を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、[[紀元前98年|翌年]]に[[宮刑]]に処せられる。この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。[[紀元前97年]]に出獄後は、執筆に専念する。結果[[紀元前91年]]頃に『史記』が成立した。『史記』は司馬遷の娘に託され、武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、[[宣帝 (漢)|宣帝]]の代になり司馬遷の孫の[[楊惲]]が広めたという。
 
 
 
司馬遷が叙述をしなかった[[三皇五帝#三皇|三皇]]時代について書かれた「'''三皇本紀'''」と「'''序'''」は、[[唐]]代に[[司馬貞]]が加筆したものである。
 
 
 
== 本文の信頼性 ==
 
現存する『史記』の完本は[[南宋]]の[[慶元]]2年(1196年)のものが最古であり、これが司馬遷の原作にどの程度忠実かは大きな問題である。
 
 
 
[[唐]]代の作である「三皇本紀」は別にしても、太史公自序にいう「今上本紀」が今の『史記』には見えず、かわりに「孝武本紀」があるが、これが後世の補作であることは明らかである。それ以外の巻にも司馬遷が使ったはずのない「孝武」「武帝」の語が散見する。それどころか「建元以来侯者年表」「外戚世家」「三王世家」「屈原賈生列伝」には[[昭帝 (漢)|昭帝]]まで言及されている。とくに「漢興以来将相年表」は司馬遷のずっと後の[[鴻嘉]]元年(紀元前20年)まで記している。また、あちこちに「褚先生曰」として褚少孫の言葉を載せている。
 
 
 
『[[漢書]]』司馬遷伝によると、[[班固]]の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。現行本は130巻全部がそろっているので、[[後漢]]以降に誰かが補ったということになる。張晏によると、欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。『史記』太史公自序の『[[史記索隠|索隠]]』は、このうち兵書は補われず、かわりに律書を加えたとする。
 
 
 
==思想的背景==
 
『史記』に貫かれている思想は「天道是か非か」であると言われている。[[天]]の[[道]]、すなわちこの世に行われるべき正しき道が本当に存在しているのかどうかということである。例えば列伝の最初である「[[伯夷]]列伝」で、義人であるはずの伯夷と叔斉が餓死という惨めな死を遂げることに対しての疑問である。これは司馬遷自身が、李陵を弁護したと言う正しい行いをしておきながら宮刑と言う屈辱的な刑罰を受けたことに対しての悲痛な思いが根底にあると思われる。
 
 
 
司馬遷が『史記』を執筆した時代は、武帝により儒教が国教化されつつあった時代である。そのため、[[孔子]]については、[[諸侯]]でないものの、世家の中に書かれている。『史記』の記述は儒教一辺倒にならず他の思想も取り入れている(司馬遷自身は道家に最も好意的だとも言われている)。これは、事実の追求という史書編纂の目的において生まれたことであろう。反秦勢力の名目上の領袖であった[[義帝]]に本紀を立てず、当時の実質的な支配者であった項羽に本紀を立てていることや、[[呂雉|呂后]]の傀儡であった[[恵帝 (漢)|恵帝]]を本紀から外して「呂后本紀」を立てていることも、こういった姿勢の現れと考えられる。
 
 
 
叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「遊侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の[[外戚]]の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「[[酷吏]]列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
 
 
 
さらに、漢の宿敵であった匈奴を始めとする周辺騎馬民族や蛮族に対しても、当時の漢の価値観から論評することをあまりせず、基本的に事実のみを淡々と書くという態度で臨んでいる。
 
 
 
[[儒教]]が主導権を握った後は、司馬遷のこうした姿勢はしばしば批判の対象とされた。例えば[[班彪]]の『[[漢書]]』では、遊侠や貨殖といった人物を史書で取り上げたことや儒教を軽視して道家に近い立場をとったこと、[[劉キョウ|劉勰]]の『[[文心雕龍]]』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。『史記』を一種の悪書と見なす視点はかなり早くからあったようで、前漢の[[成帝 (漢)|成帝]]の時代に来朝した楚王・劉宇が『太史公書』を求めたものの、「『太史公書』には昔の[[合従連衡]]や権謀術数のことが詳しく書かれており、諸侯に読ませるべき本ではない」という意見が出て、結局楚王の申し出は許可されなかったという逸話もある<ref>『漢書』「宣元六王伝」</ref>。また[[蜀漢]]の[[譙周]]は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『[[古史考]]』25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。劉知畿の『史通』古今正史篇には、唐代において『古史考』は、『史記』と並んで広く読まれていたと記されている。
 
 
 
更に後世において[[史漢]](『史記』と『漢書』)の比較評論が、多くの知識人によって行われている。
 
 
 
==文学的価値==
 
歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、'''「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」'''と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。
 
 
 
文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、[[白川静]]は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。また[[宮崎市定]]は、『史記を語る』p.177で歴史を題材にした多くの[[講談]]と言った語り物を司馬遷が重要な史料として取り入れていると指摘し、p.113で司馬遷について'''「全てを疑う理由が有る」'''としている。[[小川環樹]]は、司馬遷は[[戦国策]]等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し(史記列伝・解説)、[[加藤徹]]も司馬遷が記した戦国七雄の兵力を多大に宣伝が入っているのでは無いかとしている<ref>[[渡邉義浩]]もファミ通の三国志特集にて、演義がおよそ10倍の誇張をしていたのをもとに「どの時代もそんなものだった」としている。</ref>。それら講談から取材した記述と司馬遷自身の記述を見分ける術は我々には無い。いずれにせよ、司馬遷の仕事によって後世に史記に採録されている興味深い話の数々が残ったという事実のみがある。
 
 
 
==歴史学的価値==
 
正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。
 
また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。
 
また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の[[兵馬俑]]抗の発見で記述の正確さが証明されている。
 
 
 
一方で、『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば[[呉 (春秋)|呉]]の王家の[[呉王僚|僚]]と[[闔閭]]の世代間の[[系図|家系譜]]など)。
 
 
 
== 史記にあらわれる故事成語 ==
 
以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。
 
 
 
*「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 巻48・陳渉世家
 
*「唇破れて歯寒し」 巻39・晋世家、巻46・田敬仲完世家。初出は『[[春秋左氏伝|春秋左伝]]』僖公五年
 
*「狡兎死して走狗煮らる」 巻41・越王勾践世家、巻92・淮陰侯列伝。初出は『[[韓非子]]』内儲説下
 
*「先んずれば人を制す」 巻7・項羽本紀
 
*「将に将たり」 巻92・淮陰侯列伝
 
*「断じて行えば鬼神もこれを避く」 巻87・李斯列伝
 
*「智者も千慮必ず一失あり。愚者も千慮また一得あり」 巻92・淮陰侯列伝
 
*「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻55・留侯世家、巻108・淮南衡山列伝(『史記』では「毒薬」)。初出は『韓非子』外儲説左上
 
*「天道是か非か」 巻61・伯夷列伝、巻63・老子韓非列伝
 
*「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」 巻109・李将軍列伝
 
*「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」 巻130・太史公自序。張良の伝記で言及するものは『[[漢書]]』巻40・張良伝
 
*「匹夫の勇、婦人の仁」 巻92・淮陰侯列伝。「匹夫の勇」の初出は『[[孟子]]』梁恵王下
 
*「寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」 巻69・蘇秦列伝
 
*「[[臥薪嘗胆]]」 巻41・越王勾践世家(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆」は『[[十八史略]]』春秋など)
 
*「[[管鮑の交わり]]」 巻62・管晏列伝。初出は『[[列子]]』力命
 
*「完璧」 巻81・廉頗藺相如列伝
 
*「[[鴻門の会]]」 巻7・項羽本紀、巻8・高祖本紀、巻55・留侯世家、巻95・樊噲列伝
 
*「国士無双」 巻92・淮陰侯列伝
 
*「左袒」 巻9・呂太后本紀、巻10・孝文本紀
 
*「屍を鞭打つ」 巻66・伍子胥列伝
 
*「鹿を馬となす」(「[[馬鹿]]」の語源という説がある) 巻6・秦始皇本紀
 
*「[[四面楚歌]]」 巻7・項羽本紀
 
*「[[酒池肉林]]」 巻3・殷本紀、巻123・大宛列伝。初出は『韓非子』喩老
 
*「[[宋襄の仁]]」 巻39・晋世家、初出は『韓非子』外儲説左上
 
*「背水の陣」 巻92・淮陰侯列伝。初出は『尉繚子』天官
 
*「[[刎頸の交わり]]」 巻81・廉頗藺相如列伝、巻89・張耳陳余列伝、巻92・淮陰侯列伝
 
*「右に出ずる者なし」 巻104・田叔列伝
 
*「流言蜚語」 巻107・魏其武安侯列伝
 
*「怨み骨髄に入る」 巻5・秦本紀
 
*「曲学阿世」 巻121・儒林列伝
 
*「士は己を知る者のために死す」 巻86・[[刺客列伝]]
 
*「雌雄を決す」 巻7・項羽本紀
 
*「傍若無人」 巻86・[[刺客列伝]]
 
*「満を持す」 巻41・越王勾践世家
 
*「立錐の地なし」 巻55・留侯世家
 
*「一敗、地に塗る」 巻8・高祖本紀
 
*「百発百中」 巻4・周本紀
 
*「鳴かず飛ばず」 巻66・[[淳于コン|淳于髠]]列伝
 
 
 
==内容==
 
[[画像:Shiji.jpg|thumb|史記の一頁目]]
 
===本紀===
 
{| class=wikitable width=100%
 
|-
 
! width=30%| !! width=20%| 題 !! width=50%| 内容
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷001|卷1]] 第1 五帝本紀 || 五帝本紀 || [[三皇五帝|五帝]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷002|卷2]] 第2 夏本紀 || 夏本紀 || [[夏 (三代)|夏]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷003|卷3]] 第3 殷本紀 || 殷本紀 || [[殷]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷004|卷4]] 第4 周本紀 || 周本紀 || [[周]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷005|卷5]] 第5 秦本紀 || 秦本紀 || [[秦]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷006|卷6]] 第6 秦始皇本紀 || 秦始皇本紀 || [[始皇帝]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷007|卷7]] 第7 項羽本紀 || 項羽本紀 || [[項籍]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷008|卷8]] 第8 高祖本紀 || 高祖本紀 || [[劉邦]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷009|卷9]] 第9 呂太后本紀 || 呂太后本紀 || [[呂雉]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷010|卷10]] 第10 孝文本紀 || 孝文本紀 || [[文帝 (漢)|文帝]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷011|卷11]] 第11 孝景本紀 || 孝景本紀 || [[景帝 (漢)|景帝]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷012|卷12]] 第12 孝武本紀 || 孝武本紀 || [[武帝 (漢)|武帝]]<ref>現行の「孝武本紀」は司馬遷の手によるものではない。「太史公自序」によれば、司馬遷の手による「今上本紀」が存在していたことは分かるが、早くに亡佚している。現行の本紀は前漢の褚少孫が補作したものとも言われるが、内容が「封禅書」の大部分をそのまま採録したものであり、褚少孫の補作ですらないとする見解([[清]]の[[銭大昕]])もある。</ref>
 
|}
 
 
 
===表===
 
 
 
#三代世表
 
#十二諸侯年表
 
#六国年表
 
#秦楚之際月表
 
#漢興以来諸侯年表
 
#高祖功臣侯者年表
 
#恵景間侯者年表
 
#建元以来侯者年表
 
#建元以来王子年表
 
#漢興以来将相名臣年表
 
 
 
===書===
 
#礼書
 
#楽書
 
#律書
 
#暦書
 
#天官書
 
#封禅書
 
#河渠書
 
#平準書
 
 
 
===世家===
 
{| class=wikitable width=100%
 
|-
 
! width=30%| !! width=20%| 題 !! width=50%| 内容
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷031|卷31]] 第01 吳太伯世家 || 呉太伯世家 || [[呉 (春秋)|呉]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷032|卷32]] 第02 齊太公世家 || 斉太公世家 || [[斉 (春秋)|斉]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷033|卷33]] 第03 魯周公世家 || 魯周公世家 || [[魯]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷034|卷34]] 第04 燕召公世家 || 燕召公世家 || [[燕 (春秋)|燕]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷035|卷35]] 第05 管蔡世家 || 管蔡世家 || [[管叔鮮]]・[[蔡]]・[[曹 (春秋)|曹]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷036|卷36]] 第06 陳杞世家 || 陳杞世家 || [[陳 (春秋)|陳]]・[[杞]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷037|卷37]] 第07 衛康叔世家 || 衛康叔世家 || [[衛]]
 
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|[[:s:zh:史記/卷038|卷38]] 第08 宋微子世家 || 宋微子世家 || [[宋 (春秋)|宋]]
 
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|[[:s:zh:史記/卷039|卷39]] 第09 晉世家 || 晋世家 || [[晋 (春秋)|晋]]
 
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|[[:s:zh:史記/卷040|卷40]] 第10 楚世家 || 楚世家 || [[楚 (春秋)|楚]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷041|卷41]] 第11 越王勾踐世家 || 越王勾践世家 || [[勾践]]
 
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|[[:s:zh:史記/卷042|卷42]] 第12 鄭世家 || 鄭世家 || [[鄭]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷043|卷43]] 第13 趙世家 || 趙世家 || [[趙 (戦国)|趙]]
 
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|[[:s:zh:史記/卷044|卷44]] 第14 魏世家 || 魏世家 || [[魏 (戦国)|魏]]
 
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|[[:s:zh:史記/卷045|卷45]] 第15 韓世家 || 韓世家 || [[韓 (戦国)|韓]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷046|卷46]] 第16 田敬仲完世家 || 田敬仲完世家 || [[田斉]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷047|卷47]] 第17 孔子世家 || 孔子世家 || [[孔子]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷048|卷48]] 第18 陳涉世家 || 陳渉世家 || [[陳勝]]・[[呉広]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷049|卷49]] 第19 外戚世家 || 外戚世家 || [[外戚]]について
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷050|卷50]] 第20 楚元王世家 || 楚元王世家 || [[劉交]](劉邦の血族で王侯に封じられたものについて)
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷051|卷51]] 第21 荊燕世家 || 荊燕世家 || [[劉賈]]・[[劉沢]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷052|卷52]] 第22 齊悼惠王世家 || 斉悼恵王世家 || [[劉肥]](漢の諸侯王としての斉について)
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷053|卷53]] 第23 蕭相國世家 || 蕭相国世家 || [[蕭何]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷054|卷54]] 第24 曹相國世家 || 曹相国世家 || [[曹参]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷055|卷55]] 第25 留侯世家 || 留侯世家 || [[張良]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷056|卷56]] 第26 陳丞相世家 || 陳丞相世家 || [[陳平]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷057|卷57]] 第27 絳侯周勃世家 || 絳侯周勃世家 || [[周勃]]
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷058|卷58]] 第28 梁孝王世家 || 梁孝王世家 || [[劉武]](漢の諸侯王としての梁について)
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷059|卷59]] 第29 五宗世家 || 五宗世家 || 景帝の子について
 
|-
 
|[[:s:zh:史記/卷060|卷60]] 第30 三王世家 || 三王世家 || 武帝の子([[劉閎]]・[[劉旦]]・[[劉胥]])について
 
|}
 
 
 
===列傳===
 
{| class=wikitable width=100%
 
|-
 
! width=30%| !! width=20%| 題 !! width=50%| 内容
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷061|卷061]] 第01 伯夷列傳 || 伯夷列伝 || [[伯夷]]・[[叔斉]] 
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷062|卷062]] 第02 管晏列傳 || 管晏列伝 || [[管仲|管夷吾]]・[[晏嬰]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷063|卷063]] 第03 老子韓非列傳 || 老子韓非列伝 || [[老子]]・[[韓非]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷064|卷064]] 第04 司馬穰苴列傳 || 司馬穰苴列伝 || [[司馬穰苴]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷065|卷065]] 第05 孫子吳起列傳 || 孫子呉起列伝 || [[孫武]]・[[孫ピン|孫臏]]・[[呉起]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷066|卷066]] 第06 伍子胥列傳 || 伍子胥列伝 || [[伍子胥|伍員]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷067|卷067]] 第07 仲尼弟子列傳 || 仲尼弟子列伝 || [[孔門十哲]]他77人
 
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| [[:s:zh:史記/卷068|卷068]] 第08 商君列傳 || 商君列伝 || [[商鞅]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷069|卷069]] 第09 蘇秦列傳 || 蘇秦列伝 || [[蘇秦]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷070|卷070]] 第10 張儀列傳 || 張儀列伝 || [[張儀]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷071|卷071]] 第11 樗里子甘茂列傳 || 樗里子甘茂列伝 || [[樗里疾]]・[[甘茂]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷072|卷072]] 第12 穰侯列傳 || 穰侯列伝 || [[魏ゼン|魏冄]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷073|卷073]] 第13 白起王翦列傳 || 白起王翦列伝 || [[白起]]・[[王翦]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷074|卷074]] 第14 孟子荀卿列傳 || 孟子荀卿列伝 || [[孟子]]・[[荀子]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷075|卷075]] 第15 孟嘗君列傳 || 孟嘗君列伝 || [[孟嘗君]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷076|卷076]] 第16 平原君虞卿列傳 || 平原君虞卿列伝 || [[平原君]]・[[虞卿]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷077|卷077]] 第17 魏公子列傳 || 魏公子列伝 || [[信陵君]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷078|卷078]] 第18 春申君列傳 || 春申君列伝 || [[春申君]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷079|卷079]] 第19 范雎蔡澤列傳 || 范雎蔡沢列伝 || [[范雎]]・[[蔡沢]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷080|卷080]] 第20 樂毅列傳 || 楽毅列伝 || [[楽毅]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷081|卷081]] 第21 廉頗藺相如列傳 || 廉頗藺相如列伝 || [[廉頗]]・[[藺相如]]・[[趙奢]]・[[李牧]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷082|卷082]] 第22 田單列傳 || 田単列伝 || [[田単]]・[[王ショク|王蠋]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷083|卷083]] 第23 魯仲連鄒陽列傳 || 魯仲連鄒陽列伝 || [[魯仲連]]・[[鄒陽]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷084|卷084]] 第24 屈原賈生列傳 || 屈原賈生列伝 || [[屈原|屈平]]・[[賈誼]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷085|卷085]] 第25 呂不韋列傳 || 呂不韋列伝 || [[呂不韋]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷086|卷086]] 第26 刺客列傳 || 刺客列伝 || [[曹沬]]・[[専諸]]・[[豫譲]]・[[聶政]]・[[荊軻]]
 
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| [[:s:zh:史記/卷121|卷121]] 第61 儒林列傳 || 儒林列伝 || [[董仲舒]]・[[孔安国]]など
 
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| [[:s:zh:史記/卷122|卷122]] 第62 酷吏列傳 || [[酷吏|酷吏列伝]] || 当時、厳しく法を適用して民を治めた人々。[[侯封]]・[[シツ都|郅都]]・[[寧成]]・[[周陽由]]・[[趙禹]]・[[張湯]]・[[義縦]]・[[王温舒]]・[[尹斉]]・[[楊僕]]・[[減宣]]・[[杜周]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷123|卷123]] 第63 大宛列傳 || 大宛列伝 || [[大宛]](フェルガナ)
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷124|卷124]] 第64 游俠列傳 || 游侠列伝 || [[朱家]]・[[田仲]]・[[王公]]・[[劇孟]]・[[郭解]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷125|卷125]] 第65 佞幸列傳 || 佞幸列伝 || [[鄧通]]・[[韓嫣]]・[[李延年]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷126|卷126]] 第66 滑稽列傳 || 滑稽列伝 || [[淳于コン|淳于髠]]・[[優孟]]・[[優旃]]・[[西門豹]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷127|卷127]] 第67 日者列傳 || 日者列伝 || 卜者[[司馬季主]]
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷128|卷128]] 第68 龜策列傳 || 亀策列伝 || 占卜の方法について
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷129|卷129]] 第69 貨殖列傳 || 貨殖列伝 || 商人について [[范蠡]]・[[子貢]]が商人としても成功した逸話を記述。
 
|-
 
| [[:s:zh:史記/卷130|卷130]] 第70 太史公自序 || 太史公自序 || [[司馬遷]]の自伝
 
|}
 
 
 
==主な註釈==
 
*[[宋 (南朝)|宋]]の{{lang|zh|裴駰}}({{lang|zh|駰}}は馬偏に因)による『[[史記集解]]』
 
*唐の司馬貞による『[[史記索隠]]』
 
*唐の[[張守節]]による『[[史記正義]]』
 
*明の凌稚隆撰、李光縉増補の『[[史記評林]]』 - 『史記』本編、三家注のほか、諸家の解説をあわせたもの。
 
*[[日本]]の[[瀧川資言]]による『[[史記会注考証]]』
 
 
 
なお、『史記集解』、『史記索隠』、『史記正義』の3本の注釈書をあわせて「三家注」という。
 
 
 
==日本における史記の受容==
 
『史記』の伝来時期は正確には判明していないようであるが、[[聖徳太子]]の[[十七条憲法]]の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある<ref>岡田正之『近江奈良朝の漢文學』p26・p62(養徳社、1946年)。</ref>。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。
 
 
 
===奈良時代===
 
『[[続日本紀]]』巻29・[[神護景雲]]2年([[768年]])9月11日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。
 
 
 
また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年([[769年]])10月10日の条に、[[孝謙天皇|称徳天皇]]が[[大宰府]]の「府庫は但だ[[五経]]を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『[[漢書]]』・『[[後漢書]]』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『[[晋書]]』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。
 
 
 
===平安時代===
 
[[File:Shiki Tohoku.jpg|300px|thumb|[[国宝]] 『史記孝文本紀第十』([[東北大学]]所蔵)<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/02siki.html 指定文化財|国宝|史記孝文本紀第十](宮城県)</ref>]]
 
平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。[[藤原佐世]]が奉勅して[[寛平]]年間([[889年]] - [[897年]])に撰した<ref>『日本国見在書目録』の撰述時期は、未確定だが、本項では[[大庭脩]]『古代中世における日中関係史の研究』p299(同朋舎出版、1996年)を参照。</ref>『[[日本国見在書目録]]』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。なお藤原通憲([[信西]])の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。
 
 
 
さらに、[[清少納言]]は『[[枕草子]]』で「ふみは[[白居易|文集]]。[[文選 (書物)|文選]]。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、[[紫式部]]は『[[源氏物語]]』で152箇所にわたり中国詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている<ref>中西進・厳紹{{Lang|zh|璗}}編『日中文化交流史叢書 第6巻・文学』p207([[大修館書店]]、1995年)の算出方法による。</ref>。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃・戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、[[紀伝道]]の宗家とされた[[大江氏]]では、裴駰『集解』を基にした[[史記延久点|延久点]]に基づく訓点本が著された。
 
 
 
===南北朝時代===
 
『[[太平記]]』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である<ref>増田欣『『太平記』の比較文学的研究』p112-p125([[角川書店]]、1976年)の算出方法による。また、『太平記』章段の事書は西源院本に基づく。なお、例えば楚漢の興亡が『[[平家物語]]』・『[[平治物語]]』・『[[源平盛衰記]]』で紹介されているように、種々の軍記物語が『史記』にみえる説話を用いている。しかし、『史記』のテキストとの比較により、これらの軍記物語と『史記』との直接的関連を否定するのが通説的見解のようである。増田・前掲書p207以降。『平家物語』につき、山下宏明ら編・軍記文学研究叢書5『平家物語の生成』p129(汲古書院、1997年)。</ref>。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。
 
 
 
===室町時代===
 
[[上杉憲実]]が[[文安]]3年([[1446年]])に[[足利学校]]の学規を定めて「三注・[[四書]]・[[六経]]・[[列子|列]]・[[荘子|荘]]・[[老子|老]]・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした<ref>川瀬一馬『足利學校の研究』p32(講談社、1974年)。もっとも、『史記』は足利学校で教材とされる唯一の史書であり続けた訳ではなく、[[享保]]13年([[1728年]])の蔵書目録には『両漢書』・『通鑑』などがみえる。同書p167・p253。なお、「三注」とは『古注蒙求』・『[[千字文]]注』・『胡曾詩註』をいう。
 
</ref>。
 
 
 
===江戸時代===
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])10月、[[徳川家康]]が[[駿府]]の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により[[江戸城]]内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる<ref>福井保『紅葉山文庫』p39(郷学舎、1980年)。</ref>。
 
 
 
また、[[徳川光圀]]が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『[[大日本史]]』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。
 
 
 
なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、[[南宋]]時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。[[1195年]]~[[1201年]]に建安(現在の[[福建省]])で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。[[妙心寺]]の僧侶である南化が所有していたが、[[直江兼続]]に譲り、その後[[米沢藩]][[藩校]]「[[興譲館]]」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は[[国宝]]となり[[国立歴史民俗博物館]]で保管されている。
 
 
 
==主な刊行(現代語訳)==
 
*『史記』(全15巻)、吉田賢抗・水澤利忠・青木五郎ほか訳注、[[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉、1973年~2014年
 
**『史記 〈本紀〉』、『史記 〈世家〉』(全2巻)、明治書院〈[[新書漢文大系]]〉、2003-2006年
 
**『史記 〈列伝〉』(全5巻)、同上、2002-2003年、2014-2017年(3-5巻)。新書(抜粋)版
 
*『史記 中国古典選』  [[一海知義]]・[[田中謙二]]編訳・解説、[[朝日新聞社]]〈[[朝日選書]]〉(新版 全3巻・抜粋版)、1996年
 
; ※以下は現代語訳のみ
 
*『史記』(全3巻)、野口定男・[[近藤光男 (中国文学者)|近藤光男]]・[[頼惟勤]]・[[吉田光邦]]訳
 
*:[[平凡社]]〈[[中国古典文学大系]]〉、1971年、復刊1994年。中国の古典シリーズ(普及版)、1973年 
 
**『史記列伝』 野口定男訳、[[平凡社ライブラリー]](全3巻)、2010-2011年
 
*『史記』(全8巻)、小竹文夫・[[小竹武夫]]訳、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、1995年
 
**旧版 『筑摩世界文学大系6・7 史記』 筑摩書房、1971年ほか
 
*『史記列伝』(全5巻)、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、[[岩波文庫]]、同ワイド版、2015-2016年
 
**旧版 『[[世界古典文学全集]]20 司馬遷』 筑摩書房、1969年ほか
 
*『史記世家』(全3巻)、[[小川環樹]]・[[今鷹真]]・福島吉彦訳、岩波文庫
 
*『史記列伝』(全2巻)、[[貝塚茂樹]]・[[川勝義雄]]訳、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2001年
 
**旧版 『[[世界の名著]]11 司馬遷』 貝塚茂樹責任編集、中央公論社。抜粋版
 
 
 
==関連項目==
 
*[[歴史書一覧]]
 
*[[徐福]]
 
*[[史記 (横山光輝の漫画)]]
 
 
 
== 関連文献 ==
 
*[[大木康]]<ref>大木康訳・解説で、『司馬遷 <small>現代語訳</small> 史記』(筑摩書房〈[[ちくま新書]]〉、2011年)がある。</ref> 『「史記」と「[[漢書]]」 中国文化のバロメーター』(岩波書店〈書物誕生-あたらしい古典入門〉、2008年)ISBN 978-4-00-028283-3
 
 
 
==注釈==
 
{{reflist}}
 
 
 
==外部リンク==
 
{{Wikisourcelang|zh|史記}}
 
{{Wikiquote|司馬遷}}
 
*国学ネット — 原典宝庫『[http://www.guoxue.com/shibu/24shi/shiji/sjml.htm 1巻/五帝本紀第1 - 130巻/列伝70・太史公自序]』{{Zh-smpl icon}}『[[史記集解]]』、『[[史記索隠]]』、『[[史記正義]]』の史記三大注釈書の注記が併記されている。
 
*[http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=4474&if=gb 史記]{{Zh-hk icon}}
 
  
 +
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[[Category:紀元前1世紀の書籍]]
 
[[Category:紀元前1世紀の書籍]]

2018/10/6/ (土) 16:15時点における最新版

史記』(しき)

中国最初の正史。中国の歴史書の典型をなす紀伝体の史書。本紀 12巻,世家 30巻,表 10巻,書8巻および列伝 70巻から成る。著者の司馬遷が太史令であったため,最初『太史公書』と呼ばれた。黄帝から前漢の武帝までを扱っている通史。この書はまた文学としてもすぐれており,特に列伝においては,さまざまの人間像を余すところなく描き出している。南朝宋の斐いん (はいいん) の『史記集解 (しきしっかい) 』,唐の司馬貞の『史記索隠 (さくいん) 』,張守節の『史記正義』などの注がある。



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