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'''台湾光復'''(たいわんこうふく)は、[[日本統治時代の台湾|日本の統治下の台湾]]において日本の統治が終わったことを指す。
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== 「カイロ宣言」と光復 ==
 
[[第二次世界大戦]]末期の[[1944年]][[11月7日]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]米国大統領、[[チャーチル]]英国首相そして[[中華民国]]の[[蒋介石]]は、「[[カイロ宣言]]」に署名をした<ref name="wu222">呉(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項</ref>。そこには、日本が「[[満州]]、台湾、[[澎湖島]]のごとき日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する。」ことが述べられていた<ref name="wu222"/><ref group = "注釈">このようにカイロ宣言は日本敗戦後の台湾の主権の帰属について明確な主張をしている。日本は、このカイロ宣言の発表後も投降しなかったので、同盟国は早期に戦争を終結させるため再度「[[ポツダム宣言]]」を発表し、カイロ宣言の主張を繰り返した。このため中華民国、中華人民共和国の双方がカイロ宣言を根拠として「台湾の主権を有している」と主張しているのである(後掲「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項)</ref>。それまで[[中国共産党]]は戦後の台湾の帰属について態度が明確でなかったが、このカイロ宣言にて英米が対日戦勝利後の台湾の帰属について意思を明確にしたことにより、中国共産党も態度を明確にした<ref name="wakabayashi62">若林(1999年)62ページ</ref>。これにより中国主要政治勢力が台湾を中国の一部とするとようやく決まった<ref name="wakabayashi62"/>。ここに台湾は「光復」されるべき土地となったのである<ref name="wakabayashi62"/>「光復」とは中国語の古い言葉で固有のものを回復すること、とりわけ失われた国土の回復を指す<ref name="zhou197">周(2013年)197ページ</ref><ref group = "注釈">しかし、漢文の基礎知識をもつものであれば、この言葉が祖国復帰を表すことは容易にわかるはずだが、日本による[[皇民化]]教育を受けた若い世代の中には、「光復」の意味がわからず、日本語で同じ音の「降伏」と理解するものも多かった(後掲周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社197ページ)</ref>。そして、米、英、ソ三国の指導者が[[7月26日]]に発表した[[ポツダム宣言]]には、日本が前記「カイロ宣言」を誠実に履行することを求めていた<ref name="wu224">呉(2010年)224ページ「ポツダム宣言」の項</ref>。
 
 
 
== 日本による「ポツダム宣言」受諾 ==
 
8月に日本が、ポツダム宣言を受諾し、9月2日東京湾に浮かぶ[[戦艦ミズーリ]]号において、日本国全権が連合国に対する降伏文書に署名をした<ref name="itou137">伊藤(1993年)137ページ</ref>。これを受け同日[[連合国]]最高司令官[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は、「対日一般司令」第1号ⅠのAにおいて、旧「[[満州]]」以外の中国大陸と台湾およびフランス領北ベトナムに居た日本軍に対し、中国戦区最高司令官蒋介石への降伏を命じた<ref name="itou137"/>。このころ中国では、すでに国民党と中国共産党の内戦が始まっており、蒋介石が率いる中国軍は、実質的には国民党軍であった<ref name="itou137"/>。蒋介石は、上記「対日一般司令」第1号を待たずに、降伏文書調印の前日である9月1日に、[[陳儀]]を「'''台湾省'''」[[台湾省行政長官公署|行政長官]]兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた<ref name="wakabayashi62"/><ref name="itou137"/>。蒋介石は、「カイロ宣言」を根拠に台湾の領有権の変更に関する国際条約もないまま、素早く台湾を中国の「台湾省」としたのである<ref name="itou137"/>。陳儀は重慶で行政長官公署の要員を任命して台湾接受の中核組織を編成した<ref name="wakabayashi62"/>。10月17日、国軍2個師団1万2000人と長官公署官員約200名が、米軍機の護衛の下、米国艦船約30隻に分乗して、[[基隆]]港に到着した<ref name="itou138">伊藤(1993年)138ページ</ref>。国民党軍は、戦勝国とはいえ米軍の全面的な支援を得ての台湾占領であった<ref name="itou138"/>。
 
 
 
== 国民党軍の上陸と地元台湾人の反応 ==
 
国民党軍すなわち『祖国』の軍隊が台湾に上陸することを聞いた台湾人は非常に興奮した<ref name="zhou204">周(2013年)204ページ</ref>。台北のみならず[[台中]]、[[台南]]、[[高雄]]からも基隆港に人が駆け付け、国民党軍の上陸を、固唾をのんで見守った<ref name="zhou204"/>。しかし、彼らの目の前に現れたのは、見慣れた日本の軍隊とは全く異なり、隊列はばらばらで、ゲートルもきちんと捲いていないようなみすぼらしい姿で、全員が背中に雨傘を背負い、なかには鍋や食器はては寝具を担ぐ者までいた<ref name="zhou204"/>。多くの台湾人たちは、日本軍とのあまりの違いに驚愕し、日本が中国に敗れたとはとても信じられなかった<ref name="itou141">伊藤(1993年)141ページ</ref>。国民党軍への驚愕と失望は、「祖国復帰」に一抹の不安を抱かせ、期待と喜びに微かな影を落とすものであった<ref name="itou141"/>。遅れて10月24日陳儀自身が台湾に到着した<ref name="wakabayashi62"/>。翌[[10月25日]]に[[台北市]]の公会堂で「中国戦区台湾省受降式典」が挙行され、台湾は50年間の日本統治を脱し、正式に祖国「中国」に復帰した<ref name="wakabayashi62"/><ref name="sugano35">菅野(2011年)35ページ</ref>。
 
 
 
この式典の終了後、陳儀台湾省行政長官は、ラジオ放送を通じて、「今日より台湾は正式に再び中国の領土となりすべての土地と住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下におかれる」(要旨)との声明を発表した<ref name="itou139">伊藤(1993年)139ページ</ref>。この声明は、台湾の領有権の変更のみならず、台湾人の意思にかかわらず一方的に、その国籍を日本から中国へと変更することを意味した<ref name="itou139"/>。これは、日清戦争後の台湾割譲に伴い2年間の猶予を与えたうえで、[[台湾住民国籍決定|台湾住民に国籍選択]]の自由を有していたことと著しく異なるものであった<ref name="itou140">伊藤(1993年)140ページ</ref>。
 
 
 
==「台湾光復」と台湾の「脱日本化」==
 
[[File:012-2光復一年で台湾工場閉鎖DSC 4426 edited-1.jpg|thumb|光復一年で台湾の工場は閉鎖]]
 
[[日清戦争]]によって日本に割譲された際の「祖国」は[[清朝]]であったが、[[満州族]]の王朝であった清朝と比べれば「復興中国」を掲げ、異民族王朝を転覆させて成立した[[中華民国]]は、異なる国家体制であっても台湾の人口の大半を占める漢民族にとっては清朝よりも「祖国」と呼ぶに相応しい国家であった<ref name="sugano35"/>。日本統治下の台湾ではその「祖国」に対する憧憬から少なからぬ台湾人が中国に留学し、また五四[[新文化運動]]が台湾内での文化動向に大きな影響を与えていた経緯もあり、少なくとも台湾の漢民族にとっては、祖国とは「中華民国」のことであった<ref name="sugano35"/>。したがって「光復」後の台湾において「脱日本化」と「祖国化」(中国化)が文化政策の絶対目標であり、最優先の課題であることに問題の余地はなかった<ref name="sugano35"/>。「光復」によって、台湾では様々な新旧交代が行われ、日本への割譲以来、再び全島規模において別離と出会いが錯綜した<ref name="sugano35"/>。日本軍は武装解除され、留任を命じられた者以外は、[[引き揚げ]]の準備に追われた<ref name="sugano35"/>。台湾で生まれ育った日本人にとってみれば、祖国・日本への帰還とは見知らぬ異国への移住同然でもあった<ref name="sugano35"/>。一方で大陸からは[[国民党]]の「台湾支部」である「国民党台湾省執行委員会」が[[福建省]]から台湾に移転してきたのをはじめとして、「祖国同胞」であり、かつ新しい統治者である外省人や「半山」台湾人の政府関係者が続々と来台してきた<ref name="sugano35"/>。台湾の接収に際して、国民党は日本が無条件降伏する前の[[1944年]]4月17日に「台湾調査委員会」を組織して接収工作の準備を進めていたが、長年の間台湾を統治してきた台湾総督府に代わって、台湾の新たな統治機関として設置されたのが「台湾省行政長官公署」であった<ref name="sugano35"/>。
 
 
 
行政長官公署は、「祖国」へ復帰した台湾から日本的色彩を排除するために次々と「脱日本化」の処理を打ち出した<ref name="sugano39">菅野(2011年)39ページ</ref>。まず変更が求められたのが、「名称」であった<ref name="sugano39"/>。1945年11月17日には、「台湾省各県市街道名称改正辨法」が制定され、各県市の政府成立後2か月以内に、「甲;日本の人物を記念する名称」(明治町・大正町・児玉町・乃木町など)、「乙;日本の国威を宣揚する名称」(大和町・朝日町など)、「丙;明らかに日本名である名称」(梅ヶ枝町・若松町・旭町など)を「甲;[[中華民族]]精神を発揚する名称」(中華路・信義路・和平路など)、「乙;[[三民主義]]を宣伝する名称」(三民路・民権路・民族路・民生路など)、「丙;国家の偉大な人物を記念する名称」([[中山路]]・中正路など)に変更することが定められた<ref name="sugano39"/>。続いて翌12月には、「台湾省人民回復原姓名辨法」が公布され、[[皇民化]]運動で日本名に変更した者の名前の「祖国化」が図られた<ref name="sugano39"/>。原住民に至っては、中国名を自身で選び届け出ることとされ、日本統治時代の「[[高砂族]]」が「高山族」に改められると同時に、「土蕃・蕃族・蛮族」といった差別的呼称の使用禁止が通達された<ref name="sugano39"/>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
;注釈
 
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;出典
 
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== 参考文献 ==
 
* 呉密察監修、横澤泰夫日本語版編訳「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)中国書店(福岡)
 
* [[若林正丈]]「台湾-変容し躊躇するアイデンティティ」(1999年)ちくま新書
 
* [[伊藤潔]]「台湾-四百年の歴史と展望」(1993年)中公新書
 
* 周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社
 
* 菅野敦志著『台湾の国家と文化 「脱日本化」・「中国化」・「本土化」』(2011年)勁草書房
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[台湾光復節]]
 
* [[光復節 (韓国)]]
 
 
 
{{DEFAULTSORT:たいわんこうふく}}
 
[[Category:日本統治時代の台湾|こうふく]]
 
[[Category:戦後台湾|こうふく]]
 
[[Category:中華民国の政治]]
 
[[Category:1945年の中国]]
 
[[Category:1945年10月]]
 

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