原子論

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原子論(げんしろん、atomism)とは、“すべての物質は非常に小さな、分割不可能な粒子(Atom、原子)で構成されている”、とする仮説理論主義などのこと。

古代ギリシャの原子論

古代ギリシアでは、まず物体は限りなく分割されうる構成要素「スペルマタ」より成ると想定したイオニア学派のアナクサゴラスが議論に先鞭をつけた。これに対して師弟関係にあるレウキッポスデモクリトスエピクロスらの一派が、不可分の粒子である原子が物質を構成する最小単位であるという原子論を唱えた。

古代ギリシャの原子論は、広く人々に受け入れられたとは言い難く、その後2000年ほどの間、ヨーロッパにおいては大半の人々からは忘れ去られた考え方となっていた。

イスラームの原子論

イスラーム理論神学(kalam)では、一部の例外を除き、存在論の基礎を原子論においている、とされる。Jawhar fardというのが、Juz' la yatajazza'u(=もはやそれ以上分割できない部分)とされ、原子に相当する。 ただし、存在のもうひとつの単位として「偶有(arad)」があり、原子はつねに偶有と結びついており、偶有と原子は神によって創られた次の瞬間には消滅する、とする。Jawhar fardが結合して、いわゆる物体を構成しており、物体(原子)の変化はすべて神が作る偶有によって説明され、物体相互の関係は否定されている。 イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、が世界を直接支配している、と説明している。

ただし、その説明のしかたには様々なタイプがあり、アシュアリー学派は、偶有性の持続を一切認めず、全ての原子の結合や分離、生成、変化は神の創造行為と結び付けられている、と説明するのに対し、ムゥタズィラ学派は例外的にいくらか偶有性が持続するとすることで、人間の行為の選択可能性や、自然界の秩序を認めた[1]

空間の構造については、それが連続的であるのか、あるいは原子のような最小単位があるのか議論があったが、後者のほうが優勢であった。また、真空については、存在を認める議論と認めない議論の両方があった。

イスラームの原子論の起源については、古代ギリシャ起源説、インド起源説、独立の発生だという説などがあり、はっきりとしたことはわかっていない。

西欧近代の原子論

デカルトなどは、"原子"などという概念を採用した場合、それがなぜ不可分なのかという問いに答えることは不可能と判断し、粒子はすべて分割可能だとした(原子論の否定)。

16世紀以降、化学が進歩し、ラボアジェドルトンなどにより物質の構成要素として元素概念が提唱された。かれらの論が近代原子論の源流とされている。

だが、20世紀初頭になっても、科学者の主流派・多数派は、物質に(中間単位としてであれ)構成単位が存在するという説は疑わしいものだと見なしており、一般の人々も含めて、Atomという単位が存在するとは思っていなかった。 19世紀末の電子発見以前の時点で存在が確認されていた最小の物体は濾過性病原体(後にウイルスと認識される。)であった。

例えば、エルンスト・マッハオストヴァルトなども、実証主義の立場から、"原子"なるものは観測不能であることなどを理由に"原子"なるものが実在するという原子論には反対し、エネルギー論を主張していた。そして、原子論の考え方に基づいて熱現象を試みに計算してみたものなどを論文類で発表しはじめた若者ボルツマンと激しい論争を繰り広げた。この論争に関しては、アインシュタインの1905年の論文によるブラウン運動に関する理論(仮説)の提出、および1909年のペランによる実験的検証(左記アインシュタインの理論の検証を含む研究)により、ただの理屈や理論ではなく何らかの粒子が存在すると認知されることによって一旦決着がついた。ただしマッハは1913年に著書で原子論を批判し、ピエール・デュエムも1914年の著書で原子論を批判した。マッハとデュエムが没した1916年以降は原子論に反対する科学者はほぼいなくなっていた。ちなみに、この原子の実在証明は、電子発見の後である。

それまで反対派のほうが多かった「何らかの粒子的な単位」の存在が自然科学者一般に認められるようになったことで、それは自然科学分野で理論を構築するために使える便利な概念的道具となった。

現代の自然科学における原子論の後退、他の説明体系

何らかの粒子的な単位の存在が認められ道具として用いられるようになるのと平行して、「分割不可能」という概念のほうは後退してゆくことになった。

原子の存在自体がまだ広くは認められていなかった20世紀初頭においても、つまり、物質がのっぺりとしておらず何かしらの単位がある、と自然科学者によってようやく考えられるようになった。それが「Atom」と呼ばれるようになった20世紀初頭においても、原子の存在が実証される以前に電子が発見されていた事から、「原子は、『負の電荷を持った電子』と、『正の電荷を持った何か』でできている」という議論がなされるようになった。つまり下部構造についての議論が始まっており、それが電子と原子核からなることも、ほぼ確実視されていた[注釈 1]。皮肉なことに、Atom「原子」という言葉がようやく科学的なものとして用いられ始めたころには、原義の「分割不可能な最小単位」どおりのものではなくなっていたのである。さらに「原子核の内部構造として「陽子」と「中性子」が存在する」と考えられるようになり、さらにAtomという概念からは遠のいた。さらに、その後のさまざまな研究により、その陽子や中性子も「分割不可能」ではなく「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった(後にその内部構造は「クォーク」と呼ばれる)。

また、古代原子論や近代の原子論のように「ある大きさを持つ粒子」が物質の基本単位になっている、とする考え方とは異なった、「大きさを持たない点」によって物質が成立している、とする考え方も生まれた。原子は、その大きさの10万分の1の大きさしかない原子核の周りを電子が回っていることから、原子の領域はほとんど空間である。よって大きさのない複数の点粒子が運動する有限の領域がハドロンの領域であり、点粒子から有限の大きさの物質が構成されるという考えは可能となった。もっとも数学上は無限小の点が無限に集まって有限の大きさとなる考えも可能であるが、無限の点粒子を集めることより、点粒子の運動領域による有限大物質の構成の考えのほうが現実的である。 また、プランクは粒子説による困難を回避するために、空間の側に最小単位があるとする考え方(プランク長)を発表した。

現在では、“原子”の内部構造のことは、世界的には、「subatomic particles」などと呼ばれている。つまり、“分割できない”という、根拠が不確かな概念は用いることを慎重に避けている[注釈 2]

subatomic particlesには、いくつかのタイプがあるとされ、陽子や中性子はハドロンとしてひとくくりにされている。今のところ(2009年現在)、レプトンとクォークが、発見されている中では最小の構成要素であるともされている。また、現代においても、についての理論や仮説を説明するのに、相手が一般人の場合に「場」という用語を避けて、科学としてはあまり適切ではないと知りつつも「粒子」という用語を使う例もある(ヒッグス粒子など)。だが、いずれにせよもはや世界の自然科学者は、科学的に正式な言明としては、「これが最小単位だ」などと根拠も無しに断言するようなことは行わない。レプトンクォークも、さらに内部構造が発見される可能性がある、と考えている。坂田昌一は物質の下部構造は無限に続くとする、無限階層論を提唱した。

また、超ひも理論においてはすでに、全てのsubatomic particlesは有限な大きさを持つ「ひもの振動状態」であるとされている。もっとも、超ひも理論を支持する立場においても、このひもが物質の最小単位であるとの主張はされておらず(ひもが中間単位である可能性は肯定も否定もされていない)、例えば「ひもの組成は何か。ひもの内部構造はあるのか?」という議論を立てる事は可能である。一般に現代の物理学者は、いかなる立場であれ、正式の論文で「最小単位だと検証された」などとは断言していない。

文献

  • 『ボルツマンの原子』

脚注・出典

脚注

  1. 日本では、原子が原子核と電子からなるとする考えを最初に提唱したのは長岡半太郎であるかのような風聞があるが、既にその3年前にジャン・ペランが提唱済みである。
  2. 日本人は"素粒子"や"素粒子論"という訳語を当ててしまうが、これではせっかくsubatomic particlesと表現している真意を理解せず、「原子」という概念を安易に復活させてしまっているわけで、一種の誤訳とも言える。

出典

  1. 『岩波 哲学・思想事典』p.467

外部リンク