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'''原 一男''' (はら かずお、[[1945年]][[6月8日]] - )は[[日本]]の[[映画監督]]。疾走プロダクション所属。妻は疾走プロダクション代表の小林佐智子で、ほとんどの作品で共同作業を行っている。本名は小林一男<ref>『「家」の履歴書』(文藝春秋)P.132</ref>。
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'''原 一男''' (はら かずお、[[1945年]][[6月8日]] -
  
== 経歴・人物 ==
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昭和後期-平成時代の記録映画監督。
[[1945年]]、[[山口県]][[宇部市]]出身。[[長沢炭鉱]]で育つ<ref>『「家」の履歴書』(文藝春秋)P.132</ref>。
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昭和20年6月8日生まれ。都立光明養護学校介助員となり,身障者の写真撮影からスタート。昭和46年疾走プロを設立。49年の「極私的エロス・恋歌1974」や62年の「ゆきゆきて,神軍」で注目をあつめる。平成6年がんとたたかう井上光晴の記録「全身小説家」を発表。早大客員教授をへて18年より大阪芸大教授。山口県出身。山口高卒。本名は小林一男。
  
[[東京綜合写真専門学校]]中退。障害児の問題に興味を抱き、世田谷区の[[光明養護学校]]の介助員となる<ref>『「家」の履歴書』(文藝春秋)P.136</ref>。1969年には銀座ニコンサロンで、障害児たちをテーマにした写真展「馬鹿にすんな!」を行う。この時点までは写真家志望だったが、写真展を見にきた小林佐智子(シナリオライター志望だった)と知り合い、後に共同して映画を撮ることになる。
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60年代後半~70年代初頭にかけて、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]で過激なドキュメンタリーを撮っていた[[田原総一朗]](後、東京12チャンネル編成部長)の著書『青春 この狂気するもの』([[三一新書]] 1969年刊行)を読み、大きな影響を受け、田原が製作する『[[ドキュメンタリー青春]]』シリーズを夢中で見るようになる。
 
 
そして、田原の撮影現場に出入りするうち、「僕のドキュメンタリーに出演しないか?」と声をかけられ、1971年、当時の同棲相手の[[武田美由紀]]と、2人の間の子供との3名で、日本各地のカップルたちを訪ね歩く田原のTVドキュメンタリー「日本の花嫁」に出演。
 
 
同年、田原が初の劇映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』([[1971年]])を監督する際は、助監督を志望するが適わなかった。なお、[[水道橋博士]]の著書『本業』によると、田原の言葉として、「原一男は俺の作品の助監督だったんだよ」とあるが、田原の認識間違いだと思われる。
 
 
なお、1976年の田原の著書「異常愛 ケーススタディ ドキュメント完全採録」では「取材協力」を行っている。
 
 
1972年には小林佐智子と「疾走プロダクション」を結成。[[光明養護学校]]での勤務経験をもとに、[[脳性麻痺]]の障害者自立運動家[[横塚晃一]]ら神奈川[[全国青い芝の会|青い芝の会]]のメンバーを描いた『さようならCP』。そして、[[フェミニスト]]である自分の元同棲相手(武田美由紀)を追った『極私的エロス 恋歌1974』と、異色のドキュメンタリー作品を監督・撮影し、高い評価を得る。
 
 
そして、[[奥崎謙三]]を追った『[[ゆきゆきて、神軍]]』(1987年)により、[[ベルリン国際映画祭]]にてカリガリ映画賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリ受賞。1991年より[[文化庁]]新進芸術家在外研修員として[[アメリカ]]に留学。さらに、作家[[井上光晴]]を取材するうちに、井上の経歴詐称が判明していく『[[全身小説家]]』(1994年)と、怪作ともいえるドキュメンタリー作品を監督した。
 
 
「カメラを向けられると、演技してしまう出演者」を取材対象としてドキュメンタリーと劇映画の区別を判別困難にする「虚実不明」の状況にし、またドキュメンタリー映画が本来持つ「やらせ的志向」を省略せずに描き、「ドキュメンタリー映画の持ついかがわしさ」を露呈させた(この手法は、田原の『青春 この狂気するもの』に書かれていたものである)。
 
 
[[1995年]]、次世代のドキュメンタリー作家の養成を目指し、自ら塾長となって「[[CINEMA塾]]」を開塾。1999年、「CINEMA塾」第1回作品『わたしの見島』を製作、劇場公開。その後も、何本もの映画を塾生たちが製作したが、現在は、開店休業状態である。なお、2006年度日本映画監督協会新人賞を受賞した[[小林聖太郎]]は「CINEMA塾」の第一期生である。
 
 
現在、[[大阪芸術大学]]映像学科教授、[[シューレ大学]]アドバイザー 。
 
 
なお、1992年に[[NHKスペシャル]]にて放送されたドキュメンタリー番組「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」で、[[やらせ]]問題が発覚して社会的な話題となった。その際、「ドキュメンタリーには『やらせ』が付きものであり、『やらせ』を乗り越えることにより、真実が見えてくる」という信念を持つ原は、その考え方の元祖であり「師匠格」の田原総一朗に、1993年に、ドキュメンタリー作品と「やらせ」の関連について、インタビューを行った。(下記の外部リンク参照)
 
 
だが、その際に、田原の唯一の劇場公開映画作品で、「傑作」とされている、『[[あらかじめ失われた恋人たちよ]]』について、監督補の[[尾中洋一]]にインタビューしたところ、田原は劇映画の演出能力もなく、現場を掌握することもできず、この映画は尾中主導で撮影されていたことが判明した。
 
 
[[Image:奥崎謙三邸P5050550.JPG|thumbnail|240px|「ゆきゆきて、神軍」の主役、奥崎謙三邸([[神戸市]][[兵庫区]]、現存せず)]]
 
 
== 映画 ==
 
=== 主な監督作品 ===
 
*[[さようならCP]] (1972年)
 
*[[極私的エロス 恋歌1974]] (1974年) -トノンレバン独立国際映画祭グランプリ受賞
 
*[[ゆきゆきて、神軍]] (1987年) -日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、シネマ・デュ・レェール・グランプリ、報知映画賞優秀監督賞、等受賞
 
*[[全身小説家]] (1994年) -[[キネマ旬報]]ベストテン1位・日本映画監督賞、[[毎日映画コンクール]]日本映画大賞、[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子文化財団特別賞]]、等受賞
 
*([[わたしの見島]]) (1999年:[[cinema塾]]生の共同監督作品)
 
*[[学問と情熱]] 高群逸枝(2000年 ビデオ作品)-[[教育映像祭]]優秀作品賞受賞
 
*[[またの日の知華]] (2004年) -初の非ドキュメンタリー映画
 
*[[ニッポン国VS泉南石綿村]] (2018年)
 
 
===プロデュース===
 
*熊笹の遺言 (2004) 監督:今田哲史(日本映画学校出身)
 
*私をみつめて (2005) 監督:木村茂之(日本映画学校出身)
 
 
=== 撮影助手 ===
 
おもに[[姫田真佐久]]撮影監督に師事。
 
*[[人間の証明]](1977)
 
*[[野性の証明]](1978)
 
*[[復讐するは我にあり]] (1979)
 
*[[天平の甍]] (1980)
 
*[[ロケーション]] (1984)
 
 
=== 撮影 ===
 
*セックスドキュメント 連続婦女暴行魔 (1975)
 
*豚鶏心中 (1981)
 
 
=== 助監督 ===
 
*[[想い出のアン]] (1984)
 
*[[親バカちゃんりん 子育て奮戦記]] (1985)
 
*[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]] (1986)
 
*[[千利休 本覺坊遺文]] (1989)
 
*[[式部物語]] (1990)
 
*[[深い河]] (1995)
 
 
 
=== 演出助手 ===
 
*[[太陽の子#映画|太陽の子 てだのふあ]] (1980)
 
 
=== 出演 ===
 
*[[トキワ荘の青春]] (1996)
 
*Devotion-[[小川紳介]]と生きた人々 (2000)
 
*いたいふたり (2002)
 
* [[シン・ゴジラ]](2016年)<ref>{{cite news|url=http://shin-godzilla.jp/cast/|title=キャスト|publisher=映画「シン・ゴジラ」公式サイト|accessdate=2016-04-16}}</ref>
 
 
== テレビ ==
 
=== 演出 ===
 
*歴史はここに始まる、「女たちは今…」 -TBS、1975
 
*イエローキャブ 1993
 
*[[映画監督・浦山桐郎の肖像]] 1998年 -[[放送文化基金賞]]受賞
 
 
 
=== 出演 ===
 
*[[課外授業 ようこそ先輩]] NHK総合
 
*[[森達也]]の「ドキュメンタリーは嘘をつく」 テレビ東京
 
*[[トンスラ (小説)|トンスラ]] 第1日目 受難 日本テレビ - 本人役(劇中テレビ番組『緊急報道プロジェクト』部分)
 
 
== 著書 ==
 
*ゆきゆきて、神軍―制作ノート+採録シナリオ 原一男+疾走プロダクション [[話の特集]]編集室 1987.8(文庫化にあたり『ドキュメントゆきゆきて、神軍』に改題)
 
*全身小説家―もうひとつの井上光晴像 原一男 キネマ旬報社 1994.10
 
*踏み越えるキャメラ―わが方法、アクションドキュメンタリー 原一男著,石坂健治+[[井土紀州]](編) フィルムアート社 1995.7
 
*映画に憑かれて [[浦山桐郎]]―インタビュードキュメンタリー 原一男 現代書館 1998.4
 
*[[柳美里]]対談集―沈黙より軽い言葉を発するなかれ 創出版 2012.8
 
*21世紀を生きのびるためのドキュメンタリー映画カタログ 共著 キネマ旬報社 2016.3
 
*ドキュメンタリーは格闘技である: 原一男 vs 深作欣二 今村昌平 大島渚 新藤兼人 筑摩書房 2016.2
 
 
== 関連人物 ==
 
*[[安岡卓治]] - 現映画プロデューサー。『ゆきゆきて、神軍』の助監督。
 
*[[木村元彦]] - 現ジャーナリスト。元・疾走プロダクションに所属
 
*[[奥崎謙三]]
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://docudocu.jp/ 疾走プロダクション]
 
* [http://docudocu.jp/ Docu×Docu 〜ドキュメンタリーという生き方〜 原一男極私的ブログ]
 
* [http://docudocu.jp/cinema.php?category=tawara 田原監督と私]
 
* {{Kinejun name}}
 
* [http://ch.nicovideo.jp/kazuo-hara 原一男チャンネル]
 
* [https://twitter.com/kazu19451 twitter]
 
 
{{ブルーリボン賞監督賞}}
 
{{毎日映画コンクール監督賞}}
 
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}
 
{{ヨコハマ映画祭監督賞}}
 
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[[Category:日本の映画監督]]
 
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原 一男 (はら かずお、1945年6月8日 - )

昭和後期-平成時代の記録映画監督。 昭和20年6月8日生まれ。都立光明養護学校介助員となり,身障者の写真撮影からスタート。昭和46年疾走プロを設立。49年の「極私的エロス・恋歌1974」や62年の「ゆきゆきて,神軍」で注目をあつめる。平成6年がんとたたかう井上光晴の記録「全身小説家」を発表。早大客員教授をへて18年より大阪芸大教授。山口県出身。山口高卒。本名は小林一男。



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