南方作戦

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ファイル:Pacific Area - The Imperial Powers 1939 - Map.jpg
太平洋戦争開戦直前の各国の勢力圏
ファイル:Surrender Singapore.jpg
日本軍へ降伏するシンガポールのパーシヴァル司令官
ファイル:Pearl Harbor Attack, 7 December 1941 - 80-G-19942.jpg
日本軍の空襲を受け炎上する戦艦アリゾナ

南方作戦(なんぽうさくせん、Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍東南アジア及び太平洋各地への攻略作戦である。1941年12月8日の英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。

背景

1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国イギリスオランダとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。

10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。

作戦計画

南方作戦全体の総称は「あ号作戦」と名づけられた。各方面における具体的作戦であるフィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭印作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と命名された。連動して実施される海軍による真珠湾攻撃は「Z作戦」と命名された。

南方作戦の目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であった。このために開戦初頭まずアメリカ領フィリピンとイギリス領マレーを急襲して足場を築き、迅速に蘭印を攻略し、資源を確保するとともにスンダ列島に防衛線を形成するという構想であった。

作戦計画としては、フィリピンとマレーの両方面に対し同時に作戦を始め、次にボルネオセレベス、南部スマトラの要地を逐次攻略し、東西両方向から最終目標であるジャワ島を攻略するとされた。別に、開戦後速やかに香港、イギリス領ボルネオ、グアムビスマルク諸島モルッカ諸島チモール島を攻略し、また開戦初期タイに進駐し、状況が許せばイギリス領ビルマでの作戦を実施するとされた。これらと連動して、開戦初頭、第1航空艦隊基幹の機動部隊をもってハワイオアフ島真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊主力を奇襲して戦力を減殺し、一部をもってウェーク島を攻略するとされた。

開戦予定日の12月8日はマレー半島での上陸作戦が可能な気象条件からぎりぎりの期限として定められたものであった。大本営ではジャワ島攻略終了までに要する日数を120日間と予想していたようである[1]。南方作戦に使用される陸軍の兵力は11個師団36万余にのぼった。海軍は南方作戦と真珠湾攻撃とにその総力をあげてあたることになった。

参加兵力

ファイル:Chain of Command of Japanese Army.jpg
日本陸軍の指揮系統、1941年12月
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日本海軍の指揮系統、1941年12月
ファイル:Pacific War - Southeast Asia 1941 - Map.jpg
1941年12月の日本軍の東南アジア方面での作戦
ファイル:Netherlands East Indies 1942.svg
日本軍のオランダ領東インドへの進攻作戦
ファイル:Pacific War - Southern Asia 1942 - Map.jpg
日本軍のビルマ・インド洋への進攻作戦

陸軍

海軍

連合艦隊は真珠湾攻撃に第1航空艦隊第6艦隊を使用、南洋方面に第4艦隊、本土東方に第5艦隊、内海に第1艦隊を配置し、その他の大部分をあげて南方部隊を編成した。南方部隊指揮官には第2艦隊司令長官の近藤信竹中将が着任した。

  • 南方部隊(指揮官:近藤信竹中将、参謀長:白石萬隆少将)
    • 南方部隊本隊 - 第2艦隊(戦艦金剛、戦艦榛名基幹)
      • 南シナ海、次いでパラオ方面で作戦全般を支援する。
    • 馬来部隊 - 南遣艦隊(司令長官:小沢治三郎中将、参謀長:澤田虎夫少将)
      • マレー、蘭領ボルネオ、スマトラ方面の作戦を支援する。
    • 比島(蘭印)部隊 - 第3艦隊の大部分(司令長官:高橋伊望中将、参謀長:中村俊久少将)
      • フィリピン作戦を支援する。フィリピン攻略後、蘭印部隊となり作戦を支援する。
    • 航空部隊 - 第11航空艦隊(司令長官:塚原二四三中将、参謀長:大西瀧治郎少将)
      • 基地航空部隊。比島での航空撃滅戦の後、東方から蘭印作戦を支援する。
    • 潜水部隊 - 第5潜水戦隊(司令官:醍醐忠重少将)

南方軍以外の陸軍兵力の状況

太平洋戦争の開戦時、南方軍以外の陸軍兵力の配備状況は以下の通りであった。兵力の大半は満州と中国大陸とに貼り付けとなっており、南方作戦に参加した兵力は総兵力の2割程度であった。

経過

マレー作戦

ファイル:Japanese troops mopping up in Kuala Lumpur.jpg
クアラルンプール市内で戦う日本軍

1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、太平洋戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。

イギリス海軍プリンス・オブ・ウェールズレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、マレー沖海戦で日本軍は航空攻撃により両戦艦を撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。

真珠湾攻撃

ファイル:Pearl Harbor- Nakajima B5N2 over Hickam- 80G178985.jpg
日本海軍機の攻撃を受け炎上する真珠湾のアメリカ海軍艦船

1941年11月26日早朝、南雲忠一中将指揮下の日本海軍第1航空艦隊は択捉島単冠湾よりハワイへ向けて出撃した。日本時間12月8日午前1時30分、第一波空中攻撃隊が発進し、午前3時25分にフォード島へ、次いで真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力へ攻撃を開始した。日本軍の作戦は成功し、アメリカ軍は戦艦8隻が撃沈または損傷を受け、数千人の将兵が戦死するという大損害を受け、太平洋艦隊は大幅な戦力低下に追い込まれた。

シンガポールの戦い

第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。

フィリピンの戦い

12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍ダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

香港の戦い

12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。

グアムの戦い

ファイル:Japanese troops move through Java.jpg
ジャワ島内を進撃する日本軍

アメリカ領グアム島へは12月10日未明に南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。

ラバウルの戦い

南海支隊は次いで1942年1月23日にオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルは、トラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。

アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦)。

ウェーク島の戦い

アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。

蘭印作戦

開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1ヶ月繰り上げた。1942年1月11日、第16軍坂口支隊ボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベスメナドに降下し蘭印(オランダ領東インド)作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦バタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。

ビルマの戦い

第15軍は12月8日以降タイ国内に順次進駐し、タイ・ビルマ国境に集結した。1942年1月18日、第15軍は第33師団第55師団をもって国境を越えイギリス領ビルマへ進攻し、3月8日にラングーンへ入城した。さらに第18師団第56師団の増援を加えて4月上旬から北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させて5月下旬までにビルマ全土を制圧した。

セイロン沖海戦

マレー沖海戦で主力艦艇を失ったイギリス東洋艦隊はセイロン島へ退避していた。日本海軍空母機動部隊は1942年4月にベンガル湾へ進出し、コロンボ基地とトリンコマリー軍港を空襲した。イギリス東洋艦隊は反撃を試みたが空母1隻、重巡洋艦2隻他を失った。

結果

ファイル:Pacific Theater Areas;map1.JPG
太平洋戦争の1942年の状況(赤いラインは日本軍の最大進出線)

南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は南方の油田地帯を手に入れたことで当初の作戦目標を完全に達成した。16万人以上の捕虜を獲得し、日本軍の戦死者は1万人に満たなかった。この太平洋戦争緒戦の南方作戦は日本軍の快進撃のうちに終わった。

本土がドイツ軍による攻撃を受けていたイギリスと、同じく本土をドイツ軍に占領されていたオランダは、その後各地で反攻に出るまで時間がかかったが、本土に大きな被害を受けなかったアメリカは数か月をおいてわずかながら反攻を始めた。1930年代からアメリカは近いうちに日本と太平洋で戦争が起こることを予測し、その為の準備を整えていたのである[2]。しかし、その後も日本軍の猛攻を受け続け劣勢に回ることを余儀なくされたアメリカ軍は、その後も各地で後退を余儀なくされたうえに、本土に対する日本海軍艦艇による攻撃艦載機による空襲すら受けるようになった。

その結果、1942年初頭に日本軍はビルマからソロモン諸島まで東西7,000キロ、南北5,000キロという広大な戦域に手を広げることになった(ソロモン諸島の戦い)。日本海軍は激戦の中の1942年6月にミッドウェー海戦において敗北したが、アメリカ海軍もその後の度重なる敗北で稼働空母が無くなるという窮地に追い込まれ反攻が思うように続かなかった。さらにイギリス海軍もセイロン沖海戦によりアフリカ南部への撤退を余儀なくされた上に、避難先のマダガスカルにおいても日本海軍の攻撃を受けるなど、インド洋の制海権を失うことになる。またオーストラリアも本土北部が日本軍機による度重なる爆撃を受けたほか、シドニー港が日本海軍潜水艦の攻撃を受けるなど日本軍の攻撃に苦しめられた。

しかし、わずか1国のみでイギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍そして中国大陸における中華民国軍などの数国と対峙することを余儀なくされた上に、当初の予想を上回るほど占領区域が広がり、補給線が伸びきった日本軍は、1943年中盤までは各地で優位に戦いを進めたものの、やがてガダルカナルニューギニアインパールなど各地で兵力不足と補給不足のまま長期戦に引きずり込まれ、国力を消耗してゆくことになる。

参考文献

  • 服部卓四郎(著), 『大東亜戦争全史』, 1953年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編), 『戦史叢書 マレー進攻作戦』, 1966年, 『比島攻略作戦』, 1966年, 『蘭印攻略作戦』, 1967年, 『ハワイ作戦』, 1967年, 『比島・マレー方面海軍進攻作戦』, 1969年, 『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』, 1969年

関連項目

脚注

  1. 『戦史叢書 蘭印攻略作戦』, pp101-102
  2. 『Dirty Little Secrets of World War II』James F. Dunnigan著

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