千島国

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千島国(ちしまのくに)は、大宝律令国郡里制を踏襲し戊辰戦争箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分のの一つで、五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。領域は最初国後島択捉島のみであったが、後に得撫島以北の千島列島色丹島が加わった。現在の根室振興局管内の東部にあたる。

沿革

ここでは千島国成立までについても記述する。

飛鳥時代斉明天皇のころ樺太阿倍比羅夫が一戦交えた粛慎は、当時国後郡域にも及んでいたオホーツク文化圏に属する人たちとも言われている。オホーツク文化は平安時代前期ころ擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化へと移行し鎌倉時代ころまで続いた。また、鎌倉時代から室町時代にかけて、北海道太平洋岸から千島国域にかけて日の本と呼ばれる蝦夷(えぞ)がおり、蝦夷沙汰職・蝦夷管領はこれを統括していた。 しかし、千島列島は火山噴火や巨大津波が定期的に発生し、得撫島より北ではオホーツク文化期にかけていったん拡大したものの、その後は炭素14による鑑定で生活痕が発見されない断絶期が13世紀半ばから約400年間あるなど、過酷な環境だった。17世紀以降はメナシクルが、カムチャツカ半島にかけ半定住・移動生活を送り、交易も行っていたと見られる。 [1]

国後場所の成立と択捉場所の分立

江戸時代に入り、寛永12年(1635年)、松前藩は 村上掃部左衛門に命じ国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成した。 正保元年(1644年)、各藩が提出した地図を基に日本の全版図を収めた「正保御国絵図」が作成された。このとき幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。万治4年(1661年)、伊勢国松坂の七郎兵衛の船が得撫島に漂着したが、蝦夷(アイヌ)の援助を受け択捉島国後島経由で十州島(北海道本島)へ渡り、寛文元年(1662年)に江戸へ帰っている(『勢州船北海漂着記』)。元禄13年(1700年)、幕命により松前藩は千島や勘察加(カムチャツカ)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成した。正徳2年(1712年)には薩摩国大隅郡の船が択捉島に漂着している(『恵渡路部漂流記』)。

正徳5年(1715年)、松前藩主は幕府に対し、「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告した。享保16年(1731年)、国後および択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ、献上品を贈った。宝暦4年(1754年)、松前藩によって松前藩家臣の知行地として国後場所が開かれ、その範囲は国後島のほか択捉島得撫島も含んだ。このとき国後島のには運上屋が設けられている。安永2年(1773年)飛騨屋が国後場所での交易を請け負うようになり、天明8年(1788年)には蝦夷(アイヌ)の人々を雇い大規模な搾粕製造を開始した。しかし、寛政元年(1789年)労働条件や飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷が蜂起したクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発し、多くの和人が殺害されている。

この頃幕府は政権交代により、蝦夷地を従来通り松前藩に任せようとする松平定信と、幕府直轄の公議御料としてロシアに備えようとする本多忠壽が対立したが、最終的に松平定信の意見が通り、飛騨屋は松前藩により場所請負人から外され、没落した。寛政11年(1799年)に高田屋嘉兵衛によって択捉航路[2]が運営されるようになると、翌寛政12年(1800年)には国後場所から分立し新たに択捉場所も開かれ、紗那会所を置き択捉島に17箇所の漁場が設けられるとともに北前船も寄航していた。その他、寛政年間には本州和人地などと同様に郷村制がしかれている。

また、北方に対する警戒を説いた天明元年(1781年)の『赤蝦夷風説考』や寛政3年(1791年)の『海国兵談』などが著され、幕吏による北方探検も盛んに行われるようになった。天明6年(1786年)と寛政3年(1791年)には田沼意次の蝦夷地開発の意図を受け、最上徳内が国後場所の択捉島と得撫島を探検し画期的な北辺図[3]を作成した。寛政10年(1798年)には近藤重蔵が最上徳内を案内役として調査を行い、択捉島・丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。寛政12年(1800年)にも択捉島・カムイワッカオイの丘に「大日本恵登呂府」の標柱、享和元年(1801年)6月には幕府の命により調査にあたった富山元十郎深山宇平太が得撫島に「天長地久大日本属島」の標柱をそれぞれ建てている。また、享和3年(1803年)には間宮林蔵が西蝦夷地の測量を行い、得撫島までの地図を作製した。

ロシア人の南下

一方、ロシア人はカムチャツカ半島を征服して千島を伺っており、占守郡域や新知郡域の島々も武力で征服しながら南進した。

占守郡域

1711年8月、ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフДанила Яковлевич Анцыферов)とイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキーрусский版Иван Петрович Козыревский)が千島最北端の占守島(シュムシュ島)と二番目の島幌筵島(パラムシル島)に上陸し、住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶された。1713年、コズイレフスキーは再び占守島と幌筵島に上陸した。コズイレフスキーは住民の激しい抵抗を受けるも、戦いの末にこれを征服し、サヤークの献納とロシアの支配を認めさせた。このとき、幌筵島に交易に来ていた択捉島のアイヌ人シタナイが巻き込まれ、コズイレフスキーに連れ去られた。 同年、コズイレフスキーは温禰古丹島(オンネコタン島)も襲撃し帰国した。1747年には、ロシア正教修道司祭イオアサフが、布教のため千島列島北部へ渡り、占守島および幌筵島のアイヌ208人を正教に改宗させた。

新知郡域

1721年、第6島新知島(シムシル島)がロシア人が到達した。

また1738年には、 第二次ベーリング探検隊の分遣隊が千島列島沿いに南下して、本州沖まで到達し地図を作製した。1766年から1769年にかけて、イワン・チョールヌイрусский版Иван Чёрный)が国後場所に侵入し、ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の得撫郡)に到達し、周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、得撫島で多数の女性を集めてハーレムを作った。しかし1772年に、得撫島の千島アイヌが蜂起し、ロシア人20名が殺害され、残りはカムチャツカ半島へ撤退した。その後も1776年に、ロシアの毛皮商人による殖民団が得撫島へ一時的に居住したが、7年後の1783年に撤退した。1779年には、ロシア皇帝のエカテリーナ2世が千島列島での徴税を禁止している。

松前藩領の上知と幕府による直接統治

江戸時代後期、千島国域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に推し進めるロシア帝国の脅威に備え、寛政11年(1799年)に東蝦夷地は公議御料(幕府直轄領)とされ、津軽藩南部藩が泊と紗那に勤番所(泊は南部藩のみ)を置き警固を行っていた。文化元年(1804年)には、漂流していた慶祥丸が占守郡域の幌筵島に漂着した。乗組員の継右衛門ら6人はカムチャツカ半島に渡り、ペトロパブロフスクで現地に滞在する若宮丸漂流民善六の世話を受けた。その後翌文化2年(1805年6月にペトロパブロフスクを立ち、千島アイヌの助けを借りつつ、途中新知郡域の羅処和島で越冬した後、文化3年(1806年7月27日に会所のある紗那郡域に帰還した。文化4年(1807年)には文化露寇(フヴォストフ事件)が発生し、択捉島内保番屋や紗那の会所などが、ロシアから攻撃を受けて略奪された。幕吏間宮林蔵もこの事件に巻き込まれている。また、この事件では中川五郎治と佐兵衛がロシアに拉致され、シベリアに連行されている。翌文化5年(1808年)以降には、仙台藩が国後と択捉の警固に加わった。

文化8年(1811年)にはゴローニン事件が発生し、幕府が国後島でロシア軍艦ディアナ号の艦長ヴァーシリー・ゴローニンВасилий Головнин)を捕縛した。ディアナ号副長ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルドрусский版Пётр Иванович Рикорд)は一旦オホーツクに引き返した後、中川五郎治と歓喜丸の漂流民たちとともに国後島に来航したが、幕府からの回答は満足のいくものでなかった上、歓喜丸の水夫1名が逃亡したために交渉は難航した。そのためリコルドは、中川五郎治や残りの歓喜丸漂流民たちを解放する代わりに、近海を航行中であった観世丸を拿捕し、高田屋嘉兵衛らをペトロパブロフスクへ拉致した。事件が解決に向かうのは、文化10年(1813年)5月にディアナ号が国後島に来航し、嘉兵衛ら3名が解放されてからであった。その際に日露間で交渉が行われ、同年9月、リコルドは善六や久蔵らを伴ってディアナ号で箱館に来航し、交渉の末ゴローニンはロシア側に引き渡された。また文化13年(1816年)には、ロシア船パヴェル号が択捉島に来航し督乗丸の漂流民小栗重吉、音吉、半兵衛の3名が幕府に引き渡された。

千島国域は文政4年(1821年)に一旦松前藩領に復したが、その後も弘化2年(1845年)に露米会社船が択捉島に来航し、交易を要求した。安政元年(1854年)には日露和親条約不平等条約のひとつ)により、択捉島と得撫島の間が国境とされ、翌安政2年(1855年)には択捉島以南は再び公議御料となり、仙台藩が国後島の泊と択捉島の振別に出張陣屋を築き警固をおこなった。安政6年(1859年)の6藩分領以降は紗那郡(仙台藩警固地)を除き、ほぼ全域が仙台藩領となった。このとき、年数が経ち痛んだカムイワッカオイの丘の「大日本恵登呂府」の標柱の代わりに、仙台藩士によって「大日本地名アトイヤ」と書き改めた標柱が立てられた。

国郡制定後の沿革

国内の施設

神社

千島国5郡制定時の主な神社を記述する。

泊神社・有萌神社・紗那神社・蘂取神社の四社は文化年間に高田屋嘉兵衛による創建、恵比須神社は嘉永3年の創建、植沖神社と別飛神社は幕末ころの創建[7]である。

敗戦時、国後島に25社、択捉島に16社、得撫島以北に4社のほか、色丹島に9社を数えた。

根室市金刀比羅神社には、ソ連軍の侵攻を逃れてこれらの神社から運び出された10体の御神体が安置されている。また、明治以降、得撫島以北に創祀された神社は下記のとおり。

  • 新知郡 松輪神社(松輪島大和湾)
  • 占守郡 占守神社(占守島片岡湾郡司ヶ丘)
  • 占守郡 北上神社(幌筵島加熊別)
  • 占守郡 阿頼度神社(阿頼度島東京湾)

地域

制定当初は5郡で構成されたが、明治9年、得撫・新知・占守の3郡を新設・追加。

上記の他、末期の明治19年にはもともと根室国花咲郡(旧根室場所付島々)の一部であった色丹郡を編入。

江戸時代の藩

  • 松前藩領、松前氏(1万石各→3万石各)1599年-1799年・1821年-1855年(国後場所、択捉場所、得撫)
  • 仙台藩泊陣屋・振別陣屋、1859年-1868年(国後場所、択捉場所のうち後の紗那郡を除く地域)
分領支配時の藩
  • 久保田藩領、1869年-1871年(国後郡)
  • 彦根藩領、1869年-1871年(択捉郡)
  • 佐賀藩領、1869年-1870年(振別郡)
  • 仙台藩領、1869年-1871年(紗那郡、1870年以降は振別郡と蘂取郡も所領に加えた)
  • 高知藩領、1869年-1870年(蘂取郡)

人口

明治5年(1872年)の調査では、人口437人を数えた。 ※1945年昭和20年)8月15日現在では、(明治5年と同じ旧千島国の範囲で)2,066世帯10,972人だった。[8]

千島国の合戦

脚注

  1. 千島列島における資源・土地利用の歴史生態学的研究
  2. エトロフ・クナシリ新図 北方関係資料 北海道大学
  3. 蝦夷輿地之全図 北方関係資料 北海道大学
  4. 法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  5. 法令全書第11冊(明治9年) 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  6. 法令全書 第21冊(明治18年) 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  7. 「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」
  8. 北方領土の人口 独立行政法人北方領土問題対策協会

関連項目

外部リンク