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'''千島国'''(ちしまのくに)は、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]を踏襲し[[戊辰戦争]]([[箱館戦争]])終結直後に制定された日本の地方区分の[[令制国|国]]の一つで、[[五畿八道]]のうち[[北海道 (令制)]]に含まれた。領域は最初[[国後島]]と[[択捉島]]のみであったが、後に[[得撫島]]以北の[[千島列島]]と[[色丹島]]が加わった。現在の[[根室振興局]]管内の東部にあたる。
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'''千島国'''(ちしまのくに)
  
== 沿革 ==
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明治二年(一八六九)八月、蝦夷地を北海道と改め、十一ヵ国八十六郡を制定した際建置された国。北海道の東北部に位置する千島列島の内、国後(くなしり)および択捉(えとろふ)両島を範囲とし、国後・択捉・紗那(しゃな)・振別(ふれべつ)・蘂取(しべとろ)の五郡を置く。国名は中世以来北海道を「蝦夷ヶ千島」と呼んでいたことに由来。十七世紀より外国船の探検が始まり、松前藩の地図にも描かれた。ロシアは十八世紀に入って列島の南下を開始し、幕府も探検隊を派遣して南千島の経営にあたった。両国は多年の紛争を経て安政元年(一八五四)日露和親条約を結び、国境をウルップ水道とし択捉以南を日本領とした。
ここでは千島国成立までについても記述する。
 
  
<!--他の令制国や郡の記事にも縄文時代など有史以前の記載はありません-->
 
[[飛鳥時代]]の[[皇極天皇|斉明天皇]]のころ[[樺太]]で[[阿倍比羅夫]]が一戦交えた[[粛慎 (日本)#斉明朝の粛慎討伐|粛慎]]は、当時国後郡域にも及んでいた[[オホーツク文化]]圏に属する人たちとも言われている。オホーツク文化は[[平安時代]]前期ころ[[擦文文化]]の影響を強く受けた[[トビニタイ文化]]へと移行し[[鎌倉時代]]ころまで続いた。また、鎌倉時代から[[室町時代]]にかけて、北海道太平洋岸から千島国域にかけて日の本と呼ばれる[[蝦夷#えぞ|蝦夷]](えぞ)がおり、[[蝦夷管領|蝦夷沙汰職・蝦夷管領]]はこれを統括していた。
 
しかし、千島列島は[[火山噴火]]や巨大[[津波]]が定期的に発生し、得撫島より北ではオホーツク文化期にかけていったん拡大したものの、その後は[[炭素14]]による鑑定で生活痕が発見されない断絶期が13世紀半ばから約400年間あるなど、過酷な環境だった。17世紀以降は[[メナシクル]]が、[[カムチャツカ半島]]にかけ半定住・移動生活を送り、交易も行っていたと見られる。
 
<ref>[https://kaken.nii.ac.jp/ja/p/20520725 千島列島における資源・土地利用の歴史生態学的研究]</ref>
 
 
=== 国後場所の成立と択捉場所の分立 ===
 
[[江戸時代]]に入り、[[寛永]]12年([[1635年]])、[[松前藩]]は 村上掃部左衛門に命じ国後・択捉などを含む[[蝦夷地]]の地図を作成した。 [[正保]]元年([[1644年]])、各藩が提出した地図を基に日本の全版図を収めた「[[正保御国絵図]]」が作成された。このとき幕命により[[松前藩]]が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。[[万治]]4年([[1661年]])、[[伊勢国]]松坂の七郎兵衛の船が[[得撫島]]に漂着したが、蝦夷([[アイヌ]])の援助を受け[[択捉島]]や[[国後島]]経由で十州島([[北海道]]本島)へ渡り、[[寛文]]元年([[1662年]])に江戸へ帰っている(『勢州船北海漂着記』)。[[元禄]]13年([[1700年]])、幕命により松前藩は千島や[[カムチャツカ半島|勘察加]](カムチャツカ)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成した。[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])には[[薩摩国]][[大隅郡]]の船が択捉島に漂着している(『恵渡路部漂流記』)。
 
 
正徳5年([[1715年]])、松前藩主は[[江戸幕府|幕府]]に対し、「十州島、[[樺太|唐太]]、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告した。[[享保]]16年([[1731年]])、国後および択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ、献上品を贈った。'''[[宝暦]]4年([[1754年]])、松前藩によって松前藩家臣の[[知行#知行概念の変質|知行地]]として国後場所が開かれ、その範囲は[[国後島]]のほか[[択捉島]]や[[得撫島]]も含んだ'''。このとき国後島の[[泊村 (北海道根室振興局)|泊]]には[[場所請負制#運上屋|運上屋]]が設けられている。[[安永 (元号)|安永]]2年([[1773年]])飛騨屋が国後場所での交易を請け負うようになり、[[天明]]8年([[1788年]])には蝦夷([[アイヌ]])の人々を雇い大規模な搾粕製造を開始した。しかし、[[寛政]]元年([[1789年]])労働条件や飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷が蜂起した[[クナシリ・メナシの戦い|クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)]]が勃発し、多くの[[和人]]が殺害されている。
 
 
この頃幕府は政権交代により、蝦夷地を従来通り松前藩に任せようとする[[松平定信]]と、幕府直轄の[[天領|公議御料]]としてロシアに備えようとする[[本多忠壽]]が対立したが、最終的に松平定信の意見が通り、飛騨屋は松前藩により場所請負人から外され、没落した。寛政11年([[1799年]])に[[高田屋嘉兵衛]]によって択捉航路<ref>[http://www.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0D019780000000000 エトロフ・クナシリ新図] 北方関係資料 北海道大学</ref>が運営されるようになると、翌寛政12年([[1800年]])には国後場所から分立し新たに択捉場所も開かれ、[[紗那村|紗那]]に[[会所 (近世)|会所]]を置き択捉島に17箇所の漁場が設けられるとともに[[北前船]]も寄航していた。その他、寛政年間には[[本州]]や[[和人地]]などと同様に郷村制がしかれている。{{main2|場所に関する制度的な詳細は[[地方知行#商場知行制|商場(場所)知行制]]および[[場所請負制]]を}}
 
 
また、北方に対する警戒を説いた[[天明]]元年([[1781年]])の『[[赤蝦夷風説考]]』や[[寛政]]3年([[1791年]])の『[[海国兵談]]』などが著され、幕吏による[[北方探検]]も盛んに行われるようになった。天明6年([[1786年]])と寛政3年([[1791年]])には[[田沼意次]]の蝦夷地開発の意図を受け、[[最上徳内]]が国後場所の択捉島と得撫島を探検し画期的な北辺図<ref>[http://www.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0D000640000000000 蝦夷輿地之全図] 北方関係資料 北海道大学</ref>を作成した。寛政10年([[1798年]])には[[近藤重蔵]]が最上徳内を案内役として調査を行い、択捉島・丹根萌(タンネモイ)の丘に「'''大日本恵登呂府'''」の標柱を建てた。寛政12年(1800年)にも択捉島・カムイワッカオイの丘に「大日本恵登呂府」の標柱、[[享和]]元年([[1801年]])6月には幕府の命により調査にあたった[[富山元十郎]]と[[深山宇平太]]が得撫島に「'''天長地久大日本属島'''」の標柱をそれぞれ建てている。また、享和3年([[1803年]])には[[間宮林蔵]]が西蝦夷地の測量を行い、得撫島までの地図を作製した。
 
 
=== ロシア人の南下 ===
 
一方、ロシア人はカムチャツカ半島を征服して千島を伺っており、占守郡域や新知郡域の島々も武力で征服しながら南進した。
 
 
;占守郡域
 
[[1711年]]8月、[[ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ]]({{lang|ru|Данила Яковлевич Анцыферов}})と{{仮リンク|イワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキー|ru|Козыревский, Иван Петрович}}({{lang|ru|Иван Петрович Козыревский}})が千島最北端の[[占守島]](シュムシュ島)と二番目の島[[幌筵島]](パラムシル島)に上陸し、住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶された。[[1713年]]、コズイレフスキーは再び占守島と幌筵島に上陸した。コズイレフスキーは住民の激しい抵抗を受けるも、戦いの末にこれを征服し、サヤークの献納とロシアの支配を認めさせた。このとき、幌筵島に交易に来ていた択捉島のアイヌ人シタナイが巻き込まれ、コズイレフスキーに連れ去られた。 同年、コズイレフスキーは[[温禰古丹島]](オンネコタン島)も襲撃し帰国した。[[1747年]]には、[[ロシア正教会|ロシア正教]]の[[修道司祭]]イオアサフが、布教のため千島列島北部へ渡り、占守島および幌筵島のアイヌ208人を正教に改宗させた。
 
 
;新知郡域
 
[[1721年]]、第6島[[新知島]](シムシル島)がロシア人が到達した。
 
 
また[[1738年]]には、 第二次[[ヴィトゥス・ベーリング|ベーリング]]探検隊の[[元文の黒船|分遣隊]]が千島列島沿いに南下して、[[本州]]沖まで到達し地図を作製した。[[1766年]]から[[1769年]]にかけて、{{仮リンク|イワン・チョールヌイ (コサック)|ru|Иван Чёрный (сотник)|label=イワン・チョールヌイ}}({{lang|ru|Иван Чёрный}})が[[場所請負制|国後場所]]に侵入し、ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の得撫郡)に到達し、周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、得撫島で多数の女性を集めてハーレムを作った。しかし[[1772年]]に、得撫島の千島アイヌが蜂起し、ロシア人20名が殺害され、残りはカムチャツカ半島へ撤退した。その後も[[1776年]]に、ロシアの毛皮商人による殖民団が得撫島へ一時的に居住したが、7年後の[[1783年]]に撤退した。[[1779年]]には、ロシア皇帝の[[エカテリーナ2世]]が千島列島での徴税を禁止している。
 
 
=== 松前藩領の上知と幕府による直接統治 ===
 
[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]、千島国域は[[蝦夷地|東蝦夷地]]に属していた。[[南下政策]]を強力に推し進める[[ロシア帝国]]の脅威に備え、寛政11年(1799年)に東蝦夷地は公議御料(幕府直轄領)とされ、[[津軽藩]]と[[盛岡藩|南部藩]]が泊と紗那に勤番所(泊は南部藩のみ)を置き警固を行っていた。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])には、漂流していた慶祥丸が占守郡域の幌筵島に漂着した。乗組員の[[継右衛門]]ら6人はカムチャツカ半島に渡り、[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー|ペトロパブロフスク]]で現地に滞在する[[若宮丸]]漂流民[[善六]]の世話を受けた。その後翌文化2年([[1805年]])[[6月 (旧暦)|6月]]にペトロパブロフスクを立ち、千島アイヌの助けを借りつつ、途中新知郡域の[[羅処和島]]で越冬した後、文化3年([[1806年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]に会所のある紗那郡域に帰還した。文化4年([[1807年]])には[[文化露寇]](フヴォストフ事件)が発生し、択捉島[[留別村|内保]]の[[番屋]]や紗那の会所などが、ロシアから攻撃を受けて略奪された。[[幕臣|幕吏]][[間宮林蔵]]もこの事件に巻き込まれている。また、この事件では[[中川五郎治]]と佐兵衛がロシアに拉致され、[[シベリア]]に連行されている。翌文化5年([[1808年]])以降には、[[仙台藩]]が国後と択捉の警固に加わった。
 
 
{{main|ゴローニン事件}}
 
文化8年([[1811年]])には[[ゴローニン事件]]が発生し、幕府が国後島でロシア軍艦ディアナ号の艦長[[ヴァーシリー・ゴローニン]]({{lang|ru|Василий Головнин}})を捕縛した。ディアナ号副長{{仮リンク|ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}({{lang|ru|Пётр Иванович Рикорд}})は一旦[[オホーツク]]に引き返した後、中川五郎治と歓喜丸の漂流民たちとともに国後島に来航したが、幕府からの回答は満足のいくものでなかった上、歓喜丸の水夫1名が逃亡したために交渉は難航した。そのためリコルドは、中川五郎治や残りの歓喜丸漂流民たちを解放する代わりに、近海を航行中であった観世丸を拿捕し、高田屋嘉兵衛らをペトロパブロフスクへ拉致した。事件が解決に向かうのは、文化10年([[1813年]])5月にディアナ号が国後島に来航し、嘉兵衛ら3名が解放されてからであった。その際に日露間で交渉が行われ、同年9月、リコルドは善六や[[久蔵]]らを伴ってディアナ号で[[函館市|箱館]]に来航し、交渉の末ゴローニンはロシア側に引き渡された。また文化13年([[1816年]])には、ロシア船パヴェル号が択捉島に来航し督乗丸の漂流民[[小栗重吉]]、音吉、半兵衛の3名が幕府に引き渡された。
 
 
千島国域は[[文政]]4年([[1821年]])に一旦松前藩領に復したが、その後も[[弘化]]2年([[1845年]])に[[露米会社]]船が択捉島に来航し、交易を要求した。[[安政]]元年([[1854年]])には[[日露和親条約]]([[不平等条約]]のひとつ)により、択捉島と得撫島の間が国境とされ、翌安政2年([[1855年]])には択捉島以南は再び公議御料となり、仙台藩が国後島の泊と択捉島の振別に出張[[陣屋]]を築き警固をおこなった。安政6年([[1859年]])の6藩分領以降は紗那郡(仙台藩警固地)を除き、ほぼ全域が仙台藩領となった。このとき、年数が経ち痛んだカムイワッカオイの丘の「大日本恵登呂府」の標柱の代わりに、仙台藩士によって「'''大日本地名アトイヤ'''」と書き改めた標柱が立てられた。
 
 
=== 国郡制定後の沿革 ===
 
* [[1869年]]([[明治]]2年)8月15日 [[北海道 (令制)|北海道11国]]が置かれた際、千島国5郡が制定される。また、同年7月から明治4年(1871年)8月ころまで道外の複数の[[藩]]によって分領支配が行われる。
 
* [[1875年]](明治8年)11月28日 [[樺太・千島交換条約]]により日本領となった中部千島と北千島が、暫定的に「[[開拓使]]管下クリル列島」となる。<ref>[http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40022968 法令全書 慶応3年10月-明治45年7月] 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館</ref>。
 
* [[1876年]](明治9年)1月14日 中部千島と北千島に[[得撫郡]]・[[新知郡]]・[[占守郡]]の3郡を新設編入する。<ref>[{{NDLDC|787956/53}} 法令全書第11冊(明治9年)] 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館</ref>
 
* [[1882年]](明治15年)2月8日 [[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]にともない[[根室県]]の所管となる。
 
* [[1884年]](明治17年) 生活物資の補給と国防上の問題から、占守島の全住民(千島アイヌ)を色丹島に移住させる。
 
* [[1885年]](明治18年)1月6日 [[根室国]][[花咲郡]]の一部([[色丹島]])を、[[色丹郡]]として編入する。<ref>[{{NDLDC|787966/135}} 法令全書 第21冊(明治18年)] 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館</ref>
 
**以降の出来事については[[北海道庁 (1886-1947)]]および[[根室振興局]](旧:[[根室支庁]])の項を参照。
 
 
== 国内の施設 ==
 
=== 神社 ===
 
千島国5郡制定時の主な神社を記述する。
 
 
泊神社・有萌神社・紗那神社・蘂取神社の四社は[[文化 (元号)|文化]]年間に[[高田屋嘉兵衛]]による創建、恵比須神社は[[嘉永]]3年の創建、植沖神社と別飛神社は[[幕末]]ころの創建<ref>[http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/14162/2/11-05%20本文.pdf 「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」]</ref>である。
 
 
* 国後郡 [[国後神社|泊神社 (国後神社)]]([[国後郡]][[泊村 (北海道根室振興局)|泊村]])
 
* 国後郡 [[植沖神社]](国後郡[[留夜別村]])
 
* 紗那郡 [[有萌神社]]([[紗那郡]][[紗那村]])
 
* 紗那郡 [[別飛神社]](紗那郡紗那村)
 
* 紗那郡 [[恵比須神社 (紗那村)|恵比須神社]](紗那郡紗那村)
 
* 紗那郡 [[紗那神社]](紗那郡紗那村)
 
* 蘂取郡 [[蘂取神社]]([[蘂取郡]][[蘂取村]])
 
 
敗戦時、国後島に25社、択捉島に16社、得撫島以北に4社のほか、色丹島に9社を数えた。
 
 
[[根室市]]の[[金刀比羅神社 (根室市)|金刀比羅神社]]には、[[赤軍|ソ連軍]]の侵攻を逃れてこれらの神社から運び出された10体の御神体が安置されている。また、明治以降、得撫島以北に創祀された神社は下記のとおり。
 
 
* 新知郡 松輪神社(松輪島大和湾)
 
* 占守郡 占守神社(占守島片岡湾郡司ヶ丘)
 
* 占守郡 北上神社(幌筵島加熊別)
 
* 占守郡 阿頼度神社(阿頼度島東京湾)
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
制定当初は5郡で構成されたが、明治9年、得撫・新知・占守の3郡を新設・追加。
 
 
* [[国後郡]]
 
* [[択捉郡]]
 
* [[振別郡]]
 
* [[紗那郡]]
 
* [[蘂取郡]]
 
* [[得撫郡]]
 
* [[新知郡]]
 
* [[占守郡]]
 
 
上記の他、末期の明治19年にはもともと[[根室国]][[花咲郡]](旧根室場所付島々)の一部であった[[色丹郡]]を編入。
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
*[[松前藩]]領、[[蠣崎氏|松前氏]](1万石各→3万石各)1599年-1799年・1821年-1855年(国後場所、択捉場所、得撫)
 
*[[仙台藩]]泊陣屋・振別陣屋、1859年-1868年(国後場所、択捉場所のうち後の紗那郡を除く地域)
 
;分領支配時の藩
 
*[[久保田藩]]領、1869年-1871年(国後郡)
 
*[[彦根藩]]領、1869年-1871年(択捉郡)
 
*[[佐賀藩]]領、1869年-1870年(振別郡)
 
*仙台藩領、1869年-1871年(紗那郡、1870年以降は振別郡と蘂取郡も所領に加えた)
 
*[[土佐藩|高知藩]]領、1869年-1870年(蘂取郡)
 
 
=== 人口 ===
 
[[壬申戸籍|明治5年(1872年)の調査]]では、人口437人を数えた。
 
※[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月15日]]現在では、(明治5年と同じ旧千島国の範囲で)2,066世帯10,972人だった。<ref>[http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/islands/index3.html 北方領土の人口] 独立行政法人北方領土問題対策協会</ref>
 
 
== 千島国の合戦 ==
 
*[[1789年]]:[[クナシリ・メナシの戦い|クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)]]
 
*[[1806年]]-[[1807年]]:[[文化露寇]](紗那事件・フヴォストフ事件)
 
 
== 脚注 ==
 
<small>
 
<references />
 
</small>
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Chishima Province}}
 
{{Wikisource|開拓使管下クリル諸島ヲ千島国ニ併セ三郡ヲ置ク}}
 
{{Wikisource|根室県下「シコタン」島千島国ヘ編入}}
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[松前藩]]
 
* [[箱館奉行#箱館奉行(松前奉行)|箱館奉行]]
 
* [[場所請負制]]
 
* [[北前船]]
 
* [[赤蝦夷風説考]]
 
* [[海国兵談]]
 
* [[北方探検]]
 
* [[北海道の分領支配]]
 
* [[北方地域|北方領土]]
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/history/index.html 松前藩の千島統治]
 
* [http://www.mctv.ne.jp/~takase/E18.htm 伊勢国松坂船北へ漂流]
 
* [http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem2008.pdf 千島列島のアイヌ文化]
 
  
 
{{令制国一覧}}
 
{{令制国一覧}}
 
{{千島国の郡}}
 
{{千島国の郡}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:ちしまのくに}}
 
{{DEFAULTSORT:ちしまのくに}}
 
[[Category:日本の旧国名]]
 
[[Category:日本の旧国名]]

2018/10/19/ (金) 08:11時点における最新版


千島国(ちしまのくに)

明治二年(一八六九)八月、蝦夷地を北海道と改め、十一ヵ国八十六郡を制定した際建置された国。北海道の東北部に位置する千島列島の内、国後(くなしり)および択捉(えとろふ)両島を範囲とし、国後・択捉・紗那(しゃな)・振別(ふれべつ)・蘂取(しべとろ)の五郡を置く。国名は中世以来北海道を「蝦夷ヶ千島」と呼んでいたことに由来。十七世紀より外国船の探検が始まり、松前藩の地図にも描かれた。ロシアは十八世紀に入って列島の南下を開始し、幕府も探検隊を派遣して南千島の経営にあたった。両国は多年の紛争を経て安政元年(一八五四)日露和親条約を結び、国境をウルップ水道とし択捉以南を日本領とした。





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