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{{出典の明記|date=2017年10月}}
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'''十月革命'''(じゅうがつかくめい、{{lang-ru|Октябрьская революция}}[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:''{{lang|ru-Latn|Oktiabr'skaia revoliutsiia}}'')
{{otheruses}}
 
{{基礎情報 蜂起
 
|名称 = 十月革命
 
|画像 = Kustodiyev bolshevik.JPG
 
|画像説明 =『ボリシェヴィキ』 [[ボリス・クストーディエフ]](1920年)
 
|種類 = 労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命
 
|目的 = [[臨時政府 (ロシア)|臨時政府]]打倒
 
|対象 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア臨時政府|ロシア共和国]]
 
|結果 = ボリシェヴィキ政権樹立
 
|発生現場 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア臨時政府|ロシア共和国]] [[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]
 
|期間 = [[1917年]][[11月7日]] - [[1918年]]
 
|指導者 = [[ウラジーミル・レーニン]]
 
|関連団体 = [[ボリシェビキ]]
 
|関連事象 = [[2月革命 (1917年)|二月革命]]
 
|備考 =
 
}}
 
  
'''十月革命'''(じゅうがつかくめい、{{lang-ru|Октябрьская революция}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:''{{lang|ru-Latn|Oktiabr'skaia revoliutsiia}}'')は、[[ロシア革命]]の一局面。[[ユリウス暦]]の[[1917年]][[10月25日]](現在の[[グレゴリオ暦]][[11月7日]])、[[ロシア]]の首都ペトログラード(後のレニングラード、現在の[[サンクトペテルブルク]])で起きた[[労働者]][[兵士]]らによる武装蜂起を発端として始まった[[革命]]である。多数の労働者や兵士らを[[扇動]]した[[革命家]]らによる[[クーデター]]とも解される。'''ソビエト革命'''あるいは'''ボリシェヴィキ革命'''とも。
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1917年 11月7日 (旧暦 10月 25日) ,ロシアで達成された世界最初の社会主義革命。新暦では十一月革命。[[二月革命]]ののち,主として有産階級を代表する自由主義的党派によって臨時政府が組織された。他方,二月革命の推進力となった民衆,兵士の力は各地に形成された[[ソビエト]]に結集し,政府とソビエトの二重権力状況が生れた。初めソビエトの指導権を握っていた[[社会革命党]] (エス・エル) や[[メンシェビキ]],さらには[[ボルシェビキ]]の一部も臨時政府に協調的であったが,17年4月亡命地スイスから帰国した[[レーニン]]は,ソビエトに全権力を移す第2革命へただちに進むべきだという方針 ([[四月テーゼ]] ) を打出した。政府の戦争継続を前提とする政策,一切の改革に対する不決断は民衆の不満をかきたて,ソビエト内少数派だったボルシェビキの支持者は次第に増加していった。政府とボルシェビキの対抗関係は一進一退を続けたが,同年9月反革命の L.G.[[コルニーロフ]]将軍の反乱を契機に,ボルシェビキの優位が決定的となった。 10月 23日 (旧暦 10日) 党中央委員会は武装蜂起の方針を決定,以後第2回全ロシア・ソビエト大会開催日を目標に準備が進められ,首都の守備隊も次々にソビエト支持に立った。蜂起は 11月6日(旧暦 10月 24日) 夜から開始されたが,ほとんど抵抗も受けず,翌朝までに首都のすべての拠点が無血占領された。7日夜,政府の閣僚がたてこもる冬宮が陥落するや,ソビエト大会は,ただちに権力の掌握を宣言し,翌8日「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択し,レーニンを議長とする人民委員会議を設立,世界最初の社会主義権力を樹立した。 ([[ロシア革命]] )  
  
この当時、ロシアでは[[ユリウス暦]]が採用されており、現在の[[グレゴリオ暦]]と比べて日付は13日遅れている。十月革命はグレゴリオ暦によると'''十一月革命'''となるが、この記事では十月革命に統一し、日付についてもユリウス暦を用いる。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
十月革命は、社会主義[[左翼|左派]]勢力'''[[ボリシェヴィキ]]'''により引き起こされた。一連の[[ロシア革命]]のなかでは、[[君主制|帝政]]を崩壊させ、[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]](カデット)主導の'''[[臨時政府 (ロシア)|臨時政府]]'''を成立させた[[2月革命 (1917年)|二月革命]]'''に次ぐ第二段階にあたる。
 
 
 
ボリシェヴィキはかねてから[[暴力革命|暴力による革命]]を主張しており、[[1917年]][[10月12日]]、影響下にあったペトログラード・ソビエトに軍事革命委員会({{lang|ru|Военно-революционный комитет, военревком, ВРК}})を作らせて武装蜂起の準備を進めた。軍事革命委員会の指令下にあるボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊(赤衛軍:{{lang|ru|Красная гвардия}})は、[[1917年]][[10月24日]]にペトログラードの政府施設の占拠を開始し、[[10月25日]]に軍事革命委員会が「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」とする宣言を発表した。[[10月26日]]未明には臨時政府が置かれていたペトログラードの[[冬宮殿|冬宮]]が制圧され臨時政府メンバーは[[逮捕]]された。
 
 
 
こうして[[ボリシェヴィキ]]主導の'''[[ソビエト]]'''(労働者・農民・兵士の評議会)へと[[権力]]が集中された。これに引き続いて'''[[ロシア内戦]]'''([[1917年]] - [[1922年]])が起こり、最終的には1922年に史上初の[[社会主義国家]]である'''[[ソビエト連邦]]'''(ソ連)が誕生する。
 
 
 
== 呼称 ==
 
{{出典の明記|date=2017年11月|section=1}}
 
当初、この蜂起は「十月蜂起」({{lang|ru|Октябрьский переворот}})あるいは「25日の蜂起」と呼ばれていたことが、同時代の資料(『[[レーニン全集]]』第1版など)にみられる。やがて時間が過ぎ、ソ連の歴史上の大事件とみなされるようになるとともに「十月革命」という呼び方が使われ始めた。
 
 
 
ソビエト連邦における公式な呼び方は、[[1927年]]の革命十周年以後、「十月社会主義者大革命」({{lang|ru|Великая Октябрьская социалистическая революция}}、{{lang|ru-Latn|Velikaya Oktyabr'skaya sotsialisticheskaya revolyutsiya}})であった。
 
 
 
== 背景 ==
 
{{see also|ロシア革命}}
 
二月革命で成立した臨時政府の実権は、[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]]などの自由主義者や、[[アレクサンドル・ケレンスキー]] ([[社会革命党]])ら協調派社会主義者が握っていた。兵士たちは第一次世界大戦に疲れ和平を求めていた。
 
 
 
しかし、5月12日、陸軍大臣となっていたケレンスキーは、「諸君はその銃剣の先に、平和、権利、真理、正義をつけて行くのだ。ロシヤの自由な息子たちよ、固く隊伍を組んで前進せよ」と述べ、軍に積極的攻勢に出ることを命じた{{Sfn|長尾|1973|p=163}}。メンシェビキの[[イラクリー・ツェレテリ]]に代表されるペトログラード・ソビエトも、この作戦に反対しなかった{{Sfn|長尾|1973|pp=163-164}}。
 
 
 
しかし、この夏季攻勢([[ケレンスキー攻勢]])は、およそ39000人の犠牲を出したにもかかわらず、何の成果も得られなかった{{Sfn|長尾|1973|p=184}}。
 
 
 
こうしたなか、[[7月3日]]にアナーキストのブレイフマンの扇動の結果、ソビエトへの権力移行を目指し、兵士たちが蜂起を開始した{{Sfn|長尾|1973|p=261}}。ボリシェビキは必ずしも蜂起に積極的でなかったが、デモの拡大を見て、行動を開始することを決断した{{Sfn|長尾|1973|pp=185-186}}。しかし、臨時政府の反撃にあい、蜂起は失敗に終わった{{Sfn|長尾|1973|pp=282-283}}。
 
 
 
蜂起の後、[[レフ・カーメネフ]]らは逮捕され、[[ウラジーミル・レーニン]]や[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]は潜伏を強いられて、一時的にボリシェヴィキの勢力は後退した{{Sfn|長尾|1973|pp=284-285}}。
 
 
 
しかし、軍最高総司令官[[ラーブル・コルニーロフ]]による軍事クーデターが失敗に終わると、各地のソビエトの急進化が進んだ{{Sfn|長尾|1973|pp=314-315}}。ペトログラード・ソビエトでもボリシェビキが多数派を占め、[[レフ・トロツキー]]が議長となった{{Sfn|長尾|1973|pp=314-315}}。
 
 
 
== 経緯 ==
 
=== 軍事革命委員会 ===
 
[[1917年]][[10月10日]](ユリウス暦)、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した<ref>[http://www.marxists.org/archive/lenin/works/1917/oct/10a.htm Central Committee Meeting—10 Oct 1917<!-- Bot generated title -->]</ref>。ペトログラード・ソビエトは10月12日(ユリウス暦)に軍事革命委員会を設置した{{Sfn|長尾|1973|pp=356-357}}。これは元々はペトログラードの防衛を目的として[[メンシェヴィキ]]が提案したものだったが、ボリシェビキの提案によってその目的が革命へと修正された{{Sfn|長尾|1973|pp=356-357}}。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた{{Sfn|長尾|1973|pp=356-357}}。彼は権力掌握を承認させるために、[[10月25日]](ユリウス暦)に開会する予定の第二回全国ソビエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派([[社会革命党]]左派)14名、[[アナキズム|無政府主義]]者4名となった。
 
 
 
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた{{Sfn|長尾|1973|pp=358-359}}。
 
 
 
=== 10月25日 ===
 
[[ファイル:Avrora1917Petrograd.jpg|thumb|250px|防護巡洋艦アヴローラ(オーロラ)、1917年撮影]]
 
[[ファイル:Stormningen av vinterpalatset.jpg|thumb|250px|『冬宮への突入』、1920年の再現群像劇]]
 
[[10月23日]](グレゴリオ暦の11月5日)、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人の[[ヤーン・アンヴェルト]](Jaan Anvelt)は、革命後に創設されたエストニア自治政府の首都[[タリン]]で左翼革命勢力を率いて武装蜂起を開始した。
 
 
 
[[10月24日]]、最後の反撃を試みた臨時政府は、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始した{{Sfn|長尾|1973|pp=368-369}}。
 
 
 
これに対し臨時政府側の部隊は崩壊していき、一方で軍事革命委員会側は次々とペトログラードの印刷所、電信局、通信社などの要所を制圧した{{Sfn|長尾|1973|pp=3706-374}}。[[10月25日]](グレゴリオ暦の11月7日)に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソビエトの機関であり、ペトログラードの[[プロレタリアート]]と守備軍の先頭に立つ軍事革命委員会に移った」と軍事革命委員会は宣言した{{Sfn|長尾|1973|p=374}}。
 
 
 
臨時政府の閣僚が残る冬宮に対する[[占領]]は25日午後9時45分、[[アヴローラ (防護巡洋艦)|防護巡洋艦アヴローラ]]の砲撃を合図に、ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる部隊が進入して始まった。冬宮はコサックや[[士官学校]]生、女性部隊により防衛されていたが、ほとんど抵抗らしき抵抗はなく、26日未明の午前2時ごろに占領された。なすすべなく会議を続けていた閣僚たちは逮捕され、ケレンスキーは冬宮を脱出し最終的に国外へ[[逃亡]]した<ref>J.バーナード・ハットン (著), [[木村浩]] (翻訳) 『スターリン―その秘められた生涯』61頁、ISBN 9784061588981</ref>。
 
 
 
十月革命の公式な日付は冬宮を除くすべての政府機関が占領された10月25日(グレゴリオ暦11月7日)とされている。後に、10月25日から26にかけての出来事はソ連政府によって実際よりも劇的に描かれるようになった。イギリスのペトログラード駐在武官アルフレッド・ノックスは冬宮の守備が体をなしておらず、ほぼ無抵抗で占領された様を目撃して書き残しているが<ref>{{cite web |url=http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUSknox.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年3月12日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090309041423/http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUSknox.htm |archivedate=2009年3月9日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、[[1920年]]に革命3周年を記念して冬宮で上演された歴史再現群衆劇『冬宮への突入』では、冬宮占領の様はドラマチックに描かれている。以後、[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]の映画『十月』([[1928年]])など十月革命を描いた作品でも「冬宮突入」は革命のクライマックスとされ、激しい戦闘の末に冬宮が制圧された、という描き方がなされている。
 
 
 
=== 第二回ソビエト大会 ===
 
蜂起の最中、予定通り第二回全国労働者・兵士代表ソビエト大会が開かれた{{Sfn|長尾|1973|p=377}}。投票によって選ばれた600名強の評議員のうち、300人以上をボリシェヴィキが占めた{{Sfn|長尾|1973|p=377}}。冬宮占領を待ち、大会は権力のソビエトへの移行を宣言した{{Sfn|長尾|1973|p=378}}。こうして革命は承認された。
 
 
 
しかしソビエトへの権力移行には反対勢力もあった。ソビエト大会評議員のうち、[[社会革命党]](エスエル)の[[右翼|右派]]、およびメンシェヴィキなどは、ボリシェヴィキがクーデターを起こして不法に権力を奪取したと非難し、ソビエトではなく「全権力を[[全ロシア憲法制定会議|憲法制定会議]]へ!」と主張した{{Sfn|長尾|1973|pp=377-378}}。{{要出典範囲|ボリシェヴィキに抵抗する彼らにトロツキーは「おまえたちは破産した。おまえたちの役割は終わった。おまえたちはこれから歴史のごみ箱行きだ」となじった。|date=2017年11月25日 (土) 01:38 (UTC)}}
 
 
 
[[10月27日]]、第二回ソビエト大会は、臨時政府に代わる新しいロシア政府として、レーニンを議長とする「'''[[人民委員会議]]'''」({{lang|ru|Совет народных коммиссаров}}、略してソヴナルコム)すなわち「臨時労農政府」を設立した{{Sfn|長尾|1973|pp=378-379}}。大会は全交戦国に講和を提案する「[[平和に関する布告]]」貴族・教会・地主などから土地を強制収用し土地の国有化を宣言する「[[土地に関する布告]]」を採択した{{Sfn|長尾|1973|pp=378-379}}。{{要出典範囲|ボリシェヴィキは工業を復興させ都市と農村の間で商品が円滑に交換されることを目指しており、農民の支持を必須のものとしていた。彼らは自らを労働者と農民の同盟を代表するとみなした。この観念は、[[鎌と槌|鎌とハンマー]]をあしらった[[ソビエト連邦の国旗]]や[[ソビエト連邦の国章|国章]]に表れている。|date=2017年11月25日 (土) 01:38 (UTC)}}
 
 
 
さらに大会は次のような布告を行った。すなわち、ロシアのすべての[[銀行]]の国有化、工場の管理権限を労働者ソビエトへ与える「労働者統制」、銀行口座の押収、教会[[資産]]の没収、戦時中の労働賃金を上回る[[賃金]]への固定、ロシア帝国および臨時政府が負った債務の一方的破棄、[[ポーランド]]と[[フィンランド]]の独立への約束である。
 
 
 
=== ソビエト権力の確立 ===
 
冬宮から逃亡したケレンスキーは、[[プスコフ]]で騎兵第3軍団長[[ピョートル・クラスノフ]]の協力をとりつけ、その軍によって10月26日にペトログラードへの反攻を開始した{{Sfn|長尾|1973|pp=382-383}}。ペトログラード市内でもエスエルやメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、[[10月29日]]に士官学校生らが反乱を開始した{{Sfn|長尾|1973|pp=383-384}}。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた{{Sfn|長尾|1973|pp=384-385}}。
 
 
 
[[モスクワ]]では10月25日に軍事革命委員会が設立され、ペトログラード軍事革命委員会を支持した{{Sfn|長尾|1973|p=391}}。一方で、26日には臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられ、これは無視できない軍事力を有していた{{Sfn|長尾|1973|p=391}}。10月27日に双方の武力衝突が起こり、激しい戦闘が行われた{{Sfn|長尾|1973|p=392}}。しかし、[[11月2日]]に社会保安委員会は敗北に追い込まれ、和平協定に応じた{{Sfn|長尾|1973|p=392}}。軍事革命委員会は[[11月3日]]にソビエト権力の樹立を宣言した{{Sfn|長尾|1973|p=392-393}}。
 
 
 
一方で、ボリシェビキは、憲法制定会議選挙で社会革命党に敗れ、第2党の地位に留まった{{Sfn|長尾|1973|p=420}}。そこで、11月28日以後、ボリシェビキは、カデットの指導者や社会革命党のアフクセンチェフを逮捕し{{Sfn|長尾|1973|p=422}}、さらに憲法制定会議を強制的に解散した{{Sfn|長尾|1973|p=423}}。
 
 
 
ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。
 
 
 
ボリシェヴィキ主導の権力奪取は、ロシア帝国の他の部分でも徐々に進んだ。[[ヨーロッパ・ロシア]]の北部と中部ではソビエトへの移行が進み、モスクワやロシア南部では戦闘が起こったものの短期間のうちに収束した。[[1918年]]初頭までには各都市はソビエトの支配下に置かれている。
 
 
 
しかしロシア人以外の民族が多数派を占める地域では、二月革命の後に相次いで独立宣言を行ったり独立への動きを見せていたためソビエトへの移行は進まなかった。例えば[[ウクライナ]]では、[[ウクライナ中央ラーダ]]が[[1917年]][[6月10日]]に自治を宣言し{{Sfn|長尾|1973|p=255}}、[[11月7日]]には中央ラーダはロシアとの連邦を前提とする[[ウクライナ人民共和国]]の創立を宣言した{{Sfn|長尾|1973|p=454}}。これはペトログラードのボリシェヴィキ政府(ソヴナルコム)と対立を深め、12月の[[赤軍]]のウクライナ侵攻を発端に全面的な[[ウクライナ・ソビエト戦争|武力衝突]]へと至り{{Sfn|長尾|1973|pp=464-471}}、[[1918年]]1月にはウクライナはついにロシアからの独立を宣言した。{{要出典範囲|[[エストニア]]では[[1917年]][[11月28日]]に議会が独立を宣言した。ヤーン・アンヴェルトのボリシェヴィキ派勢力は[[12月8日]]にレーニンのソヴナルコム政府を承認したが、その勢力は首都タリンの周囲しか把握していなかった|date=2017年11月25日 (土) 01:38 (UTC)}}。[[アゼルバイジャン]]の[[バクー・コミューン|バクーのソビエト]]を除けば、南コーカサスでも反ソビエト勢力が優勢であった{{Sfn|長尾|1973|p=479}}。
 
 
 
== その後 ==
 
[[ファイル:40th anniversary of the October Revolution. First Day postmark, 2.jpg|thumb|250px|革命40周年記念切手、1957年]]
 
「十月革命」の成功は、ロシアを[[議院内閣制]]の国ではなく[[社会主義国]]へと進ませることになった。新政府は、ロシア国内の反ボリシェヴィキ勢力や、ロシア革命に介入した国々との戦争('''[[ロシア内戦]]''')を[[1918年]]から[[1922年]]まで続けた。ボリシェヴィキは「平和についての布告」やロシア帝国政府と列強諸国との秘密条約の暴露などをきっかけに[[ヨーロッパ]]全土で反政府運動が起き、欧州大戦から一転して欧州[[共産主義革命|社会主義革命]]に進むことを期待したが、ロシアに続いて[[社会主義]]の友邦になる国はヨーロッパには現れず、周囲を敵対国に囲まれることになった。ボリシェヴィキが進めた[[共産主義]]化・[[計画経済]]化(「[[戦時共産主義]]」)は、内戦の混乱や諸外国による[[経済封鎖]]ともあいまって経済の崩壊という結果に終わり、[[1921年]]に新経済政策([[ネップ]])が施行され軌道に乗るまで経済の混乱は収束しなかった。
 
 
 
[[アメリカ合衆国]]は[[1933年]]まで新政府を承認しなかった。ヨーロッパ諸国は1920年代初めにソビエト連邦を承認し始め、ネップの施行後は貿易関係が再開する。
 
 
 
アメリカ人ジャーナリストの[[ジョン・リード]]は10月革命を目撃し、著名な[[ボリシェヴィキ]]の指導者を取材した。その後ジョン・リードは1919年に自身が目撃した経験を、[[世界を揺るがした10日間]]として出版した。この著作はアメリカ社会から大きな共感を得た<ref>Duke, David C. (1987). ''John Reed''. Boston: Twayne Publishers. [[ISBN]] [[特別:文献資料/0-8057-7502-1|0-8057-7502-1]].</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=[[長尾久]]|year=1973 |title=ロシヤ十月革命の研究|publisher=社会思想社|isbn=|ref={{SfnRef|長尾|1973}}}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kajikawa10.htm 十月革命の問題点] - 梶川伸一
 
* [http://www.marxists.org/history/ussr/events/revolution/index.htm The October Revolution Archive]
 
* [http://www.project-syndicate.org/commentary/medvedev4 Let History Judge Russia’s Revolutions], commentary by Roy Medvedev, Project Syndicate, 2007
 
 
 
{{ロシア革命}}
 
{{normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:しゆうかつかくめい}}
 
{{DEFAULTSORT:しゆうかつかくめい}}
 
[[Category:ロシア革命|*2]]
 
[[Category:ロシア革命|*2]]
 
[[Category:ウラジーミル・レーニン]]
 
[[Category:ウラジーミル・レーニン]]
 
[[Category:1917年の戦闘]]
 
[[Category:1917年の戦闘]]

2019/5/2/ (木) 09:37時点における最新版

十月革命(じゅうがつかくめい、ロシア語: Октябрьская революцияラテン文字表記の例Oktiabr'skaia revoliutsiia

1917年 11月7日 (旧暦 10月 25日) ,ロシアで達成された世界最初の社会主義革命。新暦では十一月革命。二月革命ののち,主として有産階級を代表する自由主義的党派によって臨時政府が組織された。他方,二月革命の推進力となった民衆,兵士の力は各地に形成されたソビエトに結集し,政府とソビエトの二重権力状況が生れた。初めソビエトの指導権を握っていた社会革命党 (エス・エル) やメンシェビキ,さらにはボルシェビキの一部も臨時政府に協調的であったが,17年4月亡命地スイスから帰国したレーニンは,ソビエトに全権力を移す第2革命へただちに進むべきだという方針 (四月テーゼ ) を打出した。政府の戦争継続を前提とする政策,一切の改革に対する不決断は民衆の不満をかきたて,ソビエト内少数派だったボルシェビキの支持者は次第に増加していった。政府とボルシェビキの対抗関係は一進一退を続けたが,同年9月反革命の L.G.コルニーロフ将軍の反乱を契機に,ボルシェビキの優位が決定的となった。 10月 23日 (旧暦 10日) 党中央委員会は武装蜂起の方針を決定,以後第2回全ロシア・ソビエト大会開催日を目標に準備が進められ,首都の守備隊も次々にソビエト支持に立った。蜂起は 11月6日(旧暦 10月 24日) 夜から開始されたが,ほとんど抵抗も受けず,翌朝までに首都のすべての拠点が無血占領された。7日夜,政府の閣僚がたてこもる冬宮が陥落するや,ソビエト大会は,ただちに権力の掌握を宣言し,翌8日「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択し,レーニンを議長とする人民委員会議を設立,世界最初の社会主義権力を樹立した。 (ロシア革命 )  



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