「北京条約」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2018年3月24日 (土) 04:04 (UTC)}}
 
[[ファイル:Convention of Peking.jpg|thumb|300px|北京条約]]
 
'''北京条約'''(ペキンじょうやく、Convention of Peking)は、[[1860年]]([[咸豊]]10年)に[[清朝]]と[[イギリス]]([[10月24日]])・[[フランス]]([[10月25日]])連合軍、および清朝と[[ロシア帝国]]([[11月14日]])が締結した条約。[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の批准交換と追加条約である。
 
  
== 経緯 ==
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'''北京条約'''(ペキンじょうやく、Convention of Peking)
  
[[ファイル:HSParkes.jpg|thumb|120px|北京条約の原因となる事件に巻き込まれることになった[[ハリー・パークス|パークス]]。割譲された[[九竜]]には彼の名が冠せられた通り「{{仮リンク|パークス通り|zh|白加士街}}」がある。]]
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中国の北京で締結された条約は数多く,通称として北京条約 (協定) と呼ばれるものがいくつかあるが,通常は 1860年 (清,咸豊 10年) [[アロー戦争]]終結のため,清朝とイギリス,フランス,ロシアとの間に結ばれたそれぞれの条約をいう。清朝=イギリス間の条約は,同年 10月[[恭親王奕訢]]とエルギン伯の間に調印されたもので,清朝は 58年の[[天津条約]]を確認したうえ,(1) 賠償金を 400万両から 800万両に増額,(2) 新たに天津の開港を追加,(3) イギリスに九竜半島を割譲するなどを認めた。清朝=フランス (全権 J.グロ) との条約もほぼ同様である (賠償金は 200万両から 800万両へ)。またロシア公使 N.イグナチェフは,清朝とイギリス,フランス間の講和を斡旋した代償として,同年の[[愛琿条約]]に追加,修正を加え,ウスリー川以東の沿海州を割譲させ,庫倫 (現ウラーンバートル) ,張家口での貿易を認めさせた。
 
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[[アロー戦争]]後に[[天津条約 (1858年)|天津条約]]が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また清の朝廷内部では条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び[[天津市|天津]]に上陸、[[咸豊帝]]は[[熱河]]へ撤退し、[[北京市|北京]]を任された[[愛新覚羅奕キン|恭親王]]も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出てこなくなった。北京を占領した連合軍は[[円明園]]を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京にあった[[礼部]]衙門において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも[[不平等条約]]である。
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{{テンプレート:20180815sk}}
[[ファイル:PrinceGong1.jpg|thumb|120px|1860年11月2日 条約を締結した直後の恭親王奕訢]]
 
[[ファイル:LordJamesBruceElgin.jpg|thumb|120px|イギリス側代表[[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|エルギン伯爵]]]]
 
 
 
== 内容 ==
 
 
 
この条約で、清朝は
 
 
 
<ol>
 
<li>英仏への800万両の[[戦争賠償|賠償金]]の支払い(天津条約で課せられた額600万両より増額)、
 
<li>[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の実施(北京への外交官の駐留等)、
 
<li>天津の[[開港]]、
 
<li>清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と[[移民]]公認
 
</ol>
 
が定められた。また英仏個別の条項では、
 
<ol start="5">
 
<li>清朝が没収したフランスの[[教会財産]]の返還、
 
</ol>
 
および
 
<ol start="6">
 
<li>英国へ[[九竜半島]]の南部[[九竜司]]地方([[香港島]]に接する部分)を割譲
 
</ol>
 
することが定められた。
 
 
 
=== ロシアとの条約 ===
 
==== 満洲 ====
 
[[ファイル:Manchuria.png|250px|thumb|右側の薄い赤が[[外満洲]]:条約でロシア領と確定した部分。なお、ロシア帝国が設置した「沿海州」は「[[沿海地方]]」のほか[[オホーツク海]]沿岸全域に及んでいたことに注意すべきである。]]
 
ロシアは、まず清が認めていない[[1858年]]の[[アイグン条約]]の条文をだすことで、その効力を清に確認させた。これで[[アムール川]]左岸<ref>このうちの[[江東六十四屯]]もロシアの領土となったが、支配するのは[[義和団の乱]]のとき。</ref>の領有権を確保する。さらに[[吉林将軍]]管轄区の一部である、図們江(以下「[[豆満江]]」)、[[ハンカ湖]]~[[ウスリー川]]以東アムール川以南の地域([[東韃靼]])が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領と確定された(第一条)。この条約のもと[[興凱湖界約]]([[1861年]])、[[琿春東界約]]([[1886年]])がむすばれて国境線がほぼ定まった。
 
 
 
ロシアはこの後すぐにウスリー川以東など広大な地域を[[沿海州]]に含め、すでに2年前から清に無断でそこに建設していた[[ハバロフスク|ハバーロフカ]]の領有を正当化するとともに、<strong lang="zh">'''海參崴'''</strong>(ハイシェンワイ)に[[ウラジオストク]]を建設した。そしてすでに設置していた[[アムール州]]などとあわせて[[1884年]][[沿アムール総督府]]を設置することになる。
 
 
 
[[ファイル:Banknote 5000 rubles (1997) front.jpg|150px|thumb|五千[[ロシア・ルーブル|ルーブリ]]紙幣に「[[1858年|1858]]」の年号とともに描かれた[[ハバロフスク|ハバーロフスク]] ]]
 
 
 
豆満江が清と朝鮮との国境であった<ref>朝鮮が豆満江を国境と認めるのは[[1887年]]の丁亥勘界。「[[間島]]」参照。</ref>ことから、清は[[日本海]]への出口を奪われたことになるが、[[琿春議定書]]([[1886年]])で豆満江の航行権(いわゆる「出海権」)が認められた。
 
 
 
なお国境について[[20世紀]]に入ってから、曖昧な部分を巡って[[中ソ紛争]]、[[張鼓峰事件]]、[[珍宝島事件]]が勃発している。張鼓峰事件では、その影響で中国にとって日本海への出口の豆満江が封鎖されてしまったが、[[1991年]][[中ソ国境協定]]で再びそれが認められた。
 
 
 
最終的に国境は、[[中華人民共和国]]と[[ロシア連邦]]とによる[[中ソ国境紛争#2004年の合意、国境画定へ|中露国境協定]]([[2004年]])で確定された。なお、豆満江左岸がロシア領となったことに関連して[[鹿屯島]]問題が[[1883年]][[李氏朝鮮|朝鮮]]当局より提起されているが、現在でもロシアは反応を見せない。
 
 
 
==== トルキスタン ====
 
第二条で[[トルキスタン]]の境界を劃定することになり、のちに[[タルバガタイ条約]]([[1864年]]9月)が結ばれ、国境線が[[天山山脈]]に東遷し、清は[[イシク・クル]]などの広大な地域を割譲した。さらに付加条約として、[[1869年]][[ホヴド界約]]、[[オリアスタイ界約]]などがむすばれ、[[タンヌ・ウリャンハイ|タンヌ・オリアンハイ]]西部をも割譲した。([[外西北]])
 
 
 
[[ファイル:Nguaisaibeik.png|150px|thumb|外西北]]
 
 
 
トルキスタンはさらに[[ヤクブ・ベクの乱|イリ事件]]を迎えることになる。
 
 
 
==== その他 ====
 
また、ロシアは[[キャフタ]]のほか[[ウランバートル]](中国名:{{読み仮名|庫倫|クーロン}}、ロシア名:ウルガー([[:ru:Урга (Монголия)|ru]]))、[[張家口]](ロシア名:カルガン)(第五条)、[[カシュガル]](第六条)での商取引の自由を得た。ロシアは[[グルジャ市|イリ]]、[[チョチェク市|タルバガタイ]]のほかカシュガルとウランバートルに[[領事館]]を設けた(第八条)。
 
 
 
なお、ソ連、ロシア連邦はこの条約(と[[アイグン条約]])が不平等条約ではないと主張し、中国の一部の民族主義者の旧領返還要求を無視している。中華人民共和国はこの条約が不平等条約であるとは言っているが、前述のとおり、国境線はおよそこの条約に沿っておりロシア領にはロシア名にしている。これに対して[[中華民国]]は不平等条約である以上、全部無効であると主張しているため、大陸における[[満洲]]の地図でロシア名で示されている地名が、台湾におけるそこの地図では一部[[中国語|漢語]]名([[満洲語]]名)にさしかえられている。ただしその地図においても国境線はあまり違いがない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
==関連項目==
 
*[[不平等条約]]
 
*[[南下政策]]
 
*[[日露和親条約]]
 
*[[日露間樺太島仮規則]]
 
*[[樺太・千島交換条約]]
 
*[[アイグン条約]]
 
*[[イリ条約]]
 
 
 
==外部リンク==
 
*[http://www.mtholyoke.edu/~amduckwo/janice/Timeline1.html 香港の歴史年表・1840年から1999年まで]
 
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{{DEFAULTSORT:へきんしようやく}}
 
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[[Category:アロー戦争]]
 
[[Category:アロー戦争]]

2018/10/16/ (火) 00:02時点における最新版

北京条約(ペキンじょうやく、Convention of Peking)

中国の北京で締結された条約は数多く,通称として北京条約 (協定) と呼ばれるものがいくつかあるが,通常は 1860年 (清,咸豊 10年) アロー戦争終結のため,清朝とイギリス,フランス,ロシアとの間に結ばれたそれぞれの条約をいう。清朝=イギリス間の条約は,同年 10月恭親王奕訢とエルギン伯の間に調印されたもので,清朝は 58年の天津条約を確認したうえ,(1) 賠償金を 400万両から 800万両に増額,(2) 新たに天津の開港を追加,(3) イギリスに九竜半島を割譲するなどを認めた。清朝=フランス (全権 J.グロ) との条約もほぼ同様である (賠償金は 200万両から 800万両へ)。またロシア公使 N.イグナチェフは,清朝とイギリス,フランス間の講和を斡旋した代償として,同年の愛琿条約に追加,修正を加え,ウスリー川以東の沿海州を割譲させ,庫倫 (現ウラーンバートル) ,張家口での貿易を認めさせた。



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