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'''公卿'''(くぎょう)は、[[公家]]の中でも[[日本]]の[[律令]]の規定に基づく[[太政官]]の最高幹部として国政を担う職位、すなわち[[太政大臣]]・[[左大臣]]・[[右大臣]]・[[大納言]]・[[中納言]]・[[参議]]ら(もしくは[[従三位]]以上([[非参議]]))の高官(総称して'''議政官'''という)を差す用語である。[[平安時代]]に公卿と呼ばれるようになった。
 
  
== 概説 ==
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'''公卿'''(くぎょう)
[[日本]]の[[律令制]]は中国の律令制度を手本として作られた。中国の制度では高官の総称として[[三公九卿]]という呼び方があった。これに倣い、太政大臣、左大臣、右大臣を「公」と呼び、三位以上の貴人や参議の官にある者を「卿」と呼んだため、両者を総合して公卿と呼ばれるようになった。公卿の地位に昇った者は、年毎に作成される『[[公卿補任]]』に記載された。三位以上は貴といい、五位以上を通貴というように、三位以上は貴族の中でも特別な意味を持った(古代中国における[[九品]]のうちの上品にあたる)。別名、星の位、上達部、雲上人などとも言われている。
 
  
国政の実務は公卿が[[上卿]]として特命の管轄ごとの責任者となった。[[摂関政治]]が成立して[[天皇]]の出御する[[朝政]]が形骸化すると、上卿の奏上のうち特に審議を要するとされたものは、参議以上の公卿による[[陣定]]に諮問された。
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明治維新以前の公家社会で,中国王朝の三公九卿にならって太政大臣,左大臣,右大臣を三公もしくは公,大納言,中納言,参議および三位以上の朝官を卿といい,合せて公卿と称した。唐名で卿相,月卿,棘路といい,また大臣を除いた公卿を上達部 (かんだちめ) とも呼んだ。
 
 
摂関政治がその地位を確立していくまでは、公卿の多くは天皇と血縁関係が近い者(ミウチ)が占めていた。ところが摂関家による外戚関係の独占が続く中で、公卿のミウチの比率が低下していった。一方で、[[公家]]の中での[[貴族]]の格式、[[家格]]が固定化し公卿になれる家筋は限られるようになった。これらの家柄の公家を[[堂上家]]というが、[[昇殿]]の許されない[[地下家]]にも公卿となる者は存在した。しかし、地下家の公卿は昇殿を許されず、同じ公卿でも地位の差が生まれた。
 
 
 
摂関政治後期になると、天皇の秘書である[[蔵人]]と、上卿の指揮を受けて実務を担当する[[弁官]]の兼任が進んだことから、間に立つ上卿が浮き上がり、摂関以外の公卿の実権が低下した。さらに[[院政]]期に入ると、[[院近臣]]が公卿未満の官人である[[諸大夫]]のままで発言力を持つようになった。
 
 
 
=== 武家の公卿 ===
 
[[平安時代]]末期には[[平氏政権]]の確立により、[[平清盛]]が[[太政大臣]]になるなど[[武家]]にも公卿になる道が開かれた。[[鎌倉時代]]では[[源頼朝]]は[[大納言|権大納言]]、[[源実朝]]は[[右大臣]]にのぼり、以降は[[征夷大将軍]]が公卿の身分を持つ伝統が生まれた。
 
 
 
[[足利将軍家]]もこの例に倣い、代々公卿の位に登った。特に[[足利義満]]は[[太政大臣]]にまでなっている。また、[[斯波義重]]や[[畠山持国]]といった[[管領]]や足利氏の有力一門に[[従三位]]が授けられることもあった。
 
 
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には朝廷が困窮していたため各地の[[武家]]に対して献金と引き換えに[[官位]]の濫授が行われ、[[従三位]]以上の位を受ける者も増加した。中でも[[大内義隆]]は朝廷に多額の献金を行い、最終的には[[従二位]]まで登った。しかし公卿の官職はめったには許されなかった。また[[東百官]]のように官位を自称することが頻繁に見られた時代であるが、公卿の官職を自称したのは[[公家]]が[[武士]]化した家の名跡を継いだ[[姉小路良頼]]、[[姉小路頼綱]]父子、[[斎藤利親]]など数少ない。一方で、公卿の身分を持った公家である[[土佐一条氏]]、[[北畠家|北畠氏]]等が[[戦国大名]]化している。
 
 
 
[[織田信長]]が中央政権を掌握すると、[[大納言]]、[[右大臣]]といった公卿の地位を占めた。しかし家臣や一門の官位を引き上げることはせず、織田政権で公卿となったのは、信長のほかは嫡子[[織田信忠|信忠]]のみであった。
 
 
 
[[豊臣秀吉]]は諸大名統制の手段として、官位の秩序を利用した。自らが公卿の最高位である[[関白]][[太政大臣]]の地位を占め、諸大名に大納言や中納言といった公卿の地位を与えた。そのため公家の公卿就任者が激減し、秀吉没後には[[内大臣]][[徳川家康]]が最高位者となるという異常事態が起る。
 
 
 
[[関ヶ原の戦い]]で徳川家康が覇権を握ると、家康は公卿制度の再構築を行う。[[公家]]と[[武家]]の官位を分離し、[[武家官位]]は[[柳営補任]]に掲載されるようになった。将軍以外の官位は抑制され、[[江戸時代]]中期以降、公卿に相当する地位に昇れた[[武家]]は[[徳川将軍家]]一門でも[[徳川御三家|御三家]]や[[御三卿]]等わずかであり、その他の大名では[[前田氏#加賀藩主前田家|前田氏]]に限られた。
 
 
 
=== 公卿の消滅と華族制度の創設 ===
 
[[慶応]]3年12月9日([[1868年]][[1月3日]])、[[王政復古の大号令]]により千年以上続いてきた官位制度が改革された。慶応4年[[閏]]4月21日([[1868年]][[6月11日]])には[[政体書]]が発表され、[[太政官#明治維新の太政官|太政官制度]]がスタートした。
 
 
 
また、[[1869年]](明治2年)6月17日には明治新政府は[[版籍奉還]]を行い、太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」が公布され、公卿諸侯は[[華族]]と名称を変更することとなった<ref>居相正広「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018502/31 華族要覧 第1輯]」(1924年)。国立国会図書館デジタルライブラリー。</ref>。この際に公卿142家は旧藩主の[[諸侯]]285家とともに[[華族]]となり、華族制度が創設された。華族に列せられた公卿は「公家華族」と通称され、近代日本における上流社会を形成していった。なお、太政官には太政大臣、左大臣、右大臣、参議が存在したが、これも公卿と呼ばれることはなく、公卿補任への掲載も行われなかった。
 
 
 
[[1885年]](明治18年)[[12月22日]]には[[内閣 (日本)|内閣制度]]がスタートし、太政大臣、左右大臣、参議が廃止された。その後も位階制度は残り、[[内大臣府|内大臣]]も形を変えて存在したが、公卿の名が用いられることは無くなった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
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* [[官位]]
 
* [[位階]]
 
* [[官職]]
 
* [[太政官]]
 
* [[太政大臣]]
 
* [[左大臣]]
 
* [[右大臣]]
 
* [[内大臣]]
 
* [[准大臣]]
 
* [[大納言]]
 
* [[中納言]]
 
* [[参議]]
 
* [[非参議]]
 
* [[堂上家]]
 
* [[殿上人]]
 
* [[地下人]]
 
* [[家格]]
 
* [[公]]
 
* [[卿]]
 
* [[公方]]
 
* [[士]]
 
* [[士大夫]]
 
* [[儀礼]]
 
* [[律令制]]
 
* [[貴族]]
 
* [[御三卿]]
 
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[[Category:日本の位階]]
 
[[Category:日本の位階]]

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公卿(くぎょう)

明治維新以前の公家社会で,中国王朝の三公九卿にならって太政大臣,左大臣,右大臣を三公もしくは公,大納言,中納言,参議および三位以上の朝官を卿といい,合せて公卿と称した。唐名で卿相,月卿,棘路といい,また大臣を除いた公卿を上達部 (かんだちめ) とも呼んだ。



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