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{{Otheruseslist|[[令制国]]の信濃国|長野県歌|信濃の国|のちにこの信濃国となる、[[科野国造]]が支配した地域|科野国造#支配領域}}
 
{{基礎情報 令制国
 
|国名    = 信濃国
 
|画像    = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|信濃国}}
 
|別称    = 信州(しんしゅう)
 
|所属    = [[東山道]]
 
|領域    = [[長野県]]、[[岐阜県]][[中津川市]]の一部<ref name=diff>旧[[神坂村]]・旧[[山口村 (長野県)|山口村]]が[[岐阜県]][[中津川市]]に編入される等の微妙な差異はある</ref>
 
|国力    = [[上国]]
 
|距離    = [[中国 (令制国)|中国]]
 
|郡      = 10郡67郷
 
|国府    = 1.(推定)長野県[[上田市]]<br/>2.(推定)長野県[[松本市]]
 
|国分寺  = 長野県上田市([[信濃国分寺#信濃国分寺跡|信濃国分寺跡]])
 
|国分尼寺 = 長野県上田市([[信濃国分寺#信濃国分尼寺跡|信濃国分尼寺跡]])
 
|一宮    = [[諏訪大社]](長野県諏訪地域)
 
}}
 
'''信濃国'''(しなののくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。
 
  
『[[万葉集]]』での[[枕詞]]は「水薦苅(みこもかる <ref>『長野県史 通史編』は、「賀茂真淵らの誤読により『みすずかる』が広がったが、今もって通用しているのは地元長野県内だけである。通常『みこもかる』と読んでいることは、われわれ長野県人が充分承知しなくてはならない問題点である」と指摘している。(第1巻 p.849)</ref>)」。
+
'''信濃国'''(しなののくに)
  
== 「信濃」の名称と由来 ==
+
現在の長野県。[[東山道]]の一国。上国。『古事記』には科野国とみえる。埴科 (はにしな) ,更科 (さらしな) ,蓼科 (たでしな) など「科」の字のつく地名が多いことからも,「科木 (しなのき) 」を多く産する野を意味したのであろう。『古事記』『万葉集』『旧事本紀』には科野国造がみえ,それは小県 (ちいさがた) (現在の上田市一帯) 地方と思われるが,ほかにも古くから中心となる地域があった。すなわち『続日本紀』によれば,古来軍神の祭られた諏訪神社のある諏訪地方は養老5 (721) ~天平3 (731) [[諏方国]]として独立していた。その他,穂高神社を中心として海部 (あまべ) が進出したといわれる安曇 (あずみ) 地方 (現在の松本地方) がある。国府は初め上田市におかれたが,のちに松本市に移ったらしい。国分寺は小県郡におかれた。『延喜式』には伊那 (いな) ,諏方,筑摩 (つかま) ,安曇,更級,水内 (みのち) ,高井,埴科,小県,佐久の 10郡を,『和名抄』には郷 66,田3万 908町をあげている。また古代から天下の霊場として著名な善光寺 (長野市) の存在も軽視できない。平安時代後期以来,武士が各地に台頭したが,なかでも木曾の源義仲が有名。守護は鎌倉時代には比企氏から北条氏となり,室町時代には深志(松本) に拠った甲斐源氏の小笠原氏が任じた。しかし諏訪地方では,諏訪神社の勢力が依然強く,その大祝 (おおはふり。神主) 家と称する諏訪氏の支配が鎌倉,室町時代を通じて戦国時代,武田信玄に敗れるまで続いた。戦国時代には甲斐の武田氏と越後の[[上杉氏]]との対抗の場となり,武田氏,織田氏の滅亡後は上杉氏,徳川氏の支配下におかれたが,この両氏の移封により信濃の旧武士はほとんど他国に去った。そのため江戸時代には天領,旗本領が多く,藩としては松代藩,松本藩,高島藩,高遠藩,飯田藩,須坂藩,飯山藩,上田藩その他があった。明治4(1871) 年7月の廃藩置県でそれぞれ県となり,11月には長野県と筑摩県とに併合されたが,さらに 1876年に長野県に統一された。
「科野」の語源については諸説あるが、[[江戸時代]]の[[国学者]]である[[谷川士清]]は『日本書紀通證』に「[[シナノキ|科の木]]この国に出ず」と記し、[[賀茂真淵]]の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「[[シナノキ|科の木]]」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また[[級長戸辺命]](しなとべのみこと、[[風神]])説もある<ref>古川貞雄「風土と人間」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 2ページ</ref>。
 
 
 
7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の[[木簡]]は、7世紀末の[[藤原京|藤原宮]]跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『[[古事記]]』にある「[[科野国造]]」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・20頁。</ref>。これが[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])の諸[[国印]]鋳造時に信濃国に改められた<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。「科野」は[[和銅]]6年([[713年]])の『[[風土記]]』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、[[平成]]6年([[1994年]])に[[千曲市]]屋代遺跡群から発見され、現在は[[長野県立歴史館]]に所蔵されている[[8世紀]]前半([[715年]]~[[740年]])の木簡となる。『[[日本書紀]]』には信濃国について「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。
 
 
 
平安時代末期から鎌倉時代初期の禅宗の僧によって「'''信州'''」と称されるようになった。[[治承]]3年([[1179年]])に仁科盛家が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。
 
 
 
== 神代に見える科野 ==
 
[[国譲り]]において、出雲の地で[[建御雷神]]に敗れた[[建御名方神]]が、州羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の[[大国主神]]や兄の[[事代主神]]に従う。葦原の国は[[天津神|天の神]]に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まった。その後[[八坂刀売神]]を娶って生まれた二十二柱の御子神が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。
 
 
また州羽の地に土着する[[洩矢神]]や[[手長足長]]と[[天竜川]]を挟んで対決したとされる。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代 ===
 
[[4世紀]]末から[[6世紀]]初頭にかけて、[[埴科古墳群]]や[[川柳将軍塚古墳]]など、[[ヤマト王権]]の影響を受けた古墳が築造された。[[7世紀]]の[[大化]]元年([[645年]])の[[大化の改新]]の後の[[令制国]]発足により、[[科野国造]]の領域の[[佐久郡|佐久]]、[[伊那郡|伊那]]、[[高井郡|高井]]、[[埴科郡|埴科]]、[[小県郡|小県]]、[[水内郡|水内]]、[[筑摩郡|筑摩]]、[[更級郡|更級]]、[[諏訪郡|諏訪]]、[[安曇郡|安曇]]の十[[郡]]を以って成立し、現在の長野県のうち[[木曽地域|木曽地方]]を欠く大部分を領域とした。
 
 
 
新政権は大化から[[白雉]]年間(645年~654年)にかけて、それまでの[[国造]]の支配に依拠してきた地方支配を改め、「[[評]]」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊那(伊奈)評・諏方(諏訪)評・束間(筑摩)評・安曇(阿曇)評・水内評・高井評・小懸(小県)評・佐久評・科野評(後に更級と埴科に分立)などが成立していたと考えられている<ref>福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 42ページ</ref>。[[越国]]に大化3年(647年)に[[渟足柵]]が、大化4年(648年)に[[磐舟柵]]が作られて科野から[[柵戸]]が派遣された。また、[[皇極天皇|斉明天皇]]6年(660年)12月には、科野国が、[[蝿]]の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを[[朝廷]]に報告した<ref>『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十二月庚寅廿四</ref>とあり、それに先立つ[[推古天皇]]35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、[[上野国]]で散り失せるとあることから<ref>『日本書紀』巻二二推古天皇三五年(六二七)五月</ref>、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。
 
 
 
その後の[[飛鳥時代]]には、[[本多善光]]の開基による[[善光寺]]や[[長谷寺 (長野市)|長谷寺]]などが建立され、特に善光寺は[[諏訪大社]]と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。天武天皇元年(672年)の[[壬申の乱]]には、科野の兵が[[土師馬手]]らに従い、大海人皇子([[天武天皇]])の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には[[高田新家]]らに「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。[[持統天皇]]5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて[[美濃国]]に木曾[[山道]]を開くという記述があり<ref>『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)十二月壬寅十</ref>、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、[[木曽街道|木曽路]]が開通している<ref>『続日本紀』巻六和銅六年(七一三)七月戊辰七</ref>。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に [[足]]踏ましなむ [[沓]]はけ我が背」([[万葉集]] 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における[[東山道|官道]]の開発がすすんでいた。[[養老]]5年([[721年]])[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]に南部を[[諏方国]]として分置した。[[天平]]3年([[731年]])[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]に合併して元に復した。[[養老]]3年([[719年]])以後は[[美濃按察使]]の管轄下に置かれた。
 
 
 
[[奈良時代]]には[[馬寮|左馬寮]]の管轄下で官営による16の[[勅旨牧]]と、それを統括するための牧監庁が置かれた。信濃国造の末裔とされる[[金刺部氏]]と[[他田部氏]]が信濃国内の複数の郡司を務める一方、安曇郡司は[[安曇氏|安曇部氏]]が務めた。[[神護景雲]]2年([[768年]])には各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人の内に信濃国は[[水内郡]]の[[刑部氏|刑部]]智麻呂と[[倉橋部]]広人や[[更級郡]]の[[建部氏|建部大垣]]、[[伊那郡]]の[[他田部氏|他田部]][[舎人]]千世売と4人までもを占めた。[[養老]]4年([[720年]])に成立した『[[日本書紀]]』は信濃国について「是の国、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず」と記している。
 
 
 
奈良時代末期から[[平安時代]]初期にかけては、信濃国内の[[高句麗]]人の改姓が続々と進んだ。[[延暦]]8年([[789年]])に[[筑摩郡]]人の外少初位下[[高句麗五部|後部]]牛養が田河造を<ref>『続日本紀』巻四十延暦八年(七八九)五月庚午廿九</ref>、延暦16年(797年)には外從八位下[[高句麗五部|前部]]綱麻呂が安坂姓を下賜され<ref>『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)三月癸夘十七</ref>、これに続くように延暦18年(799年)には、信濃国人の外從六位下[[高句麗五部|卦婁]]眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、[[高句麗五部|下部]]奈弖麻呂、前部秋足、[[小県郡|小縣郡]]人无位上部豊人、下部文代、高麗家繼、高麗繼楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと天平勝宝9年(757年)4月4日の勅令<ref>『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)四月辛巳戊寅朔四</ref>を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家繼等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された<ref>『日本後紀』巻八延暦十八年(七九九)十二月甲戌五</ref>。[[弘仁]]8年(817年)には[[最澄]]が[[東山道]][[神坂峠]]の信濃側に[[広済院・広拯院|広拯院]]を建立した。[[仁和]]4年([[888年]])には[[信濃川|千曲川]]が仁和大水と言われる大[[洪水]]を起こした。また、信濃国は罪人の配所に定められ、[[流罪|中流]]の範囲とされた<ref>『延喜式』卷第廿九 刑部省 延長五年(九二七)十二月廿六日</ref>。
 
 
 
平安時代の中期には[[平氏|桓武平氏]]の[[平将門]]が、東山道を京に向かう[[平貞盛]]に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した[[滋野氏]]や小県郡の郡司[[他田氏]]と合戦に及ぶなど(938年2月29日)、この時代における平氏内紛の舞台ともなった。また[[清和源氏]]は[[経基王]]以来、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた([[信濃源氏]])。この頃には[[古今和歌集]]や[[大和物語]]集、[[今昔物語集]]によって信濃に姨捨伝説の存在することが知られ[[月見]]の[[名所]]としても[[姨捨山|姨捨]]の名を高める。[[院政]]の時代になると、[[院宮分国制]]の進展により[[白河天皇|白河法皇]]や[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の知行国となり、その後は[[公卿]]に引き継がれた。また11世紀後半以降、最高権力者である院や摂関家への[[寄進地系荘園]]の立荘が本格化し、[[国衙領]]は縮小する傾向にあった。
 
 
 
平安時代末期に入ると、源氏内紛による[[久寿]]2年(1155年)の[[大蔵合戦]]で敗れた[[河内源氏]][[源義賢]]の遺児[[源義仲]]が木曾谷の[[中原兼遠]]の元に匿われた。[[保元]]元年(1156年)の[[保元の乱]]、[[平治]]元年(1159年)の[[平治の乱]]に際して、滋野氏、[[諏訪氏]]、[[片桐氏]]、[[平賀氏]]など多くの信濃武士は、源義賢と敵対した兄の[[源義朝]]に従った。ただし、[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の近臣であった[[村上氏]]は、信濃に所領を持つ[[伊勢平氏]]の[[平家弘]]らと共に上皇方についた。[[後白河天皇|後白河法皇]]の第三皇子[[以仁王]]は信濃を含む東山・東海・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、[[源行家]]によって、新羅三郎[[源義光]]の子孫である[[源盛義|平賀盛義]]・[[平賀義信|義信]]父子(平賀冠者)、[[源親義|岡田親義]](岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に伝えられた(『[[平家物語]]』)。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、[[横田河原の戦い]]で平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺児[[北陸宮]]を奉じて北陸道経由で入洛したが、この動きに対し、源義朝の嫡男[[源頼朝]]は[[北条時政]]をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、[[富士川の戦い|黄瀬川の戦い]]に出陣させた。村上氏、平賀氏らも頼朝に従った。その後、義仲は西国の平家追討のため京を離れたが[[水島の戦い]]で敗れ、さらに上洛した頼朝の弟[[源範頼|範頼]]、[[源義経|義経]]らに[[近江国]]で討伐された([[粟津の戦い]])。[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明。
 
 
 
=== 中世 ===
 
鎌倉時代初期には[[関東御分国]]の1つとして鎌倉幕府の[[知行国]]であった。その後の知行権は[[公卿]]や[[興福寺]]・[[東大寺]]等の有力寺院の手に移るが、[[在庁官人]]や[[国人]]衆の[[御家人#中世の御家人|幕府御家人]]化が進み、京都の[[遙任]]国司や知行国主、荘園[[領家]]らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『[[明月記]]』)。戦国時代まで存在した[[守護]]職には[[比企氏]]や[[執権]][[北条氏]]、[[小笠原氏]]、[[諏訪氏]]、[[吉良氏]]、[[上杉氏]]、[[斯波氏]]、[[武田氏]]らがいた。
 
 
 
幕府樹立後、初代の信濃守護には[[比企能員]]が就任し、信濃国[[目代]]を兼帯して国衙機構も掌握したが、[[建仁]]3年(1203年)の[[比企能員の変]]で北条時政に滅ぼされ、将軍[[源頼家]]の近習で、[[十三人の合議制]]に対抗する側近であった[[中野能成]]や[[小笠原長経]]も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、[[元久]]2年(1205年)には平賀義信の次男[[平賀朝雅]]を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した([[牧氏事件]])。[[建暦]]3年(1213年)、御家人[[泉親衡]]が、信濃武士と結んで頼家の遺児[[栄実|千寿丸]]を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権[[北条義時]]の打倒を図る陰謀が発覚した([[泉親衡の乱]])。[[承久]]3年(1221年)の[[承久の乱]]では幕府の[[仁科盛遠]]への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の[[武田信光]]、[[小笠原長清]]に従い、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]方の仁科氏らは[[北条朝時]]の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は[[地頭|新補地頭]]として西国に所領を得たが、それまで東国に限定的であった幕府の権威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に対して優位に立ち、信濃国内における北条氏の所領も[[関東御領]]の春近領<ref>平安時代後半、国衙領が私領化するにつれ、有力在庁が請負人と成り設立した在庁名の一つが春近で、収入の安定した国衙領を朝廷の役所に配分してその役所を領家とした。その費用を負担する郷邑を春近領という</ref>を中核として拡大すると、[[宝治合戦]]で武功を挙げた[[諏訪盛重]]や[[内管領]]を務めた[[諏訪盛経]]に代表されるように、北条氏の[[得宗]][[被官]]([[御内人]])として活躍する者も現れた。
 
 
 
この時代の仏教の信者で多いのが[[臨済宗]]、[[曹洞宗]]などの[[禅宗]]と[[一向宗]]、[[浄土宗]](禅林寺派)などである。特に[[北条氏 (塩田流)|塩田北条氏]]の塩田荘は「信州の学海」と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。[[弘安]]年間、興福寺が知行国主であった時、目代に補任された願舜坊定尭なる僧は信濃からの[[検注|検注物]]や年貢を横領し、弘安7年(1284年)、[[本所法]]である「満寺評定」によって、国外追放刑となった。[[延慶 (日本)|延慶]]2年(1309年)の国衙領の検注の調進は国司目代が行っているが、[[応安]]6年(1373年)には守護使に代わっている<ref>[[市河家文書]]</ref>。このように信濃においても国衙は次第に形骸化され、国司の権能は守護に遷移していったことが伺える。
 
 
 
鎌倉時代末期、[[元弘]]3年/[[正慶]]2年(1333年)に[[後醍醐天皇]]が[[鎌倉幕府]]追討の宣旨を下し、[[足利尊氏]]、[[新田義貞]]ら有力御家人が幕府から離反すると([[元弘の乱]])、[[小笠原貞宗]]もこれに従って[[鎌倉の戦い|鎌倉攻め]]に加わり、後に新たな信濃守護に補任された。信濃守護を兼帯する[[六波羅探題|探題北方]][[北条仲時]]は京都から逃げ切れず自害に追い込まれた。[[東勝寺合戦]]では御内人の[[諏訪直性]]が得宗[[北条高時]]に殉じて自害するが、高時の遺児[[北条時行]]は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、[[諏訪神党]]の[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]や滋野氏らは時行を奉じて挙兵し、[[鎌倉市|鎌倉]]を奪還したが([[中先代の乱]])、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると[[北条泰家|北条時興]]が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って挙兵し(『[[市河家文書]]』)、小笠原貞宗や[[村上信貞]]の軍勢と衝突したが破れた。その後は[[吉良満義]]が守護となり、北条残党一掃のため[[吉良時衡]]が派遣された。
 
 
 
後醍醐天皇の[[建武の新政]]では[[公家]]中心の政治に対して[[武士]]の不満が高まった。[[延元の乱]]で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、[[忠房親王]]率いる東山道軍が[[大井城]]を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に入ると、[[吉野朝廷|南朝]]方の[[諏訪氏]]や[[仁科氏]]・[[香坂氏]]・[[根津氏|祢津氏]]・[[望月氏]]・[[海野氏]]らと[[持明院統|北朝]]方の小笠原氏や[[信濃村上氏|村上氏]]・[[高梨氏]]との間で抗争が繰り広げられた。暦応3年/興国元年(1340年)には、北条時行が[[遠江|遠江国]]から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の[[観応の擾乱]]では南朝方[[足利直義]]派の[[諏訪直頼]]らも呼応して挙兵し、[[高師冬]]を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと[[薩タ山体制|薩埵山体制]]により守護は小笠原氏に復した。
 
 
 
南朝方は後醍醐天皇の皇子で、[[興国]]5年(1344年)から信濃に入国した[[征夷大将軍]][[宗良親王]](信濃宮)を奉じて、[[香坂高宗]]の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。[[文和]]元年([[1352年]])には親王が信濃の南朝勢を糾合して[[武蔵野合戦]]に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の[[桔梗ヶ原の戦い]]でも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍[[足利義詮]]に従属するようになり、[[文中]]3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は[[暦応]]2年/延元4年(1339年)から康永3年/興国5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から応安3年/建徳元年(1370年)まで、[[室町幕府]]から[[鎌倉府]]の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で[[上杉朝房]]が守護に任じられたが、将軍[[足利義満]]と公方[[足利氏満]]が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。[[天授 (日本)|天授]]5年/[[康暦]]元年(1379年)の[[康暦の政変]]での大幅な守護改替により[[斯波義種]]が守護に補任された。
 
 
 
[[明徳]]3年(1392年)の[[明徳の和約]]による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の荘園や公領の横領・濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反乱が起きた。その後、[[明徳の乱]]や[[応永の乱]]で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い([[大塔合戦]])、[[小笠原長秀]]は京都へ追放された。[[応永]]9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、[[政所]]の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として[[細川氏]]が派遣されたが、応永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした国人衆の反乱が起きた。その後は将軍と[[鎌倉公方]]、鎌倉公方と[[関東管領]]との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍[[足利義教]]により信濃守護に復し、[[上杉禅秀の乱]]や[[永享の乱]]、[[結城合戦]]などで活躍した[[小笠原政康]]は、公方[[足利持氏]]派の村上氏
 
を抑えて信濃を一時平定したが、[[嘉吉の乱]]で義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の[[畠山氏]]と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による[[享徳の乱]]への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、[[上杉房定]]に半国守護を抑えられた。
 
 
 
室町末期にかけて[[下克上]]の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する[[村上氏]]、諏訪大社の信仰を背景とする[[諏訪氏]]、信濃[[守護]]家として幕府と強い繋がりを持つ[[小笠原氏]]、[[木曽谷]]に割拠する[[木曾氏]]らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で[[守護代]]を務め、幼少期の[[古河公方]][[足利成氏]]を庇護した[[大井氏]]、[[越後国|越後]][[長尾氏]]と縁戚関係を結ぶ[[高梨氏]]、関東管領[[山内上杉氏]]を後ろ盾とした[[海野氏]]、逸早く土着し信濃源氏の祖となった[[井上氏]]、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く[[仁科氏]]などの旧来の名族も健在であった。[[応仁]]元年(1467年)からの[[応仁の乱]]では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍([[細川勝元]])、府中小笠原氏が西軍([[山名宗全]])についた。[[長享]]元年(1487年)の[[長享・延徳の乱]]に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍[[足利義尚]]、[[足利義稙]]に従って出兵した。
 
 
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には隣国[[甲斐国]]や[[越後国]]との関係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護[[武田氏]]と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は[[武田信虎]]と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが([[海野平の戦い]])、同年に甲斐で[[武田信玄|晴信]](信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と[[高遠氏|高遠諏訪家]]の対立が絡んで、晴信による[[信濃侵攻]]が本格化する。武田氏は[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]、[[仁科盛政]]を滅ぼし、守護[[小笠原長時]]や[[村上義清]]らを追い、[[木曾義康]]や[[真田幸隆]]を従属させ、佐久郡において関東管領[[上杉憲政]]を破ると([[小田井原の戦い]])、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎([[上杉謙信]])を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・[[川中島]]を巡る[[川中島の戦い]]へと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍[[足利義輝]]は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571年)、[[三河国]]山間部を攻略する過程で、同国[[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]から現・[[根羽村]]の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。
 
 
 
武田晴信の死後、その後を継いだ[[武田勝頼]]が[[上杉景勝]]と同盟を結び、信濃を統一支配したが、[[天正]]10年([[1582年]])、[[織田信長]]に敗れて滅亡し、[[高遠城]]主[[仁科盛信]]らが戦死した。その後は織田家の版図に加えられ、[[森長可]](北信)、[[滝川一益]](東信)、[[毛利秀頼|毛利長秀]](伊那)、[[河尻秀隆]](諏訪)、[[木曾義昌]](安曇、筑摩)らに与えられた。しかし約三ヵ月後には[[本能寺の変]]が起き、信濃においても[[一向一揆]]が発生したことで織田家の勢力は瓦解し、権力の空白地帯となった信濃には[[徳川氏]]・[[後北条氏]]・上杉氏の勢力が進出した([[天正壬午の乱]])。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。
 
 
 
この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となったが、両者の対立の狭間で第一次[[上田合戦]]を生じた。この対立はのちに[[徳川家康]]と[[豊臣秀吉]]の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従することで、天正18年([[1590年]])に関東に移封されると、徳川方の国衆も随行し、[[譜代大名]]や[[旗本]]となった者も多かった。信濃は[[豊臣氏|豊臣]]方の武将の支配下に収まり、[[仙石秀久]](佐久)、[[石川数正]](安曇、筑摩)、[[毛利秀頼]](伊那)、[[日根野高吉]](諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となった。さらに[[慶長]]3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には[[関一政]]、[[田丸直昌]]が入封したが、秀吉の死後、家康は両者を美濃に移し、代わって配下の[[森忠政]]を入封させた。
 
 
 
真田氏はかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、[[関ヶ原の戦い]]において西軍方についたため、[[徳川秀忠]]の軍勢は、小山評定から[[関ケ原町|関ヶ原]]に向けて中山道を進軍する途上、[[真田昌幸]]、[[真田信繁|信繁]]父子の居城[[上田城]]を攻めたが敗れた(第二次[[上田合戦]])。しかし[[石田三成]]ら西軍首脳が本戦で敗れたため、昌幸は[[高野山]]に流罪となった。その後、東軍の[[真田信之|真田信幸]]が上田から[[松代城]]に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の[[大坂の役]]で武名を挙げた。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[江戸時代]]は、途中廃絶も含めて[[松代藩]]等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、[[松本藩]]、[[上田藩]]、[[飯山藩]]、[[小諸藩]]、[[岩村田藩]]、[[奥殿藩|龍岡藩]]([[奥殿藩|田野口藩]])、[[諏訪藩|高島藩]]、[[高遠藩]]、[[信濃飯田藩|飯田藩]]、[[須坂藩]])。また木曽地方は全域が[[尾張国]][[名古屋藩]]領(山村代官所)であり、伊那郡内には[[美濃国]][[高須藩]](竹佐陣屋)及び[[陸奥国]][[白河藩]](市田陣屋)、高井郡内には[[越後国]][[椎谷藩]](六川陣屋)、佐久郡内には[[三河国]][[奥殿藩]](後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他[[善光寺]]、[[戸隠神社]]、[[諏訪大社]]等の[[寺社領]]、天領支配のための[[中野陣屋|中野]]・[[中之条陣屋|中之条]]・[[御影陣屋|御影]]・[[飯島陣屋|飯島]]・塩尻の5つの[[代官所]]、[[伊那衆]]三家を含む[[旗本]][[知行|知行所]](維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。
 
 
 
[[正保]]元年(1644年)、幕府は[[正保国絵図]]の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には[[貞享]]3年(1686年)の松本藩[[貞享騒動]]や[[宝暦]]11年(1761年)の上田藩[[上田騒動|宝暦騒動]]など大規模な農民[[一揆]]が発生した。[[文化 (元号)|文化]]13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する[[無宿者]]の取締りに従事する事例が増加した。
 
 
 
江戸時代後半には主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの[[出稼ぎ]]労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「[[ムクドリ|椋鳥]]」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸[[川柳]]や[[狂言]]に多く詠まれることとなった<ref>『江戸語辞典』東京堂出版 2014年 412ページ</ref>。[[天明]]年間の[[浅間山|浅間山大噴火]]や[[天明の大飢饉]]も農民の都市への逃散の一因を成した。
 
 
 
幕末になると、東海地方から南信濃に[[平田篤胤|平田]][[国学]]が移入され、俄かに[[勤皇]]思想が盛んになった。[[文久]]元年(1861年)の[[和宮親子内親王|和宮]]の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。[[元治]]元年(1864年)には[[天狗党の乱]]が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、[[開国]]派の松代藩士[[佐久間象山]]は京都で[[尊王攘夷]]派に暗殺された。
 
 
 
[[戊辰戦争]]では外様の松代藩・須坂藩はいち早く[[倒幕]]を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な[[佐幕]]論は見えない中、次第に[[官軍]]に恭順していった。[[慶応]]4年([[1868年]])官軍より信濃諸藩に[[赤報隊]]の捕縛命令が下り、[[下諏訪宿]]で[[相楽総三]]らが処刑された。4月下旬、越後から進出した[[衝鋒隊]]が[[飯山城]]下を占領すると、信濃諸藩は[[東山道]]先鋒総督府の[[岩村精一郎]]の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま[[北越戦争]]、[[会津戦争]]に転戦した。[[賞典禄]]は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で木曽騒動、[[上田騒動]]、会田騒動、川西騒動、須坂騒動、松代午札騒動などの[[世直し一揆]]が多発し、中でも最大規模の[[中野騒動]]では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(786,062石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
 
** [[伊那郡]](137,459石余) - [[天領|幕府領]](飯島代官所・[[松本藩]][[預地]]・[[千村氏]]預地)、[[地方知行|旗本領]]、'''[[高遠藩]]'''、'''[[信濃飯田藩|飯田藩]]'''、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]、[[美濃国|美濃]][[高須藩]]
 
** [[諏訪郡]](43,779石余) - '''[[諏訪藩|高島藩]]'''
 
** [[筑摩郡]](84,451石) - 幕府領(塩尻代官所を経て松本藩預地)、'''松本藩'''、高遠藩、高島藩、[[尾張国|尾張]][[尾張藩|名古屋藩]]
 
** [[安曇郡]](64,235石余) - 松本藩
 
** [[更級郡]](59,050石余) - 幕府領(中之条代官所)、旗本領、[[松代藩]]、[[上田藩]]
 
** [[水内郡]](110,270石余) - 幕府領(中野代官所・松代藩預地)、松代藩、'''[[飯山藩]]'''、[[越後国|越後]][[椎谷藩]]
 
** [[高井郡]](86,336石余) - 幕府領(中野代官所・松代藩預地)、松代藩、'''[[須坂藩]]'''、越後椎谷藩
 
** [[埴科郡]](25,162石余) - 幕府領(中之条代官所)、'''松代藩'''
 
** [[小県郡]](76,998石余) - 幕府領(中之条代官所)、旗本領、'''上田藩'''、[[小諸藩]]、[[岩村田藩]]
 
** [[佐久郡]](98,319石余) - 幕府領(御影代官所・中之条代官所)、旗本領、'''岩村田藩'''、'''小諸藩'''、'''[[奥殿藩|田野口藩]]'''
 
* [[慶応]]2年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1866年]][[7月30日]]) - 白河藩が[[棚倉藩]]に転封。
 
* 慶応4年
 
** [[2月1日 (旧暦)|2月1日]]([[1868年]][[2月23日]]) - 棚倉藩が白河藩に転封(実行されず)。
 
** [[2月17日 (旧暦)|2月17日]](1868年[[3月10日]]) - 幕府領が名古屋藩の管轄となる。
 
** [[8月2日 (旧暦)|8月2日]](1868年[[9月17日]]) - [[府藩県三治制]]による'''[[伊那県]]'''を飯島陣屋に設置。
 
* 明治元年
 
** [[10月4日 (旧暦)|10月4日]](1868年[[11月17日]]) - 伊那郡の幕府領の一部(飯島代官所)が伊那県の管轄となる。
 
** [[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1869年]][[1月17日]]) - 白河藩が[[戊辰戦争]]後の処分により[[減封]]。伊那郡の領地は伊那県の管轄となる。
 
* 明治2年
 
** [[2月30日 (旧暦)|2月30日]](1869年[[4月11日]]) - 伊那郡を除く国内の幕府領の一部(中之条・中野・中之条・御影の各代官所)が伊那県の管轄となる。
 
** このころ国内の旗本領および幕府領の一部(松本藩預地)が伊那県の管轄となる。
 
** [[6月22日 (旧暦)|6月22日]](1869年[[7月30日]]) - 任知藩事にともない田野口藩が改称して'''[[竜岡藩]]'''となる。
 
** 9月 - 伊那郡の幕府領(千村氏預地・[[知久氏]]預地)が伊那県の管轄となる。
 
* 明治3年
 
** このころ国内の幕府領の残部(松代藩預地)が伊那県の管轄となる。
 
** [[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1870年]][[10月11日]]) - 伊那県のうち更級郡・水内郡・高井郡・埴科郡・小県郡・佐久郡が分立して'''[[中野県]]'''が発足。筑摩郡・伊那郡は引き続き伊那県が管轄。
 
** [[12月23日 (旧暦)|12月23日]]([[1871年]][[2月12日]]) - 高須藩が廃藩。伊那郡の領地は名古屋藩の管轄となる。
 
* 明治4年
 
** [[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1871年[[7月19日]]) - 竜岡藩が廃藩。佐久郡の領地は中野県の管轄となる。
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[高遠県]]'''、'''[[飯田県]]'''、'''[[高島県]]'''、'''[[松本県]]'''、'''[[松代県]]'''、'''[[上田県]]'''、'''[[飯山県]]'''、'''[[須坂県]]'''、'''[[小諸県]]'''、'''[[岩村田県]]'''および[[名古屋県]]、[[椎谷県]]の飛地となる。
 
** 9月 - 国内の名古屋県の管轄地域が伊那県の管轄となる。
 
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により、埴科郡・高井郡・水内郡・佐久郡・更級郡・小県郡が'''[[長野県]]'''、筑摩郡・伊那郡・諏訪郡・安曇郡が'''[[筑摩県]]'''の管轄となる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、筑摩県のうち信濃国が長野県に編入。
 
* [[昭和]]33年([[1958年]])[[10月15日]] - [[木曽郡|西筑摩郡]][[神坂村]]が[[岐阜県]][[中津川市]]に編入。
 
* [[平成]]17年([[2005年]])[[2月13日]] - [[木曽郡]][[山口村 (長野県)|山口村]]が岐阜県中津川市に編入。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
{{座標一覧}}
 
=== 国府 ===
 
歴史的文献に現れる国府の所在地として、『[[和名類聚抄]]』、『[[拾芥抄]]』、『[[易林本]]』の節用集のいずれにも全て[[筑摩郡]]と記述されている<ref>10世紀に編纂された『和名抄』(流布本)巻五の信濃国の項に「国府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に国府があったことが知られる</ref>。現在の[[松本市#歴史|松本市]]にあたる。
 
 
 
ただし諸説として、[[国分寺]]<ref>[[1963年]]([[昭和]]38年)からの発掘調査によって国分僧寺・国分尼寺跡が[[上田市]]国分の地で確認され、国府と国分寺は一般的傾向として通常近接したところに立地するという点から小県郡に国府を推定する説。</ref>及び[[総社]]のひとつである科野大宮社が[[上田市#歴史|上田市]]にあること、[[東山道]]のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には[[小県郡]]に国府があったとする学説もあるが<ref>参考:長野県史刊行会編『長野県史』通史編 第1巻原始・古代 1989年、山川出版『長野県の歴史』ISBN 4634322005、『松本市史』第2巻 歴史編I「原始・古代・中世」、『上田市誌』 歴史編2「上田の弥生・古墳時代」・歴史編3「東山道と信濃国分寺」など多数。</ref>、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。
 
 
 
また、一時的に信濃国から分立した[[諏方国]]の国府も未詳である。
 
 
 
平安中期の[[944年]]、天災により国衙が倒壊し[[国司]]が圧死した記録が残る。
 
 
 
鎌倉初期には[[善光寺]]近傍に「後庁(御庁)」(長野市後町)が建てられ、国司の目代や在庁官人が置かれた。[[1335年]]には、[[建武の新政]]に反旗を翻した[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、[[守護]]を務める[[武家]]にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。
 
 
 
=== 寺院 ===
 
'''[[国分寺]]・[[国分尼寺]]'''
 
* [[信濃国分寺#信濃国分寺跡|信濃国分寺跡]] ([[上田市]]国分、{{ウィキ座標|36|22|48.27|N|138|16|15.01|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国分寺跡}})
 
*: 国の[[史跡]]。北方に後継の[[信濃国分寺|国分寺]](上田市国分、{{ウィキ座標|36|22|58.93|N|138|16|15.90|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国分寺(後継寺院)}})が所在。
 
* [[信濃国分寺#信濃国分寺尼跡|信濃国分尼寺跡]] (上田市国分、{{ウィキ座標|36|22|50.04|N|138|16|07.75|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国分尼寺跡}})
 
*: 国の史跡(「信濃国分寺跡」に包括)。
 
 
 
'''[[定額寺]]'''
 
: [[貞観 (日本)|貞観]]9年(867年)に[[藤原良房]]によって定められた。
 
* 寂光寺(伊那郡)
 
* 錦織寺(筑摩郡)
 
* 安養寺(更級郡)
 
* 屋代寺(埴科郡)
 
* 妙楽寺(佐久郡)
 
 
 
'''[[安国寺利生塔]]'''
 
*[[安国寺 (茅野市)|安国禅寺]](茅野市宮川)
 
 
 
=== 神社 ===
 
'''[[延喜式内社]]'''
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社7座5社・小社41座41社の計48座46社が記載されている(「[[信濃国の式内社一覧]]」参照)。大社5社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
 
* [[諏方郡]] 南方刀美神社二座
 
** 比定社:[[諏訪大社]] (諏訪地域に二社四宮)
 
* [[安曇郡]] 穂高神社
 
** 比定社:[[穂高神社]] ([[安曇野市]]穂高)
 
* [[更級郡]] 武水別神社
 
** 比定論社:[[武水別神社]] ([[千曲市]]八幡、{{ウィキ座標|36|31|10.12|N|138|06|10.81|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=名神大社論社:武水別神社}})
 
** 比定論社:[[桶知大神社]] (長野市大岡丙、{{ウィキ座標|36|29|36.24|N|138|1|16.97|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=名神大社論社:桶知大神社}})
 
* [[水内郡]] [[健御名方富命彦神別神社]]
 
** 比定論社:[[健御名方富命彦神別神社 (長野市箱清水)|健御名方富命彦神別神社]] (長野市箱清水、{{ウィキ座標|36|39|41.54|N|138|11|31.71|E|region:JP-20|位置|name=名神大社論社:健御名方富命彦神別神社}})
 
** 比定論社:[[健御名方冨命彦神別神社 (長野市信州新町)|健御名方冨命彦神別神社]] (長野市信州新町、{{ウィキ座標|36|34|31.29|N|138|02|56.30|E|region:JP-20|位置|name=名神大社論社:健御名方冨命彦神別神社}})
 
** 比定論社:[[健御名方富命彦神別神社 (飯山市)|健御名方富命彦神別神社]] (飯山市豊田、{{ウィキ座標|36|55|15.85|N|138|22|29.45|E|region:JP-20|位置|name=名神大社論社:健御名方富命彦神別神社}})
 
* [[小県郡]] 生島足島神社二座
 
** 比定社:[[生島足島神社]] ([[上田市]]下之郷、{{ウィキ座標|36|21|36.90|N|138|13|5.50|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=名神大社:生島足島神社}})
 
 
 
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
 
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 264-270。</ref>。
 
* 総社:次の2社の説がある。
 
** [[科野大宮社]] ([[上田市]]常田、{{ウィキ座標|36|23|40.04|N|138|15|28.80|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国総社か:科野大宮社}})
 
** [[伊和神社 (松本市)|伊和神社]] ([[松本市]]惣社、{{ウィキ座標|36|14|18.15|N|137|59|27.51|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国総社か:伊和神社}})
 
* 一宮:[[諏訪大社]] (諏訪地域、{{ウィキ座標|35|59|53.37|N|138|07|10.09|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国一宮、名神大社:諏訪大社(上社本宮)}})
 
* 二宮:[[小野神社・矢彦神社|小野神社]] ([[塩尻市]]北小野、{{ウィキ座標|36|03|18.02|N|137|58|10.32|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国二宮:小野神社}})
 
* 三宮:[[穂高神社]] ([[安曇野市]]穂高、{{ウィキ座標|36|20|19.28|N|137|53|3.57|E|region:JP-20_type:landmark|位置|name=信濃国三宮、名神大社:穂高神社}})
 
以上のほか、[[沙田神社]](松本市島立三ノ宮)を三宮とする伝承がある<ref>沙田神社由緒書。</ref>。
 
 
 
=== 守護所 ===
 
守護所は守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。
 
 
 
=== 勅旨牧 ===
 
{{columns-list|4|
 
*大室牧(水内郡)
 
*笠原牧(高井郡)
 
*高井牧(高井郡)
 
*新張牧(小県郡)
 
*[[塩原牧]](小県郡)
 
*望月牧(佐久郡)
 
*長倉牧(佐久郡)
 
*塩野牧(佐久郡)
 
*[[猪鹿牧]](安曇郡)
 
*[[埴原牧]](筑摩郡)
 
*[[大野牧]](筑摩郡)
 
*岡屋牧(諏訪郡)
 
*山鹿牧(諏訪郡)
 
*萩倉牧(諏訪郡)
 
*平井手牧(伊那郡)
 
*宮処牧(伊那郡)
 
}}
 
*埴原牧に牧監庁を併設。左馬寮に属し、後に左馬寮領の荘園となった。
 
 
 
=== 御厨 ===
 
: いずれも伊勢神宮領。
 
*芳美御厨(高井郡)
 
*保科御厨(高井郡)
 
*布施御厨(更級郡)
 
*富部御厨(更級郡)
 
*村上御厨(更級郡)
 
*仁科御厨(安曇郡)
 
*矢原御厨(安曇郡)
 
*麻績御厨(筑摩郡)
 
*会田御厨(筑摩郡)
 
*
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
*[[伊那郡|伊奈郡]](いな)→[[上伊那郡]] - [[下伊那郡]]
 
*[[諏訪郡|諏方郡]](すは、すわ)
 
*[[筑摩郡]](ちくま、つかま)→[[東筑摩郡]] - [[木曽郡]](西筑摩郡から改称)
 
*[[安曇郡]](あづみ)→[[北安曇郡]] - [[南安曇郡]](消滅)
 
*[[更級郡]](さらしな)(消滅)
 
*[[水内郡]](みぬち、みのち)→[[上水内郡]] - [[下水内郡]]
 
*[[高井郡]](たかい)→[[上高井郡]] - [[下高井郡]]
 
*[[埴科郡]](はにしな)
 
*[[小県郡]](ちいさがた)
 
*[[佐久郡]](さく)→[[北佐久郡]] - [[南佐久郡]]
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
括弧内は任官年。[[延喜式]]では[[上国]]となっており、国司構成は[[四等官]]が各1名ずつの他、3名の[[史生]]からなる。
 
==== 飛鳥・奈良時代 ====
 
===== 信濃守(飛鳥・奈良) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[小治田宅持]]<ref>文献上に現れる初代信濃国司。</ref> (708年)
 
*[[佐伯沙弥麻呂]] (714年)
 
*[[巨勢又兄]] (731年)
 
*[[物部依羅人曾]] (746年)
 
*[[坂合部金綱]] (747年)
 
*[[佐伯大成 (公家)|佐伯大成]]<ref>[[橘奈良麻呂の乱]]で処罰され任国配流。</ref> (757年)
 
*[[忌部鳥麻呂]] (757年)
 
*[[藤原継縄]] (764年)
 
*[[三河王]] (764年)
 
*[[多犬養]] (766年)
 
*[[藤原楓麻呂]] (769年)
 
*[[菅生王]] (771年)
 
*[[多治比豊浜]] (772年)
 
*[[石川望足]] (774年)
 
*[[大原浄貞]] (778年)
 
*[[大伴不破麻呂]] (778年)
 
*[[紀家継]] (781年)
 
*[[巨勢苗麻呂]] (784年)
 
*[[中臣鷹主]] (785年)
 
*[[縣犬養堅魚麻呂]](786年)
 
*[[藤原乙叡]] (790年)
 
}}
 
 
 
===== 信濃介(飛鳥・奈良) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[谷綿麻呂]] (738年頃?)
 
*[[紀僧麻呂]] (761年)
 
*[[当麻王]](767年)
 
*[[濃宜公水通]] (768年)
 
*[[弓削大成]]<ref name=ingai>員外国司 </ref> (769年)
 
*[[田口水直]]<ref name=ingai/> (770年)
 
*[[多治比賀智]] (786年)
 
*[[平群清麻呂]] (790年)
 
}}
 
 
 
==== 平安時代 ====
 
===== 信濃守(平安) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[笠江人]] (795年頃?)
 
*[[藤原継業]] (799年以後?)
 
*[[出雲広貞]] (権守) (812年頃?)
 
*[[宇智王]] (813年)
 
*[[仲雄王]] (818年頃?)
 
*[[菅原清公]] (826年)
 
*[[紀百継]] (828年)
 
*[[南淵弘貞]] (833年)
 
*[[源弘]] (833年)
 
*[[清原長谷]] (833年)
 
*[[源弘]](再任) (835年)
 
*[[藤原大津]] (836年)
 
*[[興世書主]] (840年)
 
*[[紀綱麻呂]] (権守) (841年)
 
*[[小野篁]] (848年)
 
*[[藤原助]] (851年)
 
*[[久賀三夏]] (852年)
 
*[[平実雄]] (853年)
 
*[[源多]] (858年)
 
*[[南淵年名]] (858年)
 
*[[橘安吉雄]] (権守) (861年)
 
*[[在原行平]] (862年)
 
*[[橘安吉雄]] (守に昇格) (864年)
 
*[[有宗益門]] (権守) (865年)
 
*[[源頴]] (867年)
 
*[[藤原水谷]] (権守) (869年)
 
*[[滋野善根]] (870年)
 
*[[源興基]] (権守) (870年)
 
*[[紀有常]] (権守) (871年)
 
*[[在原守平]] (874年)
 
*[[源近善]] (権守) (877年)
 
*[[源包]] (878年)
 
*[[橘良基]] (884年)
 
*[[源近善]] (権守) (884年頃?)
 
*[[藤原有蔭]] (885年以前?)
 
*[[源道]] (権守) (886年)
 
*[[藤原諸房]] (887年)
 
*[[源定有]] (権守) (887年頃?)
 
*[[藤原扶幹]] (895年)
 
*[[源実]] (899年)
 
*[[源義]] (899年頃?)
 
*[[小野清実]] (904年)
 
*[[源清蔭]] (権守) (907年)
 
*[[源恵]] (908年)
 
*[[源是茂]] (権守) (915年)
 
*[[藤原忠房]] (権守) (916年)
 
*[[藤原俊蔭]] (権守) (917年)
 
*[[橘公頼]] (923年)
 
*[[平時望]] (権守) (924年)
 
*[[源師尚]] (925年以前?)
 
*[[藤原公葛]] (925年)
 
*[[源宗于]] (権守) (925年)
 
*[[源善延]] (927年頃?)
 
*[[高階師尚]] (936年)
 
*[[藤原良載]] (936年以前?)
 
*[[源公家]] (938年以前?)
 
*[[源師保]] (944年以前?)
 
*[[紀文幹]]<ref>国衙が倒壊し圧死。</ref> (944年頃?)
 
*[[源重光]] (権守) (950年)
 
*[[源信明]] (953年)
 
*[[源経基]] (961年以前?)
 
*[[源惟正]] (961年)
 
*[[平維茂]] <ref>『[[紅葉狩 ()|紅葉狩]]』の登場人物で知られる。</ref>(969年)
 
*[[源重之]](969年頃?)
 
*[[藤原季平]] (977年以前?)
 
*[[藤原陳忠]]<ref>『[[今昔物語集]]』の[[受領]]のエピソードで知られる。</ref> (982年頃?)
 
*[[藤原在国]] (権守) (988年)
 
*[[藤原永年]]<ref>[[藤原尹文]]の子か。</ref> (989年以前?)
 
*[[藤原惟正]] (992年頃?)
 
*[[藤原隆家]] (権守) (993年)
 
*[[源満仲]] (997年以前?)
 
*[[佐伯公行]] (998年以前?)
 
*[[藤原伊祐]] (998年以前?)
 
*[[中原致時]] (998年)
 
*[[源道方]] (権守) (1001年)
 
*[[源済政]] (1002年)
 
*[[源定長]] (1004年以前?)
 
*[[藤原佐光]] (1004年)
 
*[[藤原弘道]] (権守) (1007年)
 
*[[藤原公則]] (1012年)
 
*[[源道成]] (1017年頃?)
 
*[[藤原惟任]] (1022年頃?)
 
*[[藤原信理]] (1023年以前?)
 
*[[大江保資]] (1027年頃?)
 
*[[藤原家経]] (1032年)
 
*[[菅原忠貞]] (1040年以前?)
 
*[[平孝義]] (1040年)
 
*[[源頼親]] (1043年頃?)
 
*[[源経隆]] (1047年頃?)
 
*[[藤原伊綱]] (1057年以前?)
 
*[[橘俊通]] (1057年)
 
*[[大江成衡]] (1063年以前?)
 
*[[藤原惟経]] (1069年以前?)
 
*[[源隆基]] (1072年以前?)
 
*[[藤原知言]] (1077年以前?)
 
*[[源清実]] (1077年以前?)
 
*[[浦野重遠]] (1079年以前?)
 
*[[源国信]] (権守) (1079年)
 
*[[藤原敦憲]] (1080年頃?)
 
*[[藤原家綱]] (1089年頃?)
 
*[[高階為章]] (1091年頃?)
 
*[[藤原定仲]] (権守) (1095年頃?)
 
*[[藤原永清]] (1096年頃?)
 
*[[源師光]] (1096年)
 
*[[源国房]] (1096年以前?)
 
*[[藤原永実]] (1100年)
 
*[[藤原斎長]] (1105年頃?)
 
*[[高階為行]] (1107年頃?)
 
*[[橘広房]]<ref>[[源明国]]に殺害された</ref> (1108年)
 
*[[大江広仲]] (1112年以前?)
 
*[[藤原惟明]] (1112年)
 
*[[平盛基]] (1116年)
 
*[[藤原兼定]] (権守) (1116年)
 
*[[源重時]] (1120年)
 
*[[藤原盛重]] (1127年)
 
*[[藤原重万]] (権守) (1130年頃?)
 
*[[大江季重]] (権守) (1132年)
 
*[[源義綱]] (1132年以前?)
 
*[[藤原親隆]] (1132年)
 
*[[藤原朝隆]] (1139年)
 
*[[藤原賢行]] (1143年)
 
*[[藤原親康]] (権守) (1146年)
 
*[[藤原清通]]<ref>[[藤原伊通]]の孫か。</ref>  (1148年)
 
*[[藤原長親]] (権守) (1149年頃?)
 
*[[中原兼遠]] (権守) (1155年頃?)
 
*[[藤原行道]] (1156年頃?)
 
*[[藤原顕賢]] (1157年)
 
*[[藤原是憲]] (1158年)<ref>[[信西]](藤原通憲)の子。[[平治の乱]]で免職され佐渡島に流罪。後に出家し、[[円照 (遊蓮房)]]となり[[法然]]の弟子となる(『法然上人絵伝(下)』(岩波文庫)211頁)。</ref>
 
*[[源重成]] (1159年)
 
*[[藤原伊輔]] (1160年)
 
*[[藤原親経]] (権守) (1160年)
 
*[[藤原伊輔]] (再任) (1163年)
 
*[[藤原隆雅]]<ref>[[藤原家長]]の子か。</ref> (1168年)
 
*[[藤原実教]] (1172年)
 
*[[大江泰友]] (権守) (1174年)
 
*[[大中臣盛実]] (権守) (1178年)
 
*[[藤原盛長]] (1179年頃)
 
*[[藤原景清]] (1180年)
 
*[[大江成棟]] (権守) (1182年以前?)
 
*[[藤原能成]] (権守) (1183年)
 
*[[加々美遠光]]<ref>平氏追討の勲功。</ref> (1185年)
 
*[[吉田資経]] (1190年)
 
*[[源進]](年代不詳)
 
*[[源為公]](年代不詳)
 
*[[源有房]] (年代不詳)
 
*[[平正家]](年代不詳)
 
*[[中原頼季]] (権守) (年代不詳)
 
}}
 
 
 
===== 信濃介(平安) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[石川清主]] (795年頃?)
 
*[[藤原継業]] (のちに守) (799年)
 
*[[和弟長]] (804年)
 
*[[坂本佐太気麻呂]] (806年)
 
*[[安倍安仁]] (828年)
 
*[[藤原貞守]] (841年)
 
*[[下毛野文継]] (842年)
 
*[[伴御園]] (846年)
 
*[[佐伯雄勝]] (848年)
 
*[[紀最弟]] (852年)
 
*[[清原秋雄]] (852年)
 
*[[紀道茂]] (854年)
 
*[[藤原秀道]] (857年)
 
*[[田口統範]] (権介) (858年)
 
*[[紀冬雄]] (861年)
 
*[[藤原是縄]] (権介) (864年)
 
*[[大春日吉野]] (865年)
 
*[[滋野恒蔭]] (868年)
 
*[[佐伯子房]] (権介) (873年頃?)
 
*[[藤原恒実]] (権介) (878年)
 
*[[橘茂蔭]] (879年頃?)
 
*[[藤原有令]] (884年)
 
*[[良岑唯実]] (885年)
 
*[[小野滋蔭]] (893年)
 
*[[藤原恒佐]] (権介) (898年)
 
*[[小野美材]] (権介) (899年)
 
*[[紀淑望]] (権介) (913年)
 
*[[藤原顕忠]] (権介) (925年)
 
*[[三統公忠]] (権介) (941年)
 
*[[高向行方]] (979年)
 
*[[丹波茂忠]] (権介) (981年)
 
*[[平保忠]] (984年)
 
*[[平景盛]] (権介) (998年)
 
*[[清岳光明]] (権介) (999年)
 
*賀茂某 (1025年頃?)
 
*[[伴貞資]] (1033年)
 
*紀某 (1055年頃?)
 
*[[平康清]] (1176年)
 
*[[中原国盛]] (権介) (1181年)
 
*[[藤原良宏]] (権介) (1181年)
 
}}
 
 
 
==== 鎌倉時代 ====
 
===== 信濃守(鎌倉) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[源遠義]] (1193年頃?)
 
*[[卜部兼直]] (権守) (1199年)
 
*[[藤原長兼]] (1202年)
 
*[[姉小路公宣]] (権守) (1203年)
 
*[[藤原資頼]] (1203年)
 
*[[藤原家時]] (1205年)
 
*[[藤原基綱]] (1206年)
 
*[[藤原隆綱]] (1210年)
 
*[[二階堂行光]] (1216年頃?)
 
*[[藤原親輔]] (権守) (1217年)
 
*[[藤原隆雅]]<ref>[[藤原隆房]]の子か。</ref> (1226年)
 
*[[藤原信忠]] (1227年)
 
*[[源頼俊]] (1231年)
 
*[[藤原公佐]] (1232年以前?)
 
*[[源輔通]] (1232年)
 
*[[藤原宗範]] (権守) (1233年)
 
*[[諏訪信重]] (権守) (1239年頃?)
 
*[[源季遠]] (権守) (1243年)
 
*[[佐々木泰清]] (1258年)
 
*[[源秀清]] (1258年頃?)
 
*[[藤原教房]] (1258年以前?)
 
*[[源通頼]] (1260年)
 
*[[小笠原長忠]] (1264年以前?)
 
*[[二階堂行実]] (1268年)
 
*[[二階堂行章]] (1274年)
 
*[[藤原親世]] (1287年)
 
*[[安倍雅遠]] (1288年)
 
*[[藤原雅任]] (1289年)
 
*[[小笠原長政]] (1294年以前?)
 
*[[二階堂行貞]] (1295年)
 
*[[太田時連]] (1298年)
 
*[[荒井頼任]] (1303年頃?)
 
*[[小笠原長氏]] (1310年以前?)
 
*[[三条実治]] (権守) (1330年)
 
*[[小笠原宗長]] (1330年以前?)
 
*[[清原氏|清原]]某<ref>堀川中納言藤原光継の直前の前任者であるとの記録があり、左近少将入道と同一人物とする説あり。</ref> (1333年)
 
*[[赤松範資]] (1333年頃?)
 
*[[伊東祐光]] (年代不詳)
 
}}
 
 
 
===== 信濃介(鎌倉) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[藤原祐康]] (1205年)
 
*[[藤原実嗣]] (1206年)
 
*[[三条実親]] (権介) (1206年)
 
*[[藤原盛兼]] (1219年)
 
*[[藤原親季]] (権介) (1223年)
 
*[[藤原兼頼]] (1229年)
 
*[[大江景頼]] (権介) (1231年)
 
*[[法性寺雅平|藤原雅平]] (権介) (1241年)
 
*[[藤原公齋]] (権介) (1243年)
 
*[[藤原茂通]] (権介) (1249年)
 
*[[中院通教]] (1255年)
 
*[[堀川具守]] (1260年)
 
*[[藤原季顕]] (権介) (1267年)
 
*[[藤原通雄]] (権介) (1272年)
 
*[[源為雄]] (1274年)
 
*[[藤原実時]] (権介) (1274年)
 
*[[藤原長忠]] (権介) (1278年)
 
*[[源長通]] (1294年)
 
}}
 
 
 
==== 室町時代 ====
 
===== 信濃守(南北朝) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[坊門清忠]](権守)(1334年)
 
*[[白川資英王]] (1334年)
 
*[[小笠原貞宗]] (1334年頃?)
 
*[[近衛府|左近少将入道]]某<ref>1333年10月に就任した清原真人某と同一人物か。[[中先代の乱]]で戦死。</ref> (1335年)
 
*[[藤原光継]]<ref>解任後、1338年の南都合戦で戦死。</ref>  (1335年)
 
*[[仁科重貞]] (1336年頃)
 
*[[風間信昭]] (1338頃?)
 
*[[太田氏|太田]]某 (1340年頃?)
 
*[[藤原基隆]] (権守) (1346年)
 
*[[諏訪頼嗣]] (権守) (1347年)
 
*[[源利治]] (1347年)
 
*[[安倍豊房]] (権守) (1350年)
 
*[[藤原行盛]] (1350年)
 
*諏訪頼嗣 (守に昇格) (1350年頃?)
 
*[[諏訪直頼]] (1351年)
 
*[[源秀時]] (1351年)
 
*[[安倍泰規]] (1352年)
 
*海老名某 (1352年頃?)
 
*[[二階堂行朝]] (1353年以前?)
 
*蜂谷某 (1353年頃?)
 
*[[小笠原氏|小笠原]]某 (1353年頃?)
 
*[[久我具通]] (権守) (1358年)
 
*[[安東高泰]] (1358年頃?)
 
*[[諏訪氏|諏訪]]某 (1358年頃?)
 
*八代某 (1358年頃?)
 
*[[山代氏|山代]]某 (1358年頃?)
 
*[[武田義武]] (1359年頃?)
 
*[[岡本富高]] (1364年頃?)
 
*[[小笠原長基]] (1365年頃?)
 
*[[二宮貞家]] (1366年)
 
*[[白川顕邦王]] (権守) (1375年)
 
*[[白川資方王]] (権守) (1383年頃?)
 
*[[二宮氏泰]]<ref>守護斯波義種の守護代も務めた。</ref>(1386年頃?)
 
*[[小野氏信]] (1392年頃?)
 
}}
 
 
 
===== 信濃介(南北朝) =====
 
{{columns-list|2|
 
*[[久我通相]] (権介) (1334年)
 
*[[藤原実長]] (1342年)
 
*[[源有範]] (1347年)
 
*[[中山満親]] (権介) (1390年)
 
}}
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
*1190年~1203年 - [[比企能員]]
 
*1203年~1221年 - [[北条義時]]
 
*1225年~1246年 - [[北条重時]]
 
*1265年~? - [[北条義宗]]
 
*1280年~? - [[北条久時]]
 
*1310年~? - [[北条基時]]
 
*?~1332年 - [[北条仲時]]
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
*1336年 - [[小笠原貞宗]]
 
*1338年~? - [[村上信貞]]
 
*1340年~1341年 - [[吉良満義]]
 
*1342年~1347年 - 小笠原貞宗
 
*1347年~1351年 - [[小笠原政長]]
 
*1351年 - [[諏訪直頼]]
 
*1352年 - 小笠原政長
 
*1352年~1365年 - [[小笠原長基]]
 
*1366年~1377年 - [[上杉朝房]]
 
*1384年~1387年 - [[斯波義種]]
 
*1387年~1399年 - [[斯波義将]]
 
*1398年~1399年 - [[斯波義重]]
 
*1399年~1401年 - [[小笠原長秀]]
 
*1401年~1402年 - 斯波義将
 
*1402年~1423年- 幕府直轄<ref>代官に[[細川慈忠]]、[[細川氏|細川持有]]</ref>
 
*1425年~1442年 - [[小笠原政康]]
 
*?~1446年 - [[小笠原宗康]]
 
*1446年~1450年 - [[小笠原光康]]<ref name=katsumoto>[[細川勝元]]の推挙</ref>
 
*1451年~1453年 - [[小笠原持長 (信濃小笠原氏)|小笠原持長]]<ref>[[畠山持国]]の推挙</ref>
 
*1453年~1461年 - 小笠原光康<ref name=katsumoto/>
 
*1463年~1477年? - [[小笠原政秀]](半国守護)<ref name=kofukuji>1477年の[[興福寺]]の記録</ref>
 
*1471年?~1477年? - [[上杉房定]](半国守護)<ref name=kofukuji/>
 
*1493年?~1501年 - [[小笠原長朝]]
 
*1501年~1515年 - [[小笠原貞朝]]
 
*?~1542年 - [[小笠原長棟]]
 
*1542年~1550年? - [[小笠原長時]]
 
*1559年~1573年 - [[武田信玄|武田晴信]](信玄)
 
*1574年~1582年 - [[武田勝頼]]
 
 
 
=== 武家官位としての信濃守 ===
 
* [[武田信玄|武田晴信]] 信濃侵攻の大義名分のため。
 
* [[小出吉政]] [[但馬国|但馬]][[出石藩]]初代藩主・[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]第2代藩主。
 
* [[小出吉親]] 但馬出石藩第3代藩主、[[丹波国|丹波]][[園部藩]]初代藩主。
 
* [[小出英知]] 丹波園部藩第2代藩主。
 
* [[小出英貞]] 丹波園部藩第4代藩主。
 
* [[小出英持]] 丹波園部藩第5代藩主。
 
* [[小出英タケ|小出英筠]] 丹波園部藩第7代藩主。
 
* [[小出英発]] 丹波園部藩第8代藩主。
 
* [[小出英教]] 丹波園部藩第9代藩主。
 
* [[柳沢里之]] [[越後国|越後]][[三日市藩]]第4代藩主。
 
* [[柳沢里世]] 越後三日市藩第5代藩主。
 
* [[柳沢徳忠]] 越後三日市藩第8代藩主。
 
* [[永井尚政]] [[下総国|下総]][[古河藩]]主。[[老中]]。
 
* [[永井直国]] [[大和国|大和]][[新庄藩]]第3代藩主。
 
* [[永井直温]] 大和新庄藩第4代藩主。
 
* [[永井直方]] 大和新庄藩第5代藩主。
 
* [[永井直養]] 大和新庄藩第6代藩主。
 
* [[永井直壮]] 大和新庄藩第8代藩主。大和[[櫛羅藩]]初代藩主。
 
* [[永井直哉]] 大和櫛羅藩第2代藩主。
 
* [[池田政言]] [[備中国|備中]]岡山新田藩([[鴨方藩]])初代藩主。
 
* [[南部利直]] 陸奥盛岡藩初代藩主
 
* [[南部行信]] 陸奥盛岡藩第4代藩主。
 
* [[小笠原長逵]] 播磨[[安志藩]]第2代藩主
 
* [[南部利済]] 陸奥盛岡藩第12代藩主。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 長野県史刊行会『長野県史』
 
* 信濃史学会『信濃』
 
* 長野県下の各市郡町村誌
 
* [[角川日本地名大辞典]] 20 長野県
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Shinano province}}
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[信濃の国]] - 長野県歌
 
* [[信濃毎日新聞]]
 
* 列車名「しなの」 - [[中央本線]]・[[篠ノ井線]]・[[信越本線]]で運行する[[特別急行列車]]。→[[しなの (列車)]]を参照のこと。
 
* [[信濃グランセローズ]]
 
* [[信州大学]]
 
* [[テレビ信州]]
 
* 列車名「信州」(しんしゅう)
 
*# [[1961年]]([[昭和]]36年)[[10月]]から[[1963年]](昭和38年)10月の間[[名古屋駅]]~[[長野駅]]間で運行された急行列車。[[しなの (列車)]]を参照。
 
*# [[1963年]](昭和38年)10月から[[1985年]](昭和60年)3月の間[[上野駅]]~長野駅間で運行された急行列車。[[あさま]]を参照。
 
* [[シナノキ]] - 信濃の名の由来、語源について。
 
 
 
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2019/6/13/ (木) 16:16時点における最新版

信濃国(しなののくに)

現在の長野県。東山道の一国。上国。『古事記』には科野国とみえる。埴科 (はにしな) ,更科 (さらしな) ,蓼科 (たでしな) など「科」の字のつく地名が多いことからも,「科木 (しなのき) 」を多く産する野を意味したのであろう。『古事記』『万葉集』『旧事本紀』には科野国造がみえ,それは小県 (ちいさがた) 郡 (現在の上田市一帯) 地方と思われるが,ほかにも古くから中心となる地域があった。すなわち『続日本紀』によれば,古来軍神の祭られた諏訪神社のある諏訪地方は養老5 (721) ~天平3 (731) 年諏方国として独立していた。その他,穂高神社を中心として海部 (あまべ) が進出したといわれる安曇 (あずみ) 地方 (現在の松本地方) がある。国府は初め上田市におかれたが,のちに松本市に移ったらしい。国分寺は小県郡におかれた。『延喜式』には伊那 (いな) ,諏方,筑摩 (つかま) ,安曇,更級,水内 (みのち) ,高井,埴科,小県,佐久の 10郡を,『和名抄』には郷 66,田3万 908町をあげている。また古代から天下の霊場として著名な善光寺 (長野市) の存在も軽視できない。平安時代後期以来,武士が各地に台頭したが,なかでも木曾の源義仲が有名。守護は鎌倉時代には比企氏から北条氏となり,室町時代には深志(松本) に拠った甲斐源氏の小笠原氏が任じた。しかし諏訪地方では,諏訪神社の勢力が依然強く,その大祝 (おおはふり。神主) 家と称する諏訪氏の支配が鎌倉,室町時代を通じて戦国時代,武田信玄に敗れるまで続いた。戦国時代には甲斐の武田氏と越後の上杉氏との対抗の場となり,武田氏,織田氏の滅亡後は上杉氏,徳川氏の支配下におかれたが,この両氏の移封により信濃の旧武士はほとんど他国に去った。そのため江戸時代には天領,旗本領が多く,藩としては松代藩,松本藩,高島藩,高遠藩,飯田藩,須坂藩,飯山藩,上田藩その他があった。明治4(1871) 年7月の廃藩置県でそれぞれ県となり,11月には長野県と筑摩県とに併合されたが,さらに 1876年に長野県に統一された。



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