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'''京都学派'''(きょうとがくは)とは、一般に[[西田幾多郎]]と[[田邊元]]および彼らに師事した[[哲学者]]たちが形成した[[哲学]]の学派のことを指すが、[[京都大学人文科学研究所]]を中心とした学際的な研究を特色とした一派も、京都学派、あるいは哲学の京都学派と区別するために、新・京都学派とも称する。その他にも様々な学問分野において『京都学派』と呼ばれるグループが存在している。
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'''京都学派'''(きょうとがくは)
  
== 京都学派(哲学) ==
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西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。 1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し,「個体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが,その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自な学風が形成され三木清,戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。三木,戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派の中心から離れるが,次いで高坂正顕,西谷啓治,高山岩男,鈴木成高らのグループが現れ,第2次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂,西谷,高山,鈴木らのグループをさして狭義に京都学派と呼ぶことが多い。
その詳細な定義は国や[[研究者]]によって異なり、未だに世界各国で盛んな[[研究]]の対象となっている。主なメンバーとして、[[西田幾多郎]]、[[田邊元]]、[[波多野精一]]、[[朝永三十郎]]、[[和辻哲郎]]、[[三木清]]、[[西谷啓治]]、[[久松真一]]、[[武内義範]]、[[土井虎賀寿|土井虎賀壽]]・[[下村寅太郎]]・[[上田閑照]]、[[大橋良介]]らが挙げられ、また左派としては[[三木清]]以外に[[戸坂潤]]、[[中井正一]]、[[久野収]]らが挙げられる。とりわけ中井は後述する京都学派(人文研)の[[桑原武夫]]や、京都学派(近代経済学)の[[青山秀夫]]とも懇意であった。また桑原は父親が京大文学部教授であったこともあって西田とも若い頃から接していたという。
 
 
 
京都学派は[[西洋哲学]]と[[東洋思想]]の融合を目指した『[[善の研究]]』などで表される西田哲学の立場に立ち、東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなくそれといかに内面で折り合うことができるかを模索した。しかしながら東洋の再評価の立場や独自の[[アイデンティティ]]を模索することは次第に「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」との[[大東亜共栄圏|大東亜思想]]に近づくことになった。特に[[京都学派四天王]](西谷啓治・[[高坂正顕]]・[[高山岩男]]・[[鈴木成高]])らは、「[[世界史の哲学]]」や「[[近代の超克]]」を提唱し、[[大日本帝国海軍|海軍]]に接近した。このため太平洋戦争の敗戦により、戦前の京都学派はいったん没落した。だが戦後も高坂、高山らは自民党などの保守政治に接近し、京都学派と政治とのかかわりは今日に至るまで脈々と続いている。なお、陸軍が海軍に較べて圧倒的な力をもっていた時代において、海軍への接近は軍部政権への翼賛というよりは、軍部の方針を是正しようとする体制批判の行動であったと、大橋良介は評している。また、[[大島康正]]メモによると、この海軍のブレーントラストとしての京都学派の集まりに、京都学派(東洋史学)の[[宮崎市定]]も常連として参加していたと大橋は指摘する。
 
 
 
なお、大橋の著書では[[梯明秀]]の分類に依拠しながら、京都学派と京都哲学とを分けて捉えることを提案する。要するに、「何らかのかたちで<無>の思想を継承・展開した思想家のネットワーク」を京都学派と捉え、西田や田辺に学び、単に彼らの知的ネットワークの下にいるものを京都哲学に分類する。その場合、三木は微妙な立ち位置になるとされるが、多くの左派の弟子たちは京都学派に含まれない。また弟子として西田の著作の編集や解説を書きつつ、自分自身の研究は歴史的な方向へと向かった[[下村寅太郎]]もたぶん含まれないであろう。また京都大学とは縁はないので一般に京都学派に含めないし、大橋も言及していないが、[[鈴木大拙]]は西田の親友で、「<無>の思想を継承・展開」するという点でも相互に影響を与え合っているし、京都の大学([[大谷大学]])に務めてはいるので、大橋の定義に従えば鈴木も京都学派ということにもなる。他方、[[中村雄二郎]]は『共通感覚論』 (1979) において、三木や戸坂や中井(それに京大卒ではないが戸坂と親しい[[三枝博音]]の名が挙げられる)の共通感覚への言及を追っていくと、西田哲学の「場所の論理」の批判的乗り越えが可能となると示唆する。その点からも京都学派(哲学)を狭く捉えすぎない方が、生産的であるとも考えられる。
 
 
 
=== 京都学派(哲学)の人物 ===
 
*[[西田幾多郎]]
 
*[[田邊元]]
 
*[[波多野精一]]
 
*[[朝永三十郎]]
 
*[[和辻哲郎]]
 
*[[三木清]]
 
*[[西谷啓治]]
 
*[[久松真一]]
 
*[[武内義範]]
 
*[[土井虎賀寿|土井虎賀壽]]
 
*[[下村寅太郎]]
 
*[[上田閑照]]
 
*[[大橋良介]]
 
*[[三木清]]-京都学派左派
 
*[[戸坂潤]]-京都学派左派
 
*[[中井正一]]-京都学派左派
 
*[[久野収]]-京都学派左派
 
*[[西谷啓治]]-京都学派四天王
 
*[[高坂正顕]]-京都学派四天王
 
*[[高山岩男]]-京都学派四天王
 
*[[鈴木成高]]-京都学派四天王
 
 
 
== 京都学派(近代経済学) ==
 
戦前の日本で「国際的に評価された最初の経済学者」<ref>根岸隆:「経済思想10日本の経済思想2」[[鈴木信雄 (経済学者)|鈴木信雄]]編 第4章 柴田敬 国際的に評価された最初の経済学者</ref>である[[柴田敬]]を中心に、その[[一般均衡理論]]の師であり「日本の[[マーシャル]]」とも呼ばれた[[高田保馬]]、高田門下で戦後多くの俊秀を育てた[[青山秀夫]]の3人の京大教授を挙げて、「近代経済学の京都学派」と名付けたのは、東大の[[根岸隆]]<ref>根岸隆:「現代経済思想の散歩道」[[倉林義正]]ほか編2004年7月15日 日本評論社 第8章 近代経済学の京都学派</ref>である。
 
 
 
また、[[森嶋通夫]]も、「戦前日本の代表的経済学者は、高田保馬、[[園正造]]、そして柴田敬の3人の京大教授」<ref>[[宮崎義一]]、[[伊東光晴]]「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論S53/8月号</ref>だと言っている。
 
 
 
柴田敬は、京大で[[河上肇]]のゼミ生としてマルクス経済学を河上に、一般均衡論を高田保馬に、国民主義経済学を[[作田荘一]]に学んだ後、黄金時代の[[ハーバード]]大や[[ケインズ革命]]勃興期のロンドンに留学し、[[シュンペーター]]や[[ケインズ]]からも日本人経済学者として最も高い評価<ref>「日本の経済学者でシュンペーターのもとを訪れた者のうち、シュンペーター自身が、来る前から異常に高く評価したのは柴田敬であり、来た後に高く評価したのが[[都留重人]]であって、これ以外の人についてはほとんど評価していない」、「ケインズの日本人嫌いの理由の一つには、日本の経済学者でケインズのところへ来た人間にろくなやつがいなかったということがあります。論争らしい論争をやったのは柴田さん一人ですか」宮崎義一、伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論53/8月号</ref>を受けた理論経済学者であったが、留学から帰国後、京都学派(哲学)や[[近衛文麿]]等の[[新体制運動]]の経済理論上の指導者となり、戦後、[[公職追放]]となった。しかしながら、近年、根岸隆、[[福岡正夫]]等から、柴田経済学の再評価が行われている<ref>国際的な経済学大辞典 (The New Palgrave1987) の独立項目にその名を記す日本人経済学者は僅か5人を数えるのみであるが、その一人として、柴田敬が選ばれている</ref>。また柴田の代表的な弟子の一人が[[杉原四郎]]である。杉原は柴田の師匠である河上を研究し、また書誌学・図書館学と経済思想史を結びつけた研究を展開した<ref>後藤嘉宏 「社会科学における書誌作成の意義と根拠:杉原四郎における経済思想史の方法論と図書館学的関心の関わり」『図書館学会年報』44巻2号(1998年9月)、pp.49-64</ref>。また、柴田の恩師の河上は山口高等商業にて西田幾多郎からドイツ語を学び、その縁で京大時代も西田と交流をもち、近衛も西田と河上に学ぶために東大から京大に転学しており、柴田ならびにその周辺は京都学派(哲学)と縁が深く、さらに西田ら京都学派(哲学)が[[蓑田胸喜]]の執拗な攻撃の対象となったのも、昭和研究会、近衛の延長上に彼らがいたからであるとの説も紹介されている<ref>小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波現代文庫,2011年</ref>。
 
 
 
== 京都学派(京大人文研) ==
 
また、上記とは別に戦後[[京都大学人文科学研究所]](京大人文研)にて頻繁に共同研究会を開き、活発な討論を行っていた一派も、京都学派と呼ばれるが、上記の京都学派とは直接の関係はない。こちらは[[東洋史]]学の[[貝塚茂樹]]、[[塚本善隆]]、[[藤枝晃]]、[[中国文学]]の[[吉川幸次郎]]、[[フランス文学]]の[[桑原武夫]]、[[植物学]]の[[中尾佐助]]、[[生態学]]から[[人類学]]にまたがる成果を挙げた[[今西錦司]]らが特に著名である。この顔ぶれからも推察されるように、この京大人文研の活動範囲は狭義の人文科学から自然科学の領域にまでまたがった学際的なもので、今西は自らの学問領域を自然学とも称した。また、[[国立民族学博物館]]へと活躍の場を移した[[梅棹忠夫]](生態学→[[民族学]]・[[人類学]])や、[[国際日本文化研究センター]]の設立に尽力した[[梅原猛]](哲学)らも、この京大人文研の京都学派に含める。また桑原によって京大人文研助教授に迎えられた[[鶴見俊輔]]、同助手でのちに教育学部助教授に配置換えとなった[[加藤秀俊]]らは一般に京都学派に含めないが、桑原武夫をはじめ多くの人文研スタッフとともに[[思想の科学研究会]]の主要メンバーでもあった(鶴見はメンバーというよりも会の創設者)。鶴見らは京都学派(哲学)の中井正一、久野収らとも懇意で、中井、久野と一緒に運動を行った[[世界文化]]同人の多くが思想の科学研究会に加わっていて(例えば[[武谷三男]]。なお武谷は上記人文研の貝塚茂樹の弟[[湯川秀樹]]の共同研究者としても名高い)、その点で、京都学派(哲学)の左派と京都学派(人文研)二つをつなぐ媒介項に、鶴見、桑原、思想の科学研究会があったともいえよう。なお京都学派(哲学)の主流には思想の科学研究会は批判的で、例えば同研究会『共同研究 転向』第2篇第2章第6節「総力戦理論の哲学―田辺元・柳田謙十郎」([[後藤宏行 (哲学者)|後藤宏行]])では田辺に代表される京都学派の主流が戦争協力した点を断罪し、中井正一らの着想によってそれが乗り越えられるとしているし(その点で先述の中村雄二郎『共通感覚論』での指摘の先駆でもある)、また鶴見も「哲学の言語」(『思想』1950年)で西田が「即というコプラ」を多用することを批判的に捉える。
 
 
 
=== 東洋史学 ===
 
[[東洋史学]]分野における京都学派は、より古く京都帝国大学期の[[内藤湖南]]、[[桑原隲蔵]](上記、人文研の桑原武夫の父)、[[羽田亨]]を創始者とし、他に[[狩野直喜]]、[[矢野仁一]]等がいる。弟子に[[宮崎市定]]、[[田村実造]]、[[三田村泰助]]、[[谷川道雄]]、ほか多数の[[東洋学者]]たちがおり、京大人文研の一角をなした[[島田虔次]]、[[川勝義雄]]、[[吉川忠夫]](上記、吉川幸次郎の子息)等もいる。
 
 
 
その特色は、湖南が提唱した時代区分論である。[[秦]][[漢]]時代までを上古([[古代]])、[[魏晋南北朝時代|魏晋南北朝]][[隋]][[唐]]時代を[[中世]]、[[宋 (王朝)|宋]]以降を[[近世]]、[[アヘン戦争]]以降を近代とする四時代区分法を中心に[[中国史]]の研究を展開した。[[第二次世界大戦|大戦後]]には、[[東京大学]]に本拠を置く[[歴史学研究会]]の[[唯物史観]]を基にした時代区分法(東京学派)(唐中期までを古代とし、宋以降を中世とする)との間で激しい史学論争が行われた。
 
 
 
== 京都学派(憲法学) ==
 
[[佐々木惣一]]、[[大石義雄]]、[[阿部照哉]]、[[佐藤幸治 (憲法学者)|佐藤幸治]]らを中心とした[[憲法学]]の学派。[[東京大学]]を中心とする学派の政治学的解釈に対する法律学的解釈を志向するなどを特色とする。
 
 
 
== 京都学派(精神医学) ==
 
[[今村新吉]]初代教授により[[京都大学]][[医学部]][[精神医学]]教室には哲学的[[精神病理学]]の方向性が示された。その後三代目[[村上仁]]教授によって精神病理学の伝統は受け継がれ、後に[[加藤清]]、[[笠原嘉]]、[[木村敏]]、[[藤縄昭]]など時代を代表する[[精神医学]]者を多数輩出した<ref>{{Cite book|和書
 
|author = 藤縄昭
 
|year = 2002
 
|month = 02
 
|title = 私家本 仏像遍歴
 
|publisher=ナカニシヤ出版
 
|page = 94
 
|isbn=9784888486729
 
|ref =
 
}}</ref>。なお木村敏は西田哲学会で「西田哲学と私の精神病理学」という演題の講演を行っており<ref>{{cite web
 
|url = http://www.nishida-philosophy.org/nenji10.htm
 
|title = 西田哲学会 第10回年次大会プログラム
 
|accessdate = 2014-4
 
}}</ref>、京都学派(哲学)と京都学派(精神医学)との関係は深い。
 
 
 
== 関連人物 ==
 
=== 哲学 ===
 
* [[西田幾多郎]]
 
* [[田邊元]]
 
* [[波多野精一]]
 
* [[和辻哲郎]]
 
* [[三木清]]
 
* [[西谷啓治]]
 
* [[久松真一]]
 
* [[武内義範]]
 
* [[土井虎賀寿|土井虎賀壽]]
 
* [[下村寅太郎]]
 
* [[上田閑照]]
 
 
 
=== 近代経済学 ===
 
* [[柴田敬]]
 
* [[高田保馬]]
 
* [[青山秀夫]]
 
 
 
=== 憲法学 ===
 
* [[佐々木惣一]]
 
* [[大石義雄]]
 
* [[阿部照哉]]
 
* [[佐藤幸治 (憲法学者)|佐藤幸治]]
 
 
 
=== 精神医学 ===
 
* [[村上仁]]
 
* [[加藤清]]
 
* [[笠原嘉]]
 
* [[木村敏]]
 
* [[藤縄昭]]
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[大橋良介]] 『京都学派と日本海軍-新史料「大島メモ」をめぐって』[[PHP研究所]][PHP新書]、2001年
 
* [[竹田篤司]] 『物語「京都学派」-知識人たちの友情と葛藤』[[中央公論新社]][中公叢書]、2001年/[[中公文庫]]、2012年 ISBN 412205673X
 
* [[柴山哲也]] 『新京都学派-知のフロンティアに挑んだ学者たち』[[平凡社新書]]、2014年 ISBN 4582857159
 
* 大橋良介編『京都学派の思想-種々の像と思想のポテンシャル』人文書院、2004年 ISBN 4409040634
 
* 牧野邦昭 『戦時下の経済学者』中央公論新社[中公叢書]、2010年 ISBN 4120041344
 
* [[八木紀一郎]] 『近代日本の社会経済学』[[筑摩書房]]、1999年 ISBN 4-480-86707-4
 
* [[都留重人]] 『現代経済学の群像』[[岩波現代文庫]]、2006年 ISBN 9784006031404
 
* 斎藤清明 『[[京大人文研]]』創隆社、1986年
 
* [[礪波護]]・藤井譲治編『京大東洋学の百年』京都大学学術出版会、2002年 ISBN 4876984395
 
* 大串龍一 『日本の生態学 今西錦司とその周辺』東海大学出版会、1992年 ISBN 4486011821。今西周辺の学問的人脈に詳しい
 
* [[谷川道雄]]編著『戦後日本の中国史論争』河合文化教育研究所、1993年 ISBN 4879999938
 
* 石塚正英・工藤豊共編『近代の超克-永久革命』理想社、2009年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[支那学 (雑誌)|支那学]]
 
* [[西北研究所]] - 今西・梅棹らが結集していた戦時期の内モンゴルの研究所。
 
* [[精神医学]]
 
* [[精神病理学]]
 
* 叢書「新文明学」- [[佐伯啓思]]と[[藤井聡]]が中心になって企画した叢書のシリーズ。[[北樹出版]]から刊行されており、「シリーズを通じ、戦前の京都学派のような、思想家ネットワークを形成する場」を設けることを目的としている<ref>{{Cite web|url=https://38news.jp/archives/03007|title=新文明学:New Philosophies of Japanese Civilization|accessdate=2017-07-04}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sankei.com/life/news/140615/lif1406150027-n1.html|title=「新文明学」シリーズ創刊|accessdate=2017-07-04}}</ref>。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
123行目: 8行目:
 
{{Reflist}}
 
{{Reflist}}
  
== 外部リンク ==
 
* {{SEP|kyoto-school|The Kyoto School|京都学派}}
 
* [http://www.kyoto-gakuha.info/index.html 京都学派アーカイブ](京都大学:科学研究費プロジェクト・京都大学文学研究科,情報・史料学専修)
 
 
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京都学派の人々が思想を育んだ哲学の道

京都学派(きょうとがくは)

西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。 1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し,「個体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが,その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自な学風が形成され三木清,戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。三木,戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派の中心から離れるが,次いで高坂正顕,西谷啓治,高山岩男,鈴木成高らのグループが現れ,第2次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂,西谷,高山,鈴木らのグループをさして狭義に京都学派と呼ぶことが多い。

脚注




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