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− | {{出典の明記|date=2012年10月}} | + | {{テンプレート:20180815sk}} |
− | '''二階堂擁立構想'''(にかいどうようりつこうそう)は、[[1984年]]、[[自由民主党総裁]]任期満了に伴う[[中曽根康弘]]の再選を阻止するため、[[鈴木善幸]]前首相・[[福田赳夫]]元首相らが、[[野党]]も巻き込んで[[木曜クラブ]](田中派)大番頭の[[二階堂進]][[自由民主党副総裁]]を擁立しようとした事件である。
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− | == 背景 ==
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− | 1984年11月に行われる[[自由民主党総裁選挙]]に対し、中曽根は高い国民支持率を背景に早くから再選への意欲を示していた。
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− | 一方、中曽根内閣はその成立当初より、田中派の影響を色濃く受けて、「直角内閣」「田中曽根内閣」などと呼ばれていたため、鈴木・福田・河本派ら非主流派はこれに不満を持っていた。さらにこの年、田中派の二階堂進が党副総裁に起用されたことで、非主流派の不満はますます高まりを見せ、[[宮澤喜一]]([[宏池会]]、鈴木派)・[[安倍晋太郎]]([[清和政策研究会]]、福田派)・[[河本敏夫]]([[番町政策研究所]]、河本派)らが再選阻止の構えを見せた。
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− | しかし、党内最大派閥を率いる[[田中角栄]]元首相が中曽根支持の方向にまわり、一般には中曽根総裁の再選は堅いと見られていた。
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− | == 経緯 ==
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− | そんな中、[[1984年]][[10月26日]]、鈴木は田中邸を訪れ、次期総裁公選で二階堂を擁立することを提案した。田中派は党内最大派閥でありながら田中自身が政権回復の望みを捨てなかったため、[[竹下登]]ら[[ニューリーダー]]を擁しながら、田中内閣以後は総裁候補を出せない派閥であった。こうした不満を逆手に、鈴木は二階堂を総裁として田中と中曽根に頚木を打つ「王手飛車取り」を狙った。
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− | 鈴木の狙いは、田中と中曽根の間を分断し、二階堂暫定政権の後に自派の宮澤を総裁にすることにあったと言われ、また自身が余力を残して政権を譲ったという認識の中で、中曽根の「私が登板した時の日米関係は9回2アウト満塁だった」などとあたかも前任者が無能であったかのような鈴木の感情を逆なでする度々の発言や、田中・中曽根両派主導の党運営に不満を持っていた。これに福田や[[三木武夫]]元首相らも同調した。さらに、本会議の首班指名において、野党の[[公明党]]・[[竹入義勝]]委員長、[[民社党]]・[[佐々木良作]]委員長との連携・連立を視野に入れた工作もあり、四面楚歌の中で中曽根再選は危ういかと思われた。
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− | ところがこの企ては、
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− | #「自派から自分以外の総裁候補を許さない」田中自身の強い反対
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− | #竹下の後見人を任じる[[金丸信]]ら、田中派幹部が反対に回ったこと
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− | #名実ともに、中曽根の対抗馬となり得た河本が竹下・金丸に同調して三木を抑えたこと
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− | #鈴木・福田両派内でも慎重論が大勢を占めたこと
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− | などにより挫折した。さらに終盤でこの工作が報道され、国民周知の事実となった。
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− | 自民党両院議員総会に先立って[[10月28日]]に行われた[[最高顧問会議]]では、福田・二階堂らから中曽根批判が噴出、最後に中曽根が党風刷新・党内融和を約束し、ようやく了承されるという一幕もあったが、結局、中曽根が話し合いで自民党総裁に再選され、[[11月1日]]に第二次中曽根改造内閣が発足した。
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− | == 影響 ==
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− | この事件により、自民党の長老政治は終わりを告げる。それまで党内で多大な発言力を持っていた福田・鈴木・三木ら首相経験者を中心とする長老はこの計画失敗により発言力を失っていき、派閥の代替わりを促すことになった。
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− | 同時に、鉄の結束を誇っていた田中派の綻び、ひいては田中の支配力に陰りが生じつつあることを示した。田中の最大の忠臣・二階堂が総裁公選に意欲を示したことは、総裁候補を擁立できない田中派内部の不満を示すものでもあり、中曽根再選後に行われた内閣改造([[第2次中曽根内閣 (第1次改造)]])・党役員改選では、田中派は中曽根再選の主力となったにもかかわらず、[[閣僚]]増員の要求は容れられず改造前と同じ6ポストにとどまった。また、[[自民党幹事長]]も田中の推した[[小沢辰男]]ではなく、火消しに功績のあった金丸が選ばれた。
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− | しかし金丸が推した[[入閣]]候補者の[[羽田孜]]・[[小沢一郎]]などはいずれも入閣することなく、閣僚についたのは全て田中の推した入閣候補者であったことは、当時の力関係がまだ圧倒的に田中に分があったことを示している。こうした軋轢は翌[[1985年]][[2月7日]]竹下が[[創政会]]を旗揚げすることで爆発し、それから20日後に田中は[[脳梗塞]]で倒れ、政治の表舞台から去ったことによって田中支配は終焉を迎えた。
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− | == 関連書籍 ==
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− | *北岡伸一「自民党―政権党の38年」(中央公論新社)
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− | == 関連項目 ==
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− | *[[倒閣]]
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− | *[[第2次中曽根内閣 (第1次改造)|第2次中曽根内閣第1次改造内閣]]
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− | *[[山崎首班工作事件]] - 二階堂によると、田中との会談で「いよう、[[山崎猛 (政治家)|山崎]]首班!」と声をかけられ大喧嘩になったという。
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− | {{自由民主党総裁選挙}}
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− | {{デフォルトソート:しゆうみんしゆとうそうさいせんきよ1984}}
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− | [[Category:昭和時代戦後の政治]]
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− | [[Category:自由民主党内の政治抗争]]
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− | [[Category:1984年の日本]]
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− | [[Category:倒閣]]
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− | [[Category:中曽根康弘]]
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− | [[Category:1984年10月]]
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