丹羽氏

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丹羽氏(にわし)は、日本氏族

  1. 児玉丹羽氏 - 良岑安世を祖とする良岑氏の出身。
  2. 一色丹羽氏 - 足利氏の支流の一つである一色氏の出身。

児玉丹羽氏

起源

桓武天皇皇子良岑安世の末裔で、良岑氏本姓としている[1]。『寛政重修諸家譜』によると、児玉惟行[2]を祖とする武蔵国児玉党の末裔とし、尾張国に移った後に本姓を藤原氏に復したとされるが、これは本貫である尾張国春日井郡児玉村の地名を児玉党に付会したものであると考えられている[3]丹羽長秀以前の系譜ははっきりしていないが、代々尾張国守護斯波氏に仕えていたらしい。

戦国時代

丹羽長秀天文19年(1550年)から織田信長に仕えて活躍し、信長が天正10年(1582年)に本能寺の変明智光秀に殺害されると、羽柴秀吉に味方して山崎の戦いで共に光秀を討った。長秀は天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に越前国若狭国加賀国2郡123万石の大大名となった。

天正13年(1585年)に長秀が没すると、長男丹羽長重が後を継ぐが、同年の佐々成政越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、若狭1国15万石に減封。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。しかし、長重は小田原征伐で戦功を挙げて加賀国小松12万石に再び加増された。

江戸時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長重は西軍に与したことで一旦改易されるが、慶長8年(1603年)に徳川家康より常陸国古渡1万石を与えられて大名として復帰し、大坂の陣での武功により、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石、寛永4年(1627年白河10万700石と加増された。

長重の長男・丹羽光重寛永20年(1643年)に陸奥国二本松藩10万石に転封となり、以後丹羽氏はここに定着する。幕末の当主である丹羽長国は新政府軍に抵抗して奥羽越列藩同盟に参加したため、敗戦後に長国の隠居を条件として養子の丹羽長裕米沢藩主・上杉斉憲の九男)による家名存続は認められたが、知行は5万石に半減となった。明治2年(1869年)の版籍奉還で長裕は二本松藩知事となり、1884年明治17年)の華族令により子爵に列せられた。

系譜

一色丹羽氏

発生

九州探題一色範氏長男である一色直氏一色範光の兄)の末裔。一色氏は範光の系統が室町幕府四職として重用されたが、直氏の系統は没落し諸国に分家した。一色丹羽氏はそのうちの一つである。直氏の子の一色氏兼を祖とし、氏兼の孫である丹羽氏明尾張国丹羽庄を領し丹羽姓を称したとされる。

戦国時代

丹羽氏勝は尾張守山城織田信次の家臣であった。信次の家臣洲賀才蔵織田信長の弟である秀孝を誤殺し、信次が信長を恐れて守山より逃亡した際には、氏勝ら家臣団が守山城に立て篭もり織田信行の軍勢に抗戦した。その後紆余曲折の末に信長に仕えたが、天正8年(1580年)に氏勝は突如信長によって追放されてしまった。

江戸時代

氏勝の長男丹羽氏次織田信雄の家臣時代を経て、最終的には徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功を挙げる。功が認められ、氏次は三河国伊保藩1万石の藩主となった。

寛永15年(1638年)には伊保藩は廃藩となり天領になったため、伊保藩から美濃国岩村藩2万石に転封となった。以後丹羽氏が岩村藩主を務めたが、丹羽氏音の時代に家中で派閥騒動が起き、元禄15年(1702年)に越後国高柳藩1万石に減封。氏音の養子・丹羽薫氏延享3年(1746年)に播磨国三草藩に転封され、明治維新まで丹羽氏の統治が続く。明治維新後は華族令により子爵となった。1940年昭和15年)12月、当主丹羽氏郷の死去により、長女が家督を相続し、爵位を喪失した。

系譜

脚注

  1. 太田亮の『姓氏家系大辞典』ではこれを仮冒とし、多臣の一族尾張丹羽臣の後裔とする。
  2. 『寛政重修諸家譜』では、児玉惟行藤原伊周の次男である藤原伊行(遠峯)としている。
  3. 加藤[1997: 686]

参考文献