中国山地

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中国山地
氷ノ山
氷ノ山
所在地 兵庫県鳥取県島根県岡山県広島県山口県
位置
最高峰 氷ノ山 (1,510m)
延長 約500km
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中国山地(ちゅうごくさんち)は、日本の中国地方の脊梁をなす山地。また中国地方最高峰の大山やその外輪山の蒜山、および三瓶山は中国山地より北に外れて出来た独立峰の火山であり、これらは他の中国山地の山々とは生成過程が大きく異なる山であるが、国土地理院では中国山地中部と分類している[1]

東西に長く、東はおよそ市川円山川(いずれも兵庫県)付近から、西は響灘海岸(山口県西岸)までの約500kmに及ぶ。氷ノ山(標高1,510m)を除くと高い山でも標高約1,300m~1,000m程度、その他はおおむね標高約500m~200m程度の比較的低い山で構成されている。全般的に風化しやすい花崗岩が多く、侵食を受けて小起伏の多い準平原地形を呈している。平地部は津山盆地三次盆地などごくわずかな範囲に限られている。

中国山脈と呼ばれることもあるが[2]、地質学的な山脈の定義には当てはまらない。

気候を分ける山地でもあり、北側は日本海側気候、南側は瀬戸内海式気候になっている。

地勢

おおむね鳥取・岡山県境および島根・広島県境に沿って、中国山地の脊梁部が並んでいる。脊梁部を境として、北を山陰地方、南を山陽地方と区分する。脊梁部に高い山が集中しており、主要な山には、扇ノ山 (1,310m)、氷ノ山 (1,510m)、那岐山 (1,240m)、道後山 (1,268m)、比婆山 (1,264m)、大佐山 (1,069m)、恐羅漢山 (1,346m)、安蔵寺山 (1,263m)、冠山 (1,339m)、寂地山 (1,337m)、青野山 (907m) などがある。脊梁部の北側は、冬季の降雪が多い日本海岸気候であるのに対し、脊梁部南側は、年間通して温暖で、降水の少ない瀬戸内海式気候となっている。

脊梁部を挟んで南北に400m前後の高原地形が広がっている。特に島根県西部の石見高原岡山県から広島県東部に至る吉備高原がその代表である。この高原地帯は、大小河川による侵食が進行しており、平地部に乏しい。顕著な平地部は、津山盆地三次盆地程度であり、あとは微少な盆地が見られるに過ぎない。

中国山地に発する最大河川江の川であり、脊梁部を超えるほぼ唯一の河川であり、脊梁南部にも広い流域を持つ。江の川源流域は、平坦な準平原地形となっており、瀬戸内海側河川との河川争奪痕跡が多数見られる。その他、中国山地に源流を持つ主な河川には、千代川日野川斐伊川高津川阿武川吉井川旭川高梁川沼田川太田川錦川千種川揖保川矢田川円山川市川などがある。

中国山地周辺の地形図
中国山地周辺の地形図

生態系

植生は、おおむね暖帯林(カシシイクス)だが、標高1,000mを超える山々は温帯林(ナラブナカエデ)である。

中国山地に棲息する主な哺乳類は、キツネタヌキイノシシニホンザルツキノワグマなどが挙げられる。特にツキノワグマは、主な餌である木の実の不足、生息地の分断化と縮小、狩猟圧・駆除圧などにより保護が必要とされている。

特徴的な両生類には、オオサンショウウオ(鳥取県、兵庫県、広島県、岡山県)がある。

地質

中生代以前、中国山地は存在しておらず、日本列島のある場所は海であった。中国山地の形成は、新生代中新世に起こった日本海拡大による日本列島の原型誕生後、後期中新世から鮮新世にかけての広域的な隆起による。

海洋プレート大陸プレートの下へもぐっていく際、プレート上の海底堆積物が大陸プレートに付加していく。これを付加体という。前にできた付加体は、後からできた付加体に押されて、大陸プレートの下部へと追いやられる。そして、地中深くなると高い圧力により変成作用を受け、変成岩となる。

中国山地でもっとも古い歴史を持つのは、古生代石炭紀(約3億6千万~約2億8千万年前)にアジア大陸東縁に形成された秋吉帯と呼ばれる付加体だったと考えられている。秋吉帯は、地中深くで低温高圧の変成作用を受けた後、古生代末期~中生代初期の秋吉造山運動によって隆起し、陸地となった。秋吉帯を起源とし低温高圧の変成を受けた変成帯を三郡周防変成帯(さんぐんすおうへんせいたい)といい、現在では主に北九州地方山陰地方に分布している。

秋吉造山運動によって一旦隆起した陸地は次第に沈降していき、再び海底となったが、中生代後期の白亜紀に入ると、アジア大陸東縁でマグマが上昇して造山運動が活発となり、再び陸地が形成された。これを佐川造山運動という。約1億年前に起こった。約8千万年前前後には火山活動が激化し、カルデラが複数形成された他、この時期に形成された火砕流堆積物が現在の中国山地を広く覆っている。また、白亜紀の一つ前のジュラ紀で形成された付加体が、地中深くもぐるよりも前に、上昇したマグマの熱による高温低圧の変成作用を受けた。これによる変成帯を領家変成帯(りょうけへんせいたい)といい、現在では主に瀬戸内海沿岸に分布している。

佐川造山運動のとき、上昇してきたマグマは冷えると花崗岩になった。中国山地に多く見られる花崗岩はこのとき形成されたものと考えられている。中国山地の花崗岩は大きく山陰花崗岩、山陽花崗岩、領家花崗岩に区分される。このうち山陰花崗岩は磁鉄鉱を多く含んでおり、これが風化して堆積した砂鉄は中国山地におけるたたら製鉄の盛行をもたらした。 花崗岩は、風化・侵食の作用を受けやすい。そのため、白亜紀以降の大陸東縁部は侵食作用により、新生代第三紀にかけて準平原化が進んでいった。

中国山地には階段状の大地形がよく残存している。道後山付近の標高1,200m前後に準平原地形が見られ、これを道後山面という。その西側には標高800m~400m前後の石見高原があり、南側にも同じく標高800m~400m前後の吉備高原があるが、いずれも起伏の小さい準平原地形である。これを吉備高原面という。 三者とも中新世半ば(約1600万年前頃)に、当時の海面に近い高さで形成されたと考えられているが、それに先だって前期中新世までに低平な原形ができていたらしい。1600万年前頃には一時期暖かい海の侵入があり、この海に堆積した地層が吉備高原面上に、さらには道後山面のある標高1000m付近にまで残っており、この地層の堆積以降に広域の隆起があったことが分かる。

後期中新世以降、段階的な隆起が始まり、中国山地の誕生が始まった。中国山地全体が隆起したが、吉備高原の南側は隆起が活発でなく、侵食を受けて小起伏化が進んだ。これを瀬戸内面という。このように、中国山地は道後山面、吉備高原面、瀬戸内面といった階段状の大地形となっている。

中国山地の花崗岩は、風化してマサ(真砂)と呼ばれる砂粒となる。マサの地盤は非常に不安定で、土砂崩れを引き起こしやすい。そのため、中国山地は砂防区域が多い。河川に大量に流れたマサは、海へ出ると砂浜砂丘を形成する。鳥取砂丘や瀬戸内海の白砂青松は、花崗岩を起源とするマサによるものである。

人文史

中国山地における人間活動の痕跡は、旧石器時代にさかのぼる。帝釈峡(広島県)の遺跡から、旧石器時代のものと考えられる遺物が出土している。その後の縄文時代についても、帝釈峡を中心に複数の遺跡が発見されている。

弥生時代の中国山地の遺跡からは、竪穴式住居跡、銅剣銅鐸などの祭祀具、高地性集落跡などが発見されている。さらに、古墳時代になると、津山盆地や三次・庄原盆地に古墳が作られている。このことは、中国山地においても首長層が出現するだけの社会が形成されていたことを意味する。古墳時代ごろに大陸から製鉄技術が伝来したとされているが、花崗岩に含まれる磁鉄鉱を資源として、中国山地でも製鉄が始まっていたのではないかと考えられている。

当初、中国山地の製鉄は鉄鉱石を原料としていたが、平安時代ごろから砂鉄原料へ変わっていった。そして、砂鉄を使用した製鉄は、たたら製鉄という方法に発展し、中世から近世まで続いた。映画『もののけ姫』は中世の中国山地を舞台としており、たたら製鉄も物語の重要な要素として登場している。

中国山地におけるたたら製鉄は、川底の砂をかごでさらい、砂鉄のみを抽出していた。この川砂さらいは河口付近の砂浜形成の原因となったとも言われ、斐伊川の河口が出雲大社付近から宍道湖へ移動したこと、日野川河口付近から弓ヶ浜が伸びていることなどの原因の一つに、製鉄のための川砂さらいがあったとする見解もある。また製鉄に必要な薪炭の供給のため多くの木々が伐採され、比婆山周辺を中心に「毛無山」という山名が複数見られる。

平安時代に始まった山岳仏教は、中国山地の特に山陰側で栄えた。投入堂で知られる三仏寺や大山山麓に建てられた大山寺などがその代表である。

鎌倉時代になると、中国山地の各所で荘園が開発され、関東武士たちが新補地頭として移住し、土着化した。その一例が、安芸の毛利氏であり、戦国時代には毛利元就が出て中国地方を統一した。江戸時代には、中国山地にも新田が開かれ、多くの水田が見られるようになった。それでも江戸期における中国山地の主産業は製鉄であり、次いで高原地形を活かした牛の牧畜だった。

太平洋戦争の終結後、日本では産業の著しい発展が見られたが、中国山地は平地に乏しく、交通も不便であり、近代的な産業の発展は見込めなかった。高度経済成長期ごろから、若年層を中心に人口流出が著しくなり、廃村となった箇所も多く、過疎化が中国山地の大きな問題とされた。併せて、高齢者人口の割合が高くなり、高齢化も問題として浮上してきた。20世紀末において、日本で最も過疎化高齢化が進んでいた地域の一つである。 その中で、21世紀に入るとグリーンツーリズムなどの方策で地域の活性化を図ろうとする動きも出てきている。

交通

現状

中国山地における交通は、中国山地を南北に横断して山陰地方と山陽地方を結ぶ連絡路、すなわち陰陽連絡路が重視されてきた。

中国山地における道路は、国道53号鳥取市-岡山市)、国道180号米子市-倉敷市)、国道313号倉吉市-福山市)、国道375号大田市-呉市)、国道54号松江市-広島市)などがあるが、いずれも陰陽連絡路である。

高速道路では、まず中国山地を東西に縦貫する中国自動車道が整備された。これにより中国山地における交通事情が大きく変わった(詳細は後述)。山陽自動車道も東西縦貫道であり、中国山地の最南部を通過している。陰陽連絡路としては、中国横断自動車道米子自動車道岡山自動車道浜田自動車道播但連絡道路鳥取自動車道松江自動車道尾道自動車道)が後に整備されている。

中国山地における鉄道路線は、陰陽連絡線が主である。陰陽連絡線を列挙すると、播但線因美線津山線智頭急行伯備線福塩線三江線芸備線木次線錦川鉄道山口線である。これに対し、東西縦貫線としては、姫新線~芸備線があるのみで、路線の重要性は陰陽連絡線ほど高くない。

歴史

古くは律令制で定められた美作駅路があった。これは播磨と美作を結ぶ駅路であるが、現存する史料からは、古代における中国地方の交通の状況は、これ以上判明しない。

江戸時代に下ると、出雲街道や銀山街道、尾道街道などが整備されているが、これは山陰地方と山陽地方を結ぶ陰陽連絡路としての性格が強かった。明治時代以降に敷設された鉄道も、陰陽連絡路の整備が主眼に置かれた。

しかし、昭和期になり、中国地方において最初に整備された高速道路(中国自動車道)は、中国山地を東西に縦貫するルートを通った。これにより、従前、中国山地の住民は、陰陽連絡路(一般道や鉄道)から山陽の主要都市に出てから大阪または九州方面へ向かっていたのが、直接、大阪や九州へ行くことが可能となり、従来の陰陽連絡路、特に鉄道のシェアを奪った。21世紀前期には、高速道路の陰陽連絡路が整備される予定である。

人口

中国新聞によると、中国山地にあたる161旧市町村(平成の大合併前の区分)の人口は、2015年住民基本台帳を基に算出すると86万9935人になる。1965年国勢調査では、同じ区域に136万288人が住んでおり、50年で約49万もの人口が減少したことになる[3]

中国山地における人口減少の様相は時期によって異なり、高度経済成長期にはどの市町村でも激しい人口流出が起こっていた。その後は人口流出が穏やかになり1990年年代まで人口減少は比較的抑えられていた。2000年頃以降は市町村によって人口動態の差が顕著になり、中には移住者呼び込みなどによって人口減少を抑えている自治体も見られる[3]

1965年から2015年の間に人口が半分以下になっている旧市町村も少なくない。しかし同じ期間でも、赤穂市熊山町松江市八雲村など、都市部に近い旧市町村にはベッドタウンとして人口を増やしているところもある。また、旧三次市・旧千代田町など中山間地域の中心地では人口の減り方も緩やかだった[3]

脚注・参考文献

  1. 国土地理院 日本の主な山岳標高
  2. 字室克彦君「第3回中国山脈縦断100キロウォーク大会」優勝
  3. 3.0 3.1 3.2 中国新聞取材班『中国山地 過疎50年』(2016年、未来社)58 - 63ページ

関連項目