下諏訪町

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下諏訪町(しもすわまち)は、長野県諏訪郡。平安時代には土武郷と呼ばれていた。

諏訪湖八島ヶ原湿原下諏訪温泉諏訪大社などがある観光地かつ鳥居前町。かつては中山道甲州街道が分岐する宿場として栄えていた。

地理

下諏訪町は、長野県のほぼ中央にあり、直線距離で県庁所在地長野市から50km、東京から200kmのところにある。町域は、南の諏訪湖から、北の筑摩山地美ヶ原、1,800m級)まであり細長い(町内の美ヶ原は南端部の山林地帯のみで観光には不向き)。町域は細長いが実際に住民が居住しているところは諏訪湖周辺の盆地で居住区域は正方形になっている。居住区域は狭いが、碁盤の目に近い道を持ちそのうえ大型の小売店や住宅が密集しているため非常に暮らしやすい。また、盆地部のほとんどは住居である。標高は長野県内の都市では高い方で中心部はおよそ760m。

河川では、砥川が町の西部を二分するように横断している。また、十四瀬川岡谷市との境界をなしている。八ヶ岳中信高原国定公園が町内にあり、その中に八島ヶ原湿原がある。

町中心部は砥川の扇状地になっている。また、下諏訪町はフォッサマグナの上にある。町域は5000万年前は海底にあった。

森林面積は5,510haで、町域全体の約82%を占める。

気候

下諏訪町などの諏訪地方は中央高原型 (5d) の気候が顕著に現れるところにある。の寒さは厳しく、特に早朝は零下10度前後まで冷え込むことも度々ある。これが諏訪地方の特産である寒天を作るための条件となっている。積雪は多くても30cmほどである。冬と夏、昼と夜での寒暖の差が激しいのが特徴である。また、晴れる日が多く日照時間は全国でもトップレベルである。その反対に、雨は少なく全体的に乾燥している。梅雨の影響も少ない。諏訪盆地は山に囲まれているので日中でも風速7~8m/sの強い風が吹く場合がある。

気象区分では下諏訪町は長野県中部のうち諏訪地域に入る。

隣接している自治体

下諏訪町は、4市町と隣接している。諏訪市岡谷市とは平続きになっているうえ、同じ「諏訪」のアイデンティティーをもっているため非常に密接な関係にある。ただし、諏訪大社の神事に関しては下社に属し、諏訪市の一部と茅野市が擁する上社とは異なった神事を持っている。松本市とは山を隔てて隣接しており直線距離では比較的近いがあまりにも山深く、地形も険しい等の要因があり、直通できる道路や鉄道は敷設されていない。よって、他の自治体を経ずに直接行き来することはできない(但し後述するように群馬県片品村~福島県間のような200km以上に及ぶ理不尽な大迂回を強いられることはなく往来自体は比較的容易である)。しかしながら都市規模が大きく岡谷市や諏訪市にない機能、施設、催し物、小売店等を持っていること、岡谷市、塩尻市を経由する形だが国道や電車が通っていてアクセス自体もそれほど困難ではない等の要因から、岡谷や諏訪ほどではないが密接な関係にあり交流も多い。長和町とは山を隔てて町域と町域同士で隣接している。国道142号線が敷設されているが、特に冬季の移動が難しく交流が少ないため、町民の中には隣接していることを知らない人もいる。

以下の表は隣接自治体の位置関係をあらわしたもの。

北西: 松本市 北東: 長和町
西: 岡谷市 下諏訪町(中心部) 東: 諏訪市
南西 南:諏訪湖 南東

人口

下諏訪町(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

歴史

下諏訪町を含めた諏訪地域は近くに全国でも数箇所しかない石器の材料となる黒曜石の一大産出場である和田峠(町北部から長和町にかけて採掘跡がある)の恩恵により縄文時代から人の居住が見られた。この地域で産出された黒曜石は、関東一円の遺跡から見つかっており、黒曜石の生産に関しては一説によれば日本列島内で最も先進的な地域だったらしい。付近の茅野市には多くの縄文遺跡があり、同市の棚畑遺跡からは国宝に指定された土偶(通称「縄文のビーナス」)が出土している。弥生時代には、出雲などの西国から来た渡来人稲作文化を諏訪へ伝えた。

古代の律令制下において、町域は信濃国諏訪郡の一部であった。続日本紀によると、奈良時代の一時期、諏訪地域は信濃国から分立し、諏方国として1つの国をなしていたが、約十年で信濃国に復された。

戦国時代初期までは現在下諏訪町にある諏訪大社下社方と諏訪市および茅野市にある上社方が闘争状態となる。下社方の金刺氏は上社方の諏訪氏に対して劣勢となったため、上社方の内紛に付け入って復権を図るため戦いを仕掛けるがこれに失敗。最後の当主は甲斐の武田信虎を頼って落ち伸びた。信虎は甲斐国内を統一すると諏訪地方への最初の侵攻を開始するが、、金刺氏の失地回復も大義名分のひとつであった。その後、晴信(信玄期)に本格化した信濃侵攻における諏訪攻めによって諏訪とともに武田家に占領される。

諏訪氏の高島藩が支配していた江戸時代の初期に街道整備が行われ、中山道甲州街道を合流させるため、これまで通っていた東山道の道筋を一部改定し、合流点に下諏訪宿を設けた。甲州街道中山道の分岐であること、北に和田峠、東に塩嶺峠と中山道有数の難所を控えることから、宿場に泊まる旅人が多く大いに賑わった。温泉が湧出している数少ない宿場町のひとつだった。貞享年間は飢饉が続いており、農民は困窮していたが高島藩主が年貢を下げたためなんとか落ち着いた。

明治維新後、萩倉地区の山間部で水車を利用した製糸業が始まる。明治36年の中央線開通により平野部に工場が移転し、諏訪地方の中で最も早く器械製糸が始まった。1910年代から1920年代にかけて隣の岡谷市が資本の集中に成功し、製糸業の中心地として栄えた。その影響が町内にもおよび、諏訪湖周辺は生糸工場が立地し山の裾野では養蚕に必要な桑の栽培と養蚕が盛んであった。

太平洋戦争中は大規模な工場が大都市から町内を含めた諏訪地域に疎開移転し、それが現在の東洋のスイスと呼ばれるこの町の精密工業の礎となっている。三協精機によるオルゴール製造で生産高が一時世界一となり、また隣の諏訪市に本社を置くセイコーエプソンはこのときの移転があったから現在の姿があるといわれている。

高度経済成長期には諏訪湖の汚染と富栄養化が顕著となり、全国で下位クラスの汚い湖になってしまったが、現在は浄化運動が行われ透明度は改善傾向にある。平成の大合併は諏訪地域にも影響を及ぼし諏訪地域全体で合併する構想も出たが、現在はなくなり自立の道を模索している。

沿革

  • 1871年(明治4年) - 廃藩置県により、高島県。後筑摩県に編入。
  • 1874年(明治7年)10月9日 - 下諏訪町(村格)・友之町(村格)・下原村・久保村・武居村・富部村・高木村が合併して下諏訪村となる。
  • 1876年(明治9年) - 筑摩県の廃止により、長野県に編入。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市町村制施行。単独で諏訪郡下諏訪村が発足。
  • 1893年(明治26年)6月30日 - 町制施行。下諏訪町となる。
  • 1958年(昭和33年) - 岡谷市の東町地籍及び東山田地籍を編入。
  • 1983年(昭和58年) - 諏訪湖の面積分割。

行政

住所表記

下諏訪町は1889年(明治22年)の町村制施行から一度も合併を経験していない自治体であり、町村制施行前の自然村を引き継いだという意味での大字は存在しない(小字は存在する)。現在の下諏訪町の正式な住所表記は「下諏訪町○○○番地」または「下諏訪町社○○○番地」のみであり、住民票等の公的文書ではこの形式での記載となる。その一方で、町内には古くから使用されている慣用町名(町内会)が存在しており、この慣用町名を使用した「下諏訪町東赤砂(町内会名)○○○番地」といった表記も流通しており、郵便番号がこの慣用町名ごとに振られていることもあいまって混乱をきたしている[1]

これに対し、町では慣用町名を住所の中に入れる形式ではなく括弧に入れて住所とは別に併記する書き方を推奨し、正式な住所表記が「下諏訪町○○○番地」または「下諏訪町社○○○番地」であることを周知したうえで町の通知文書でもこの表記に統一していくとしている。例えば前述の東赤砂地域の場合、「下諏訪町東赤砂○○○番地」ではなく「下諏訪町○○○番地(東赤砂)」といった表記になる。

教育

小学校

中学校

高等学校

交通

路線バス

道路

鉄道

下諏訪駅

経済

主要企業

  • 共立継器株式会社 本社工場 (電磁接触器、電動車輪、端子台など製造・販売)
  • 日本電産サンキョー株式会社 本社
  • ひかり味噌株式会社 本社 (味噌、即席味噌汁及び加工食品の製造・販売)
  • 大和電機工業株式会社 本社・下諏訪事業所 (多種めっき類加工装置、精密機械切削加工装置など開発・製造)
  • 日亜化学工業株式会社 諏訪技術センター (研究開発拠点)

かつてあった企業

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

友好都市

出身者

脚注

関連項目

外部リンク