上祐史浩

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テンプレート:Infobox オウム真理教徒 上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年12月17日 - )は、日本の宗教家で、ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表。

オウム真理教信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤだった。得意とする堪能な英語力と口八丁で巧みに詭弁を弄することから「ああいえば、上祐」といわれた[1]

概要

福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)で銀行員の父と元教師の母の間に生まれる[2]。その後、父親が東京貿易会社に転職し、一家で上京するが、父親の女性問題によって両親が別居し、母子2人暮らしとなる(両親が正式に離婚したのは上祐が出家した頃[3])。早稲田大学高等学院早稲田大学理工学部を経て、1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了し、同年4月に特殊法人宇宙開発事業団(現:独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に入る。宇宙開発事業団に入った理由は、当時の宇宙開発事業団会長がNHK教育テレビジョンで「これからの地球を救うのは宇宙である」と話しているのを聞き、感銘を受けたためである[3]も好きで、虹を神聖なものとして崇拝している[4]

早稲田大学在学中の1986年(昭和61年)8月に「オウム神仙の会」に入会する[2]。オウムでは、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった。1992年12月には、「尊師」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。1990年の武装化開始後は生物化学兵器開発に関与し、亀戸異臭事件にも参加するなど一歩間違えば死刑もありえた。1993年9月にはロシア支部長に就任[5]

地下鉄サリン事件後には麻原に日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。1995年10月6日国土法違反事件有印私文書偽造などの容疑で逮捕され[6]懲役3年の実刑判決を受ける。

1999年12月に出所し教団に復帰するとすぐに「アレフ」(現Aleph)を設立するが2007年5月、麻原彰晃の家族や反上祐派との対立から別団体として独立、「ひかりの輪」を設立した。なお、公安調査庁は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったのではないのかという見方をしている[2]

1980年代

入信以前
宇宙戦艦ヤマト江川卓超能力が好きな少年だった[7]。オウム時代とは対照的に成人前の上祐はあまり目立たない方であった。父親は事業に失敗し家に帰らず母子家庭状態となり、上祐が駅や公園で呆然としていた姿も目撃されている[7]
その後早稲田大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった[8]。ただし苫米地とディベートの試合をしたことはないとのこと[9]
入信
大学時代より超常現象チベット仏教教団活動、ヨーガなどに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原彰晃アーサナ解説記事をきっかけに、1986年に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となるオウム神仙の会に入会する[10]。麻原の空中浮揚写真は長年信じていた[11]
早稲田大学大学院を出た後、特殊法人宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し出家、ニューヨーク支部建設に携わる。出家番号は13。
ニューヨークでは入信者を増やすことができず、定期的に入信状況を伝える都沢からの電話で手厳しい叱咤激励の言葉をかけられ、プライドを傷つけられた。1988年にニューヨーク支部の閉鎖が決まると、麻原から「今後海外支部を担当することはないだろう」と言われる[12]
恋人を捧げる
上祐の恋人の都沢和子も共に出家信者となった。入会後は都沢は麻原に惹かれて上祐から離れている面があったが、尊師のマハームドラー(試練)だと認識し理解することで乗り越えられたという[13]。1995年に岩上安身のインタビューに答えて、「尊師は煩悩を遮断する力が強いので誰とセックスしてもいい」「彼女(都沢)は麻原尊師と融合するならば、それはあの、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、私は恋人を麻原尊師に捧げたいと思います。私はそういうのは負担ですので。」と語っている[14]
坂本弁護士との接点
1989年青山吉伸早川紀代秀らと共に坂本堤弁護士と訴訟回避に向けた交渉を行ったり、TBSに坂本堤弁護士インタビューの放送中止を要求する(TBSビデオ問題)などしていたが、未成年だけでなく上祐のような成人も親元に戻るべきとする坂本と見解の相違が生じて決裂した。
麻原から(坂本の名前は出さずに)教団に批判的な存在をポア(殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、そのため、坂本弁護士の殺害に関しては、同じく反対していた石井久子や上祐を除いて、麻原は殺害を謀議、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こす。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。
後年、上祐はテレビ朝日の取材の中で(その当時は自分がまだ知らなかったオウムの犯罪を考慮すると)坂本に先見の明があったと思うと証言している。

1990年代

衆議院選挙オウム出馬
1990年第39回衆議院議員総選挙に、真理党として教団幹部の立候補にも岐部哲也と共に最後まで反対していたと伝えられている[15]。選挙で上祐は東京5区から立候補したが、最下位で落選した。この選挙が惨敗に終わり、麻原が大勢の信者達を前に話した「国家権力によって票のすり替えが行われた」という陰謀論にもただ一人異議を唱え、「自分独自の電話調査では麻原彰晃に投票すると言った有権者は100名中誰もいなかった」と発言。一人で反駁を続けたため、麻原は選挙結果の調査をするが、麻原の考えは変わらなかった[5]
BC兵器開発
オウム真理教の兵器開発にも携わっており、生物兵器風船爆弾開発、ホスゲン爆弾計画、第7サティアンサリンプラント計画、亀戸異臭事件に関わっていた。
特に1993年6月~7月の亀戸異臭事件では炭疽菌培養のまとめ役を担当した。1993年1月(亀戸異臭事件の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に叱責を受けたと語るが[5]野田成人によると、どうせ失敗するのではと考える他の信者をよそに「絶対にこのプロジェクトは成功させるからな!」と張り切っていたという[16]
ロシア支部へ
1992年よりロシア支部に派遣されている[17]早川紀代秀曰くロシアでの上祐は「グルのようで、小麻原みたいになっていた」[18]1994年以降は麻原に「日本にいると身に災いが及ぶ」と言われほとんどをロシア連邦で過ごしていたが、一時的に日本に戻った際に教団による薬物を使ったイニシエーションを受け、麻原への帰依を深めることとなった[5]
地下鉄サリン事件後
1995年地下鉄サリン事件が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、日本へ帰国する。
サリン事件後、教団の広報責任者として青山吉伸村井秀夫らと共に、連日朝から晩までテレビのワイドショーニュース番組やラジオに出演し、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論、数々の疑惑事件は創価学会米軍自衛隊を初めとする国家権力の陰謀であり、サリン被害を受けているのはオウムだとの見解を示し続けた。海外メディアに対しても堪能な英語で反論した。
更に、記者会見の場でも才能を発揮。容疑が軽犯罪法、いわゆる微罪逮捕別件逮捕が横行した際は、怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら警察報道機関を批難した。逮捕容疑の一覧を記したフリップを公表すると「まぁただ私はあまりごちゃごちゃ言いたくないんですよ、これ(フリップ)見たら分かるでしょう? 馬鹿らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げたり、村井秀夫刺殺事件直後の会見では、記者が今度の事件で麻原彰晃代表が会見を開くのかと質問したところ、「麻原を殺す気ですか今度は? 麻原を殺す気ですか? 今度は!? 尊師を今度は殺すんですか!?」と激昂するなど、名演技を披露した[19]
ああいえば上祐
当時、連日メディアに出演し見せた言論パフォーマンスから、ジャーナリストの二木啓孝に「ああ言えばこう言う」を捩った「ああ言えば上祐」と命名され[1]「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場、ファンクラブができるなど一躍話題の人となった[20]。上祐ギャルからは「母性本能をくすぐる」「愛人になってもいい」「オウムを出てきちんとした宗教団体をつくったら、誘われて入っちゃう」「(神秘性を保つために)村井さんみたいに殺されたほうがいいのかも」と人気があった[7]
都沢和子とともに早稲田大学英語部(ESA)で教育ディベートの経験者であったことがマスメディアに報じられ、ディベートが相手を言い負かす技術として注目を集めることとなった。また、上祐の女性運転手も美人で話題となった(元六本木のホステス。1995年に元信者への逮捕監禁致傷の疑いで逮捕され、懲役2年、執行猶予4年の判決を受けた)。[21][22]
懲役3年の実刑判決
熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市波野)の土地取得をめぐる国土利用計画法違反事件1995年10月6日逮捕偽証有印私文書偽造・同行使の罪で10月28日に起訴される。
麻原の側近と目される教団幹部であったが、一連のオウム真理教事件では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の共謀や実行の場にいなかったことや、サリンプラント建設事件では建設・警備関係者のみが起訴されたこと[23]亀戸異臭事件などの生物兵器テロでは、有毒な炭疽菌が生成・噴霧されずに被害が出なかったため不能犯とされたことなどで、重要犯罪事件で起訴はされなかった。
法廷では麻原について「麻原尊師はあらゆる意味で導き手であり、救世主であり、私のすべて」「サンキュー・アンド・グッドバイ」と語った[24][25]
その後、懲役3年の実刑判決を受け、広島刑務所収監された。

2000年代

シガチョフ・チェイス
1999年平成11年)12月29日の広島刑務所出所後も、教団で有力者とみられていた。公安警察から当初は教団再活性化の危険性があるのではないかと危惧されていた。
しかし、2000年(平成12年)に現地で非合法化されたロシアのオウム信者が、日本でのテロによる麻原奪還・ロシア脱出を計画していることを知ると、ロシアの警察と警視庁公安部に通報し、信者も使って、その阻止に動いた。その中で東京入国管理局に該当信者の入国を認めないよう要請するが、東京入管は違法性がないとして入国させたため、自分に近い信者をロシア信者の監視に派遣した(シガチョフ事件)。
軟禁された代表
2002年(平成14年)に、アーレフで代表となるも、「オウム真理教事件を反省し、麻原彰晃の影響を排除する」という改革を打ち出したため主流派(麻原回帰派)の強い反発を受け、翌年にも事実上失脚。「修行」と称して自室に軟禁されるようになる。なお、この期間の間に、オウムの分派のケロヨンクラブで傷害致死事件が発生され、グループ内部から、上祐らアーレフ幹部に告発があったが、その際も、告発した信者に、警視庁に告発するように促している。
上祐派として分裂
2006年(平成18年)4月30日TBSの「報道特集」が、新教団立ち上げ計画を明言していた事を報道。この時期、千葉県習志野市のマンションを「上祐派」の道場として使用しながら活動するも、管理者からは立ち退きを要求されていた。2006年(平成18年)9月、習志野市のマンションからは立ち退き完了し、東京都世田谷区南烏山マンションを拠点とした。
公式サイトも教団から分離して、「脱麻原」(後述)を旨とする新教団として活動、その後も内部分裂が進み、2007年(平成19年)3月8日に、アーレフを正式脱退。翌9日mixiのアカウントを取得したことを、公式サイトブログで公表した。上祐のマイミクシィ(申請含む)は、わずか2日で上限の1,000人に達した。
5月7日に、麻原の教義を完全排除した、とする新団体「ひかりの輪」を設立して、代表の座についた。

2010年代

オウム時代の回想
2010年12月3日号のFRIDAY誌上にて、麻原彰晃はカリスマ的な能力はあるが、それが人格と一致せず、誇大妄想と被害妄想の精神病理的な人物と考えていると述べた。その麻原の人格の根源は、幼い頃からの親・社会に対する反感・逆恨みではないかと評した。また、ロシアに行く前から、オウム真理教がサリンを研究していた事実を承知していたが、当時反対しきれなかったのは、それは信者にとって、麻原彰晃に一般人と共にポアされることを意味するからだと述べた[26]
「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だと嘘をつき続けていた。自分は嘘吐きだった」と告白した。また、サリン事件が教団が起こしたものだと麻原に伝えられたのは帰国して1ヶ月後(村井秀夫刺殺事件の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。
また村井刺殺事件に関しては、後に雑誌『FRIDAY2010年12月3日号誌上の対談にて「覚醒剤取引などで関係の深かった暴力団による口封じ説、村井秀夫氏が生きていることで、第2・第3のサリン事件が起きる可能性があったために、当局が起こした謀略説などがあるが、予言を実現させるためにオウム真理教が行った自作自演の可能性があると感じている」と発言している[26]。『終わらないオウム』で実行犯の徐裕行と対談した2013年以降は「徐氏に会って、あれは単独犯だと感じた。彼の巨悪のオウムを倒すという義憤によるものです。 背景にオウムも暴力団も関係していないと思う」と単独犯説を主張するようになった。『田原総一朗 オフレコ!スペシャル』(2013年6月14日)で上祐と対談した田原総一郎はこの主張に対して「本当かな?」「彼(徐裕行)にとって悪なんかあるのかな」と疑問を投げかけている。
菊地直子による批判に回答
 2012年6月19日号の『SPA!』のインタビュー記事で、上祐が「菊地直子サリン生成に関与し、刑事責任を負った」と語ったことに関し、菊地は事実ではないと東京拘置所内から手紙で上祐宛に撤回するよう要請したが、返事はなかった。ただし、上祐のブログの回答によれば、週刊誌の記事は、上祐のインタビューを編集したもののために誤解が生じる文書となっているが、記事の中で「刑事責任を負った」とした主体は、菊池を指したものではないという真意を説明した。
 また、菊地がサリン生成に関与したかどうかは、生成に関与した遠藤誠一土谷正実らに聞けば分かるにもかかわらず、それをせず捜査機関の情報(=マスメディアの報道)を鵜呑みにしてに話したり、菊地は上祐ともほとんど話したことがないにもかかわらず、菊地の性格についても触れたりしている態度を2018年4月13日付のブログ中で批判しているが[27]、実際に菊地直子が逮捕された時点では、中川・土屋の裁判は終了しており、親族以外との接見交通が禁止されているため、事実は確認できない状況であった。
麻原死刑執行に賛成
2018年にオウム裁判が終結し、麻原死刑執行間近との噂が流れたが、麻原の死刑執行については賛成を表明した[28]。麻原は同年7月6日に死刑が執行された。
女性幹部信者殺害事件の目撃を認める
 2018年7月11日、週刊新潮が、上祐が女性信者殺害事件(立件なし)の場に同席し、殺害の光景を目撃していたことを報じた。上祐もこれを認めた[29]。同誌は、上祐が当初本件の取材に対して逃げていたにも関わらず麻原の死刑執行後に態度を豹変させ事件を認めた点や同誌の取材を受けた直後から自分からいくつかのメディアにこの事案を伝え「毒消し」を狙った点、同誌の記事が出ると一転、問い合わせに文書で回答した点を問題視。
 これに対して、ひかりの輪の広報部を通して上祐は、麻原の執行まで供述しなかったのは、事件が時効で被害者の両親が他界して久しい中で、①それが麻原の死刑に反対する勢力などに利用されて、執行が延びる可能性があることや、②麻原への捜査の結果として、それまで接見していなかった麻原が上祐の離反を深く知り、身の危険が生じる恐れがあるなどのために、麻原の執行まで供述できなかったと説明した。
 また、他のメディアに事案を伝えた理由に関しても、上祐によれば、新潮が上祐に対して、上祐が証言する前にも後にも、繰り返し本件の口外を禁じて独占報道を狙っていたにもかかわらず、新潮が新実の証言としたものは、新潮自身が新実の接見者(ないしは接見立ち合いの刑務官)からの伝聞情報であって、事件の時期と場所の情報が90年ないし91年で上九一色の第二サティアンの麻原の部屋などと現実あり得ないことや(その時期には上九一色に麻原の部屋はなく富士宮市の総本部にあった)、実際には新実や中川が実行したにもかかわらず、麻原が自分の手で絞殺した初めての事例である点が重要であるという重大な誤認をしていたので、新実ないし新実の接見者が、執行を伸ばすための情報発信をしているのではとの疑いが拭えず、新潮に対して同席した女性幹部などにも取材するなどして正確な報道をするように要請したが、十分に聞き入れられなかったために、他のメディアから客観的な事実と矛盾しない正しい情報を発信しようとしたためだと説明した。
 また、新潮の報道の後に、新実の接見者が、上祐に伝えたところによれば、警察も本件を知らないとした新潮の記事と異なって、少なくとも3年前から、新実はその接見者に本件を話しており、その接見に立ち会った刑務官も聞いており、所轄の警察署や公安警察も知っていたが、警察は新実らを捜査することは一切なく、放置していたという。この点に関して問われた新潮の記事は、3年前から警察・公安が知っていたことは知らなかったと回答し、警察が知らないと書いたことは、正式な捜査がなく警察組織全体で情報を共有していないという意味だったと説明した。  新実の接見者によれば、新潮に情報を提供したのは公安であると思われ、実際にも新実の接見者以外は、刑務官・警察関係者以外には本件を知る由がないから、警察・公安関係者だと思われる。その場合、なぜ警察・公安関係者が、時効であり、被害者の両親が他界しているとはいえ、長く本件を知りながらも公表せずにおいて、昨年秋になっていきなり慎重に情報を提供したかは不明であるが、ひかりの輪の広報部によれば、その時期が、新潮の記事でも言及されたように、昨年秋に、公安によるひかりの輪に対する観察処分の取り消し判決が出た時期と一致するので、それに対する巻き返しをはかるための公安による情報発信ではないかと思われる。そうした事情があるため、新実の接見者は、本件で、知りながら麻原の執行まで黙っていたということで、上祐のみが週刊誌で批判されて、警察や同席した女性幹部などが批判されないことは、不思議であると伝えている。
 なお、新潮の記事の中では、オウム問題に詳しいジャーナリストで参議院議員の有田芳生ももし本当に真相を解明するつもりがあるなら、記者会見を開くなどして疑問に答えるべきところを、文書1枚の自己弁護で済ませてしまった点を問題視し、有田芳生が、6年前に上祐が著書を出した際に寄稿と対談を引き受け、その時は「上祐も変わってきたのかな」と思ったが、今回の件を見て、その評価を捨てざるを得ないと述べた。これに対しては、ひかりの輪の広報部は、セキュリティ上の関係で記者会見(及び7月19日に予定していたトークイベント)を控えたとしているが、実際に新潮の報道からまもなくの7月23日に上祐に対して刃物が送付される事件が起こった。
 また、新潮の記事の中では、女性信者の母親から相談を受けていたオウム真理教被害対策弁護団のメンバー加納雄二弁護士は、「彼は果たして“宗教家”と言えるのでしょうか」と疑問を投げかけた[30]

略歴

著書

  • 『覚醒新世紀』東山出版(2002年)ISBN 483440076X
  • 『上祐史浩が語る―苦悩からの解放』東山出版(2002年)ISBN 4834400727
  • 『上祐史浩が語る〈2〉心の解放と神秘の世界』東山出版(2003年)ISBN 4834400786
  • 『オウム事件 17年目の告白』扶桑社(2012年)ISBN 978-4594067496
  • 『終わらないオウム』鹿砦社、上祐史浩, 鈴木邦男,徐裕行の共同著者、田原総一朗監修(2013年)ISBN 978-4846309497
  • 『危険な宗教の見分け方』 ポプラ社、上祐史浩、田原総一郎の共著(2013年)ISBN 978-4591136768
  • 『地下鉄サリン事件20年被害者の僕がききます』 dZERO、上祐史浩、さかはらあつしの共著(2015年)ISBN 978-4-8443-7676-7

関連項目

脚注・出典

  1. 1.0 1.1 「ああ言えば、上祐」の言葉を作った記者が語る 死刑執行で神格化された麻原彰晃の危険性 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
  2. 2.0 2.1 2.2 公安調査庁公式サイト "オウム真理教について"
  3. 3.0 3.1 田原総一朗 オフレコ!2013年6月14日放送
  4. 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.199
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 上祐史浩個人の総括 | オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- ひかりの輪公式サイト
  6. 彼の逮捕は各局が緊急報道特番を編成し全国に伝えられ、超力戦隊オーレンジャーなどが特番の影響受けた
  7. 7.0 7.1 7.2 有田芳生女性自身「シリーズ人間」取材班『「あの子」がオウムに!』p.76-103
  8. ミランカ『博士も知らないニッポンのウラ』、苫米地英人『洗脳原論』(春秋社、2000年)
  9. 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.256
  10. オウム出版『マハームドラー』 p.108
  11. 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.62
  12. 島田裕巳『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー、2001年)
  13. オウム出版『マハームドラー』 p.129
  14. 上祐インタビュー(1995.6) 岩上安身ウェブサイト(InternetArchive)
  15. 『オウム解体』宮崎学vs上祐史浩(雷韻出版 2000年5月1日
  16. 野田成人ブログ「報道4」 2018/2/12閲覧
  17. 『オウム帝国の正体』 p.81
  18. 江川紹子『魂の虜囚』 p.429
  19. オウム真理教 上祐史浩 外国人記者会見6/8 日本外国特派員協会 (日本外国特派員協会)
  20. 元オウム追っかけギャルたちが語る、幹部たちとの思い出 | ビジネスジャーナル
  21. 毎日新聞 1997年2月5日 夕刊9面
  22. 「オウム麻原」死刑執行 事件で注目された女性信者たちの“その後””. デイリー新潮. 新潮社 (2011年12月8日). . 2018-7-15閲覧.
  23. 「オウム サリン量産計画 上祐被告関与の疑い」 読売新聞 1995年12月13日
  24. 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.205
  25. 江川紹子『魂の虜囚』 2000年 p.86
  26. 26.0 26.1 ひかりの輪広報部(2011年01月19日)
  27. 上祐史浩さんのSPA!インタビュー記事について 2018.04.13 Friday 00:17
  28. 麻原の死刑執行はアレフを抑制して再発防止の決め手に | 上祐史浩
  29. TBS NEWS オウム元幹部・上祐氏「松本元死刑囚らが女性信者殺害を目撃」
  30. オウム時代の「女性信者殺害」を隠蔽! 「上祐史浩」に教祖の資格はあるか?”. デイリー新潮. 新潮社 (2018年7月26日). . 2018閲覧.
  31. ひかりの輪公式サイト"宗教と科学の統合"

外部リンク