上田利治
上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日[1])は、徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・監督。
現役時代は広島カープでプレーし、その後は広島、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス、日本ハムファイターズのコーチ、監督を歴任。特に阪急では黄金時代を築いたことから「名将」と称された。
Contents
経歴
プロ入り前・現役時代
海南高校時代から捕手。1954年夏の甲子園県予選では準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。弁護士になるつもりで一般入試で合格した関西大学二部法学部に進学したが、高校時代のキャリアを買われ野球部に入部し、村山実とのバッテリーで活躍した。関西六大学リーグでは4回優勝。1956年、2年生の時には全日本大学野球選手権大会に出場。決勝で島津四郎(熊谷組)、人見武雄らのいた日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。翌年、翌々年の同大会では、全盛期の立大にいずれも準決勝で敗退。リーグ通算68試合に出場し、258打数66安打、打率.256、1本塁打の記録を残した。プロでの活動には自信を持っていなかったが、「東洋工業からの出向社員として3、4年プレーし、その後は東洋工業で」との条件を出して熱心に口説いた広島カープの誘いに応じ、1959年に入団[2][3]。1年目は田中尊、川原政数と併用され、53試合に捕手として先発。しかし肩を壊した事もあり、その後は出場機会が減少。1961年限りで現役引退。
コーチ時代
引退後、東洋工業への復帰を願い出たが、松田恒次社長の要請もあって、1962年に専任コーチとしては、日本プロ野球史上最年少の25歳で広島の二軍コーチに就任[2][3][4]。1963年からは一軍コーチとなったが[5]、1969年シーズン後、根本陸夫監督とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から退団。同年オフ、阪神タイガースの選手兼任監督に就任した村山実からヘッドコーチとしてオファーがあり上田も応諾したが、報酬をめぐる第三者を介した交渉が長引き、それが決着したところ、阪神球団社長の戸沢一隆が「ここまで長引いての入団はうまくいかないから」という不可解な理由で話を反故にしたという[6]。結局、1970年は中国放送の野球解説者を務めた。
1970年オフに阪急ブレーブスのヘッドコーチに就任し、1971年~1973年まで務める。これは、現役を引退した山内一弘にコーチ就任を要請した監督の西本幸雄が、すでに読売ジャイアンツ(巨人)コーチ就任が決まっていた山内から「若くて頭のいい奴」として紹介されたことによるものだった[7][8]。このとき先に鶴岡一人が近鉄の監督になるという話があり、尊敬する鶴岡から上田はコーチとして呼ばれていた[8]。しかし発表前日に鶴岡がキャンセルしたことで、阪急に入った[8]。上田は、近鉄に入っていたら監督はやらなかったと思うと話している[8]。
西本は守備コーチの想定だったが、上田の要望により打撃コーチとしての入団になった[7]。当時の西本と上田の関係について、フロントの矢形勝洋は巨人の川上哲治・牧野茂コンビのような相性のよさではなかったといった発言をおこなっている[7]。
監督時代
1974年、辞任した西本監督の推薦により37歳の若さで阪急の監督に就任する[9]。この就任について上田は、「西本がフロントで支援する」と聞いたので受諾したが直後に西本の近鉄監督就任が決まり、「西本さんが球団を離れるとわかっていたら、引き受けていなかった」と後年の取材で述べている[10][11]。監督就任2年目の1975年から日本シリーズ3連覇を含むリーグ4連覇を果たし、現在でも語り継がれる阪急の黄金時代を築き上げた。日本シリーズ3連覇は三原脩監督率いる西鉄ライオンズ、水原茂監督率いる巨人、川上哲治監督率いるV9時代の巨人、森祇晶監督率いる西武ライオンズ(1986年~88年、1990年~92年の2度)しか達成していない。
1978年もリーグ優勝して日本シリーズに進出し、読売ジャイアンツのV9以来史上2チーム目の4年連続日本一がかかった1978年の広岡達朗率いるヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、佐藤義則、山口高志の二人の主力投手を故障で欠くなど、苦しい事情を抱えてのものになった。それでも事前の予想は常勝阪急の圧倒的有利だったが、3勝3敗となったタイで迎えた第7戦の6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと上田が抗議し、この飛球を本塁打と判断した判定の取り消しと、本塁打と判定した線審の富澤宏哉の交代を求めた。審判団は受け入れず、激怒した上田は選手をグラウンドから引き上げて抗議を続け、この抗議による中断はシリーズ史上最長の1時間19分にも及んだ。ついにはコミッショナーの金子鋭がベンチの上田のところまでに出向き「コミッショナーの私がこうして頭をさげる。それでも上田君、試合を再開してくれないのか?」と懇願するまでの事態になり、ついに上田は試合再開に同意する[12]。なお、この中断の間待機をしていた足立光宏は膝に水がたまり投げられる状態ではなくなり降板。その後マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はこの試合でヤクルトに0-4で敗れ日本シリーズ4連覇はならなかった。この日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。この抗議について左翼手として一番近くで打球の行方を見た簑田浩二は「ファウル」とジャッジする富澤線審にすぐ「完全なファウルじゃないか!」「ボールを見失ったとハッキリ言え!などと押し問答になった」[13]、上田監督の長い抗議についても「選手はこの日のために春のキャンプから長いシーズンを戦ってきた。それをあんな判定で台無しにされるなんて。選手の誰もが監督と同じ気持ちだった。上田監督にはみんな感謝の気持ちでいっぱいだった」などと述べている[14]。前記の佐藤義則は「自信があったからできたことだと思う」と言っている。
1979年と1980年はNHK専属解説者およびスポーツニッポン評論家を務めたが、後任監督の梶本隆夫の成績不振もあり1980年のオフ、新任の柴谷貞雄オーナーから「王者奪還」という強い要請で阪急監督に復帰する。福本豊によると、それに先立つ1980年のシーズン中には西武と接触しており、阪急の選手の間では「西武・上田監督」の噂が流れていた[15]。それだけに、阪急復帰が決まると「エーッ、本当に戻ってくるの!?」と大声で話す選手もいたという[16]。
阪急の監督復帰後は今井雄太郎、福本、山田久志など西本に鍛えられたベテラン勢に加え、松永浩美、石嶺和彦、藤井康雄、福良淳一、佐藤義則、山沖之彦、星野伸之、古溝克之などの若手を見出し育成、さらに1983年にはブーマー・ウェルズが加入する。ブーマーは翌1984年には三冠王を獲得する大活躍を見せ、同年5度目のリーグ優勝を果たした。同時期は西武ライオンズの全盛時代だったこともあり、第2期監督時代のリーグ優勝はこの年だけであるが、安定した戦力を背景に毎年のように優勝争いに加わり、常に上位に食い込む結果を残した。
1988年オフに球団の親会社が阪急電鉄からオリエント・リース(翌年より、オリックス)に変わった後も続けて指揮を執り、「ブルーサンダー打線」をつくりあげ、2年連続で2位に食い込む成績を残し勇退。編成部長に就任しフロント入りするも、球団の方針と意見が合わず、わずか1年で退団する。1992年からサンテレビ野球解説者・デイリースポーツ野球評論家。同年8月に福岡ダイエーホークスのオーナー代行の中内正から監督要請を受け、上田も了承し組閣の準備に入っていたが、父のオーナー中内功が西武の管理部長根本陸夫の招聘に動いた結果、就任に至らなかった[17]。
1995年から日本ハムファイターズの監督に就任する。日本ハムからの話は1992年のオフにもあり、このときはフロントの一部が難色を示して実現せず[18]、2年越しでの就任であった。前年1994年は故障者が続出したこともあり最下位候補であったが、就任1年目は4位と健闘する。当時二軍でくすぶっていた6年目の岩本勉を「秘蔵っ子」として抜擢し、93年、94年と外野手だった田中幸雄を遊撃手に戻しパ・リーグを代表する遊撃手として育てる。1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げ、優勝への期待も高まったが、同年9月9日に家族の新興宗教入信トラブルを理由に突然休養する[19]。その後はオリックスに優勝をさらわれ2位に終わった。同年オフに復帰、1998年には「ビッグバン打線」と呼ばれる強力打線で8月まで首位を独走するも後半戦になると打線が低迷して失速し、西武に抜かれ2位に終わりまたしても優勝を逃した[20]。翌1999年は高卒新人実松一成を一度も一軍昇格させず5位と低迷し、監督を辞任した。
監督退任後
2000年から関西で野球解説・評論家活動を行う(サンテレビ、デイリースポーツ)。2003年、野球殿堂入りを果たす。日本ハムでもフロント入りを要請されたが、上田は固辞した。
2017年7月1日午前2時55分、肺炎のため川崎市内の病院で死去[21]。80歳没。
人物
プロ入り前・現役時代
実家は魚屋。5人兄弟の長男で、叔父は徳島県弁護士会の副会長だった。上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でやはりゴルファーの健夫、直道の実家があった。
関西大学には野球推薦で400点満点の入試で+100点されるという条件で受験。しかし実力で298点取ったため結果は398点となり、受験生全体でダントツの成績を取り、実力で大学に合格できる学力があった(最初は学校推薦で無試験で進学するよう薦められたが、上田はそれを断り筆記試験に臨んだ)。
高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。
野球がダメなら東洋工業(現・マツダ)にとも言われていた。しばらく弁護士を志望していた時期もあり、1年目の日南キャンプには六法全書を持ち込んで野球の練習の合間に法律の勉強していたほどである。また学生時代は大変な読書家でもあり、ナポレオン・ボナパルトの著作をすべて読破していたという。
コーチ時代
就任後、デール・カーネギーの「人を動かす」や「孫子の兵法」を貪り読み、リーダーシップを学んだ。山本一義・衣笠祥雄・水谷実雄・三村敏之・山本浩二を育てる一方、オフに自費でワールドシリーズを視察する姿勢などが評価され、阪急に入団。「癖盗みの天才」といわれたダリル・スペンサーと出会い、スパイ野球を会得。「花の44年組」の一人である加藤秀司を育て、リーグ2連覇に貢献。
監督時代
西本幸雄から受け継いだ円熟期の阪急、若返りを迫られた阪急2期目、最下位からチーム作りを迫られた日本ハム時代と、3つの大きく異なるチーム状況下で、いずれも結果を出したことから「オールマイティー型監督」と評された。
現役時代に高い実績を残した選手が監督に就任するケースが多い日本プロ野球界において、選手としては無名という異例の経歴であり、選手と指揮官の才能は別物であることを証明した監督となった。早くから指導者として期待されており、現役引退時に松田オーナーが「将来の指導者として入れた」と本人に伝えた程、当時から野球理論に長けていた。
広島東洋カープとの1975年の日本シリーズに臨むにあたり、敵将・古葉竹識の知略を尽くした手法を熟知していた上田はスタッフに対し、シリーズ1・2戦における広島投手陣の投球をできる限りフィルム撮影しておくよう指示を出した。上田と古葉は同学年であり、かつての広島でチームメイトで一緒に広島を出て、再び相見えたことから「兄弟対決」ともいわれた[8]。こうして持ち込まれた膨大なフィルムをコーチ陣とともに広島投手の癖や傾向等を徹底的に研究した。結果、阪急はこのシリーズを制することになる。第1期阪急監督時代は「パシフィック・リーグに阪急の敵なし」と言われ、日本シリーズでも山本浩二を擁する広島や、王貞治が現役だった巨人を圧倒する力をみせる等、その強さは伝説化している。この時代の阪急は日本シリーズで3年連続で巨人を倒した三原脩率いる西鉄、川上哲治率いるV9時代の巨人と並び、プロ野球史上最も強かったチームとして今でも語り継がれている。
1976年、巨人との日本シリーズで後楽園球場に乗り込んできた上田は、やおらメジャーを取り出し、ホームからレフトポール下までの距離を測りだした。そして「なんや、87メートルしかないやないか、90メートルと書いてあるのはインチキや」と(日本ハム戦で使っている球場であるにもかかわらず)言い放つ。このパフォーマンスにより阪急ナインは「監督、巨人を上から見とるな」と硬さが取れ、一気に3連勝するきっかけとなった。
第2期監督時代には、毎年のように優勝争いを繰り広げるものの最後の競り合いに弱いところがあり、ここ一番の大事な試合を落とすことが多かった。ペナントレース後半、優勝争いから脱落するのは上田率いる阪急・オリックスということが多かった。たとえば1989年のシーズンは前半戦を終えて2位近鉄に8.5ゲーム差をつけ独走状態を築いていたが、後半戦に入り打線がスランプに陥り混戦状態になる。近鉄に加え、前半戦で一時最下位に落ちた西武が復調し、三つ巴の優勝争いを繰り広げるも最後は近鉄に優勝をさらわれてしまい2位に終わった。
1990年代の日本ハム時代も、優勝経験のある選手が移籍してきた選手程度いなかったことや、獲得した落合博満が期待に反して活躍しなかったことが影響し、後一歩で2シーズンも優勝を逃した。しかし、客足が遠のき、低迷していた当時の日本ハムで上田が残した功績は大きく、5年間でBクラス3回の中でゴールデングラブ賞受賞者を4人、ベストナイン受賞者を5人輩出した実績がある。育成に関しても小笠原道大、井出竜也、西浦克拓、野口寿浩、上田佳範などスタメンに定着できなかった若手を中心選手に育てた。特に小笠原は捕手から一塁に転向させ、一気に打撃センスが開眼。また、怪我で低迷していた片岡篤史をクリーンアップに起用し、復活させた。金子誠は上田の監督在任中の1996年に新人王を獲得し長らくレギュラーで活躍した。1995年には後にMr.ファイターズの称号を得た田中幸雄を非常に珍しい4番・遊撃手に抜擢した。田中はこの起用に応え、初芝清、イチローと分け合って打点王を獲得した他、ゴールデングラブ賞、ベストナインも受賞しパ・リーグを代表する選手へと育てた。当時の多くの選手が上田への感謝を示している。
ドラフト1位重複の抽選に弱かった。特に阪急・オリックス時代には、単独指名の年と、1987年の伊藤敦規(日本ハム球団との抽選)や1988年の酒井勉(ロッテ球団との抽選)を除いて、1980年に石毛宏典(西武)、1981年は金村義明(近鉄)、1982年は野口裕美(西武)、1983年は高野光(ヤクルト)、1986年は田島俊雄(南海)、1989年は野茂英雄(近鉄)とことごとく外している。それらの選手の「外れ1位」も活躍したのは金村の外れ1位・山沖之彦ぐらいであった。後年、日本ハム監督時代にも1995年に福留孝介(近鉄・入団拒否)、1998年に松坂大輔(西武)を1位重複で外している。2位重複の抽選でも1997年に、司会者の手違いで順番が先になったにもかかわらず新沼慎二(横浜)を外している。
パンチ佐藤(佐藤和弘)を(前出野茂を外した上で)1位指名したのは上田だった。奇しくもパンチの引退後の初仕事が当時日本ハム監督就任間もない時期の上田のインタビューだった。上田はインタビュー中、「パンチ、なんで現役やめるの! もったいない!もったいない!」としきりに言っており、豪快な言動で知られるパンチは終始恐縮していた。パンチは上田を自分をプロに導いてくれた名監督として深く尊敬している。上田本人は真面目な性格だが、パンチや岩本のような明るい性格の選手が大好きだった。そうした明るい選手や、結果を出した選手を誉める際に「ええで!」という言葉を発したと報じられ、第2期阪急・オリックス監督以降、ええで節として上田のトレードマークになった。ただし、後年の本人への取材では「関西弁の『ええで』といったら、『もうええで』。つまり『もういらない』という意味になる。そんな言葉を、選手を語るときに使わない。関西弁をよくわかっていない記者が書き始めて、それが広がったんです」と述べている[22]。
阪急がオリエント・リースへの球団譲渡を発表した後、個別に会見を開き、「信じられないことだ」と何度も口にしていた。このとき、上田は阪急とオリエント・リースによる譲渡発表への同席を拒否し、監督続投も「白紙」としていた[23]。
10月23日の阪急ブレーブス最後の試合終了後に、「阪急ブレーブスを長い間、見守りつづけていただきありがとうございました。話を聞いた時は、夢であってくれと思っていました。阪急からオリックスに変わっても、ブレーブスはファンの皆さんの物です。ユニフォームは変わっても、勇者魂は永遠に生き続けます。これからも応援してください」と語り、37,000人の観衆に最後の挨拶をおこなった。上田の監督続投が正式に決まったのは、10月26日に新オーナーの宮内義彦と会談した後であった[23]。
采配の特徴
阪急で福本・簑田浩二などの人材に恵まれたこともあり、盗塁を積極的に駆使する。オリックス監督時代は「ブルーサンダー打線」を、日本ハム監督時代は「ビッグバン打線」を作り上げるなど攻撃力主体のチームを作ることに長けており、打線が好調なときには手がつけられない程の強さを発揮した。しかしその反面、バント戦術を駆使することはあまり多くなく、打線がスランプに陥ると脆さを露呈することが多かった。とりわけ第二期監督時代以降にその傾向が多くなる。そのため、ディフェンス主体の緻密な野球を展開した西武ライオンズとの優勝争いに苦戦を強いられることになった。
1982年8月12日には、同年から指名打者に偵察メンバーを使う事が禁止されたことを忘れ、指名打者の偵察メンバーに投手の山沖之彦を起用したところ運悪く満塁のチャンスで打順が回り、山沖が三振に終わったという事もあった[24]。
マンネリ化の打破、チームの活性化を進める意図のもと、大型トレードに積極的であった。阪急時代は1974年の宮本幸信・渡辺弘基と広島白石静生・大石弥太郎の投手同士の交換トレード、1976年の戸田善紀・森本潔と中日島谷金二・稲葉光雄のレギュラー選手同士のトレード、1976年の正垣宏倫と広島永本裕章・川畑和人、1982年には加藤英司と広島の水谷実雄、1988年に南海の門田博光を新生オリックスの顔として、日本ハム時代も1996年に巨人から移籍した落合の獲得、1997年にはエース西崎幸広と西武石井丈裕・奈良原のトレードなど、多くの実績を残した。1976年の中日とのトレードは、両チームで結果の明暗がはっきりと出たため、ある球団のスカウトからは「阪急とはもうトレードの話をしない」と言われるほどであった[25]。
その他
1998年に自殺したスカウトの三輪田勝利のことを「誠意のかたまり」と評した。
2007年3月31日には、広島OBということもあってか、中国放送(RCCラジオ)の「ひとこと治宣の千客万来」最終回に電話出演した。
1999年5月23日の対大阪近鉄バファローズ戦(東京ドーム)ではシャーマン・オバンドーのセカンドゴロ併殺打における一塁の判定を巡って、塁審の山本隆造に抗議。その際、山本に「ヘタクソ!」と暴言を吐き、野球人生唯一となる退場処分。退場を宣告された直後、山本の後頭部に平手打ちをし、2試合の出場停止処分を受ける。山本は一時は刑事告訴も辞さない姿勢を見せたが、その後上田が謝罪し和解。告訴は見送りとなった。
ベンチの立ち位置は常に真ん中寄りだった。
阪急・オリックスの監督時代は現役時代の「1」を背負っていた巨人の王監督同様、当時の監督・コーチングスタッフの背番号としては比較的若い「30」を背負っていた。10数年間のコーチ時代は「64」から始まり、「63」「62」「61」「60」と数字こそ若くなっているものの大きい背番号を背負い、日本ハムの監督時代は阪急・オリックス時代の「30」ではなく「88」を背負っていた[26]。
なお背番号30はかつて監督の背番号として多く使用されていた。その背景に以前はベンチ入りできる選手・スタッフの人数が30人と決められていたことにもよるが、2017年現在は上田が日本プロ野球最後の使用例となっている。
日本ハムの監督1年目のコーチ陣は大石清、住友平、加藤英司、中沢伸二、山森雅文と阪急OBが多かった。その他のコーチは日本ハムOBの古屋英夫、柴田保光などであった。
評価
豊田泰光は最も理想的な監督と選手の関係を保っていたチームに1975~77年の阪急を挙げている。また、上田について「自分から発する『知力』があまりに強い人だったから(他人がアホに見えるといった意味合い)、1978年の日本シリーズのような常識外れのような抗議をやってしまうわけだが、この『知力』が上手く働くと相手がコンプレックスを持ってしまう」と語っている[27]。
上田の日本ハム監督在任中は一度も優勝がなかったが、本拠地が札幌ドームに移転した後には優勝回数が激増したなどの好影響をもたらし、その功績は大きいと言われた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 広島 | 66 | 184 | 165 | 13 | 38 | 5 | 1 | 0 | 45 | 12 | 4 | 6 | 3 | 0 | 14 | 0 | 2 | 17 | 4 | .230 | .298 | .273 | .571 |
1960 | 32 | 54 | 53 | 7 | 11 | 2 | 0 | 1 | 16 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 3 | .208 | .222 | .302 | .524 | |
1961 | 23 | 45 | 39 | 2 | 7 | 0 | 1 | 1 | 12 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 1 | .179 | .238 | .308 | .546 | |
通算:3年 | 121 | 283 | 257 | 22 | 56 | 7 | 2 | 2 | 73 | 17 | 5 | 6 | 6 | 0 | 18 | 0 | 2 | 23 | 8 | .218 | .274 | .284 | .558 |
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974年 | 阪急 オリックス |
2位 | 130 | 69 | 51 | 10 | .575 | 125 | .258 | 3.52 | 37歳 | |
1975年 | 1位 | 130 | 64 | 59 | 7 | .520 | 143 | .257 | 3.49 | 38歳 | ||
1976年 | 1位 | 130 | 79 | 45 | 6 | .637 | 139 | .256 | 3.30 | 39歳 | ||
1977年 | 1位 | 130 | 69 | 51 | 10 | .575 | 147 | .269 | 3.23 | 40歳 | ||
1978年 | 1位 | 130 | 82 | 39 | 9 | .678 | 176 | .283 | 3.13 | 41歳 | ||
1981年 | 2位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 140 | .267 | 4.01 | 44歳 | ||
1982年 | 4位 | 130 | 62 | 60 | 8 | .508 | 150 | .256 | 3.73 | 45歳 | ||
1983年 | 2位 | 130 | 67 | 55 | 8 | .549 | 157 | .272 | 4.16 | 46歳 | ||
1984年 | 1位 | 130 | 75 | 45 | 10 | .625 | 166 | .272 | 3.72 | 47歳 | ||
1985年 | 4位 | 130 | 64 | 61 | 5 | .512 | 197 | .274 | 4.98 | 48歳 | ||
1986年 | 3位 | 130 | 63 | 57 | 10 | .525 | 180 | .277 | 4.11 | 49歳 | ||
1987年 | 2位 | 130 | 64 | 56 | 10 | .533 | 152 | .272 | 3.89 | 50歳 | ||
1988年 | 4位 | 130 | 60 | 68 | 2 | .469 | 117 | .264 | 4.08 | 51歳 | ||
1989年 | 2位 | 130 | 72 | 55 | 3 | .567 | 170 | .278 | 4.26 | 52歳 | ||
1990年 | 2位 | 130 | 69 | 57 | 4 | .548 | 186 | .271 | 4.30 | 53歳 | ||
1995年 | 日本ハム | 4位 | 130 | 59 | 68 | 3 | .465 | 105 | .237 | 3.56 | 58歳 | |
1996年 | 2位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 130 | .249 | 3.49 | 59歳 | ||
1997年 | 4位 | 135 | 63 | 71 | 1 | .470 | 128 | .265 | 4.18 | 60歳 | ||
1998年 | 2位 | 135 | 67 | 65 | 3 | .508 | 150 | .255 | 3.83 | 61歳 | ||
1999年 | 5位 | 135 | 60 | 73 | 2 | .451 | 148 | .260 | 4.34 | 62歳 | ||
通算:20年 | 2574 | 1322 | 1136 | 116 | .538 | Aクラス14回、Bクラス6回 |
※ 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
- ※1 各年度の太字は日本一
- ※2 1974年から1996年までは130試合制
- ※3 1997年から2000年までは135試合制
- ※4 1978年、病気のため7月17日から8月24日まで休養。監督代行は7月17日~20日 中田昌宏(3勝1敗)、7月29日~8月24日 西村正夫(12勝6敗2分)
- ※5 1996年、「家庭の事情」のため9月10日から休養。監督代行は住友平(6勝8敗1分)
- ※6 1999年、出場停止処分で2試合欠場。監督代行は住友平(1勝1敗)
- ※7 通算成績は、欠場した41試合(22勝16敗3分)は含まない
表彰
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2003年)
記録
背番号
- 13 (1959年 - 1961年)
- 64 (1962年)
- 62 (1963年)
- 63 (1964年 - 1967年)
- 61 (1968年 - 1969年)
- 60 (1971年 - 1973年)
- 30 (1974年 - 1978年、1981年 - 1990年)
- 88 (1995年 - 1999年)
出演番組
- サンテレビボックス席(サンテレビ)
- 上田利治の朝からどうでっか(日本各地のAMラジオ局で放送)
- RCCカープナイター(RCCラジオのプロ野球中継の現行タイトル)
- 侍プロ野球(RCCテレビ・TBS系列のプロ野球中継の現行タイトル〔RCCローカル中継は「赤ヘルだいすき!カープナイター/カープデーゲーム中継」のタイトル〕)
- NHKプロ野球
出典
- ↑ “プロ野球 阪急など元監督 上田利治氏死去”. NHKニュース. (2017年7月2日) . 2017-7-2閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 “【越智正典「ネット裏」】 ナイターなのに朝イチから…メジャーの監督もうなった上田利治の野球熱”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2017年7月9日). オリジナルの2017年7月10日時点によるアーカイブ。 . 2017閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 赤坂英一 (2017年7月12日). “名将上田監督がマツダで学んだマネジメント術”. WEDGE Infinity (ウェッジ) . 2017閲覧.
- ↑ わたしと司法シリーズ28 関東弁護士会連合会(Internet Archive)
- ↑ “川上巨人に「最低勝率」の屈辱を味わわせた64年広島カープの4首脳”. 週刊ベースボールONLINE (ベースボール・マガジン社). (2015年4月6日) . 2017閲覧.
- ↑ 中川右介『阪神タイガース 1965-1978』KADOKAWA《角川新書》、2016年、pp.184 - 185
- ↑ 7.0 7.1 7.2 福本、2014年、pp.61 - 62
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 「対談 上田利治×佐々木信也 昭和の名将を語る」『草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球、昭和の名将』、ベースボール・マガジン社、2012年、pp.58-62
- ↑ 福本、2014年、p.66
- ↑ 谷上史朗 (2017年7月20日). “追悼・上田利治。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」(4/7)”. Sprtiva . 2018閲覧.
- ↑ 福本豊の『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』では、西本は「一軍の試合を一切見ない」という条件でのフロント入りを拒否したが、辞任の際に後任について何も言わず、その後にオーナーの森薫から相談を受けて上田を推薦した、と記されている(同書pp.65 -66)。
- ↑ “「審判代えろ!」阪急・上田監督、抗議1時間19分”. スポニチアネックス. オリジナルの2016年3月4日時点によるアーカイブ。
- ↑ 東京スポーツ連載 『簑田浩二 セパ盟主の裏側を知る名手 3割30本30盗塁男が激白』〈15〉2007年6月28日。
- ↑ 東京スポーツ連載 『簑田浩二 セパ盟主の裏側を知る名手 3割30本30盗塁男が激白』〈16〉2007年6月29日。
- ↑ 福本、2014年、p.168
- ↑ 福本、2014年、p.174
- ↑ “【田淵幸一物語・第4部(16)】「解任」か「辞任」か 4年目の舞台は用意されず”. 産経新聞. (2017年6月16日) . 2018-02-4閲覧.
- ↑ “日めくりプロ野球【9月29日】1994年(平6) 日本ハム 10年ぶりの最下位 大沢親分 ファンの前で土下座”. スポーツニッポン. (2011年9月29日) . 2018閲覧.
- ↑ 毎日新聞1996年9月12日26ページ 「娘2人が統一教会入信 休養の上田・日本ハム監督 辞意を表明」
- ↑ 日本ハムはこの頃、終盤では最大で9連敗していた。
- ↑ “上田氏は1日に肺炎で死去 日本ハムが発表”. スポーツニッポン. (2017年7月2日) . 2017-7-2閲覧.
- ↑ 谷上史朗 (2017年7月20日). “追悼・上田利治。現役わずか3年も、情熱で歩んだ「名将ロード」(6/7)”. Sprtiva . 2018閲覧.
- ↑ 23.0 23.1 “【昭和野球列伝】阪急、身売りなければ福本引退なかった(4/4)”. サンケイスポーツ. (2017年9月5日) . 2018閲覧.
- ↑ “【8月12日】1982年(昭57) 上田利治監督、ああ勘違い 当て馬のつもりが…”. スポニチアネックス. オリジナルの2016年3月4日時点によるアーカイブ。 . 2016閲覧.
- ↑ 福本、2014年、p.127
- ↑ 当時、日本ハムの背番号「30」は金子誠が着用していた。
- ↑ 週刊ベースボール 連載コラム「豊田泰光のオレが許さん!」 904回
参考文献
- 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年
関連項目
外部リンク
監督歴 |
---|
テンプレート:オリックス・バファローズ歴代監督 |
業績 |
---|
テンプレート:パシフィック・リーグ優勝監督 |