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(内容を「 '''上洛'''(じょうらく) 地方から京都へ行くこと。 == 関連項目 == *上京 *奉行衆 *東海道五十三次 - 東海道にある…」で置換)
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{{otheruses||中国にあった郡|上洛郡|中国にあった県|商州区}}
 
{{出典の明記|date=2017年4月}}
 
'''上洛'''(じょうらく)とは、主に[[京都]]に入ることを意味する言葉である。'''入洛'''とも言った。<!--対義語に、'''下洛'''(げらく)がある。下洛とは、京都を離れることである。また、上洛という煌びやかなイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩えることもある。←「下洛」とは山法師が京中を侵すことを言った(平家物語)。下洛が出京と同義で使われた実例は?-->
 
  
==由来==
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'''上洛'''(じょうらく)
<!--かつて[[嵯峨天皇]]が、[[平安京]]の西側(右京)を[[唐]]の[[首都]]である長安にならい「[[長安]]」、東側(左京)を唐の副都である洛陽にならい「[[洛陽]]」と名付けた。←このような史実は確認されていない。嵯峨天皇時代に皇城の門の名を和風から唐風に改めたから、この時に右京を長安、左京を洛陽と名付けたのではないかという憶測にすぎない。-->
 
上洛の「洛」は「[[洛陽]]」を意味する。平安時代、[[平安京]]を指して中国の都の名を借りて「洛陽」と呼ぶことがあった。やがてその一字を採って「洛」だけでも平安京を表すことになった。また一説に、左京を洛陽、右京を[[長安]]と呼んだ<ref>左京を洛陽、右京を長安と号したとの記述は、平安遷都から500年余経った鎌倉末期の「[[拾芥抄]]」に初めて出てくる。</ref>。
 
{{要出典|
 
しかし当時、「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かったことなどから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。このため「洛陽」は都と同義になり、その一字「洛」をもって京都を指すようになり「上洛」「入洛」「京洛(けいらく)」「[[洛中]]」「[[洛外]]」などの言葉が生まれた。上洛・入洛は共に京都に入ること言い、京洛は京の都のことを指した。また洛中は京域内を指し、洛外はその外周地域を指した。|date=2016年5月}}
 
  
== 戦国時代の上洛 ==
+
地方から京都へ行くこと。
=== 応仁の乱と各守護の下向 ===
 
そもそも[[室町時代]]においては、多くの[[守護大名]]は在京義務が課せられ京都に常駐していた。そのため守護大名が[[守護]]に任じられた領国と京都を往復する事は頻繁にあり、上洛は珍しい事でもなかった。しかし、[[応仁の乱]]により幕府に守護大名の動きを制御する力が無い事が明白となり、在京の意味は薄れていた。
 
 
 
文明9年([[1477年]])、応仁の乱の終結とともに西軍は解体され、周防国守護[[大内政弘]]などの西軍諸将はそれぞれの領国に帰国を開始したが、能登国守護[[畠山義統]]と、[[足利義視]]・[[足利義稙]]親子を伴って帰国した美濃国守護[[土岐成頼]]は、それぞれ京の自邸を焼き払って反逆の姿勢を示し(これは在京義務の放棄も意味するものであった)、この炎は仙洞御所にも類焼が及んだ。また、講和に反対し先に下向した西軍の[[畠山義就]]は、その後も[[河内国]]と[[大和国]]で戦闘を繰り広げた。同じく最後まで講和に反対した東軍の加賀半国守護[[赤松政則]]は、加賀ではなく[[浦上氏]]が待つ播磨国に下向し実効支配を行なった<ref>渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第四章</ref>。
 
 
 
また、応仁の乱の最中には越前国の[[朝倉氏]]、尾張国の[[織田氏]]、安芸国の[[武田氏]]、播磨国の[[浦上氏]]、出雲国の[[尼子氏]]など、領国の守護代や分郡守護が調略の対象となった。これらの調略により、特に[[山名氏]]と[[斯波氏]]の領国は深刻な事態に陥っていた。このため、東軍、西軍を問わず、多くの守護大名は危機感を持って帰国し、そして在京義務は放棄され、上洛は稀なものとなった<ref>渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第五章</ref>。なお、関東については室町幕府の支配は、享徳3年([[1454年]])の[[享徳の乱]]の収拾に失敗し、既に頓挫していた。
 
 
 
=== 将軍権力の解体 ===
 
この様な状況において、積極的に上洛し在京義務を果たしたのは、[[三管領]]の氏族である山城国守護[[畠山政長]]、尾張国守護[[斯波義寛]]であった。第9代将軍[[足利義尚]]、第10代将軍足利義稙の近江遠征([[長享・延徳の乱]])、明応2年([[1493年]])の足利義稙の河内遠征([[畠山氏#畠山総州家|畠山総州家]]征伐)に従軍し、将軍権力による復権を試みたが、その遠征の最中に[[細川政元]]が起こしたクーデターにより、畠山政長は敗死、斯波義寛は越前回復の夢を絶たれ、足利義稙は幽閉され、新たな将軍には[[足利義澄]]が擁立された([[明応の政変]])。更に、将軍直轄の軍事力であった[[奉公衆]]も解体され、これ以降の将軍は遠征どころか守護大名に庇護される状態にまで零落することとなった<ref>渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第六章</ref>。
 
 
 
=== 上洛戦の始まり ===
 
将軍の座を追われた足利義稙は諸国を流浪し、明応8年([[1500年]])に[[大内義興]]を頼って山口に入国した。一方の細川政元は半将軍と呼ばれるほどの権力を振るったが、永正4年([[1507年]])に暗殺され、これを収拾した[[細川澄元]]が跡を継いでいた([[永正の錯乱]])。永正4年([[1507年]])11月、大内義興は諸大名に号令を発して周防を出立し、細川高国の勢力も併呑し、永正5年([[1508年]])6月に上洛を果たし、7月1日には足利義稙が将軍職に復帰した。これが戦国大名が上洛により政権を覆した前例となり、以降、下記のように各地の戦国大名が上洛を果たすようになった。
 
 
 
{{要出典|
 
しかしながら多くの戦国大名は、室町将軍や[[朝廷]]から、守護職や官位を受けており、使者を介しての京都との連絡は保っていた。[[上杉謙信]]や[[織田信長]]のように、さほど多いとはいえない兵、あるいは僅かな供を連れて、上洛を行った例もある。このような状況下において、[[天皇]]や室町将軍が在住する京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍を保護する立場になる事は、大きな権威をもたらす事であった。すくなくとも室町将軍は形式的には全国の支配者であり、その保護者となる事は、政治的影響力を高める事となった。しかしながら戦国大名が上洛を企図しても、実際には領国における抗争に妨げられ、成功した者は少ない。|date=2016年5月}}
 
 
 
=== 上洛勢力と政権交代 ===
 
*応仁元年([[1467年]])、[[応仁の乱]]が発生、文明9年([[1477年]])に西軍が解散し、応仁の乱が終結。
 
*明応2年([[1493年]])、[[管領]][[細川政元]]が第10代将軍[[足利義稙]]を追放、第11代将軍[[足利義澄]]を擁立した([[明応の政変]])。
 
*永正5年([[1508年]])、[[大内義興]]が管領[[細川澄元]]を破り[[周防国]][[大内氏館]]から'''上洛'''、第10代将軍足利義稙を奉じていた(10年後に帰国)。
 
*永正8年([[1511年]])、細川澄元が[[赤松義村]]と共に管領細川高国を破り、[[阿波国]][[勝瑞城]]から'''上洛'''、足利義澄を奉じていた(8日で敗退:[[船岡山合戦]])。
 
*永正17年([[1520年]])、[[三好之長]](細川澄元の重臣)が管領[[細川高国]]を破り、阿波国勝瑞城から'''上洛'''、足利義稙に迎えられた(2ヶ月で敗死:[[等持院の戦い]])。
 
*大永元年([[1521年]])、足利義稙が堺に出奔したため、細川高国は[[播磨国]]で[[浦上氏]]が庇護していた第12代将軍[[足利義晴]]を擁立した。
 
*大永7年([[1527年]])、[[柳本賢治]]らが細川高国・[[武田元光]]を破り[[丹波国]][[神尾山城]]から'''上洛'''([[桂川原の戦い]])。
 
*大永7年(1527年)、[[三好元長]]([[細川晴元]]の重臣)が柳本賢治らと同盟し[[阿波国]][[勝瑞城]]から'''上洛'''、[[堺公方]]・[[足利義維]]を奉じていた。
 
*大永8年([[1528年]])、[[朝倉宗滴]]が管領[[畠山義堯]]、柳本賢治らを破り[[越前国]][[一乗谷朝倉氏遺跡|一乗谷]]から'''上洛'''、足利義晴を奉じていた(5ヶ月で撤退:[[川勝寺口の戦い]])。
 
*享禄4年([[1531年]])、[[浦上村宗]]が管領畠山義堯、細川晴元を破り[[播磨国]][[三石城]]から'''上洛'''、足利義晴を奉じていた(3ヶ月で敗死:[[大物崩れ]])。
 
*天文3年([[1534年]])、[[六角定頼]]が細川晴元と和睦し、足利義晴が[[近江国]][[桑実寺]]から入京。
 
*天文10年([[1541年]])、[[木沢長政]]が管領細川晴元を破り[[河内国]][[飯盛山城]]から'''上洛'''、足利義晴を奉じる予定であった(4ヶ月で敗死:[[太平寺の戦い]])。
 
*天文18年([[1549年]])、[[三好長慶]]が細川晴元を破り[[摂津国]][[越水城]]から'''上洛'''。
 
*天文21年([[1552年]])、第13代将軍[[足利義輝]]が三好長慶と和睦し、近江国[[朽木村|朽木谷]]から入京(1年で都落ち)。
 
*永禄元年([[1558年]])、[[六角義賢]]が三好長慶と和睦し、足利義輝が[[山城国]][[将軍山城]]から入京。
 
*永禄4年([[1561年]])、六角義賢が三好長慶と足利義輝を破り近江国[[観音寺城]]から'''上洛'''(2ヶ月で撤退:[[教興寺の戦い]])。
 
*永禄8年([[1565年]])、[[三好三人衆]]らが足利義輝を暗殺、翌年から[[阿波公方]]・[[足利義栄]](後の第14代将軍)を擁立([[永禄の政変]])。
 
*永禄11年([[1568年]])、[[織田信長]]が[[三好三人衆]]らを破り[[美濃国]][[岐阜城]]から'''上洛'''、第15代将軍[[足利義昭]]を奉じていた。
 
*元亀4年([[1573年]])、織田信長が再上洛、同年に挙兵した足利義昭と三好三人衆を破り、義昭を追放した([[槇島城の戦い]])。
 
*天正10年([[1582年]])、[[明智光秀]]が[[丹波国]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]]から京に進軍し、織田信長を暗殺した([[本能寺の変]])。
 
 
 
=== 各大名の上洛 ===
 
[[大内義興]]の上洛の[[大義名分]]は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった{{要出典|date=2016年11月}}。だが、[[大内氏]]の場合、それが完成する前に[[尼子氏]]ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされた。[[六角定頼]]の場合は、領国が京都の隣の近江であるものの大内義興と同様の名目で入京しており、幕政にも[[口入]]の形で関与しているところも義興と共通している。だが、定頼の没後の[[六角氏]]は[[浅井氏]]の反抗など国内問題に追われ、[[三好長慶]]の上洛を阻止できずに衰退していく。
 
 
 
それに対し天文18年([[1549年]])の三好長慶の上洛になると様相が変わってしまう。[[細川晴元]]は堺公方の[[足利義維]]を将軍位に着けずに[[足利義晴]]をそのまま将軍に擁いたが、三好長慶は堺公方の足利義維も[[足利義輝]](義晴の子)も両方奉じず、何年も京を支配した。また、官位は従四位下、修理大夫、幕府の役職は相伴衆と三好家の家格では考えられないような地位が与えられていた。なお、足利義輝の官位は、従四位下征夷大将軍、その後、従三位であった。また、永禄8年([[1565年]])に足利義輝を暗殺したにも関わらず[[三好三人衆]]は半年以上、[[足利義栄]](義維の子)を擁立しなかった<ref>若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』</ref>。一方、[[織田信長]]の上洛は従来通り将軍候補である[[足利義昭]]を奉じて行われた。しかし、織田信長は天正元年([[1573年]])には足利義昭を京都から追放しており、しかもその翌年には、織田信長の官位は従三位参議に達し、室町幕府の支配力や権威を必要としない政権となっていた。
 
 
 
なお、織田信長が上洛によって天下を取る一歩手前までいった事から、江戸時代の軍記物等では、全ての戦国大名が上洛を目指したかのような解釈が広がった。例えば、駿河国の[[今川義元]]が永禄4年([[1560年]])に尾張に遠征し[[桶狭間の戦い]]で戦死したが、小瀬甫庵の『信長記』等の軍記物では上洛が目的であったとされた。一方、足利義昭の呼びかけにより、[[甲斐国]]の[[武田信玄]]が元亀年間に大規模な美濃・三河・遠江方面への軍事的侵攻である[[西上作戦]]を行い、また、越後の[[上杉謙信]]や、安芸の[[毛利輝元]]も織田信長と敵対したが、もし入京していれば将軍を奉じる形式の上洛に当てはまっていた。なお、天正10年([[1582年]])の[[本能寺の変]]では、[[明智光秀]]が足利義昭を奉じていたという説もある<ref>藤田達生『本能寺の変の群像』</ref>。
 
 
 
{{要出典|さらには全ての戦国大名が天下を取る事を狙っていた訳ではない。[[毛利元就]]が自分の子孫は天下を望むべからずと遺言した事は有名な話である。[[後北条氏]]は初代の[[北条早雲|伊勢宗端]](北条早雲)が室町幕府の[[政所]]執事を務めた[[伊勢氏]]の分家出身であったが、二代目の[[北条氏綱]]以降[[鎌倉幕府]]の[[執権]]・[[北条氏]]の後継を称して関東での勢力圏拡大には熱心であったが、天下取りの意図は見えなかった。 |date=2016年5月}}
 
 
 
{{要出典|また、上洛がすなわち天下取りの必須条件だったかのように言われる事もあるが、これにも異論がある。天下を取る可能性があった戦国大名として名前があがる[[伊達政宗]]や九州の[[島津氏]]、あるいは最終的に天下を取る事になった[[徳川家康]]も、室町将軍を擁して上洛した事は一度も無い。|date=2016年5月}}
 
 
 
== その後の上洛 ==
 
本能寺の変後、[[山崎の戦い]]に勝利した[[豊臣秀吉]]が[[高松城 (備中国)|備中高松城]]から上洛を果たし、[[豊臣政権]]を築いた。
 
 
 
=== 江戸幕府将軍の上洛 ===
 
[[関ヶ原の戦い]]に勝利した徳川家康が征夷大将軍の宣下を受け、[[江戸幕府]]を開いた。江戸幕府の将軍では、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠]]・[[徳川家光]]の三代、のち第14代将軍の[[徳川家茂]] が上洛した。家光までの三代は、勅使による将軍宣下を京都[[伏見城]]で受けていたため上洛したが、第四代の[[徳川家綱|家綱]]は若年であったため勅使が江戸へ下向して宣下を受けた。以降これが慣例となった。<!-- 徳川慶喜は在京中に将軍となったので、上洛と言えるかどうか迷ったので含めていません。慶喜の動きを上洛とする資料があれば修正をお願いします。 -->家光の将軍宣下の上洛の際は外様・譜代ら諸藩を合わせて総勢で30万7千人の軍勢であったとされている。
 
 
 
現在の[[二条城]] は、在京中の将軍の宿所として徳川家康が造った城である。
 
 
 
家光は上洛途上の将軍宿所として近江国に[[水口城]]を築いているが、以上の理由により一度しか使用されていない。徳川御三家の[[尾張藩]]の[[名古屋城]]では、将軍上洛の際の宿所として本丸御殿が築かれた。この御殿はあくまで将軍や大御所のための宿泊所とされ尾張藩が管理し、故に尾張藩主は江戸時代を通して二の丸御殿を使用していた。
 
 
 
==== 将軍家茂の上洛 ====
 
第14代将軍家茂の上洛は朝廷からの攘夷の要請を受けてのことであり、幕府と朝廷の関係修復の目的があったとされる。家茂は三度上洛し、三度目の上洛のまま大阪城にて死去している。著名な[[新撰組]]の前身である[[浪士組]]は、上洛する徳川家茂の警護のために作られた組織であった。
 
 
 
二度目の上洛の際、幕府保有の洋式蒸気船「[[翔鶴丸]]」を使用した海路を採用している。
 
 
 
最初の上洛においても不安定な政情を考慮し、また将軍格式での先例に習った道中では大掛かりになり、尊皇派を刺激すること、また費用が150万両とも試算されたことを避けるために海路が検討され、ただし道中の避難港の施設整備の命が出されたが、諸般の事情(前例がない。また、イギリス海軍による[[生麦事件]]の報復が懸念された)により陸路が選ばれている。華美さをなるべく排したとはいえ老中・若年寄以下、騎馬100、銃手大小隊700を含む3000人からなる行列であった。この行列は[[歌川国貞]]ら16名の絵師により、大判の錦絵(「将軍家茂公御上洛図」)に描かれている。また、「昭徳院殿御上洛日次記」として記録が残る。道中で[[久能山東照宮]]に参拝し、名古屋では尾張藩浜屋敷に宿泊している。寺や本陣といった既存施設を利用し、家光以前とは比較にならない行列規模ではあるがそれでも3千人であり、道中の諸藩・宿泊先などは対応に苦労した記録が残っている。
 
 
 
この往路の陸行では22日を要したのに対し、帰路「[[順動丸]]」を使った際には僅か3日余で江戸に帰れたことが、二度目の上洛の際の海路選択の理由とされる。その他に尊皇派による沿道の治安の問題もあった。この上洛船行の際に海が荒れ、家臣らに船酔いが続出し、側近らは陸行への途中変更を進言したが家茂は「海上のことは軍艦奉行([[勝海舟]])に任せよ」として却下した。家茂は復路にも「[[翔鶴丸]]」を使用した。
 
 
 
三度目の上洛は第二次長州征伐の軍勢を率いていたため、陸路となった。家康所縁の金の扇の馬印を掲げた軍勢は、天候の都合、また大軍勢を率いていたため京まで一月以上を要し、前回の陸路と違い沿道諸藩の城郭<ref>小田原城、沼津城、駿府城、田中城、掛川城、浜松城、吉田城、岡崎城、名古屋城、大垣城、彦根城</ref>を宿泊所として多く利用している。家康所縁の寺など<ref>大樹寺、伊賀八幡宮、松応寺</ref>の参詣も意識的に行っている。
 
 
 
家茂は[[大阪城]]にて客死したのち、遺骸は蒸気船[[長鯨丸]]にて江戸へと運ばれた。
 
 
 
==脚注==
 
<references />
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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*[[御上洛東海道]] - [[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]を元にした将軍上洛の[[浮世絵]]。[[歌川芳虎]]らの合作。
 
*[[御上洛東海道]] - [[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]を元にした将軍上洛の[[浮世絵]]。[[歌川芳虎]]らの合作。
  
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[[Category:日本の歴史]]
 
[[Category:日本の歴史]]

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上洛(じょうらく)

地方から京都へ行くこと。

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