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'''三線'''(さんしん)
[[画像:Shitahaku_kejo.jpg|thumb|240px|真壁型(志多伯開鐘写し)本皮]]
 
'''三線'''(さんしん)は、[[弦楽器]]の一種。[[日本]]の[[沖縄県]]で主に用いられる。
 
  
== 概要 ==
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日本の弦楽器の一種。沖縄および奄美地方で用いられる。「蛇皮線」「さむしる」ともいい,現在では三味線と呼ばれることも少くない。日本本土の三味線の直接の原型となったものであるが,現在の三線には,本土三味線からの逆影響も多い。四角い胴に棹を差込んだリュート属の楽器で,胴には蛇皮が張られ,棹の全長は約 76cm,これに3本の弦が張られる。つまり本土三味線に比べて,やや小型のものであるが,細部において多くの違いがあり,糸巻への糸の掛け方などが異なる (一の糸と三の糸とが逆) 。奏者は右手人差指に義甲をはめたり,撥 (ばち) を持ったりして撥弦する。沖縄の芸術音楽に用いられるほか,各地の民謡や民俗芸能の伴奏にも欠かせない音楽である。なお,沖縄では蛇皮線という名称は使わない。
中国[[福建省]]で生まれた[[弦楽器]]「[[三弦]]」を原型とする[[撥弦楽器]]で、[[15世紀]]以降、[[琉球王国]](現在の[[沖縄県]]および[[鹿児島県]][[奄美群島]])で独自に発展した。福建省からは[[久米三十六姓|閩人三十六姓]]の来琉(1392年~)によりもたらされたとの見方もある。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[永禄]]年間、[[堺]]を経由して日本本土に伝わり、[[三味線]]の起源の一つとなった。三線と比べて、三味線は棹が長く、中国の三弦は棹の長さの割には胴が小さい。
 
 
 
三線は音を出す胴の部分に[[蛇]]皮を張り、胴の尻から棹の先(天部)に向けて3本の[[弦]]を張り渡して、弦を弾いて鳴らす。主に単音で[[メロディ]]部分を演奏する。[[助数詞]]には「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」等を用いる。楽譜は「[[工工四]](くんくんしー)」という独特の記譜法を用いる。これは、中国の三弦楽譜「工六四」(くるるんしー、と沖縄で呼ばれる)が原点とみられる。
 
 
 
沖縄文化(琉球文化)を象徴する存在の一つとして知られる。かつては琉球王国領内において、宮中での[[琉球舞踊]]に用いる[[琉球古典音楽]]や、士族や農民たちが歌う民謡([[沖縄民謡]]や[[島唄|奄美民謡]])のために男性が三線を弾いた。琉球王府は、美術工芸品を製作する貝摺(かいずり)奉行の下に三線職人を抱えていた<ref>【美ら島から】三線/中国起源 琉球で独自の進化(大城学)『読売新聞』朝刊2018年1月24日(文化面)</ref>。
 
 
 
今日では古典音楽や民謡の他、[[ポップ・ミュージック|ポップス]]やクラブミュージックなど様々なジャンルで用いられ、演奏するアーティストも沖縄音楽や沖縄文化圏に留まらない。
 
 
 
沖縄県は近代以降[[移民]]が盛んになったため、日本本土に移り住む人や[[ハワイ州|ハワイ]]、南米の[[ブラジル]]や[[ボリビア]]など海外移民先の沖縄人コミュニティーを通して、琉球文化圏外にも広まった。日本の音楽界では長く注目されなかったが、[[第二次世界大戦]]前に「[[安里屋ユンタ]]」([[1934年]]録音、歌詞は日本語標準語の「新民謡」)が[[ラジオ]]放送で人気を博したり、[[1970年代]]に[[竹中労]]らが沖縄音楽を紹介したりした後、[[1990年代]]の「沖縄ブーム」の到来により全国的に知られるようになった。三線を前面に押し出した楽曲として初めての[[ミリオンセラー]]はロックバンド・[[THE BOOM]]の「[[島唄 (THE BOOM)|島唄]]」([[1992年]]全国発売)である。
 
 
 
== 呼称 ==
 
[[沖縄県]]では一般に「さんしん」「しゃみせん」という。[[奄美群島]]においては「[[三味線]]」「蛇皮線」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称については、起源である三弦との関係が指摘される。三弦は[[福建語]]で''samhian''(サムヒエン)、[[北京語|北京官話]]では''sānxián''(サンシエン)と読む。[[山内盛彬]]はサンセン(三線)からサミセンへ変化していったという説を唱えている。三線の胴の太鼓部分に蛇の皮を張るため、[[三味線]]([[ネコ|猫]]や[[イヌ|犬]]の皮を張る)と区別するために、日本本土を含めて「ジャビセン(蛇皮線)」「ジャミセン(蛇味線)」と呼ばれることも多い。ただし、この呼称は沖縄では嫌われるという<ref>【美ら島から】三線/中国起源 琉球で独自の進化(大城学)『読売新聞』朝刊2018年1月24日(文化面)</ref>。
 
 
 
小さな島が点在する南西諸島では島ごとに[[方言]]が大きく異なるため、数多くの異称がある。統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。
 
 
 
[[琉球処分]]後の明治時代、沖縄の伝統的な地名・人名を「日本風に」2文字で表記する方法が流行した(汀志良次→汀良、古波蔵→古蔵、神里原→神原など)。三味線の「味」を同様に省略して三線という呼称になったという俗説がある{{誰|date=2015年1月}}。
 
 
 
=== 方言による呼称抜粋 ===
 
* 三線(サンシン) - 沖縄本島、[[奄美大島]]ほか<ref>セントラル楽器民謡企画部『奄美民謡総覧』、小川学夫・指宿正樹・指宿邦彦・指宿良彦編、南方新社</ref>
 
* 三味線(シャミセン) - 沖縄本島の首里周辺、奄美大島<ref>岩本三味線教室、岩本岩寿、『奄美民謡入門三味線楽譜(第1集)』、2000年、奄美、セントラル楽器</ref>
 
* 蛇皮線(ジャビセン) - 奄美大島
 
* 蛇味線(ジャミセン)
 
* サミシル - [[徳之島]]の一部など<ref>『徳之島民謡傑作集ワイド』:セントラル楽器</ref><ref>山民謡保存会「山民謡集」、鹿児島県徳之島町山</ref>
 
* サミセン - 徳之島の一部など<ref>「公民館講座島唄教室」、鹿児島県徳之島町</ref>
 
* サンシル - [[沖永良部島]]<ref>川畑先民、吉田治里共著『沖之永良部民謡集{三味線・唄・歌詞}蛇皮線独習書シリーズ2改定版』沖之永良部民謡協会監修、吉田蛇皮線楽譜研究所</ref>、徳之島など
 
* サンシヌ - [[与論島]]<ref>与論中央公民館発行『与論中央公民館サンシヌ講座楽譜(初級、中級編)』</ref>
 
* サミシン、シャミシン - [[石垣島]]や[[竹富町]]域など
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[File:琉球風俗画帖18.jpg|thumb|240px|明治から戦前期の演奏風景]]
 
三線の[[歴史]]は、[[15世紀]]以降の[[沖縄音楽|沖縄音楽史]]とほぼそのまま重なる。
 
 
 
=== 起源 ===
 
中国大陸の東南部(現在の福建省)の弦楽器「[[三弦]]」を直接のルーツとする。琉球王国は統一([[1429年]])後、中国大陸や[[東南アジア]]との交易により多くの文物を取り入れていた。伝承では[[久米三十六姓]]帰化([[14世紀]]末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという{{要出典|date=2015年1月}}。[[15世紀]]後半には[[尚真王]]が士族の教養のために三弦を奨励していた。その後、日本でいう[[永禄]]年間初頭([[1558年]]または[[1559年]])に[[和泉国|泉州]](現在の[[大阪府]]南部)[[堺市|堺]]へと伝わり、日本本土の[[三味線]]の起源となった。
 
 
 
福建省の三弦は部位・構造・素材のいずれも三線とほぼ同じものだが、三線の方が棹が短く、胴は平べったく変化した<ref>[http://okinawa34.jp/sanshin/history 三線の歴史 - 沖縄県三線製作事業協同組合]に三弦と三線を並べた画像がある</ref>。
 
 
 
=== 琉球王国時代 ===
 
[[17世紀]]初頭には[[琉球王国]]が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、[[清]]から訪れる[[冊封使]]の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である[[踊奉行]]の[[玉城朝薫]]が[[1719年]]、[[能]]や[[歌舞伎]]など日本の芸能を参考にした'''[[組踊]]'''を創始し、三線・島太鼓・[[胡弓]]といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国[[琉球の摂政|摂政]]・[[羽地朝秀]](任期[[1666年]] - [[1673年]])の影響が伺える。
 
 
 
琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。その為、調弦は男性用になっている。
 
 
 
王国時代は[[貴族]]や[[琉球の位階|士族]]といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、[[漆器|漆塗り]]の箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に[[床の間]]に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、[[バショウ|芭蕉]]の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して[[毛遊び]](もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。
 
 
 
[[那覇市|那覇]]の辻・仲島などの[[遊郭]]では芸妓・[[遊女]]が座敷芸として唄三線を身につけた。
 
 
 
=== 近代 ===
 
[[19世紀]]後半、[[琉球処分]]を経て日本の施政下に入った[[明治時代]]以降には、様々な流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ([[沖縄戦]])、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。
 
 
 
=== 現代 ===
 
沖縄戦後、沖縄は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ軍の統治]]下に置かれた。米軍基地内のバーや[[コザ]]の繁華街などではアメリカ兵相手に、三線によるライブが盛んに催された。基地に流れていたアメリカのヒット曲を聞きかじって三線でコピーした[[登川誠仁]]の『ペストパーキンママ』([[1948年]]。原曲は[[アル・デクスター]]『ピストル・パッキン・ママ』)などは当時の沖縄の世相を反映している。戦後は沖縄大衆演劇を中心に復興し、古典や民謡の各流派も大会を開催している。日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やポップミュージックの曲の中にも三線が採り入れられるようになったが、影響は沖縄文化圏に留まっていた。
 
 
 
南米[[ボリビア]]に移民した沖縄県出身地の街・[[オキナワ移住地]](コロニア・オキナワ)や同じく南米の[[ブラジル]]、米国[[ハワイ州|ハワイ]]の沖縄系日系人コミュニティでは、三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。
 
 
 
[[1972年]]に[[沖縄返還|沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還]]された後、[[知名定男]]率いる[[ネーネーズ]]や[[りんけんバンド]]など一部は日本本土の音楽シーンでも活躍したが、三線や沖縄音楽が本格的に知られるようになるのは[[1990年代]]の沖縄ブーム以降である。[[1992年]]には[[山梨県]]出身の[[宮沢和史]]らのバンド・[[THE BOOM]]が三線を全面に押し出した琉球音階のポップス曲『[[島唄 (THE BOOM)|島唄]]』を発表し、150万枚に迫る大ヒットとなった。[[1999年]]公開の映画『[[ナビィの恋]]』は沖縄をモチーフとした映画としては異例のヒットを記録し、[[2001年]]に放映された[[NHK連続テレビ小説]]『[[ちゅらさん]]』で沖縄ブームが不動となったことで、趣味として三線を始めたり沖縄音楽に親しむことが沖縄文化圏以外においても一般的となった。三線は生産量が増え、初心者向けのセットや教本なども多数発売されるようになった。一方で三線の素材として理想的とされる黒檀は手に入りにくくなって価格が高騰し、質の悪い素材を塗装でごまかした粗悪品も存在する。
 
 
 
[[2010年]]3月、沖縄県内の三線[[職人]]の有志が集い、三線[[製作]]の技術向上と[[地域ブランド]]化、後進の育成、品質の保全を目的とした[http://okinawa34.jp/ 沖縄県三線製作事業協同組合]が発足した。
 
 
 
現在{{いつ|date=2016年6月}}、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、7名の工芸士が認定されている。[[鹿児島県]]では伝統工芸品([[奄美地方]])に指定されている。
 
 
 
== 型と種類 ==
 
沖縄三線と奄美三線では形状が異なる。本土の三味線の影響をより強く受けた奄美三線は全体的に大きい。
 
 
 
=== 沖縄三線の型 ===
 
沖縄三線は棹の形状から7種類の型(かた)に分類される。それぞれの型の元となった三線が存在し、名称は元となった三線の製作者の名を冠している。現在製作されている三線はすべてそれらの複製である。かつては形状の差異についての認識は曖昧だったが、琉球三線楽器保存育成会らが定義を整理した。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型の三線も多く出回っていた。近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。
 
 
 
; 南風原型(フェーバラー)
 
: 最も古い型であり、名工「南風原」の作と伝えられている。棹は細身で天(チラ)は曲がりが少なく扁平。野坂(スンウリ)は大きく曲がり、野丸(ティアタイ)は半円である。野丸と鳩胸(ウトゥチカラ)の区別がほとんどできない。高音域の音であっても澄んだ音がでるように野(トゥーイ)は下がっている。南風原型はさらに拝領南風原型(ハイリョウフェーバラー)・翁長親雲上型(オナガペーチン)に分けられる。
 
 
 
; 知念大工型(チニンデーク)
 
: 初代三線主取であった知念大工の作とされる。棹は太く、天の曲がりは大きい。天の部分と野丸の下部から鳩胸にかけて痩せ細った馬の背のように中央が盛り上がっているのが大きな特徴。天も南風原型と比べると広い。野坂は短く、野丸は丸みを帯びている。
 
 
 
; 久場春殿型(クバシュンデン)
 
: 久場春殿の作とされている。沖縄三線では最も大型で、天の曲がりが小さく薄い。上部から下方へ次第に太くなり、野丸と鳩胸の区切りがほとんど出来ない。胴内の軸には三角形の穴があり、一段の段が付けられている。両側には碁盤のへそのような溝がある。芯の付け根に段が刻まれている。かつて辻界隈の遊郭では護身用の武具(棍)として用いられたという逸話がある。
 
 
 
; 久場の骨型(クバヌフニー)
 
: 同じく久場春殿の作とされる。横から見ると[[ビロウ|蒲葵]]の骨に似ていることからその名がついた。[[箏]]と匹敵する美音をもつとされる。久場春殿とは対照的に、三線の中で棹が最も細い。野丸と鳩胸の区切りはほとんどない。
 
 
 
; 真壁型(マカビー)
 
: 名工「真壁[[里之子]]」の作。均衡がとれた美しさから真壁型が最も多く製作され、かつ人気も高い。開鐘と呼ばれる三線は全てこの型。他の名工達と異なり、王国の官職にあった真壁の棹に対する情熱は相当なもので、完成した棹であっても納得のいかないものは[[薪]]として火にくべたという伝承がある。棹は細身で天は中絃から曲がり、糸蔵(チルマダイ)が短い。宇根親雲上型(ウーニペーチン)もこの型に属する。今市販されている三線の多くは廉価版でもこの形をベースにしている。
 
 
 
; 平仲知念型(ヒラナカチニン)
 
: 三線主取であった知念の弟子、平仲の作。棹は細めだが、鳩胸に丸みがない。天は大きく湾曲していて、中央は少し盛り上がって丸みを帯びている。知念大工の系統と見る人もいるが、現在の動向では「平仲知念型を型として再検討する必要がある」という風潮のようである。
 
 
 
; 与那城型(ユナー)
 
: 真壁型と同時代の与那城の作とされている。[[琉球古典音楽]]の演奏家はこの型を好む傾向にある。この型は更に小与那型(クーユナー)、江戸与那型(エドユナー)、佐久川与那型(サクェカーユナー)、鴨口与那型(カモグチユナー)に分かれる。真壁型よりも棹厚く、月の輪と棹の野面とが直角をなしているのが大きな特徴。天は糸蔵の先から曲がり、範穴はやや下方に開けられている。糸蔵は長く、鳩胸も大きめ。特に江戸与那型の芯には大小3つの穴が開けられている。後世に自分よりも優れた名工が現れたとき、修正の余地を与える意味で厚くしたと言われている。面取与那(メントゥイユナー)とも呼ばれる「与那城の遺作」とも呼ばれた「通常の与那の野面が天の曲がり付近から野坂に掛けて平均的に面が取られ、範穴も真壁型の様に取られたかのような名器」も存在したとの伝承も存在する。「修正の余地の意味」の異説として「三線大工の師でも有った名工真壁に対して、与那城が{間違った棹作りをした時にはいつでも師真壁に面を取り去って下さい}との謙虚な心積りで居たから」と言う話も伝わっている。
 
 
 
=== 変わり三線 ===
 
三線には様々な改良楽器が存在する。
 
; エレキ三線
 
: コンサートやライブでの使用のために、胴部分にマイクや[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]を内蔵している。
 
; パーランクー三線
 
: [[エイサー]]で用いられるパーランクーに棹をつけた三線。
 
; ジャンボ三線
 
: [[うりずん娘]]が使用。全長6メートル。二人掛かりで演奏。
 
; ダブルネック三線
 
: 棹が二本付いた三線。
 
; オキハワ
 
: 弦を四本にし、フレットを付けた三線。
 
 
 
== 部位と素材 ==
 
=== 棹(ソー) ===
 
三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としては[[カリン]]、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、[[コクタン|黒檀]]などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である(希少なために高価になっている面もあり、八重山産であれば必ず良い音を保証するという意味ではない)。現在では[[台湾]]や[[フィリピン]]産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。
 
 
 
棹の原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める必要がある。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。職人によっては、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。
 
 
 
音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金や銀、ガラス、アルミ、樹脂を用いた棹も実際に存在する。
 
 
 
=== 胴(チーガ) ===
 
胴の部材には主に[[イヌマキ]](チャーギ)や[[クスノキ]]、[[リュウガン]]が用いられる。高価な三線には[[ケヤキ]]、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には[[東南アジア]]産の[[ゴムノキ]]なども用いられる。この胴部材に[[インドニシキヘビ]]の蛇皮を張るのが伝統的な三線の胴の製法である。
 
 
 
胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。皮の張り具合(強さ)をみて、音の高い方を表、反対側を裏とする。南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]直後、[[アメリカ合衆国による沖縄統治]]下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いた'''カンカラ三線'''や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも[[アメリカ軍|米軍]]の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、[[金武町|金武村]](当時)の日本兵捕虜収容所で作られた楽曲「[[屋嘉節]]」などはカンカラ三線で歌うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、[[20世紀]]末頃からは[[学校教育]]でもカンカラ三線が社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。
 
 
 
野生の蛇からの蛇皮採取は[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]に抵触する可能性があるため、現在では[[ビルマニシキヘビ]]や[[アミメニシキヘビ]]が養殖され、三線に使用されている。[[1954年]](昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』<ref>[[池宮喜輝]]著、沖縄芸能保存会(1954)</ref>や戦前の演奏風景を収めた写真からは、[[ボールニシキヘビ|ボールパイソン]]や[[ボア]]、[[クサリヘビ科]]([[ハブ (動物)|ハブ]]や[[ニホンマムシ|マムシ]]が属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も伺える。
 
 
 
'''本張り'''と呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が[[沖縄県]]の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。
 
 
 
[[古謝美佐子]]のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。なお[[札幌市豊平川さけ科学館]]にある鮭皮を胴に使用した三線のように、胴の素材を変えた変わり種三線もある。
 
 
 
=== 弦(チル) ===
 
三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。それぞれ三味線の一の糸、二の糸、三の糸に相当する。素材は伝統的には[[絹|絹糸]]を撚ったものであったが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすかったために今日では白色のテトロンかナイロン製の弦が普及している。まれにエナメル製の弦も用いられるが、手触りの悪さから一般的ではない。奄美群島の三線では、黄色く染色した絹製の細い弦「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。
 
 
 
=== 胴巻き(ティーガー) ===
 
ティーガーとは「手皮」の琉球語読み。胴の周りにつける装飾的な胴巻きのこと。以前は家紋をあしらったシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。[[大正時代]]頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではほとんど作られない。
 
 
 
=== 糸巻き(カラクイ) ===
 
弦の張り具合を調節する糸巻きをカラクイという。調弦により音階を調節する。その形状から、首里、梅、菊、カンプー、歯車型などいくつかのデザインがある。素材は主に[[コクタン|黒檀]]や[[シタン|紫檀]]、黒[[カキノキ|柿]]である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨、ラクト材、[[象牙]]、プラスチックなどで装飾したものが多い。
 
 
 
=== 駒(ウマ) ===
 
[[駒 (弦楽器)|駒]](ウマ)を胴面に立てると弦が離れ、弾ける状態になる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背側を棹に向けると倒れにくい。素材は[[竹]]([[モウソウチク]])や牛骨が一般的であるが、規定はない。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、三線用の消音駒(忍び駒、忍びウマ)も存在する。
 
 
 
=== 爪・撥(チミ・バチ) ===
 
義甲(バチ)のこと。標準語で「ツメ」ともいう。バチの材質は[[スイギュウ|水牛]]の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。
 
 
 
形状はやや湾曲し、先端は削って使用する。大きさは5〜15センチほどで、大まかな傾向として古典や舞踊の曲には大型のツメを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。三線の奏法はダウンストロークが基本となるため、ツメの背(下側)は丸みを帯びている。「掛け音」(アップストローク)の際には文字通り先端を弦に「掛けて」音を出す形になる。
 
 
 
必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。[[よなは徹]]など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。
 
 
 
=== その他の部位の名称 ===
 
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
* 糸掛(チルドゥミ)
 
* 猿尾(ミジアティ)
 
* 心(チーガタムチ)
 
* 心穴上(ミジトゥイウイミー)
 
* 心穴下(ミジトゥイシチャミー)
 
* 爪形(ウトゥアティ)
 
* 爪裏(ウトゥダマイ)
 
</div><div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
* 野坂(スンウリ)
 
* 鳩胸(ウトゥチカラ)
 
* 野(トゥーイ)
 
* 野丸(ティーアタイ)
 
* 粟転(ウトゥノクイ)
 
* 歌口(ウトゥガニ)
 
* 糸蔵(チルダマイ)
 
</div><div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
* 範穴(カラクイミー)
 
* 天(チラ)
 
* 月の輪(チラカマチ)
 
* 虹(ウイチラムチネー)
 
* 乳袋(ミルクミミ)
 
* 胴表(チーガウムティ)
 
* 胴裏(チーガウラ)
 
</div>{{clear}}
 
 
 
== 塗り ==
 
元来、棹の表面は黒く漆塗りされる。近年では[[ウレタン]]の吹き付け[[塗装]]が主流である。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。
 
 
 
== 開鐘(ケージョー、ケージョウ)とは ==
 
棹がやや細く、短く、皮が緩めに張られた型。弦は絹糸を使う。太い低音が響くため、琉球王朝時に城門を開ける合図の鐘の音に似ていたことからこう呼ばれた。後述のように「盛嶋開鐘」が現存しているほか、2000年代に復刻された<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO26030950T20C18A1BC8000/ 町田宗男:三線 琉球の音色響け◇王朝時代から続く盛嶋など「開鐘」を復刻製作◇]『日本経済新聞』朝刊2018年1月24日(文化面)</ref>。
 
 
 
開鐘の名の由来となった、明け方に突かれる鐘の音は「開静鐘」と呼ばれた。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。[[琉球国王の一覧|尚家]]に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて'''開鐘'''と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は[[第二次世界大戦]]により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、[[1982年]]に[[尚裕]]より[[沖縄県立博物館]]に寄贈された。現在は[[沖縄県立博物館・美術館]]にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。
 
 
 
* [[1916年]][[4月17日]]、[[琉球新報社]]の記事より
 
:盛島(ムリシマ)開鐘、西平(ニシンダ)開鐘、湧川(ワクガー)開鐘、熱田(アッタ)開鐘、翁長(ヲゥナガ)開鐘
 
* 山内盛彬「琉球の音楽芸能史」と冨原守清「琉球音楽考」より
 
: 盛島開鐘、西平開鐘、湧川開鐘、城(グスク)開鐘、安真太平(アマダンジャ/アマダンチャ)開鐘
 
* 「沖縄大百科事典」の'''開鐘'''の項目(又吉真三)より
 
: 盛島開鐘、西平開鐘、湧川開鐘、城開鐘、安真太平開鐘(西平、湧川の代わりに久田と大宜味を入れる場合もある)
 
 
 
準開鐘に属するもの
 
: 友寄(トゥムシ)、豊平(トヨヒラ)、屋良部崎(ヤラブザキ)、前田、翁長、熱田、屋冨祖、城間(グスクマ)、松田、富盛(トゥムイ)、安室(アムロ)、志多伯(シタハク)
 
 
 
== 奏法 ==
 
沖縄県では基本的に[[撥]]を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれる。奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では[[本土]]の三味線と異なり、撥で胴を叩かない。奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した[[工工四]](クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。
 
 
 
最も一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、[[弾き語り]]の時は奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。
 
 
 
== 流派 ==
 
三線の演奏には[[琉球国王|琉球王朝]]の宮廷音楽として発達した[[琉球古典音楽]]と、庶民の間に歌い継がれてきた[[沖縄民謡]]、奄美群島の[[島唄]]とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者が'''[[おもろ]]'''や自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は[[当て字]]。現在、赤犬子神社(赤犬子宮 (アカナクー) )が[[読谷村]]楚辺にある。
 
 
 
湛水親方こと[[幸地賢忠]]が創設した湛水流から、[[知念績高]]の弟子であった[[安冨祖正元]]と[[野村安趙]]が、それぞれの流れを伝える[[安冨祖流]]と[[野村流]]を興す。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。
 
 
 
主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、[[毛遊び]]や祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の[[流行]]や地域の[[噂|うわさ話]]、[[替え歌]]、[[春歌]]、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。
 
 
 
音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。
 
 
 
* [[1957年]]設立 - 琉球民謡協会
 
* [[1976年]]設立 - 沖縄民謡協会
 
* [[1989年]]設立 - 琉球民謡保存会
 
* [[2002年]]設立 - 琉球民謡音楽協会
 
* [[2004年]]設立 - 琉球國民謡協会
 
 
 
* [[1949年]]設立 - 八重山音楽安室流協和会
 
* [[1958年]]設立 - 八重山音楽安室流保存会
 
* [[1970年]]設立 - 八重山音楽大浜用能流保存会
 
* [[1976年]]設立 - 八重山古典民謡保存会
 
* [[1998年]]設立 - 八重山音楽安室流室山会
 
 
 
* 宮古民謡協会
 
* 宮民謡保存会
 
* 宮古民謡保存協会
 
* 在沖宮古民謡協会
 
 
 
== 主な演奏者 ==
 
{{節スタブ|date=2016年6月}}
 
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
 
 
=== 琉球 ===
 
* [[新良幸人]]([[パーシャクラブ]])
 
* [[池田卓]]
 
* [[MERRY]](具志恵)
 
* [[石垣優]]([[やなわらばー]])
 
* [[伊丹英子]]([[ソウル・フラワー・モノノケ・サミット]])
 
* [[糸数カメ]]
 
* [[伊禮麻乃]]
 
* [[伊禮俊一]]
 
* [[上間綾乃]]
 
* [[上江洌清作]]([[MONGOL800]])
 
* [[内里美香]]
 
* [[大島保克]]
 
* [[大城美佐子]]
 
* [[乙女椿]]
 
* [[華菜枝]]
 
* [[嘉手苅林昌]]
 
* [[嘉手苅林次]]
 
* [[我如古より子]]
 
* [[川門正彦]]
 
* [[川畑アキラ]]([[ザ・コブラツイスターズ]])
 
* [[喜納昌永]]
 
* [[喜納昌吉]]
 
* [[金城繁]]
 
* [[金城睦松]]
 
* [[金城実 (三線奏者)|金城実]]
 
* [[儀間崇]]([[MONGOL800]])
 
* [[国吉源次]]
 
* [[国吉真勇]]
 
* [[ゲレン大嶋]]([[チュラマナ]]、[[coco←musika]]など)
 
* [[古我地]]
 
* [[古謝美佐子]]
 
* [[島袋正雄]]
 
* [[城間竜太]]
 
* [[新里英之]]([[HY (バンド)|HY]])
 
* [[大工哲弘]]
 
* [[高嶺英亨]]
 
* [[高嶺ミツ]]
 
* [[知名定男]]
 
* [[知名定人]]
 
* [[知名定繁]]
 
* [[知念宗真]]
 
* [[照喜名朝一]]
 
* [[照屋政雄]]
 
* [[照屋林賢]]([[りんけんバンド]])
 
</div><div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
* [[照屋林助]]
 
* [[通事安京]]
 
* [[中川敬]]([[ソウル・フラワー・ユニオン]])
 
* [[仲村奈月]]([[ソウル・フラワー・モノノケ・サミット]])
 
* [[夏川りみ]]
 
* [[饒辺愛子]]
 
* [[饒辺勝子]]
 
* [[登川誠仁]]
 
* [[南ぬ風人まーちゃん]]
 
* [[八木政男]]
 
* [[鳩間可奈子]]
 
* [[浜川春子]]
 
* [[比嘉栄昇]]([[BEGIN (バンド)|BEGIN]])
 
* [[平安隆]]
 
* [[前川守賢]]
 
* [[前川義紀]]
 
* [[宮城克年]]
 
* [[ミヤギマモル]]
 
* [[宮里悠平]]([[HY (バンド)|HY]])
 
* [[宮沢和史]]([[THE BOOM]])
 
* [[宮良康生]]
 
* [[宮良忍]](ex-[[DA PUMP]])
 
* [[村松健]]
 
* [[森久保慶子]](小原慶子)
 
* [[山内盛彬]]
 
* [[山川まゆみ]]
 
* [[山里勇吉]]
 
* [[山城孝治]](バーボンズ)
 
* [[よなは徹]]
 
 
 
=== 奄美 ===
 
* [[中孝介]]
 
* [[武下和平]]
 
* [[坪山豊]]
 
* [[築地俊造]]
 
* [[石原久子]]
 
* [[里アンナ]]
 
* [[牧岡奈美]]
 
* [[川畑さおり]]
 
* [[城南海]]
 
* [[前田博美]]
 
* [[禎一馬]]
 
* [[ハシケン]]
 
* [[元ちとせ]]
 
* 安田宝英
 
 
 
</div>{{clear}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 島袋正雄 「沖縄三線の起源と各型について」
 
* 王耀華「中国と琉球の三弦音楽」
 
* 冨原守清「琉球音楽考」
 
* 宜保榮治郎「三線のはなし」
 
* 山内盛彬「山内盛彬著作集 第一巻」
 
* 山内盛彬「琉球の音楽芸能史」
 
* 大城學 第385回 博物館文化講座「三線と沖縄の人たち」配布資料
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://okinawa34.jp 沖縄県三線製作事業協同組合 公式ウェブサイト] {{ja icon}}
 
* [http://www.asahi-net.or.jp/~rr4a-tnk/jami01.htm 奄美の島唄と三味線がよくわかるサイト(蛇皮線)] {{ja icon}}
 
  
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[[Category:沖縄県の音楽]]
 
[[Category:沖縄県の音楽]]

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三線(さんしん)

日本の弦楽器の一種。沖縄および奄美地方で用いられる。「蛇皮線」「さむしる」ともいい,現在では三味線と呼ばれることも少くない。日本本土の三味線の直接の原型となったものであるが,現在の三線には,本土三味線からの逆影響も多い。四角い胴に棹を差込んだリュート属の楽器で,胴には蛇皮が張られ,棹の全長は約 76cm,これに3本の弦が張られる。つまり本土三味線に比べて,やや小型のものであるが,細部において多くの違いがあり,糸巻への糸の掛け方などが異なる (一の糸と三の糸とが逆) 。奏者は右手人差指に義甲をはめたり,撥 (ばち) を持ったりして撥弦する。沖縄の芸術音楽に用いられるほか,各地の民謡や民俗芸能の伴奏にも欠かせない音楽である。なお,沖縄では蛇皮線という名称は使わない。



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