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[[Image:JapaneseMissionInWashington.jpg|thumb|right|350px|[[ワシントン海軍工廠]]での使節団:正使[[新見正興]](中央)、副使[[村垣範正]](左から3人目)、監察[[小栗忠順]](右から2人目)、勘定方組頭、[[森田清行]](前列右端)、外国奉行頭支配組頭、[[成瀬正典]](前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、[[塚原昌義]](前列左端)]]
 
'''万延元年遣米使節'''(まんえんがんねんけんべいしせつ)は、[[江戸幕府]]が[[日米修好通商条約]]の[[批准書]]交換のために1860年に派遣した使節団である。[[1854年]]の開国後、最初の公式訪問団であった。また、[[津太夫]]一行以来、日本人として2度目の[[世界一周]]をした。
 
==背景==
 
[[Image:JapaneseEmbassy1860.jpg|thumb|左から村垣範正、新見正興、小栗忠順]]
 
[[嘉永]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1854年]][[3月31日]])に締結された[[日米和親条約]]に続き、[[安政]]5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1858年]]7月29日)には[[日米修好通商条約]]が締結された。[[批准書]]の交換は[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で行うとされたため、[[江戸幕府]]は米国に使節団を派遣することとなった(米国での批准書交換を提案したのは条約の交渉を行った[[岩瀬忠震]]であったが、[[安政の大獄]]で左遷、さらに[[蟄居]]をさせられたため、使節には加われず)。安政6年([[1859年]])9月、正使および副使に、共に[[外国奉行]]および[[神奈川奉行]]を兼帯していた[[新見正興]]と[[村垣範正]]が任命された。外国奉行としては村垣が先任であったが、村垣の[[禄]]高は500石、対して新見は2,000石であったため、新見が正使に、村垣が副使となった。[[目付]]には[[小栗忠順]]が選ばれた。本来目付は不正が無いか等を監察するのが任務であるが、非公式ではあるものの小栗には通貨の交換比率の交渉という役目があった。これら3人を正規の代表とする使節団77人は、[[ジョサイア・タットノール]][[代将 (アメリカ海軍)|代将]]が司令官、[[ジョージ・ピアソン]](George F. Pearson)大佐が[[艦長]]を務める[[米国海軍]]の[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]で太平洋を横断し渡米することになる。また「目付とは[[スパイ]]のことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とは[[ケンソル|Censor]]である」と主張して切り抜けたという。
 
  
[[Image:Kanrin Maru members.jpg|thumb|300px|咸臨丸の乗員。右から福沢諭吉、[[岡田井蔵]](教授方手伝)、[[肥田浜五郎]](教授方)、[[小永井五八郎]](勤番下役)、[[浜口興右衛門]](教授方)、[[根津欽次郎]](教授方手伝) ]]また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、[[軍艦奉行]]・[[水野忠徳]]の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に[[咸臨丸]]を派遣することになり、軍艦奉行並であった[[木村喜毅]]を軍艦奉行に昇進させ、咸臨丸の司令官を命じた。木村は乗組士官の多くを[[軍艦操練所]]教授の[[勝海舟]]をはじめとする[[海軍伝習所]]出身者で固めると共に、[[通訳]]にアメリカの事情に通じた中浜万次郎([[ジョン万次郎]])を選んだ。また、[[福澤諭吉]]が木村の従者として乗船している。木村は日本人乗組員の航海技術では[[太平洋]]横断に不安ありと考え、技術アドバイザーとして、[[測量船]][[フェニモア・クーパー (スクーナー)|フェニモア・クーパー号]]の艦長で海軍大尉[[ジョン・ブルック|ブルック]](クーパー号が難破したため、横浜に滞在中であった)を始めとする米国軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた。
+
'''万延元年遣米使節'''(まんえんがんねんけんべいしせつ)
 
 
記録係として随行した[[玉虫左太夫]]による記録『航米日録』が残されている。
 
 
 
==旅程==
 
===サンフランスシスコへ===
 
[[Image:Fukuzawa Yukichi with the girl of the photo studio.jpg|thumb|left|150px|福沢が15歳のTheodora Alice と撮影した写真]]
 
安政7年1月18日([[1860年]]2月9日)、使節団一行は[[品川湊|品川沖]]でポーハタン号に乗船、[[横浜]]に4日停泊した後、旧暦1月22日(2月13日)、サンフランシスコに向け出港した。途中激しい嵐に遭遇し、[[石炭]]を使いすぎたため、旧暦2月13日(1860年3月4日)補給のために[[ホノルル]]に寄港(ホノルル到着の2日前に[[国際日付変更線|日付変更線]]を通過しているが、一行の多くは日付の調整を行っていないため、日記の日付が実際の日付と一致しない。以降は調整を行った日付を記す)。ハワイ滞在中一行は、[[ハワイ王国]]国王・[[カメハメハ4世]]に拝謁している。旧暦2月26日(1860年3月17日)ホノルルを出港、旧暦3月8日(3月28日)に[[サンフランシスコ]]に到着した。3月11日には市長主催の歓迎式が行われている。
 
 
 
一方、咸臨丸も嵐に遭遇し、木村の予想通り日本人乗員は使いものにならなかったが、ブルック以下米国人乗組員の働きにより、旧暦2月27日(3月18日)にサンフランシスコに到着した(ブルックは[[遺言]]で死後50年間は日記の公開を禁じていたため、この航海の実態が明らかになったのは1960年になってからのことである)。ポーハタン号の到着により咸臨丸の任務は完了したが、損傷が酷く修理の必要があった。この修理のためサンフランシスコに留まる間、咸臨丸の乗員らは現地の人々との交流も行っている。福沢諭吉は[[写真館]]に出掛け、アメリカ人の少女と一緒に写真に写っている。また、福沢と中浜は[[ノア・ウェブスター|ウェブスター]]の英中辞典を買い求めているが、これは[[英和辞典]]を作成するためのものであった。咸臨丸はワシントンへ向う正使一行と別れ、旧暦閏3月19日にサンフランシスコを出発、ホノルルを経て旧暦5月5日に浦賀へと帰還した。なお、帰路も米国人乗員を雇っての航海であった。
 
 
 
===パナマ===
 
使節団はサンフランシスコに9日滞在し、既に[[万延]]と改元された旧暦3月17日(4月7日)、[[パナマ]]へ向かって出港した。万延元年[[閏]]3月4日(1860年4月24日)、パナマに到着。[[パナマ運河]]はまだ完成していなかったため、一行は[[パナマ地峡鉄道]]が特別に用意した汽車で大西洋側のアスピンウォール(現在の[[コロン (パナマ)|コロン]])へと移動した。このときの様子を村垣は「やがて蒸気盛んになれば、今や走り出んとかねて目もくるめくやうに聞きしかば、いかがあらんと舟とは変わりて案じける内、凄まじき車の音して走り出たり」と記している。
 
途中小休止をはさみ、3時間でパナマ地峡を横断し、大西洋に到達した。ここで1年以上も使節団の到着を待っていたロアノーク号([[:en:USS Roanoke (1855)|USS ''Roanoke'']])に乗り換える。
 
 
 
===ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク===
 
[[Image:WhiteHouseReception(1860).jpg|thumb|ホワイトハウスでの歓迎会]]
 
[[Image:JapaneseWhiteHouseReceptionBuchanan1860.jpg|thumb|使節を迎えるブキャナン大統領]]
 
アスペンウォールを旧暦閏3月6日(4月26日)に出港し、ワシントンには旧暦閏3月25日(5月15日)に到着し、[[ウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン|ウィラード・ホテル]]に滞在した。翌26日(5月16日)には[[ルイス・カス|カス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を訪問し、27日(5月17日)に[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン]][[アメリカ合衆国|大統領]]に謁見・批准書を渡した。旧暦4月2日(5月22日)批准書は交換され、最大の任務は完了した(批准交換証書は[[重要文化財]]として[[外務省]]に保管されている)。ワシントンには25日間滞在するが、その間に[[スミソニアン博物館]]、[[アメリカ合衆国議会議事堂|国会議事堂]]、[[ワシントン海軍工廠]]、[[アメリカ海軍天文台]]を訪れるなど、休む間もない日々を過ごしている。旧暦4月16日(6月5日)、再び大統領に謁見、その後国務省にて、カス国務長官より使節三人には金メダル、以下随員には銀メダル、従者には銅メダルが贈られた。なお、ワシントン滞在中に複数回にわたり金銀貨幣の交渉が行われている。
 
 
 
旧暦4月19日(6月8日)にワシントンを出発、その日は[[ボルチモア]]に宿泊し、翌20日(6月9日)[[フィラデルフィア]]に向けて出発、その日のうちに到着している。フィラデルフィアでは[[アメリカ合衆国造幣局|造幣局]]を見学し、日米金貨の分析実験や金銀貨幣の交渉も引き続き行っている。また[[チェス]]クラブを訪れ[[将棋]]を披露している。
 
 
 
フィラデルフィアには6日間滞在し、旧暦4月27日(6月16日)午前発、午後には[[ニューヨーク]]に到着した。ニューヨークではブロードウェイでパレードが行われ50万人もの人から集まり、空前と言われる大歓迎を受ける<ref>http://www.examiner.com/article/city-museum-unveils-samurai-new-york</ref>。当時の[[ニューヨーク・タイムズ]]は「市の歴史で最も目新しく華々しいイヴェントの一つ」だと評している<ref>New York Times article from June 16, 1860 </ref>。ちなみに2010年6月には侍来米150年を記念した特別展示会がニューヨーク市立博物館で開かれている<ref>http://www.examiner.com/article/city-museum-unveils-samurai-new-york</ref>。ニューヨークには13日間滞在しているが、特に重要な行事はなく、旧暦5月12日(6月29日)、[[ナイアガラ (蒸気フリゲート)|ナイアガラ号]]で帰国の途についた。
 
 
 
なお、一行がニューヨークを出発するとき、当時世界最大の客船であった[[グレート・イースタン (蒸気船)|グレート・イースタン]]がニューヨーク港に停泊していた。グレート・イースタンは満載排水量3万2160トン、全長211mの巨大船で、排水量であればポーハタンの10倍に達する。一行はこれを軍艦と勘違いしたが、日本と列強との科学技術の差を強く意識させられることとなった。
 
 
 
また、無給通詞見習として同行していた、当時16歳の立石斧次郎が、出発後の米国人将校達との会話を通じ劇的に英語力を高め、米国滞在中には使節のスポークスマンを務めるようになったが、斧次郎の事が米国内の新聞でイラスト付きで報道されたことにより、将校達がつけたニックネーム「トミー」として10代を中心に女性からアイドル的人気を集めるようになり、挙句「トミーのポルカ」なる曲が作られるほどであった<ref>{{Cite news|date=2014-06-18|url=http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140618/dms1406181140004.htm|title=【世界を驚かせた日本人】立石斧次郎 米国女性を熱狂させた幕末の侍アイドル|newspaper=zakzak|publisher=産経デジタル|accessdate=2017-10-01}}</ref>。
 
 
 
===帰国===
 
ニューヨークを出発した一行は、北大西洋を横断してポルトガル領カーボベルデ(現[[カーボベルデ|カーボベルデ共和国]])の[[サン・ヴィセンテ島]]ポルトグランデ(現ミンデロ港)に至り、そこから南下してポルトガル領アンゴラ(現[[アンゴラ|アンゴラ共和国]])の[[ルアンダ]]を経由し、旧暦7月11日(8月27日)には[[喜望峰]]を回ってインド洋に入った。こののちオランダ領[[バタヴィア]](現[[インドネシア|インドネシア共和国]][[ジャカルタ]])、英領[[香港]]を経由し、旧暦9月27日(11月9日)に品川沖に帰着、翌日下船した。
 
 
 
==通貨の交換比率の交渉==
 
この使節団の隠れた目的の一つが、通貨交換比率の交渉であった。
 
 
 
日本においては、銀はもともと[[丁銀]]や[[豆板銀]]などの、重量を以て貨幣価値の決まる[[秤量貨幣]]として流通していたが、江戸後期に発行された[[一分銀]]は額面が記載された[[計数貨幣]]であった。 その貨幣価値は、[[金貨]]である[[一分金]]と等価とされ、1/4[[両]]に相当する。しかし、天保一分銀の量目は2.3[[匁]]に過ぎず、秤量貨幣である[[天保丁銀]]の含有銀量を換算した3.9匁にはるかに及ばず、従って、[[貴金属]]としての価値は低い。しかしながら、一分銀の発行高は[[丁銀]]をはるかに上回るものとなり、天保以降では銀貨流通の主流となっていた。
 
 
 
[[日米和親条約]]の締結により、日本貨幣と西洋貨幣との交換比率が定める必要が生じた。幕府は日本における[[本位貨幣]]である金を基準にしての交換率設定を主張したが、ハリスは当時の国際決済の標準通貨が[[洋銀|メキシコドル銀貨]]であったため、銀を基準にすることを主張した。結局、幕府は米国側に押し切られ、その銀含有量を基に1ドル=3分の交換比率を承諾することになる。
 
 
 
このことは、相対的に日本の金が安くなったことを意味する。金の含有量で比較すると、[[天保小判]]5両が米国20ドル金貨([[:en:Double Eagle|Double Eagle]])に等しい。このため、1ドル(メキシコ銀貨)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで、莫大な利益を上げることができた。結果、大量の金が海外へ流出することになった。
 
 
 
これを防止する方法として、一分銀が計数貨幣であり国際決済には不適切であることを諸外国に認めてもらう方法がある。小栗は渡米中にこの交渉を行った。小栗は一分銀およびそれと同じ額面を持つ[[一分金]]をフィラデルフィアの造幣局で分析させ、一分銀の35.6セントに対し、一分金は89セントに相当することを確認させた。この結果を基に、「洋銀と一分銀の交換は禁止し、90セント=1分として一分金との交換を行う」ことを主張した。米国側は小栗の主張の正当性は理解したものの、合意には至らなかった。しかしながら、この交渉の過程で、小栗はタフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を上げたと言われている。
 
 
 
結局、金銀交換比率を諸外国並とするため、幕府は小栗の帰国を待つことなく、天保小判の1/3弱の金含有量の[[万延小判]]を新たに発行することになるが、結果として大幅なインフレを招くこととなった。
 
{{See also|幕末の通貨問題}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書
 
|author =
 
|year = 2003
 
|title = 幕末・明治古写真帖
 
|publisher = [[新人物往来社]]
 
|isbn = 4-404-03112-2
 
|ref = 幕末・明治古写真帖
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[宮永孝]]
 
|year = 2005
 
|title = 万延元年の遣米使節団
 
|publisher = [[講談社学術文庫]]
 
|series =
 
|isbn = 978-4061596993
 
|ref =
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author =
 
|year = 2007
 
|title = 世界を見た幕末維新の英雄たち 咸臨丸から岩倉使節団まで
 
|publisher = [[新人物往来社]]
 
|series = 別冊歴史読本64
 
|isbn = 4-404-03364-8
 
|ref = 世界を見た幕末維新の英雄たち
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[玉虫左太夫]] [[山本三郎]]
 
|year = 2010
 
|title = 仙台藩士幕末世界一周
 
|publisher = [[荒蝦夷]]
 
|series = 叢書東北の声
 
|isbn = 978-4904863060
 
|ref = 玉蟲左太夫外遊録
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[小田基]]
 
|year = 2010
 
|title = 玉虫左太夫『航米日録』を読む
 
|publisher = 東北大学出版会
 
|series =
 
|isbn = 978-4925085250
 
|ref = 日本最初の世界一周日記
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Japanese Embassy to the United States in 1860}}
 
*[[新見正興]]
 
*[[村垣範正]]
 
*[[小栗忠順]]
 
*[[文久遣欧使節]]
 
*[[横浜鎖港談判使節団]]
 
 
 
== リンク ==
 
*[https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data27.htm 航米日録] - [[京都外国語大学]]図書館による解説
 
*[http://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/person/kindai/04.html ビールを愛した近代日本の人々・玉虫左太夫] - [[キリンホールディングス|キリン]]
 
*[http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/about.html 万延元年遣米使節団のニューヨーク訪問150周年記念] - 在ニューヨーク日本国総領事館
 
{{Japanese-history-stub}}
 
  
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幕末,万延1 (1860) 年日米修好通商条約 ([[安政五ヵ国条約]] ) の批准書交換のため,江戸幕府がアメリカに派遣した最初の幕末遣外使節。正使に外国奉行[[新見 (しんみ) 正興]],副使に同[[村垣範正]],立合いに目付小栗忠順が任じられ,幕臣のほか佐賀,熊本,仙台,加賀,土佐その他諸藩の藩士をも随員に加えた 77人が,同年1月アメリカ艦『ポーハタン』号に搭乗。別に木村喜毅 (芥舟) ,勝義邦 (海舟) は[[中浜万次郎]],[[福沢諭吉]]らを加えた総勢 96人で幕府がオランダから購入した『[[咸臨丸]]』でサンフランシスコまでこれに随行,同乗のアメリカ測量船員たちの援助で日本人初の遠洋航海に成功した。使節一行はハワイを経由してワシントン D.C.で大統領 J.ブキャナンに謁見し,批准書交換をすませた。当時の日記,紀行類は『万延元年遣米使節史料集成』 (7巻) その他に収録されている。
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[[Category:欧米に渡った日本の使節団]]
 
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万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)

幕末,万延1 (1860) 年日米修好通商条約 (安政五ヵ国条約 ) の批准書交換のため,江戸幕府がアメリカに派遣した最初の幕末遣外使節。正使に外国奉行新見 (しんみ) 正興,副使に同村垣範正,立合いに目付小栗忠順が任じられ,幕臣のほか佐賀,熊本,仙台,加賀,土佐その他諸藩の藩士をも随員に加えた 77人が,同年1月アメリカ艦『ポーハタン』号に搭乗。別に木村喜毅 (芥舟) ,勝義邦 (海舟) は中浜万次郎福沢諭吉らを加えた総勢 96人で幕府がオランダから購入した『咸臨丸』でサンフランシスコまでこれに随行,同乗のアメリカ測量船員たちの援助で日本人初の遠洋航海に成功した。使節一行はハワイを経由してワシントン D.C.で大統領 J.ブキャナンに謁見し,批准書交換をすませた。当時の日記,紀行類は『万延元年遣米使節史料集成』 (7巻) その他に収録されている。



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