万世橋駅

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万世橋駅(まんせいばしえき)は、以下に記載する2つの駅が存在した。

いずれも現在は、廃止駅(中央本線万世橋駅は、法規上は国鉄の駅として休止中)である。駅名は神田川に架かる万世橋に由来する。

本項は双方の駅について扱う他、埼玉県さいたま市鉄道博物館にある実演・体験施設「ミニ運転列車」に存在する同名の駅についても触れる。

国鉄 万世橋駅

国鉄万世橋駅は、国有鉄道(休止時、運輸通信省鉄道総局)中央本線にあった駅。東京都神田区(設置当時東京府東京市神田区、現: 千代田区)の神田駅御茶ノ水駅との間にあった。

前史

神田川に面する万世橋界隈は江戸時代から繁栄していた。万世橋の南側に位置する田町(後の多町、現・神田多町)には、青物商が集まっていた。青物商は17世紀初期(慶長年間)から田町、連雀町、佐柄木町に散在しており、1657年明暦3年)の明暦の大火の直前には81軒まで増えていたが、同大火の後、多町にまとめられた。享保の改革が行われた1724年享保9年)に幕府御用達となってからは急速に発展し、後の神田市場の母体となる。神田川北岸には、薪炭などの問屋があったほか、職人仕事の諸材料の荷受け地でもあった。幕末期には、住宅地としても発展した。幕府が財源確保のために、ところどころを町人に貸したこともあって、神田っ子の町が育って行った。

明治以降、更に発展した。主に洋服生地を扱う問屋街が周辺に形成された。万世橋駅前の連雀町(今は神田須田町 - 神田淡路町の一部)には、飲食店寄席映画館が次々と開業した。現在も「神田食味街」などと呼ばれる一画がある。

歴史

繁栄する万世橋地区を目指して、鉄道を延伸しようとしたのは私鉄甲武鉄道である。甲武鉄道は1889年明治22年)4月11日立川 - 新宿間を開通させ、都心への延伸を進めていた。

1912年(明治45年)4月1日、万世橋駅の営業を開始した。甲武鉄道は1906年(明治39年)3月31日国有化されたため、鉄道院の駅となる。なお万世橋駅の開業によって御茶ノ水 - 万世橋にあった昌平橋駅は役目を終えて廃止された。

初代の駅舎は豪華であった。東京駅と同様に辰野金吾の設計による赤煉瓦造りで[1]一等二等待合室食堂バー会議室等を備えていた。また、貨物用のエレベーターも整備されていた。中央本線のターミナルとしてだけでなく、ここから両国駅方面への総武線の敷設計画をも見据えたものであった。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である広瀬武夫杉野孫七銅像が建っていた。東京市電が走り、多くの人で賑わった。大正時代に最盛期を迎えた。

しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。1919年大正8年)3月1日、万世橋 - 東京が開通。中央本線の終点としての役目は7年で終わった。同年、神田駅が開業。1925年(大正14年)11月1日には、上野 - 神田間の高架線が完成。秋葉原駅が旅客営業を始めた。

一方、万世橋駅は1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失し[1]、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎が再建された。徒歩圏内に神田駅及び秋葉原駅が出来たこと、それに上野 - 神田の路線が出来たことで東京以南から上野・浅草方面への市電乗り換え駅としての地位を失ったため、乗客数は急減していった。そして須田町交差点が移転し、1929年昭和4年)以降は市電も通らなくなった。1936年(昭和11年)4月25日、東京駅から鉄道博物館が移転。駅舎は解体縮小され、博物館に併設された小屋となった(閉鎖後は博物館の事務室に使われた)。駅構内にあった階段の一部は博物館への直通連絡口に使われたものがあった(駅閉鎖後は休憩所に転用された)。また、この解体縮小の直前には駅構内の食堂が営業を終了した。1943年(昭和18年)11月1日、駅は休止(実質上廃止)となり[1]、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊された。

休止後、万世橋の風景は変わっていった。駅舎の資材は、新設の京浜東北線新子安駅に流用されたと言われる。駅前の広瀬中佐杉野兵曹長の銅像は太平洋戦争終結後、撤去された。銅像の場所は交通博物館の南端となり、善光号が展示された。駅前交番だった須田町派出所(万世橋交番)は、昭和中期まで使われた後、1993年平成5年)に江戸東京たてもの園に移築された。駅舎の一部は交通博物館に転用されたが、2006年(平成18年)5月14日に閉鎖され[1]2010年(平成22年)6月までに全て取り壊された。

交通博物館跡地にはJR神田万世橋ビルが建設され、2013年(平成25年)1月17日に竣工した[2]。また、2012年(平成24年)7月より旧万世橋駅遺構を整備し、「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」が2013年(平成25年)9月14日に開業した[3][4]

年表

東京地下鉄道 万世橋駅

東京地下鉄道万世橋仮停留場(東京地下鐵道萬世橋假停留場)は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)にあった東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線)の廃仮駅。末広町駅 - 神田駅間で2年足らず営業した。

歴史

1927年(昭和2年)12月30日浅草 - 上野間に東京初の地下鉄を開通させた東京地下鉄道は、新橋を目指して開削工法による南下延伸を続けた。しかし、神田川底をアンダーパスするには水路を一時変更する必要があり、また交通量の多い万世橋も掛け替えなければならない等、長い工期が見込まれたため、それらが完工するまでの暫定的な停留所として1930年(昭和5年)1月1日に開業した。

当仮駅は万世橋交差点の中央通り国道17号)北詰、現在の秋葉原電気街側に位置し、2.5%勾配途中のトンネル断面積を若干大きく取った上で、本設道床上に2両編成分の木造水平道床と木造プラットホームを仮架設し、片渡り線を持つ末広町駅からの神田方面行き上り線路を用いて、運行本数の半分が当仮駅を終着始発として単線折り返し運転されていた。仮駅の構造上車止めは不十分なものしか設置できなかったため、オーバーラン防止の観点から同仮駅着の列車は手前で一旦停止し、その後最徐行で進入していた。

上記の国鉄(省線)万世橋駅への乗り換えのみならず、その南北の須田町・万世橋両交差点は東京市電ハブでもあり、連絡が非常に便利で好評だった。

しかし、急勾配かつカーブ開始区間にあるため常設駅を構えることができず、渡河工事の進捗に従って、資材運搬用のトロッコを通す必要上予定通り仮水平道床を先に撤去し、傾いた直結軌道に応じて木造ホームの支柱と床面も適宜切断、これを階段状に作り替えて暫時営業継続した後、1931年(昭和6年)11月21日の神田駅延伸開業に伴い同日廃止され、道床上の仮設物は前日一夜で撤去された。

用途廃止後換気口兼作業員進入口になっている出入口跡は、現在のエディオンAKIBA前の歩道上にあり、光線条件が良ければ填められているグレーチングの隙間から階段が目視できていた。しかし後に網目の細かい物に交換され、現在は目視で確認することは困難となっている。

地下フロア(客溜室とも客扱室とも)跡は設備室兼物置に転用され線路脇に開口しており、「まんせいばし」と書かれた駅名板(ただし当時のものではなく、後年にイベント用として設置されたもの)も存在するものの、特に照明設備もなく、また改札口跡はほとんどが壁で塞がれている。このため、トンネルの天井が丸く少し高く、当該区間のみ間柱がない程度にしか仮駅の痕跡が見当たらず、国鉄万世橋駅や、同じ銀座線の廃駅である東京高速鉄道旧新橋駅とは異なり、駅間で速度が乗る区間でもあり、一瞬にして通り過ぎてしまう当遺構(仮駅跡)を乗車中に視認することは難しい。

末広町駅ホーム南端からは同様に間柱のない渡り線区間跡が見渡せ、辛うじて往時を偲ぶ手掛かりになっている。関連資料が地下鉄博物館で閲覧できる他、過去には閉館された交通博物館のミニ展示「万世橋駅の歴史」でも、当仮駅の地上部写真と構内施工図が一般公開されていた。また、2010年(平成22年)9月11日に放送されたテレビ朝日系のバラエティ番組『Directors TV』及び2011年(平成23年)12月8日に放送されたNHKのバラエティ番組『ブラタモリ』では駅跡の様子が放映された。階段は埋められておらず柵が被せられ、給排気口となっている。

東京メトロ1000系電車2012年(平成24年)春に銀座線へ導入されるのに伴い開設された 銀座線1000系スペシャルサイト の『駅物語』では 当駅の紹介ページ が設置され、駅ナンバリングG幻とされている。

2017年(平成29年)12月 - 地下鉄開通90周年記念のイベントの一環「幻の駅ライトアップ」として、旧萬世橋(万世橋)駅跡が銀座線旧神宮前駅跡と共に期間限定(1~18日)でライトアップされた[7]

「鉄道博物館」万世橋駅

「万世橋」駅(2007年10月11日) 「ミニ」運転指令モニター(2007年10月11日)
「万世橋」駅
2007年10月11日
「ミニ」運転指令モニター
(2007年10月11日)

ミニ運転列車万世橋駅は、埼玉県さいたま市大宮区にある鉄道博物館の実演・体験施設「ミニ運転列車」に存在するミニチュア駅で、2007年(平成19年)10月14日に開業。

汐留 - 両国橋間として設けられ、この路線の起点駅も兼ねる。2面4線の島式ホームをもち、跨線橋が架けられている。また、停車位置を合わせる都合からか、この駅に限り非常の場合を除いて停車時ブレーキ操作をしないよう求める標識が立っている。

脚注

関連項目

外部リンク