「ヴャチェスラフ・モロトフ」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「'''ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ'''({{lang-ru|Вячеслав Михайлович Молотов}}、ラテン文字化|ラテン文…」で置換)
(タグ: Replaced)
1行目: 1行目:
{{政治家
+
'''ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ'''({{lang-ru|Вячеслав Михайлович Молотов}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:{{lang|ru-Lat|Vyacheslav Mikhailovich Molotov}}、<small>ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ</small>、[[1890年]][[3月9日]]([[ユリウス暦]]2月25日) - [[1986年]][[11月8日]]
|人名=ヴャチェスラフ・モロトフ
 
|各国語表記={{Lang|ru|Вячеслав Молотов}}
 
|画像=Molotov.bra.jpg
 
|画像サイズ=
 
|画像説明=外務人民委員時代のモロトフ
 
|国略称={{SSR1955}}
 
|生年月日={{生年月日と年齢|1890|3|9|no}}
 
|出生地={{RUS1883}}、ヴャトカ県ヤランスク市クカルカ村
 
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1890|3|9|1986|11|8}}
 
|死没地={{SSR}}<br />{{RUSSR}}、[[モスクワ]]
 
|出身校=[[サンクトペテルブルク工科大学|ペテルブルク高等専門学校]]
 
|前職=[[革命家]]
 
|現職=
 
|所属政党=[[ロシア社会民主労働党]]<br />ロシア共産党([[ボリシェヴィキ]])<br />[[ソビエト連邦共産党]]
 
|称号・勲章=
 
|親族(政治家)=
 
|配偶者=ポリーナ・ジェムチュジナ
 
|サイン=Vyacheslav Molotov Signature 1944.png
 
|国旗=SSR1923
 
|職名=第3代[[ソビエト連邦の首相|ソビエト連邦人民委員会議議長]]
 
|内閣=
 
|就任日=[[1930年]][[12月19日]]
 
|退任日=[[1941年]][[5月6日]]
 
|元首職=書記長
 
|元首=[[ヨシフ・スターリン]]
 
|国旗2=SSR1923
 
|職名2=[[ソビエト連邦]]外務人民委員
 
|内閣2=
 
|就任日2=[[1939年]][[5月3日]]
 
|退任日2=[[1946年]][[3月15日]]
 
|元首職2=首相
 
|元首2='''ヴャチェスラフ・モロトフ'''<br>[[ヨシフ・スターリン]]
 
|国旗3=SSR1923
 
|職名3=[[ソビエト連邦]]外務大臣
 
|内閣3=
 
|就任日3=[[1946年]][[3月19日]]
 
|退任日3=[[1949年]][[3月4日]]
 
|元首職3=首相
 
|元首3=[[ヨシフ・スターリン]]
 
|国旗4=SSR1955
 
|職名4=[[ソビエト連邦]]外務大臣
 
|内閣4=
 
|就任日4=[[1953年]][[3月5日]]
 
|退任日4=[[1956年]][[6月1日]]
 
|元首職4=首相
 
|元首4=[[ゲオルギー・マレンコフ]]<br />[[ニコライ・ブルガーニン]]
 
|国旗5=SSR1955
 
|職名5=[[ソビエト連邦]]国家管理大臣
 
|内閣5=
 
|就任日5=[[1956年]][[11月21日]]
 
|退任日5=[[1957年]][[6月29日]]
 
|元首職5=首相
 
|元首5=[[ニコライ・ブルガーニン]]
 
}}
 
'''ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ'''({{lang-ru|Вячеслав Михайлович Молотов}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:{{lang|ru-Lat|Vyacheslav Mikhailovich Molotov}}、<small>ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ</small>、[[1890年]][[3月9日]]([[ユリウス暦]]2月25日) - [[1986年]][[11月8日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]、[[革命家]]。[[ソビエト連邦の首相|同国首相]]、{{仮リンク|ソビエト連邦の外相|label=外務人民委員、外相(1946年以後)|en|Ministry of Foreign Affairs (Soviet Union)}}を歴任し、[[第二次世界大戦]]前後の時代を通じて[[ヨシフ・スターリン]]の片腕としてソ連外交を主導した。「モロトフ」は{{Lang|ru|молот}}(モロト、ロシア語で「ハンマー」という意味)に由来するペンネーム<ref>かつては[[アレクサンドル・パルヴス]]も偽名として用いていた。</ref>であり、本名は'''ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン'''({{lang-ru|Вячеслав Михайлович Скрябин}})。[[作曲家]]の[[アレクサンドル・スクリャービン]]と直接の血縁関係はない<ref name="Shimotomai">[[下斗米伸夫]]『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』[[講談社]]選書メチエ(2002年) ISBN 978-4-06-258248-3</ref>。
 
  
[[1930年代]]以降唯一、スターリンに対して[[ロシア革命|革命]]時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。妻は[[ユダヤ人]]の仕立屋の娘であり、[[ウクライナ共産党]]の書記や交通人民委員を務めた{{仮リンク|ポリーナ・ジェムチュジナ|en|Polina Zhemchuzhina}}。孫に[[ソ連国家保安委員会|KGB]]長官の補佐官を務めた政治評論家{{仮リンク|ヴャチェスラフ・ニコノフ|en|Vyacheslav Nikonov}}がいる。
+
ソ連の政治家。本名 V.M.Skryabin。 1906年カザン中学に入学,同年ボルシェビキに加入。 09年逮捕,流刑となり,11年釈放。その後ペテルブルグの高等工業学校に学び,ボルシェビキの常勤オルガナイザーとなった。 17年の十月革命後共産党の地方組織の種々のポストを歴任。
 +
26年政治局員。 30~41年人民委員会議議長 (首相) 。 39年5月外務人民委員を兼ね,同年8月独ソ不可侵条約を締結。 41年5月 I.スターリンの首相就任に伴い第一副首相兼外相。 49年第一副首相専任。 53年 G.M.マレンコフ内閣の第一副首相兼外相。スターリンの忠実な片腕として活躍したが,スターリンの死後その威信も衰え,55年自己批判を余儀なくされ,56年外相を辞任。
  
== 生涯 ==
+
57年6月党中央委員を含むすべてのポストを剥奪され,モンゴル大使に就任。 61年の第 22回党大会を前にして新綱領草案を修正主義と批判する意見書を送ったため,政治的に完全に失脚,年金生活に入った。 64年党籍剥奪が明らかになった。 84年に復党。
=== 生い立ち ===
+
   
[[1890年]][[3月9日]]、[[ロシア帝国]]の{{仮リンク|ヴャトカ県|en|Vyatka Governorate}}{{仮リンク|ヤランスク|en|Yaransk}}市クカルカ村(現在の[[キーロフ州]]{{仮リンク|ソヴィェツク (キーロフ州)|label=ソヴィェツク|en|Sovetsk, Kirov Oblast}})で生まれた。父ミハイルは領地管理人、母アンナは裕福な商家の出という裕福な家庭に育った。[[1906年]]に[[ロシア社会民主労働党]]に入党し、[[ボリシェヴィキ]]のメンバーとなった。[[1909年]]、[[カザン]]工業学校在学中に逮捕され、[[ヴォログダ]]に[[流罪|流刑]]となる。[[1911年]]、刑期を終えて[[サンクトペテルブルク工科大学|ペテルブルク高等専門学校]]に入学した後、再び[[イルクーツク州|イルクーツク県]]に流刑された。[[1912年]]に創刊された党機関紙『[[プラウダ]]』には編集書記として参加し、この頃から「モロトフ」の名を使い始める。このほか「ジャージャ」(伯父)や「ミハイロフ」というペンネームも用いた。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
=== ロシア革命 ===
 
[[ファイル:Molotov VM.jpg|250px|サムネイル|活動家時代のモロトフ]]
 
[[1914年]]末には{{仮リンク|アレクサンドル・シリャプニコフ|en|Alexander Shliapnikov}}らと指導的活動組織「1915年ボリシェヴィキ集団」を結成する。[[1915年]]にイルクーツクから脱走し、地下活動に入る。[[1916年]]秋頃にはシリャプニコフらと[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]に潜伏し、ボリシェヴィキの国内組織である「党中央委員会ロシア・ビューロー」のメンバーとなった。[[1917年]]の[[ロシア革命|二月革命]]では[[ロシア臨時政府|臨時政府]]の支持に反対したため、しばらく党中央のメンバーから外された。しかし[[ウラジーミル・レーニン]]が反臨時政府の立場を明確にすると再び中央に復帰し、急進的な革命を主張するようになった。[[十月革命]]ではペトログラード・[[ソビエト]]軍事委員会委員を務め、次いで北ロシア、[[沿ヴォルガ連邦管区|ヴォルガ]]、[[ドネツ]]各地方で宣伝活動を行った。[[1919年]]末には[[ニジニ・ノヴゴロド]]県ソビエト執行委員会議長に就任した。
 
 
 
=== 中央委員会 ===
 
<gallery heights="220px" widths="220px">
 
ファイル:Molotov, Stalin and Voroshilov, 1937.jpg|スターリン(中央)、[[クリメント・ヴォロシーロフ]](右)とともに(1937年)
 
Kalinin, Enukidze and Molotov at a session of the 3rd All-Union Congress of Soviets (1925).jpeg|{{仮リンク|アヴェル・エヌキーゼ|en|Avel Enukidze}}(左)、[[ミハイル・カリーニン]](中央)と
 
</gallery>
 
[[1921年]]には[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員会]][[ソ連共産党書記局|書記局]]筆頭書記になり、[[ソ連共産党政治局|政治局]]員候補となる。この年、モロトフは[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ]]の党書記であったポリーナ・ジェムチュジナと結婚した。翌[[1922年]]、レーニンは書記局の強化のために[[ソビエト連邦共産党書記長]]のポストを新設し、スターリンを書記長に任命した。以降の党内闘争ではモロトフはスターリン派として活動し、[[レフ・トロツキー]]、[[アレクセイ・ルイコフ]]といった政敵の排除に大きな役割を果たした。[[1926年]]には正式に政治局員となる。以降もスターリン路線の忠実な支持者であり、[[コルホーズ]]による農業集団化や[[大粛清]]でも大きな役割を果たした。[[1930年]]には[[ソビエト連邦の首相|人民委員会議議長(首相)]]に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。
 
 
 
また、[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]の失脚にともない[[1927年]]には[[コミンテルン]]執行委員会幹部会メンバーに選出され、[[1929年]]の[[ニコライ・ブハーリン]]失脚以後は、コミンテルンの事実上の指導者となった。
 
 
 
=== モロトフ外交 ===
 
<gallery heights="220px" widths="220px">
 
ファイル:MolotovRibbentropStalin.jpg|独ソ不可侵条約に調印するモロトフ<BR />(後列中央は[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]とスターリン)
 
ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1984-1206-523, Berlin, Verabschiedung Molotows.jpg|訪独してリッベントロップらドイツの首脳と会談するモロトフ(1940年11月)
 
File:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-2.jpg|日ソ中立条約の調印に立ち会うモロトフ<BR />(調印しているのは[[松岡洋右]]、そのすぐ後ろがスターリン。スターリンの左後にモロトフ)
 
</gallery>
 
[[1939年]]5月、[[ナチス・ドイツ]]との融和のため[[アドルフ・ヒトラー]]の歓心を買おうと企図したスターリンによってユダヤ人であった外務人民委員(外相)の[[マクシム・リトヴィノフ]]が解任された。モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年にわたってソビエト連邦における外交の長として活動することになる。一方、ユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には[[独ソ不可侵条約]](モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ、これに基づいた9月の[[ポーランド侵攻]]は[[第二次世界大戦]]の口火を切った。この協定にはポーランドの分割と[[バルト三国]]の[[バルト諸国占領|ソ連による併合]]を取り決めた[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]が付属しており、モロトフはこれにもサインしている。また、ポーランド侵攻後に起きた[[ポーランド軍]]将校の虐殺([[カティンの森事件]])には政治局の一員として賛成している。
 
 
 
1939年11月、[[カレリア]]の領有権をめぐって[[フィンランド]]との[[冬戦争]]が勃発した。スターリンとモロトフは開戦に積極的であり、[[オットー・クーシネン]]を首班とする[[フィンランド民主共和国]]の樹立を目論んでいた<ref name="Shimotomai"/>。また、ソ連空軍はフィンランドの市街地を空爆した。フィンランド政府がこれに抗議すると、モロトフは「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。以後、フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「'''モロトフのパン籠'''」と呼ぶようになった。さらにフィンランド軍は、対戦車兵器として用いた[[火炎瓶]]に「'''モロトフ・カクテル'''」とあだ名をつけ、「パン」への「返礼」とした。冬戦争では[[モスクワ講和条約]]によってフィンランドに領土割譲要求を呑ませることに成功し勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したソ連の威信は大いに傷つき、[[国際連盟]]からも追放された。
 
{{see also|モロトフ火炎手榴弾#モロトフ・カクテル}}
 
 
 
[[1940年]]11月に[[ベルリン]]を訪問したモロトフは、ヒトラー、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日、[[イギリス空軍]]による爆撃があったため防空壕に避難して会談を続けたが、リッベントロップが「[[イギリス]]の敗北は必至」と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した<ref name="通訳63">ワレンチン・M・ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』、63頁 (栗山洋児訳、同朋舎出版、1995年)。{{仮リンク|ヴァレンティン・ベレジュコフ|label=ベレズホフ|fr|Valentin Berezhkov}}はモロトフの通訳としてその場にいた。</ref>。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、[[日独伊三国同盟]]にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという<ref name="通訳63"/>。この提案にスターリンも含めて同意したが、ドイツの最終的な返答は[[バルバロッサ作戦]]であった。
 
 
 
[[1941年]]5月、スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。日本の[[松岡洋右]]外相と[[日ソ中立条約]]に調印する。[[6月22日]]にドイツ軍が侵攻し[[独ソ戦]]が勃発した。[[アナスタス・ミコヤン]]の回想によると、[[6月30日]]に[[ラヴレンチー・ベリヤ]]の提案で[[ソ連国家防衛委員会]]が組織されることが決まった。ミコヤンが議長としてスターリンの名を挙げると、モロトフは「スターリンはここ2日ほど脱力状態にある」と説明したという。また、ベリヤの回想ではスターリンの不在時に国家防衛委員会の設立を提案したのはモロトフであるとしている。この時期、スターリンは独ソ戦勃発に動揺したため指導力が弱まり、[[ニコライ・ヴォズネセンスキー]]はモロトフに権力掌握を薦めたという<ref>ただし、孫のニコノフや下斗米伸夫は否定的に見ている。</ref>。ミコヤンによるとスターリンの別荘を訪れたモロトフは「逮捕される表情」を示したという<ref name="Shimotomai"/>。
 
 
 
7月になるとスターリンは現場に復帰し、{{仮リンク|ソビエト連邦軍最高総司令官|ru|Верховный Главнокомандующий Вооружёнными Силами СССР}}および国家防衛委員会議長となった。モロトフは国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。海外ではスターリンの忠実な部下として知られており、「モール」(ボスの情婦)のあだ名で呼ばれた。
 
 
 
戦時中から戦後にかけて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、[[冷戦]]期の[[東側諸国|共産圏]]の基礎を作った。
 
 
 
=== 戦後 ===
 
第二次世界大戦終了後の[[1945年]]10月に、スターリンは最初の発作を起こし、休養を余儀なくされた。そのためこの時期はモロトフが代理で政務を扱った。外国の新聞では後継者を巡る報道が行われ、モロトフに対するスターリンの警戒心は高まった。12月初め、復帰したスターリンはモロトフ批判を政治局で行った。政治局に対外委員会が設立され、外務人民委員部の役割とモロトフの権限は縮小された。外務人民委員代理には[[アンドレイ・ヴィシンスキー]]が就任し、モロトフと対立する場面もあった。
 
 
 
[[1946年]]12月には[[ロシア科学アカデミー|ソビエト連邦科学アカデミー]]から「[[マルクス・レーニン主義|マルクス・レーニン学]]」の名誉会員に推挙された。しかしスターリンから「私はアカデミー会員だが、お前は名誉会員だ。賛成か」と電報が届いたため、辞退せざるを得なかった。スターリンは独裁を強め、ベリヤや[[アンドレイ・ジダーノフ]]といった側近を重用した。モロトフやミコヤンといった古参幹部は遠ざけられ、粛清の危険が迫っていた。
 
 
 
[[1949年]]1月にポリーナは逮捕され、党を除名された上で[[カザフ・ソビエト社会主義共和国|カザフ]]に流刑となった。当時スターリンは[[イスラエル]]の建国や[[ユダヤ自治州|ソビエト・ユダヤ人共和国]]設立をめぐってユダヤ人への警戒心を強めており、ポリーナの粛清はイスラエルの駐ソ大使[[ゴルダ・メイア|ゴルダ・マイエルソン]]と[[ヘブライ語]]で会話したことが直接の引き金になったという。モロトフは妻の処分決定時には棄権したが、後にそのことについて[[自己批判]]せざるを得なかった。3月には外務人民委員を解任され、第一副首相となった。しかし第一副首相は閑職であり、幹部会のメンバーからも外された。
 
 
 
モロトフ自身も[[ヒステリー]]の症状で口が開かず、薬を飲むのにも苦労したほどであった。後に「あと1年スターリンが生きていたら無事ではすまなかっただろう」と語っている<ref name="Shimotomai"/>。
 
 
 
[[1953年]][[3月5日]]、スターリンが死去した。指導部とも繋がりのあった作家[[コンスタンチン・シーモノフ]]の観察によると、モロトフは「スターリンの死を心から悼んだ唯一の政治局員」だったという<ref name="Shimotomai"/>。
 
 
 
=== スターリンの死後 ===
 
スターリンの死は新たな政治状況を作り出した。その日のうちにモロトフは外相に復帰した。またポリーナは収容所から解放され、その後も多くの囚人が釈放された。しかし改革に舵を切ったベリヤと対立し、[[ニキータ・フルシチョフ]]の提案するベリヤの逮捕と処刑に積極的に賛成した。[[ドミトリー・シェピーロフ]]の回想ではフルシチョフがベリヤの解任をほのめかした際には「除去するだけでいいのか」と答えたという。
 
 
 
しかしその後の集団指導体制の中で、スターリン主義に固執するモロトフら保守派は孤立を深めていった。[[1956年]]2月にフルシチョフが[[スターリン批判]]を行い、[[非スターリン化]]を進めるとモロトフらは反発した。またスターリンの故郷[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]で暴動が発生し、「モロトフを首相に」というスローガンが唱えられた。またモロトフは[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]との関係正常化に反対してフルシチョフと対立し、9月に外相を解任された。10月には[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]で政変が起こり、[[ハンガリー動乱]]が発生した。モロトフは軍事介入に賛成し、融和を唱えるミコヤンと対立した。
 
 
 
[[1957年]][[6月]]、幹部会において[[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[ラーザリ・カガノーヴィチ]]らとともにフルシチョフ解任の動議を提出した。しかし書記局と軍の支持を得ていたフルシチョフは[[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員会]]で逆襲を行った。モロトフら反フルシチョフ派は「反党グループ」であるとして政治局員から解任され、モロトフ自身は駐[[モンゴル人民共和国|モンゴル]]大使に左遷された([[反党グループ事件]])。この動議は反党グループと呼ばれた人々も賛成票を投じざるを得なかったが、モロトフは棄権した。しかし反対派の多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。
 
 
 
その後、[[中ソ対立]]でモンゴルの重要性が高まると、モロトフは[[1960年]]に[[国際原子力機関]]ソ連代表に左遷された。しかしフルシチョフに体制批判の書簡を送ったことで、[[1961年]]10月の党大会で「モロトフとその同類の頑迷派」は激しく批判された。モロトフは共産党から除名され、年金生活に入った。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
モロトフは晩年をモスクワ郊外の[[ジューコフカ]]の別荘で送った。年金は月額120[[ルーブル]]という労働者並みの水準であったという。モロトフは『新しい課題を前に』という著書の執筆を行っていたが、出版される見込みはなかった。[[1970年]]には妻のポリーナが死去した。フルシチョフの失脚後、政権を握った[[レオニード・ブレジネフ]]の元でも復権は果たされず、20年以上の隠遁生活が続いた。
 
 
 
[[1984年]]5月、政治局でモロトフの復権が決定され、共産党に復党した。モロトフには元首相としての多額の年金がさかのぼって支給され、孤児院に寄付を行った。彼は1985年に書記長となった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に期待しており、新聞に「この国の新しい変化にわくわくしている」という記事を寄稿した<ref>同じく古参幹部であったカガノーヴィチはジャーナリストの作文ではないかとしている。</ref>。[[1986年]][[11月8日]]、十月革命69周年の日にモスクワで死去した。96歳。[[ノヴォデヴィチ墓地]]に埋葬された。
 
 
 
== 人物 ==
 
[[ジョン・フォスター・ダレス]]は「今世紀の偉大な国際政治家が活躍するのを見てきたが、モロトフほど完成された外交的技量を持った人物を見たことがない」と評している。モロトフ自身は、資本主義と共産主義との間に平和はありえないと考えており、「ミスター・ニェット」と呼ばれた[[アンドレイ・グロムイコ]]を高く評価し、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンへの介入]]などの対外政策を支持していた。1944年のフィンランドとの停戦交渉では、世界各国の大使を前に「この地上で赤軍を止められる軍隊などどこにもおらんのだ!ば、ば、ばかにされてなるものか」と、どもりながら激怒した。モロトフは護衛に抱えられて退出した。翌日、通訳からフィンランド代表や各国大使の反応を聞いて「上出来だ!申し分ない!」と叫んだ<ref>ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』255頁</ref>。先日の怒りは演技だったのである。やがて停戦協定が結ばれた。
 
 
 
対照的に、フルシチョフはその回想記の中でモロトフを「こんな無能力で、こんな視野の狭く、最も簡単なことを理解できない男が一体何年わが国の外相をしていたのか!」と酷評している。フルシチョフはさらにモロトフの頑固さを強く批判しており、たとえば日本との平和条約を締結できなかったのも、モロトフの頑迷さも一因であったと述べている。その一方で、モロトフの頑固さは時としてスターリンにすらニェット(ノー)と平然と言ってのけるようなものであり、モロトフがフルシチョフのためにスターリンに抗議してくれたことも一度や二度ではなかったという。
 
 
 
フルシチョフが評したとおり、頑固で愛想がない性格の人物であり、部下にも妥協を許さなかった。基本的にはよそよそしいほど礼儀正しく接したが、一度怒らせると相手が気絶するまで叱った<ref name="通訳241">ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』241頁</ref>。気絶すると冷水をかけ、護衛を呼んで事務室まで運ばせた。しかし、それ以上の懲罰が下ることはなかったという<ref name="通訳241"/>。通訳が金庫を開けっぱなしにしているのを見た時は、「腐った知識人がまた何もかもさらけだしているな。君達ロシアの知識人ときたら」と笑った<ref>ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』244頁</ref>。補佐官を務めた{{仮リンク|アレクサンドル・トロヤノフスキー|de|Alexander Antonowitsch Trojanowski}}は「モロトフほどうち解けにくい人間はいなかった」としている。
 
 
 
ロシア革命、スターリン体制の最後の生き証人であったが、スターリンについてはほとんど胸中を明かさずに世を去った。晩年でもモロトフと妻ポリーナは一貫して[[スターリニズム|スターリン主義]]者であり、多くの犠牲者を出した1930年代の農業集団化や大粛清などを擁護している。しかし、レーニンについては晩年のインタビューで「スターリンよりも厳格だった」、「スターリンを『軟弱だ』と叱責したこともあった」など、貴重な証言を残している<ref>[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構]  [[岩上安身]]公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。『[[諸君!]]』1997年1月号掲載</ref>。
 
 
 
== 日本との関係 ==
 
駐ソ大使も務めた[[東郷茂徳]]を「馬が合った」「私とやり合って祖国のために戦った」と評価しており、[[極東国際軍事裁判]]では東郷の減刑に動いたという説がある<ref>下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』118P。歴史家[[アレクセイ・キリチェンコ (歴史家)|アレクセイ・キリチェンコ]]の説であるが、下斗米は疑問があるとしている。</ref>。また、[[近衛文麿]]によるソ連を仲介者とした連合国との和平交渉「近衛工作」では駐ソ大使[[佐藤尚武]]と交渉を行い、[[1945年]][[8月8日]]には[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]文を手渡している([[ソ連対日参戦]])。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|Вячеслав Михайлович Молотов|Vyacheslav Molotov}}
 
* [[ペルミ]] - 1940年から1957年までモロトフ市と呼ばれた。1945年から1953年頃まで、モロトフ市で犯罪が多発した現象は「モロトフ現象」と呼ばれた。
 
* {{仮リンク|モロトフ線|en|Molotov Line}} - 独ソ不可侵条約におけるドイツとソ連の境界線。
 
* [[モロトフ火炎手榴弾]] - ソ連で開発された焼夷手投げ弾の通称、制式呼称は「KS式手投げ弾」。
 
* [[モロトフは駄目だ]] - フィンランドの軍歌。
 
 
 
{{start box}}
 
{{S-ppo}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会責任書記
 
| years  = 1921年3月16日 - 1922年4月3日
 
| before = [[ニコライ・クレスチンスキー]]
 
| after  = [[ヨシフ・スターリン]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)モスクワ県委員会責任書記
 
| years  = 1928年11月27日 - 1929年4月6日
 
| before = {{仮リンク|ニコライ・ウグラーノフ|ru|Угланов, Николай Александрович}}
 
| after  = {{仮リンク|カルル・バウマン|ru|Бауман, Карл Янович}}
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会中央工業州組織局議長
 
| years  = 1929年2月14日 - 4月1日
 
| before = なし
 
| after  = [[カルル・バウマン]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[File:Flag of Ukrainian SSR (1919-1929).svg|border|25px]] ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第一書記
 
| years  = 1920年11月23日 - 1921年3月22日
 
| before = なし
 
| after  = {{仮リンク|フェリクス・コーン|ru|Кон, Феликс Яковлевич}}
 
| afternote = 責任書記
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[File:Flag of Ukrainian SSR (1919-1929).svg|border|25px]] ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)ドネツク県委員会責任書記
 
| years  = 1920年9月 - 11月
 
| before = なし
 
| after  = タラス・ハレチュコ
 
}}
 
{{s-off}}
 
  {{Succession box
 
    | title  = [[File:Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg|border|25px]] [[ソビエト連邦の首相|ソビエト連邦人民委員会議議長]]
 
    | years = 1930年12月19日 - 1941年5月6日
 
    | before = [[アレクセイ・ルイコフ]]
 
    | after  = [[ヨシフ・スターリン]]
 
  }}
 
  {{Succession box
 
    | title  = [[File:Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg|border|25px]] [[ロシアの外相|ソビエト連邦外務大臣]]
 
    | titlenote  = 1946年まで外務人民委員
 
    | years  = 1939年5月3日 - 1949年3月4日
 
    | before = [[マクシム・リトヴィノフ]]
 
    | after  = [[アンドレイ・ヴィシンスキー]]
 
  }}
 
  {{Succession box
 
    | title  = [[File:Flag of the Soviet Union (1955-1980).svg|border|25px]] [[ロシアの外相|ソビエト連邦外務大臣]]
 
    | years  = 1953年3月5日 - 1956年6月1日
 
    | before = [[アンドレイ・ヴィシンスキー]]
 
    | after  = [[ドミトリー・シェピーロフ]]
 
  }}
 
  {{Succession box
 
    | title  = [[File:Flag of the Soviet Union (1955-1980).svg|border|25px]] ソビエト連邦国家統制大臣
 
    | years  = 1956年11月21日 - 1957年6月29日
 
    | before = {{仮リンク|ヴァシリー・ジャヴォロンコフ|ru|Жаворонков, Василий Гаврилович}}
 
    | after  = なし
 
  }}
 
  {{Succession box
 
    | title  = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ニジニ・ノヴゴロド県ソビエト執行委員会議長
 
    | years  = 1919年11月 - 1920年6月
 
    | before = ミハイル・セルグシェフ
 
    | after  = アレクサンドル・ハノフ
 
  }}
 
{{S-dip}}
 
  {{Succession box
 
    | title  = 国際原子力機関ソビエト連邦常任代表
 
    | years  = 1960年 - 1962年
 
    | before = {{仮リンク|レオニード・ザミャーチン|ru|Замятин, Леонид Митрофанович}}
 
    | after  = [[パンテレイモン・ポノマレンコ]]
 
  }}
 
{{end box}}
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:もろとふ うやちえすらふ}}
 
{{DEFAULTSORT:もろとふ うやちえすらふ}}
 
[[Category:コミンテルンの人物]]
 
[[Category:コミンテルンの人物]]
234行目: 25行目:
 
[[Category:ソビエト連邦の首相]]
 
[[Category:ソビエト連邦の首相]]
 
[[Category:第二次世界大戦期の政治家]]
 
[[Category:第二次世界大戦期の政治家]]
[[Category:オールド・ボリシェヴィキ]]
+
 
[[Category:ソビエト連邦の大使]]
 
[[Category:在モンゴル大使]]
 
 
[[Category:社会主義労働英雄]]
 
[[Category:社会主義労働英雄]]
 
[[Category:レーニン勲章受章者]]
 
[[Category:レーニン勲章受章者]]
 
[[Category:名誉記章勲章受章者]]
 
[[Category:名誉記章勲章受章者]]
[[Category:ソビエト連邦科学アカデミー名誉会員]]
+
 
[[Category:プラウダ編集者]]
 
[[Category:ノモンハン事件の人物]]
 
[[Category:菜食主義者]]
 
 
[[Category:ヴャトカ県出身の人物]]
 
[[Category:ヴャトカ県出身の人物]]
 
[[Category:1890年生]]
 
[[Category:1890年生]]
 
[[Category:1986年没]]
 
[[Category:1986年没]]

2018/10/2/ (火) 21:48時点における版

ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフロシア語: Вячеслав Михайлович Молотовラテン文字表記の例:Vyacheslav Mikhailovich Molotovヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ1890年3月9日ユリウス暦2月25日) - 1986年11月8日

ソ連の政治家。本名 V.M.Skryabin。 1906年カザン中学に入学,同年ボルシェビキに加入。 09年逮捕,流刑となり,11年釈放。その後ペテルブルグの高等工業学校に学び,ボルシェビキの常勤オルガナイザーとなった。 17年の十月革命後共産党の地方組織の種々のポストを歴任。

26年政治局員。 30~41年人民委員会議議長 (首相) 。 39年5月外務人民委員を兼ね,同年8月独ソ不可侵条約を締結。 41年5月 I.スターリンの首相就任に伴い第一副首相兼外相。 49年第一副首相専任。 53年 G.M.マレンコフ内閣の第一副首相兼外相。スターリンの忠実な片腕として活躍したが,スターリンの死後その威信も衰え,55年自己批判を余儀なくされ,56年外相を辞任。

57年6月党中央委員を含むすべてのポストを剥奪され,モンゴル大使に就任。 61年の第 22回党大会を前にして新綱領草案を修正主義と批判する意見書を送ったため,政治的に完全に失脚,年金生活に入った。 64年党籍剥奪が明らかになった。 84年に復党。



楽天市場検索: