「ヴェルサイユ条約」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「サムネイル '''...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Otheruses|[[1919年]]のヴェルサイユ条約}}
+
[[ファイル:ベルサイユ条約の調印式が行なわれたベルサイユ宮殿鏡の間(1919.6.28.).ベルサイユ,フランス.jpg|サムネイル]]
 +
'''ヴェルサイユ条約'''(ヴェルサイユじょうやく、{{lang-fr-short|'''Traité de Versailles'''}}
  
{{条約
+
第1次世界大戦を終結するため,1919年6月 28日パリ郊外のベルサイユで,連合国側とドイツとの間で調印された講和条約。アメリカそのほか数ヵ国はこの条約に参加しなかった。内容には国際連盟案など戦後の世界平和を目的とした条項も存在したが,他方では敗戦国ドイツに,フランスやポーランドなどへの領土割譲,ライン川左岸の非武装化,オーストリアとの合併禁止,海外植民地の放棄,ドイツの戦争責任を根拠とする巨額の賠償などを課し,講和に向けて W.ウィルソンが発表した[[十四ヵ条平和構想]]にはほど遠い不公正な条約となった。そのため,この条約に支えられた戦後世界の[[ベルサイユ体制]]にも,重要な問題を残すことになった。ドイツは 36年一方的にこの条約を廃棄した。
|題名 =同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約
 
|画像 =Treaty of Versailles, English version.jpg
 
|画像キャプション = ヴェルサイユ条約英語版原本
 
|通称 =ヴェルサイユ条約
 
|起草 =
 
|署名 =1919年6月28日([[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間)
 
|効力発生 =1920年1月10日
 
|寄託者 ={{FRA1870}}政府
 
|番号 = 大正九年条約第一号
 
|言語 =[[フランス語]]、[[英語]]
 
|内容 =[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]とドイツの講和<br />[[国際連盟]]・[[国際労働機関]]の発足など
 
|関連 =
 
|ウィキソース =en:Treaty_of_Versailles
 
|リンク =
 
}}
 
[[ファイル:William Orpen - The Signing of Peace in the Hall of Mirrors, Versailles.jpg|thumb|250px|『ヴェルサイユ宮殿、鏡の間における講和条約調印、1919年6月28日』。作・{{仮リンク|ウィリアム・オルペン|en|William Orpen}}]]
 
[[File:The signing of the peace treaty of Versailles.webm|thumb|thumbtime=5|''The Signing of the Peace Treaty of Versailles'']]
 
'''ヴェルサイユ条約'''(ヴェルサイユじょうやく、{{lang-fr-short|'''Traité de Versailles'''}})は、[[1919年]][[6月28日]]に[[フランス]]の[[ヴェルサイユ]]で調印された、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と[[ドイツ]]の間で締結された[[平和条約|講和条約]]の通称。
 
 
 
[[正文]]は[[フランス語]]と[[英語]]であり、正式な条約名はそれぞれ{{lang-fr|'''Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l'Allemagne'''}}、{{lang-en|'''Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany'''}}であるが、[[ヴェルサイユ宮殿]]の{{仮リンク|鏡の間|en|Hall of Mirrors (Palace of Versailles)}}で調印されたことによって、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。
 
 
 
日本における正式条約名は'''同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約'''(大正9年条約第1号)。
 
 
 
この条約および、諸講和条約によってによりもたらされた国際秩序を'''ヴェルサイユ体制'''(ヴェルサイユたいせい)という<ref>[[三省堂]]『[[大辞林]]』第三版</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BD%93%E5%88%B6-130506 ベルサイユ体制]([[コトバンク]])</ref>。
 
 
 
ヴェルサイユの表記揺れで、'''ベルサイユ条約'''や'''ベルサイユ体制'''と表記することもある<ref>『中学社会 歴史』([[教育出版]]株式会社。平成10年1月20日発行。[[文部省]]検定済[[教科書]]。中学校社会科用)p 228、『新しい社会 歴史』([[東京書籍]]株式会社。平成16年2月10日発行。[[文部科学省]]検定済[[教科書]]。中学校社会科用)p 154には、「ベルサイユ条約」と記載され、『社会科 中学生の歴史』(株式会社[[帝国書院]]。平成20年1月20日発行。[[文部科学省]]検定済[[教科書]]。中学校社会科用)p 190には、「ベルサイユ条約」、「ベルサイユ体制」と記載されている。ちなみに、『日本史B 新訂版』([[実教出版]]株式会社。平成14年1月25日発行。[[文部科学省]]検定済[[教科書]]。高等学校地理歴史科用)p 293、『詳説世界史 世界史B』(株式会社[[山川出版社]]。2004年3月5日発行。[[文部科学省]]検定済[[教科書]]。高等学校地理歴史科用)p 288には、「ヴェルサイユ条約」、「ヴェルサイユ体制」と記載されている。</ref>。
 
 
 
== 背景 ==
 
=== 休戦交渉と休戦協定 ===
 
[[ファイル:Waffenstillstand gr.jpg|thumb|350px|right|休戦協定締結(着色写真)]]
 
{{see also|十四か条の平和原則|ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)}}
 
1916年12月12日、[[ドイツ帝国]]が和平の探りを入れるために覚書を発表すると、12月18日に中立国であった[[アメリカ合衆国大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]は平和覚書を発表し、和平仲介を買って出た。しかしこの際は連合国の拒否に遭い、和平は実現しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.17-18}}。ウィルソンはその後も和平実現の望みを捨てず、1917年1月22日の[[アメリカ合衆国上院|上院]]演説で「[[国際連盟]]設立」、[[公海の自由]]、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.18}}。その後アメリカは連合国側として参戦することになるが、ウィルソンはその後も公正な講和を唱え、1918年1月8日には「[[十四か条の平和原則]]」を発表し、公正な講和を目指す旨をアピールした{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.24-29}}。
 
 
 
1918年になるとドイツの敗北は明らかになり、9月29日に[[スパ (ベルギー)|スパ]]で開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.43}}。10月3日に[[ドイツ国首相|首相]]となった[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン公子マックス]]はアメリカに講和のための覚書を送付し、アメリカとの間で覚書交換がはじまった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.44}}。この講和交渉の中でアメリカは「十四か条の平和原則」を講和条約の基礎とした上で、専制的と見られたドイツの体制変革を要求し、10月22日にバーデン公子マックスもこれを受諾した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.44-50}}。ただしこの時点では[[イギリス]]・[[フランス]]といった連合国間での合意は行われておらず、ウィルソンは友人であった{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}名誉大佐を[[パリ]]に派遣した。ハウスはかなりの妥協と引き替えに「十四か条の平和原則」を講和の前提とする合意を取り付けた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.82}}。10月27日には講和に反対する[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]参謀次長が解任され、10月28日には首相の権限が強化された憲法改正が行われ、専制色が薄められた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.53}}。
 
 
 
11月5日には[[キール (ドイツ)|キール]]軍港で水兵の反乱が起きたが({{仮リンク|キールの反乱|en|Kiel mutiny}})、同日に[[アメリカ合衆国国務長官|アメリカ国務長官]][[ロバート・ランシング]]から休戦条件の詳細について連合国が保障かつ強制する無制限の権力を有するという、事実上の[[無条件降伏]]に近い内容を確認する「ランシング・ノート」が送付された{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.61}}。11月7日に[[マティアス・エルツベルガー]]無任所相と新参謀次長[[ヴィルヘルム・グレーナー]]中将がパリ郊外の[[コンピエーニュの森]]に派遣され、連合国軍総司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥との休戦交渉を開始した。
 
 
 
その後首都ベルリンでも皇帝退位を求める声が高まり、11月9日にはバーデン公子マックスが首相を辞任して[[フリードリヒ・エーベルト]]が新首相となった。同日には[[フィリップ・シャイデマン]]が独断で共和制を宣言([[ドイツ革命]])し、翌日には皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]がオランダに亡命した。
 
 
 
[[ヴァイマル共和政|共和国政府]]を率いることになったエーベルトの臨時政府は休戦交渉を引き継ぐこととなり、エルツベルガーらに交渉の継続を命令した。交渉の末、11月11日に休戦協定が結ばれた。この休戦協定は占領地や[[アルザス=ロレーヌ]]からの即時撤退を含む、抗戦継続を不可能にする大変厳しいものであったが{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.82}}、「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「[[民族自決]]・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた<ref>吉川、1、291-292p</ref>。
 
休戦期間は1ヶ月とされており、ドイツ側の状況によっては期限満了後に更新されないことになっていた。
 
 
 
=== 講和条件に対するドイツ側の想定 ===
 
エーベルトの臨時政府は講和交渉の担当者として[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ]]外相を任命し、独自に講和条件の想定を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.92-95}}。
 
;領土
 
*[[アルザス地域圏|エルザス地方(アルザス)]]や、東部国境については住民投票で帰属を決定する。またポーランドの海への出口は保障する。ただし[[ザール地方]]等のフランスの要求には応じられないしドイツ系オーストリアのドイツへの合併は認められなければならない。
 
;賠償
 
*ベルギーと北フランスの損害再建費用として10億[[金マルク]]程度。さらに[[無制限潜水艦作戦]]の損害賠償で380億マルクを要求される可能性があるが、200億マルク以上の支払い能力はドイツにはない。
 
;戦争責任
 
*[[ドイツ独立社会民主党]]や急進左派は「旧体制」の戦争責任を認める傾向があるが、政府や[[ドイツ社会民主党]]はこれを支持せず、戦争責任は認めない。
 
 
 
その後、講和会議の間までドイツ国内の政治家は「公正な講和」を求める主張をたびたび行っていた。またこの間、[[クルト・アイスナー]]らの[[バイエルン自由国]]政府が独自に連合国と講和する動きを見せたが、他のドイツ諸邦や連合国の支持は得られなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.76}}。
 
 
 
== 条約策定 ==
 
[[ファイル:Council of Four Versailles.jpg|thumb|280px|right|パリ講和会議における「四巨頭」、左から順にロイド・ジョージ、オルランド、クレマンソー、ウィルソン]]
 
{{main|パリ講和会議}}
 
講和条約の詳細策定は、1919年1月18日からパリにおいて開催された[[パリ講和会議]]で行われた。ウィルソン、[[デビッド・ロイド・ジョージ]]イギリス首相、[[ジョルジュ・クレマンソー]]フランス首相ら連合国首脳が6か月にわたって会議を行ったが、まず連合国間で講和条件を話し合うべきとするイギリス・フランスの主張と、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が崩壊してその後の政府が選出されないという混乱もあったため、ドイツ代表は講和会議に招待されなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.148-149}}。
 
 
 
講和会議の協議ではドイツに大きな負担を負わせ、自国の安全保障を図ろうとするクレマンソー<ref>フランス政府内でクレマンソーは最強硬というほどではなく、[[レイモン・ポアンカレ]]大統領など多くの閣僚は、クレマンソーと同等か、より強硬であった。牧野雅彦、2009、p.157。</ref>の主張と、行き過ぎた懲罰に反対し、自らの「公正な講和」概念を貫こうとするウィルソンの二つの路線が対立した<ref>吉川宏、2、512p</ref>。またロイド・ジョージはヨーロッパの勢力均衡をとろうとする意図からフランスほど強硬ではなかったが、多くの戦費や債務をドイツ賠償で補おうとする点では変わらなかった<ref>吉川宏、1、363p</ref>。さらに連合国が支払った膨大な戦費や損害、そのためにアメリカから借り入れた債務、そして賠償とドイツに対する懲罰を要求する英仏両国の[[世論]]も会議に影響を与えた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.143-158}}<ref>吉川宏、4、210-211p</ref>。条約は秘密の中で作成され、4月後半にはドイツへの提示案が完成したが、これを事前に公表すればドイツが応じることはなく、また過激派の力が増大することが危惧されていた。協議の結果、ドイツ提示後に概略を公表することとなった<ref>吉川宏、4、217p</ref>
 
 
 
== ドイツに対する提示と交渉 ==
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1971-037-34, Die deutsche Friedensdelegation.jpg|thumb|300px|right|ドイツ代表団。左から4人目がブロックドルフ=ランツァウ]]
 
 
 
4月18日、ドイツに対して代表団派遣が招請され、ブロックドルフ=ランツァウを首席とするドイツ代表団は4月29日にパリに到着した。5月7日午後、外務省付近のトリアノンホテルで条約案を提示された。ドイツ側には文書による意見を述べる14日間の回答期限が設定されていた。口頭での交渉は許されていなかったが、ブロックドルフ=ランツァウはその場で着席したまま戦争責任条項に対する抗議を行い、ロシアの動員こそが[[世界大戦]]に至る原因であったと主張した。しかし、この態度は連合国首脳によい印象を与えなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。
 
 
 
条約案を受け取ったドイツでは激しい反発が起こった。5月12日にはシャイデマン首相が、18日にはエーベルト臨時大統領が受け入れられないと声明した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.181}}。代表団も次々と覚書を連合国に送付したが、5月10日に連合国は基本的方針を堅持すると伝達した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.186}}。ブロックドルフ=ランツァウが特に問題としたのは戦争責任を定めた{{仮リンク|231条 (ヴェルサイユ条約)|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=231条}}(戦争責任条項、{{lang-en-short|War Guilt Clause}})であり、交渉決裂も辞さない構えであったが、エルツベルガーら一部の閣僚は交渉決裂は戦争につながると危惧していた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.186-192}}。ドイツ側は反対提案をまとめ、5月29日に提出したが、その内容は以下のようなものであった。
 
 
 
;ドイツ側提案の講和案と意見{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.194-196}}
 
*賠償金上限を無利子1000億金マルク、1926年5月1日までに200億金マルク支払う
 
*ただし賠償支払いは1914年時点でのドイツ領土維持を条件とする
 
**エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)の支配権は放棄するが、帰属先を決める住民投票を要求する
 
**ポーゼン州のうち、明らかなポーランド人の居住地域については割譲する。ポーランドの「海への出口」は[[ヴィスワ川]]の自由通航と、メーメル・[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]・ダンツィヒを自由港とすること等で達成させる
 
*フランスの炭鉱が復旧するまで石炭を提供する
 
*シュレースヴィヒについては住民投票で帰属を決定する
 
*オーストリアおよびベーメン([[ボヘミア]]、特にいわゆる[[ズデーテン地方]])のドイツ人についても民族自決権が適用されることを期待する
 
*(手交された講和条約案に)従いながら、経済を再建することなど不可能である。「かくて国民全体が自らの死刑判決に署名しなければならないのである」
 
 
 
三首脳やフォッシュ元帥はドイツ側が条約を拒否すれば、最終目標をベルリンとする戦争を再開する構えであった<ref>吉川宏、4、p217</ref>。ドイツ側の反発だけではなく、イギリス・アメリカのマスコミ等も過酷であると批判した。しかしウィルソンやクレマンソーはドイツ側の意見に対してもなんら考慮する姿勢を見せなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197}}。一方でロイド・ジョージはイギリス帝国内部の首脳<ref>スマッツはドイツによる承認の重要性を説き、「この偉大な文書の最終的裁可は人類による承認であらねばなりません」吉川宏、4、p218</ref>やイギリス世論が条約への反発を強めたことと、ドイツ側が拒否する公算が高まってきたことから、譲歩に傾き始めた。6月1日にイギリス帝国戦時内閣の緊急閣議が開かれ、ドイツ側に譲歩する必要があるかを協議した。南アフリカ外相の[[ヤン・スマッツ]]ら閣僚はドイツに譲歩するべきであると主張し、東部国境・占領期間・ドイツの[[国際連盟]]への加入・賠償の一定額固定への変更の4点について、ドイツ側に譲歩する提案を四人会議で交渉する権限がロイド・ジョージに与えられた<ref>吉川宏、4、218-219p</ref>。6月2日の四人会議でロイド・ジョージは譲歩を主張したが、原則主義者であるウィルソンとクレマンソーはロイド・ジョージの変節に怒り、協議は難航した<ref>吉川宏、4、220p。ただし、ウィルソンは賠償総額を1200億金マルクに緩和する案を提出しているが、英仏の反対で実現しなかった。</ref>{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201}}。6月14日に四人会議の議論は決着し、ザールや{{仮リンク|オーバーシュレージエン|de|Ostoberschlesien}}(上[[シレジア]])の譲渡が住民投票に変更される等の細部の譲歩が行われることとなった<ref>吉川宏、4、221p</ref>。
 
 
 
6月16日、ドイツ側の所見に対する回答が行われたが、この日に三首脳はドイツが条約締結を拒否すればベルリンまで攻撃するという案の確認を行った。ところがフォッシュは現状では三首脳が期待するような攻勢の準備は出来ないと発言したため、三首脳はフォッシュの責任を激しく追及した<ref>吉川宏、4、222p</ref>。
 
 
 
== 条約受諾 ==
 
6月18日、政府は[[ヴァイマル]]で与党である{{仮リンク|ヴァイマル連合|en|Weimar Coalition}}([[ドイツ社会民主党]]、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]、[[ドイツ民主党]])に[[条約の受諾|条約受諾]]の賛否を問うた。社会民主党は75対35で抗議つきの調印を支持し、中央党は231条と戦犯引渡しを拒否するという条件で調印を承認したが、民主党会派では反対が上回った。しかし、[[ヴァイマル共和国軍|軍]]のグレーナーが軍事的抵抗は不可能であるとの認識を示したことが決定打となり、方針が受諾へと傾いた<ref>「地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国」pp16 リチャード・オウヴァリー著 永井清彦監訳 秀岡尚子訳 2000年2月18日初版発行 河出書房新社</ref>{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.218}}。グレーナーは当初拒否の方針であったが、受諾拒否がかえって共和制やドイツ国家の解体につながることを懸念して条約受諾に方針転換した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.218-219}}。6月19日の閣議ではグレーナーと国防相[[グスタフ・ノスケ]]が国民議会各派や閣僚を説得し、最終的に受諾方針が固まった。シャイデマンは内閣の総辞職を宣言して[[グスタフ・バウアー]]が首相となった。さらに民主党の意見により[[条約の改正|条約改正]]を求めた電報が送られることになったが、効果なしと見た社会民主党の反対により、この電報は署名なしで送られている{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.219}}。
 
 
 
6月22日、バウアー首相は戦争責任について認めず、皇帝への有罪判決や戦犯処罰は受け入れられないと条件をつけた上で、議会で条約受諾を声明した。国民議会は237対128で賛成し、政府は条件付で条約を受け入れる旨を連合国に申し送った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.220}}<ref>「ワイマル共和国」pp57-58 林健太郎著 昭和38年11月18日初版 中公新書</ref>。しかし連合国は無条件での受諾を求め、国民議会は6月23日に講和には反対するが、講和を受諾したものが愛国的な動議に基づくものであると認めるという付帯決議をつけた上で、政府の条約調印権限を承認した。ここに至って政府は条約の受諾を声明した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。
 
 
 
== 条約調印 ==
 
[[ファイル:Treaty of Versailles oldphoto.jpg|thumb|300px|right|ヴェルサイユ条約の調印]]
 
 
 
条約調印式は1919年[[6月28日]]、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。鏡の間は「平和の間」と「戦争の間」をつなぐ構造の[[回廊]]であり、またかつて普仏戦争の仮条約締結と、[[ドイツ帝国]]の成立が宣言された場所だった。ドイツ側の代表として、条約受諾に反対して辞任したブロックドルフ=ランツァウにかわり、[[ヘルマン・ミュラー]]外相と{{仮リンク|ヨハネス・ベル|de|Johannes Bell}}運輸相が調印した。[[中華民国]]は{{仮リンク|山東問題|en|Shandong Problem}}の解決を不服として署名しなかった。
 
 
 
その後、各国での批准手続きの後、1920年1月10日に発効した。またアメリカ合衆国はヴェルサイユ条約とその他の講和条約に内包されている国際連盟規約10条には加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、共和党が優位だった[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかし民主党のウィルソン大統領は妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。アメリカ共和党のハーディング大統領は1921年8月25日に[[米独平和条約]]、中華民国は1922年5月15日に[[中独平和回復協定]]を締結してドイツと講和している。
 
 
 
== 内容 ==
 
===国際連盟===
 
{{see also|国際連盟|国際連盟加盟国}}
 
条約の第一篇(1条から26条)は[[国際連盟]]規約に割かれており、これは[[サン=ジェルマン条約]]、[[ヌイイ条約]]、[[トリアノン条約]]、[[セーヴル条約]]と同様の構成である。付属書ではドイツを除く平和条約署名国とともに、複数の国を[[原加盟国]]として招請している。
 
 
 
=== ドイツの領土 ===
 
[[File:German losses after WWI.svg|thumb|220px|right|ドイツの喪失した領土<br />地下資源の産出帯が分割された。]]
 
 
 
第二篇(27条から30条)はドイツの境界を規定している。一部の地域に関しては[[住民投票]]による帰属決定が行われることとなった。
 
 
 
[[オイペン]]、{{仮リンク|モンシャウ|en|Monschau}}、[[マルメディ]]をつなぐ線から以西を割譲し、[[ルクセンブルク]]に至る線をベルギー方面の国境とする。ルクセンブルク・スイス方面の国境は1870年7月18日に定められ、1914年8月3日(第一次世界大戦開戦前日)時点での国境を維持する。オーストリア方面については、[[チェコスロバキア]]との国境を考慮し、1914年8月3日時点の国境を維持する。チェコスロバキア方面の国境は、1914年8月3日時点でのドイツ・[[オーストリア=ハンガリー帝国]]国境を考慮する。また{{仮リンク|オーストリア・シレジア|en|Austrian_Silesia}}のうち、現在の{{仮リンク|フルチーン地域|en|Hlučín Region}}に当たる地方(316か333平方km)を割譲する。ポーランド方面の国境は、[[西プロイセン]]と{{仮リンク|ポーゼン州|en|Provinz Posen}}の大部分、さらに海への出口となる[[ポーランド回廊]]を割譲する。オーバーシュレージェンについては住民投票で決定する。デンマーク方面の国境は、109条と110条に基づき、[[シュレースヴィヒ (地域)|シュレースヴィヒ]]のうち、中部シュレースヴィヒと北部シュレースヴィヒの帰属は住民投票によって決定する。
 
 
 
=== ヨーロッパの政治条項 ===
 
第三篇(31条から117条)ではヨーロッパ各国の政治について定められた。
 
 
 
ベルギーの[[永世中立国|永世中立]]を定めた[[ロンドン条約 (1839年)|ロンドン条約]]は現状に適さなくなったため破棄し、新たな条約を締結してベルギーの独立を保障する。[[リエージュ]]西方の[[プロイセン王国|プロイセン]]領、両国間の[[共同主権|共同統治]]領域であり、[[中立地帯]]であった[[モレネ|中立モレネ]]を正式にベルギーに編入する。ドイツは過去の条約で[[ルクセンブルク]]において認められていた権益を放棄する。またルクセンブルクの永世中立放棄に同意する。
 
 
 
ドイツは[[ライン川]]左岸50kmの地域における築城・駐屯・動員を行えない。これに違反することは、条約署名国に対する敵対行為とみなす。ドイツはフランス北部の炭鉱に与えた損害の補償として、[[ザール地方]]の炭鉱所有権を譲渡する。また、[[ザール (国際連盟管理地域)|条約で定義したザール地域の行政]]は、国際連盟が指名した施政委員会によって行われる。また15年後に住民投票を行い、その結果によってザール地域の帰属を決定する。帰属がドイツに決定した場合には、炭鉱の所有権はドイツが買い戻すことができる。[[アルザス=ロレーヌ]]地域の一部が[[普仏戦争]]によってドイツに編入された措置は不当であり、休戦条約締結の日をもって、フランスに復帰する。
 
 
 
オーストリアの独立は国際連盟の承認が無い限り、ドイツ国が変更してはならない([[アンシュルス]]の禁止)。チェコスロバキア・ポーランドの独立と国境線の確定。[[飛び地]]となった[[東プロイセン]]の国境が定められる。[[クライペダ|メーメル]]を含む北東地域は放棄する({{仮リンク|クライペダ地域|en|Klaipėda Region}})。南部地域([[オルシュティン|アレンシュテイン(現在のオルシュティン)]]とマリエンヴェルダー(現在の{{仮リンク|クビジニ|en|Kwidzyn}})を中心とする地域)については住民投票の後に帰属を決定する。[[グダニスク|ダンツィヒ]]は[[自由都市]]化し、国際連盟の保護下に置く([[自由都市ダンツィヒ]])。
 
 
 
ドイツは[[ヘルゴラント島]]に設置した要塞・港湾設備を破壊しなければならない。
 
 
 
ドイツは1914年8月1日以前の旧[[ロシア帝国]]領諸国の独立を承認し、尊重する。また[[ボリシェヴィキ]]政府と結んだ[[ブレスト=リトフスク条約]]など一切の条約・協定の失効を確認する。
 
 
 
=== ドイツの国外財産・植民地 ===
 
第四篇(118条から158条)は、ドイツの国外権益を定めている。ドイツはヨーロッパや条約締結国における、自国領域外にある権益・特権の一切を放棄する。ただし、[[膠州湾租借地]]と、それに関連する特権は日本に譲渡する([[山東問題]])。また従来の[[ドイツ植民地帝国|植民地]]はすべて放棄する。一環として[[ドイツ・オリエントバンク]]がモロッコ銀行株を手放した。
 
 
 
=== 軍備条項 ===
 
第五篇(159条から213条)はドイツの軍備に厳しい制限を加えるとともに、[[武装解除]]についても規定している。
 
 
 
==== 軍備制限 ====
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1972-081-03, Zerlegen eines schweren Geschützes.jpg|thumb|280px|right|破壊される大砲。1919年]]
 
;兵力
 
*ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵7個師団と騎兵3個師団以下、将校を含めて10万人以下とする。
 
**本条約締結から3ヶ月以内に20万人規模、歩兵14個師団、騎兵6個師団以下に縮小する。
 
*ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2ヶ月以内に1万5000人、うち下士官は1500人規模に縮小する。
 
*[[ドイツ参謀本部|参謀本部]]、それに類似する機関は禁止する。
 
*国境警備隊は1913年以前より増員してはならない。
 
*[[徴兵制|一般義務兵役]]は廃止し、志願兵制度のみを採用する。
 
*兵の勤続年数は12年を限度とする。
 
*[[下士官]]は総兵員定数の5%以下とする。
 
*陸軍大学校等各種軍学校の生徒は兵員に算入する。
 
 
 
;兵器
 
*ドイツが国際連盟加盟を許されるまでは、兵器に関して以下の制限を設ける。
 
*1920年3月31日までに以下の量まで削減する。
 
**砲弾数制限。口径10cm以下は一門につき1500発、口径10cm以上は一門につき500発まで
 
**補充分として携行火器は25分の1、火砲は50分の1以下を許容範囲とする。
 
*兵器、航空機を含む軍需物資の製造は連合国の許可を必要とする。
 
*軍需材料の輸入禁止。
 
*[[装甲車]]・[[戦車]]・[[潜水艦]]・[[毒ガス]]・[[化学兵器]]の輸入・製造を禁止、毒ガスについては研究も禁止。
 
*兵器の貯蔵量は以下を限度とする
 
**[[小銃]]…84000丁
 
**[[カービン|騎銃]]…18000丁
 
**小銃・機銃の弾薬は一丁あたり400発、合計4080万発。
 
**[[重機関銃]]…792丁
 
**[[軽機関銃]]…合計1134丁
 
**機関銃の弾薬は一丁あたり8000発、合計1540万8000発。
 
**中[[迫撃砲]]…63門、弾薬一門あたり400発、合計2万5400発
 
**軽迫撃砲…189門、弾薬一門あたり800発、合計15万1200発
 
**77ミリ[[野砲]]…204門、弾薬一門あたり1000発、合計20万4000発
 
**105ミリ[[榴弾砲]]…84門、弾薬一門あたり800発、合計6万7200発
 
 
 
;海軍
 
*ドイツ海軍が保有できる艦艇は下記の制限以下とする。潜水艦はこれに含まれない。
 
**[[ドイッチュラント級戦艦|ドイッチュラント級]]もしくは[[ブラウンシュヴァイク級戦艦|ロートリンゲン級]][[戦艦]]…6隻
 
**[[軽巡洋艦]]…6隻
 
**[[駆逐艦]]…12隻
 
**[[水雷艇]]…12隻
 
*ドイツ港湾にある一切のドイツ国艦艇の所有権を放棄する
 
*[[ヘルゴラント (戦艦)|ヘルゴラント]]、[[ラインラント (戦艦)|ラインラント]]等の戦艦8隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦42隻、新型水雷艇50隻を武装解除して2ヶ月以内に引き渡す。ただし、砲はそのままとする。
 
*潜水艦はすべて連合国に引き渡す。新規の建造は商業目的であっても禁止する。
 
*代艦を建造する場合は、以下の排水量を限度とする
 
**装甲艦…1万トン
 
**軽巡洋艦…6000トン
 
**駆逐艦…800トン
 
**水雷艇…200トン
 
*大戦中、[[北海]]に敷設した[[機雷]]を除去する。
 
 
 
;航空
 
*機雷除去任務のため、100機の航空機、1000人以下の兵員を保有できる。それ以外の航空機や部品は連合国に引き渡す。
 
*連合国の航空機は、撤退までの間、ドイツ国内を自由に飛行・着陸できる。
 
*航空機とその部品、航空機用エンジンの製造・輸入は禁止される。
 
 
 
;その他
 
*[[動員]]を禁止する。
 
 
 
*[[バルト海]]の海路自由通航権を守るため、北緯55度27分から北緯54度、東経9度から16度の間に要塞を設置してはならない。航路図・海図を連合国に提出する。
 
*現在のドイツ海岸線から50km以内の砲台は防御設備と認める。
 
*ベルリン等にある大規模無線電信所は、非政治的な目的に限って使用を許可する。新規に大規模な無線電信所を設置してはならない。
 
 
 
==== 条約に基づく軍の編成 ====
 
;軍団編成
 
*[[軍団]]司令部は2を上限とし、所属する将校数は一司令部につき30名、下士官150名。
 
*軍団司令部の武器は師団割り当ての余剰分を用いる
 
 
 
;歩兵師団の編成
 
*歩兵師団一個師団には将校410名、下士官10830名が所属可能であるとされた。
 
**歩兵[[師団]]司令部に所属する将校数は一司令部につき25名、下士官70名。
 
**師団指令歩兵部は1、将校は4名、下士官30名。
 
**師団指令砲兵部は1、将校は4名、下士官30名。
 
**歩兵[[連隊]]は一師団に3個連隊。1個連隊は3個歩兵大隊と1個機関銃大隊で構成される。1個連隊につき将校70名、下士官2300名。
 
**迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
 
**師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
 
**野戦砲兵連隊は一師団に1個連隊。1個連隊は3個砲兵大隊で構成される。1個連隊につき将校85名、下士官1300名。
 
**[[工兵]]大隊は一師団に1個大隊。1個大隊は2個工兵中隊、[[ポンツーン]]部隊1、[[サーチライト]]班1で構成される。1個大隊につき将校12名、下士官400名。
 
**通信隊は一師団に1個隊。電話隊、聴取班、軍用鳩班それぞれ1で構成される。1個隊につき将校12名、下士官300名。
 
**師団[[衛生兵|衛生隊]]は一師団に1個隊。1個隊につき将校20名、下士官400名。
 
**諸廠および輜重担当は一師団に将校14名、下士官800名。
 
*以下の火砲配備制限
 
**小銃…一個師団あたり12000丁、合計84000丁
 
**重機関銃…一個師団あたり108丁、合計756丁
 
**軽機関銃…一個師団あたり162丁、合計1134丁
 
**中迫撃砲…一個師団あたり9門、合計63門
 
**軽迫撃砲…一個師団あたり27門、合計189門
 
**77ミリ野砲…一個師団あたり24門、合計168門
 
**105ミリ榴弾砲…一個師団あたり12門、合計84門
 
 
 
;騎兵師団の編成
 
*騎兵師団一個師団には将校275名、下士官5250名が所属可能であるとされた。
 
**騎兵連隊は一師団に6個連隊。1個連隊は4個騎兵中隊で構成される。1個連隊につき将校40名、下士官800名。
 
**迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
 
**師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
 
**騎砲兵大隊は一師団に1個大隊。1個大隊につき将校20名、下士官400名。
 
*以下の火砲配備制限
 
**騎銃…一個師団あたり6000丁、合計18000丁
 
**重機関銃…一個師団あたり12丁、合計36丁
 
**77ミリ野砲…一個師団あたり12門、合計36門
 
 
 
==== 国際監督委員会 ====
 
203条から210条では、ドイツの軍備制限や武装解除を監視するための{{仮リンク|連合国国際監督委員会|en|Military Inter-Allied Commission of Control}}の設置が定められた。
 
 
 
=== 捕虜と墳墓 ===
 
第6篇(214条から226条)では捕虜や抑留者の返還と、大戦中に設営された兵士の墳墓の保存について規定している。
 
 
 
=== 制裁 ===
 
{{see also|ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)}}
 
第7篇(227条から230条)では、「前」ドイツ皇帝への訴追条項および一般[[戦争犯罪]]の裁判について規定している。227条では前ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」としてヴィルヘルム2世を特別法廷で裁くことを規定している{{Sfn|清水正義|2003|p.136-137}}。さらにドイツ政府は[[戦時国際法]]を犯したものを連合国に引き渡すことも定められた。
 
 
 
=== 賠償 ===
 
{{see also|第一次世界大戦の賠償}}
 
第8篇(231条から247条)ではドイツが連合国等に支払う賠償について記述している。
 
 
 
231条は戦争がドイツとその同盟国の攻撃によって引き起こされ、賠償責任はドイツとその同盟国にあると記述しており、戦争責任条項と呼ばれる。ヴェルサイユ条約の賠償規定では現物、家畜等による莫大な賠償が記述されたが、賠償総額については決定されず、後に設置される賠償委員会で決定されることとなっていた。
 
 
 
=== 財政 ===
 
第9篇(248条から263条)では、占領に伴う経費等の支払い方法について規定している。
 
 
 
戦勝国は譲り受ける旧ドイツ帝国植民地に関してその植民地が保有していた一切の財産を取得するが、その価格は賠償委員会が査定して取得者たる戦勝国から補償金を受けとりドイツの賠償分に計上するし、この措置は皇帝・王族の財産にも適用される(256条第一段)。ただし、[[普仏戦争]]で敗北し50億フランを負担したフランスは、[[アルザス]]・[[ロレーヌ]]を無償で譲り受ける(256条第二段)。この点、[[ベルギー]]も同様とする(256条第三段)。第22条により旧ドイツ植民地の統治を委任される国は統治する植民地の公債を負担しないし、統治国の資格で植民地の財物を譲り受けても補償せず皇帝・王族の財産についても同様とする(257条)。
 
 
 
[[中央同盟国]]と[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、'''トルコ'''、加え各国の植民地、およびロシアにおいて、行政庁・国立銀行・代表機関その他国際的な金融・経済機関に対し、ドイツは一切の参加権を放棄する(258条)。[[ライヒスバンク]]はトルコ[[政府紙幣]]を初めて発行するとき[[オスマン債務管理局]]名義で正金を寄託されたが、それをドイツは条約施行後一月以内に引き渡す(259条1項)。第二回の政府紙幣発行でも、やはりオスマン債務管理局名義で、幾度かドイツ大蔵省証券を寄託しているが、その券面の規定によりドイツは12年間年金を支払う(同条2項)。1915年5月5日の協定によりオスマン債務管理局からトルコ政府に貸し付けた正金の残高で、ライヒスバンクや他の銀行に預けられたものも引き渡す(同条3項)。1919年5月を弁済期とするオスマン内国公債の元利償還を目的として、1918年11月トルコ政府に交付した金銀のドイツ保有分を引き渡す(同条4項)。オーストリア・ハンガリーに対する貸付につきドイツが担保として占有した正金も一月以内に引き渡す(同条5項)。
 
 
 
=== 経済 ===
 
第10篇(264条から312条)では、ドイツにおける関税、通信([[万国郵便連合]]・[[万国電信連合]]関係)、債務・私有財産等の扱いについて規定している。また295条は1912年に調印された[[万国阿片条約]]の批准措置となっている。
 
 
 
=== 航空 ===
 
第11篇(313条から320条)では、航空の分野において連合国がドイツにおいてドイツ国民と同等の権利を受けることを規定している。
 
 
 
=== 水運・鉄道 ===
 
第12篇(321条から386条)では、ドイツの港の利用、ドイツ国内河川の交通と鉄道について規定している。[[ライン川]]・[[モーゼル川]]・[[エルベ川]]・[[オーデル川]]・[[ネマン川]]・[[ドナウ川]]・[[キール運河]]等はこの条約により、非沿岸国にも自由通航権が与えられる[[国際河川]]化・[[国際運河]]化が規定された。これは1921年の[[国際関係を有する可航水路の制度に関する条約]](バルセロナ条約)の基となった。また[[ドイツ国営鉄道]]を連合国が優先利用することも規定している。
 
 
 
=== 国際労働機関 ===
 
第13篇(387条から427条)は、国際連盟の姉妹機関とされた[[国際労働機関]]の規約となっている。これもサン=ジェルマン条約、ヌイイ条約、トリアノン条約、セーヴル条約と同様の構成である。
 
 
 
=== 保障 ===
 
第14篇(428条から433条)は、ドイツに対する監視措置を規定している。
 
 
 
428条では、ライン川左岸50km地域を連合軍が15年間占領することが規定され、429条ではドイツの履行状況に応じて部分的に占領を解除することが規定されているが、状況によっては占領期間の延長ができるとしている。430条では賠償が履行されない場合には再占領を行えると規定しており、後の[[ルール占領]]の根拠となった。433条ではブレスト=リトフスク条約締結後にドイツが占領したバルト地方からの撤兵と、[[バルト諸国]]に対する干渉禁止について規定している。
 
 
 
=== 雑則 ===
 
第15篇(434条から440条)は、その他の条項が記載されている。434条では、旧[[中央同盟国]]([[オーストリア]]、[[ハンガリー]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]、[[トルコ]])において連合国がとる措置をドイツが承認することが規定されている。435条はフランスと[[スイス]]の間で合意された[[オート=サヴォワ県|オート=サヴォワ]]・[[ジェクス (アン県)|ジェクス]]に設置されていた[[中立地帯]]の解消を、締結国も承認するというものである。436条はフランスと[[モナコ公国]]の間で結ばれた{{仮リンク|フランス・モナコ保護友好条約|en|Franco-Monegasque Treaty}}を締結国が承認する規定である。437条は採決における議長の優越権、438条はドイツ国内のキリスト教会の保護、439条は請求権の確認、440条は戦時中に拿捕されたドイツ船舶の資産の返還不可を定めている。
 
 
 
== 直接の影響 ==
 
{{節スタブ}}
 
=== 制裁裁判 ===
 
{{See also|パリ講和会議#戦争責任問題}}
 
<ref>神戸大学電子図書館システム・新聞記事文庫にこの当時の複数記事あり[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/vlist/gaik40.html]。なお速報性を含む報道史料のため、記事により内容に事実関係の齟齬や誤りを含むことがある点を注意されたし。</ref>ヴィルヘルム2世の裁判は亡命先のオランダが引渡しに応じなかったため、実現しなかった。オランダの世論は告発者による裁判所が中立的な法の尊厳を維持できるはずはなく、皇帝の引渡しはオランダ国法および憲法に抵触する可能性があると論じた{{Sfn|清水正義|2003|p.147-148}}。またフランス政府も裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.245}}。さらにドイツ政府が戦犯の引渡しを拒否したため、戦犯裁判は国際裁判ではなく国内裁判で裁かれることになった。1921年5月23日からは{{仮リンク|ライプツィヒ戦争犯罪裁判|en|Leipzig War Crimes Trial}}が開催され、連合国が指名した、捕虜虐待容疑などの45人の戦犯が裁かれた。有罪となった者の刑期はそれほど長くなく、死刑になった被告は一人も出なかった。
 
 
 
=== 住民投票 ===
 
==== シュレースヴィヒ ====
 
シュレースヴィヒのデンマーク系住民は大戦末期からシュレースヴィヒの帰属を決める住民投票を希望しており{{Sfn|尾崎修治|2003|p.3}}、1918年11月17日には「クラウセンライン」<ref>デンマークの民族研究家{{仮リンク|C.H.クラウセン|da|C.H. Clausen}}</ref>が調査したデンマーク系住民居住地域の南限とするべきであるという「アペンラーデ決議」を発表した。しかしデンマーク政府はドイツ系の住民が多数を占める中南部の編入を望んでおらず、その点ではドイツ共和政府とも了解が取れていた{{Sfn|尾崎修治|2003|p.4}}。しかしドイツ系住民の「シュレースヴィヒ公爵領のためのドイツ委員会」はシュレースヴィヒの一体性を主張し、住民投票の際はシュレースヴィヒ一体で行うべきと主張していた{{Sfn|尾崎修治|2003|p.4-5}}。ヴェルサイユ条約ではクラウセンラインが採用され、ライン以北を第一地区、以南を第二地区として別個に投票を行うことになった。
 
 
 
{{仮リンク|シュレースヴィヒの住民投票|en|Schleswig Plebiscites}}は、北部の第一地区では1919年6月28日、第二地区では1920年3月14日に行われた。北部では[[デンマーク]]所属派が75%と優勢であり{{Sfn|尾崎修治|2003|p.9}}、中部シュレースヴィヒの投票では80%がドイツを選択する{{Sfn|尾崎修治|2003|p.9}}などははっきりした傾向が現れた。また南部のドイツ支持が明確な地区では投票自体行われなかった。この結果に不満を持ったデンマークの国家主義者は中部シュレースヴィヒのデンマーク編入を要求し、国王[[クリスチャン10世 (デンマーク王)|クリスチャン10世]]も介入する一大政治問題となった({{仮リンク|1920年のイースター危機|en|Easter Crisis of 1920}})。結局デンマークは住民投票の結果どおり、中部シュレースヴィヒ獲得を断念した。一方ドイツ政府はクラウセンライン以北にあるドイツ住民が優勢な地域を考慮して国境を引きなおす案を提案したが入れられず、国境線はクラウセンラインが採用された。その後、北部シュレースヴィヒは1920年6月15日にデンマークに編入された。
 
 
 
====東プロイセン====
 
{{仮リンク|東プロイセンの住民投票|en|East Prussian plebiscite}}は[[ポーランド・ソビエト戦争]]のさなかの1920年7月11日に行われた。ほとんどの地域でドイツ編入を希望する票が95%を上回り、投票が行われた地域はほとんど東プロイセン領のままとなった。ただしいくつかの村は住民投票が行われずポーランド領に編入されている。
 
 
 
==== 上シレジア ====
 
{{see also|シレジア蜂起}}
 
{{commonscat|Upper Silesia plebiscite|上シレジアの住民投票}}
 
{{仮リンク|上シレジアの住民投票|en|Upper Silesia plebiscite}}は困難であった。この地域はドイツ系とポーランド系の住民が交錯しており、いずれの帰属となっても混乱は必至であった。1921年3月20日に住民投票が行われたが、ポーランド系の大規模な蜂起が発生した。連合国管理委員会は裁定を断念し、国際連盟に提訴した。結局上シレジアの3分の2がドイツ領となったが、重工業地域などはポーランド領となり、両国間に確執が残ることとなった。
 
 
 
<Gallery>
 
ファイル:Abstimmung-schleswig-1920.png|シュレースヴィヒの住民投票。マゼンタがドイツ、シアンがデンマーク帰属派の大きかった地域。黒い太線が「クラウセンライン」
 
ファイル:Abstimmungsergebnisse Ostpreußen 1920.JPG|東プロイセンの住民投票。円グラフの黒がポーランド帰属票の割合
 
</Gallery>
 
 
 
=== メーメル ===
 
メーメルとその周辺については、暫定的にイギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国で構成される[[大使会議]]の統治下におかれることとなったが、実質的にはフランスの管理下におかれた。1923年1月に[[リトアニア]]政府が軍事侵攻し、メーメルを支配下に置いた({{仮リンク|クライペダ蜂起|en|Klaipėda Revolt}})。フランスは[[ルール占領]]に手を焼いており、これに介入する余裕がなかったため、連合国はリトアニアの支配権を追認することとなった。1924年5月8日の{{仮リンク|クライペダ条約|en|Klaipėda Convention}}によってメーメルはリトアニアの自治地区となった。
 
 
 
=== 植民地 ===
 
[[ファイル:League of Nations mandate Middle East and Africa.png|thumb|220px|アフリカにおける旧ドイツ植民地と委任統治先<br/> 6. イギリス領トーゴランド<br/> 7. フランス領トーゴランド<br/> 8. イギリス領カメルーン<br/>9. フランス領カメルーン<br/>10. ベルギー領ルアンダ=ウルンディ<br/>11.イギリス領タンガニーカ <br/>12. 南ア領南西アフリカ]]
 
[[ファイル:League of Nations mandate Pacific.png|thumb|220px|太平洋における旧ドイツ植民地と委任統治先<br/>1. 日本領南洋諸島<br/> 2. オーストラリア領ニューギニア<br/> 3. 三国共同統治ナウル<br/>4. ニュージーランド領西サモア]]
 
ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する、[[委任統治]]に移行した。
 
*[[ルアンダ=ウルンディ]](旧[[ドイツ領東アフリカ]] )(受任国・[[ベルギー]]:現在の[[ルワンダ]]と[[ブルンジ]])
 
*[[タンガニーカ]](旧ドイツ領東アフリカ)
 
**[[ロヴマ川]]以南の{{仮リンク|キオンガ三角地帯|en|Kionga Triangle}}(受任国・[[ポルトガル]]:現在の[[モザンビーク]]北部)
 
**ロヴマ川以北→{{仮リンク|タンガニーカ地域|en|Tanganyika Territory}}(受任国・[[イギリス]]:現在の[[タンザニア]]大陸部)
 
*[[ドイツ領トーゴラント]]
 
**西部三分の一→[[イギリス領トーゴランド]](受任国・[[イギリス]]:現在の[[ガーナ]]東部)
 
**東部三分の二→[[フランス領トーゴランド]](受任国・[[フランス]]:現在の[[トーゴ]])
 
*[[ドイツ領南西アフリカ]]→[[南西アフリカ]](受任国・[[南アフリカ連邦]]:現在の[[ナミビア]])
 
*[[ドイツ領カメルーン]](旧ドイツ領西アフリカ)
 
**北部カメルーン→[[イギリス領カメルーン]](受任国・[[イギリス]]:現在の[[ナイジェリア]]東部)
 
**南部カメルーン→{{仮リンク|フランス領カメルーン|en|French Cameroons|FIXME=1}}(受任国・[[フランス]]:現在の[[カメルーン]])
 
*[[ノイカメルーン]] (旧ドイツ領西アフリカ)→ [[フランス領赤道アフリカ]]に統合
 
*[[ドイツ領ニューギニア]]
 
**[[マリアナ諸島]]、[[カロリン諸島]]、[[パラオ]]、[[マーシャル諸島]]→ [[南洋諸島]](受任国・[[日本]])
 
**[[ソロモン諸島]]→ {{仮リンク|イギリス領ソロモン諸島|en|British Solomon Islands}}(受任国・[[イギリス]])
 
**{{仮リンク|カイザーヴィルヘルムスラント|en|Kaiser-Wilhelmsland}}→ {{仮リンク|オーストラリア領ニューギニア|en|Territory of New Guinea}}(受任国・[[オーストラリア]]:現在の[[パプアニューギニア]]北部)
 
**[[ナウル]]→ 三国共同統治領ナウル(受任国・イギリス、オーストラリア、ニュージーランド)
 
*{{仮リンク|ドイツ領サモア|en|German Samoa|FIXME=1}}→ {{仮リンク|ニュージーランド領西サモア|en|Western Samoa Trust Territory}}(受任国・[[ニュージーランド]])
 
 
 
=== 賠償 ===
 
{{main|第一次世界大戦の賠償}}
 
賠償委員会の協議は難航し、賠償総額が1320億金マルク(約66億ドル)、30年賦と決定されたのも1921年になってからのことであった{{Sfn|北村行伸|2011|p=6}}{{Sfn|松川周二|2011|p=112}}。ロシアへの賠償は[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]によって事実上相殺された{{Sfn|田中美緒|2006|pp=59-62}}が、ドイツ政府は賠償金の捻出に苦しみ、さらに「[[トランスファー問題]]」の発生で[[パピエルマルク|マルク]]相場は急激に下落した。1923年1月、フランスとベルギーは賠償金支払いの遅延を理由とし、ベルサイユ条約を根拠とする[[ルール占領|ルール工業地帯の占領]]を開始した。これに対するドイツ側の対抗措置等も重なり、マルクはおよそ一兆倍に下落するという[[ハイパーインフレーション]]に見舞われた({{仮リンク|ヴァイマル共和政のインフレーション|en|Hyperinflation in the Weimar Republic}})。
 
 
 
これ以降連合国側もドイツ経済に配慮するようになり、[[ドーズ案]]によってドイツの賠償支払いは一段落した。しかし1928年頃からはドイツへの資金流入が減少しはじめ、[[ヤング案]]が採択されて支払いはさらに緩和されたものの、1930年代の[[世界恐慌]]と欧州金融恐慌により、賠償の支払いは事実上不可能となった。ドイツは賠償支払いの一時停止を宣言し、1932年6月の[[ローザンヌ会議]]で賠償問題は事実上解消された。
 
 
 
=== 武装解除 ===
 
ドイツ海軍艦艇は連合国に引き渡されることになっていたが、当時イギリスの[[スカパ・フロー]]港に抑留されていたドイツ艦艇は、{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ロイター|en|Ludwig von Reuter}}提督の命令で1919年6月21日にいっせいに自沈し、艦艇74隻中52隻が沈没した([[スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈]])。いくつかの艦は引き上げられず、連合国は引き渡しを受けることができなかった。ドイツ世論ではロイター提督が国民的な英雄であると受け止められた。
 
 
 
== 当時の評価 ==
 
条約成立過程はほとんど秘密にされていたため、全容が世界に公表されたのは5月7日のドイツ側への手交以降だった。イギリスでは講和条約が過酷であり、連合国の戦争目的と異なるという批判が労働組織の機関紙を中心に広がった<ref>吉川宏、4、217p</ref>。ランシングをはじめとするアメリカの代表団内部でも条約が「十四原則」とかけ離れていると批判する声が高かった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197}}。また大戦中から和平への努力を行っていた[[教皇]][[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]も公然の批判は行わなかったものの、ヴェルサイユ条約が復讐の産物であるという認識を示していた<ref>{{Cite journal|和書|author=中井晶夫 |title=教皇ベネディクト15世の和平工作とドイツ帝国宰相ゲオルク・ミヒャエーリス|date=1992-11 |publisher=上智大学 |journal=上智史学 |url=http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I3481427-00|volume=37 |pages=313-339 }}</ref>。
 
 
 
ロイド・ジョージもドイツにとって過酷であると考えており、条約公表前の4月5日に「平和条約は、ドイツがヴェルサイユに来た時に、彼らに手渡される。それ以前に条約が公表されたら、ドイツ政府の立場はとてもありえなくされるだろう。この条約は、ドイツを革命に導くかも知れぬ。」<ref>吉川宏、4、217p</ref>。また南アフリカ代表の[[ヤン・スマッツ]]も、軍事占領と産業条項の両立は不可能であり、ドイツを国際連盟に加えることで孤立化を防ぎ、独露提携を回避するべきであると指摘している<ref>吉川宏、4、217-218p</ref>。
 
 
 
賠償委員会にイギリス代表委員として参加したものの、過酷な賠償に抗議して途中帰国した[[経済学者]][[ジョン・メイナード・ケインズ]]はクレマンソーの目的がドイツを徹底的に破壊し、弱体化するものであり、条約後の状態を「[[第三次ポエニ戦争|カルタゴ式平和]]」と批判した<ref>吉川宏 2、512、528p</ref>。ケインズが帰国した後に著わした『{{仮リンク|平和の経済的帰結|en|The Economic Consequences of the Peace}}』は、ヴェルサイユ条約批判の古典ともなっている。[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]はヴェルサイユ体制を『平和のようなもの』と批判した{{要出典|date=2012年5月}}。
 
 
 
また南アフリカの[[ヤン・スマッツ]]国防相や[[ルイス・ボータ]]首相、ホンジュラスの{{仮リンク|ポリカルポ・ボニージャ|en|Policarpo Bonilla}}元大統領などは、戦勝国が一方的にヴィルヘルム2世などを裁く形式が不当であると訴えた。特にボニージャは戦争犯罪裁判は双務的に、両陣営の戦犯を同様に裁くべきとした{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.244-245}}。
 
 
 
一方で対独強硬派である[[フェルディナン・フォッシュ]]らにとってはこの条約があまりにも手ぬるいものであると考えられた。フォッシュは「これは平和ではない。20年間の休戦だ」<ref>[[ポール・レイノー]]の「回顧録」 (1963年)</ref>と述べたと伝えられる。
 
 
 
アメリカ代表団の一人であった[[ハーバート・フーヴァー]]は「もし真に平和を望むのであれば、ドイツをいかなる自力回生も不可能なほどの貧困と無力状態におとしいれるか、自由な政府を持たせて人類家族の平和なメンバーにするか、そのどちらかにすべきであった。」と回想し、フランスの作家{{仮リンク|ジャック・バンヴィル|en|Jacques Bainville}}も『{{仮リンク|平和の政治的帰結|fr|Les Conséquences politiques de la paix}}』において「過酷な点があるにしてはあまりに手ぬるく、手ぬるい点があるにしては過酷に過ぎる」と評し、条約がいずれにしても不徹底であるとした<ref>児島德「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い」第一巻、[[文春文庫]]、23p</ref>。
 
 
 
== ドイツへの影響 ==
 
{{節スタブ}}
 
ドイツ側では講和条約に対する反発が根強く、受諾への動きを見せたエルツベルガーですら、「悪魔の仕業」と呼んでいた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.223}}。ドイツの大半は戦火に巻き込まれなかったため、ドイツ一般市民には敗北感が薄く、さらにヒンデンブルクが議会証言で、革命派による「[[背後の一突き]]」によってドイツが休戦に追い込まれたと主張したことで、「不当な休戦」によってもたらされた「過酷な講和条約」に対する怒りはドイツ国民間に広く浸透した。<ref>H.A.ヴィンクラー 1999,p401-402</ref>これを好機と見たヴェルサイユ条約の軍備制限に反対する[[ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ]]元ベルリン防衛軍司令官は、1920年3月13日にヴァイマル共和政打倒のクーデターを敢行するが、市民の支持は集まらず失敗した([[カップ一揆]])。
 
 
 
しかし講和条約を受諾した以上、ドイツ政府は講和条約を実行する「履行政策」に勤めざるを得なかった。しかし賠償金支払いは困難を極め、インフレがじわじわと進行した結果に賠償金支払いが滞り、フランスの[[ルール占領]]を呼び込むこととなった。ルール占領によってインフレーションは破滅的な規模に拡大し、[[ミュンヘン一揆]]等、左右両翼の暴動・反乱が相次いだ。しかし[[グスタフ・シュトレーゼマン]]内閣以降はドイツ経済と政情も一時的に安定し、[[ロカルノ条約]]の締結と国際連盟加盟実現により、ドイツは事実上国際社会に復帰した。しかし[[世界恐慌]]以降は再び条約に対する不満が惹起され、[[ナチ党の権力掌握]]を招くことになる。
 
 
 
エルツベルガーら休戦協定に署名した人物は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)等右派によって「11月の裏切り者」と非難された。1920年8月26日、エルツベルガーは極右テロ組織[[コンスル (テロ組織)|コンスル]]の手によって暗殺された。
 
 
 
=== 武装解除と秘密再武装 ===
 
{{main|ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和政}}
 
{{seealso|ドイツ義勇軍|黒い国防軍|ラパッロ条約 (1922年)}}
 
ドイツの武装解除と動員解除には、連合国の連合国国際監督委員会による監視措置が執られることとなった。しかし[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]は連合国の監視を逃れ、兵士を私兵組織([[ドイツ義勇軍]]、フライコーア)に偽装し、参謀本部を[[兵務局 (ドイツ陸軍) |兵務局]]と偽装して組織を温存した。またラパッロ条約の締結後は秘密議定書に基づき、[[ソビエト連邦]]の領土内での軍事訓練などを行った({{仮リンク|1941年以前の独ソ関係|en|Soviet–German relations before 1941}})。不安定な政治状況を乗り切るため、エーベルトは参謀次長であった[[ヴィルヘルム・グレーナー]]と電話会談し、政府に軍が協力する見返りとして、軍の機構を維持する密約を結んでおり({{仮リンク|エーベルト=グレーナー協定|de|Ebert-Groener-Pakt}})、これらの条約逃れは政府も黙認していた。1925年の[[ロカルノ条約]]締結により、1927年には連合国国際監督委員会による監視措置は終了した。
 
 
 
== 連合国への影響 ==
 
{{see also|戦間期}}
 
クレマンソーは「この条約は、他の条約同様、完全な履行まで戦闘行動の延長でありかつそうでしかありえない」<ref>吉川宏、2、530p</ref>と語ったように、対独強硬路線はフランスの基本路線となり、賠償支払いが停滞したドイツに対するルール占領を引き起こした。しかしこの占領は失敗に終わり、イギリスの仲介もあってフランスも強硬方針を改めざるを得なくなった。1924年には賠償支払い手続きにアメリカを組み込んだ[[ドーズ案]]が決定され、賠償支払いもようやく円滑となった。
 
 
 
1925年にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ドイツの集団安全保障を定めた[[ロカルノ条約]]の締結によってドイツは国際社会に復帰し、1926年9月には国際連盟にも加盟した。1928年には[[不戦条約]]の締結でロカルノ体制は安泰となったかに思われたが、世界恐慌の発生とそれにともなうヨーロッパの不安定化は、英仏に新たな体制構築をせまることとなった。
 
 
 
=== 旧ドイツ植民地 ===
 
{{節スタブ}}
 
 
 
== ナチス・ドイツと第二次世界大戦 ==
 
{{節スタブ}}
 
英仏の対独宥和政策が強まる中、ラインラント占領が1930年6月に終了し、賠償問題も[[ローザンヌ会議]]で事実上終結するなど、ヴェルサイユ条約の対独監視措置は[[ヒトラー内閣]]成立の1933年以前にほとんど終了した。
 
 
 
反ヴェルサイユ条約を掲げた[[アドルフ・ヒトラー]]らナチ党のいわゆる[[ナチス・ドイツ]]成立以降は、軍事面での監視措置を次々に破った。1933年には[[ジュネーブ軍縮会議]]から離脱した上で国際連盟から脱退し、1935年3月16日には軍備制限条項の無効を宣言し([[ドイツ再軍備宣言]])、1936年には[[ラインラント進駐]]を行い、ヴェルサイユ条約の軍事条項は完全に死文化した。またイギリスも1935年6月18日に{{仮リンク|英独海軍協定|en|Anglo-German Naval Agreement}}を締結することでこの状況を容認し、いわゆる[[宥和政策]]が開始された。フランスは[[小協商]]諸国との連携や[[マジノ線]]建築、さらに小協商およびポーランドにソ連をくわえた東方ロカルノ体制案でドイツに抵抗しようとするが、いずれも不十分に終わったため、ドイツを抑制することはできなかった。またザールも1935年にドイツに復帰している。
 
 
 
ヒトラーはヴェルサイユ条約で喪失した領土と、植民地の代替となるヨーロッパ領土、いわゆる[[東方生存圏]]の獲得を狙って[[第二次世界大戦]]の引き金を引くが、結果としてドイツは崩壊し、さらなる領土と人命、財産の喪失と、ドイツの分断を招くこととなった。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の指導者[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は、休戦協定とヴェルサイユ条約が完全なドイツの敗北をドイツ人に認識させなかったことが今次の大戦の原因であると考え{{sfn|藤田宏郎|2007-09|pp=7-8}}、[[枢軸国]]に対して完全な「[[無条件降伏]]」を求める方針をとった。またドイツ軍の降伏手続きにおいては「背後の一突き」伝説が発生しないよう、軍の指揮権を持つ者に署名させた。一方でドイツからの賠償については、正貨ではなく捕虜による労務や現物による賠償で代えたが、これはヴェルサイユ条約の賠償支払い方式が経済に与えた影響をかんがみたものであったが、強制労働によって多くの捕虜の人命が失われることになった。
 
 
 
== 現在における影響 ==
 
第二次世界大戦の結果[[国際連合]]が成立し、国際連盟は消滅したが、国際労働機関などヴェルサイユ条約および関連の講和条約によって成立した機関・規定は一部ながら現在も効力を持っている。
 
 
 
== 条約参加国 ==
 
[[ファイル:Treaty of Versailles Signing, Hall of Mirrors.jpg|300px|thumb|right|鏡の間の調印光景]]
 
;主要連合国
 
前文では特に「アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス国、イタリア国、日本国」<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021294200|御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)}}</ref>を「主たる同盟及び連合国」として他の参加国より先に記述している。
 
*{{Flagicon|GBR}} [[イギリス帝国]]
 
*{{Flagicon|FRA}} [[フランス第三共和政|フランス]]
 
*{{Flagicon|ITA1861}} [[イタリア王国|イタリア]]
 
*{{Flagicon|JPN1889}} [[大日本帝国|日本]]
 
 
 
;連合国
 
*{{BEL}}
 
*{{BOL}}
 
*{{BRA1889}}
 
*{{CUB}}
 
*{{ECU}}
 
*{{GRC1828}}
 
*{{GUA}}
 
*{{HAI}}
 
*{{flagicon image|Flag of Hejaz 1917.svg}} [[ヒジャーズ王国]]
 
*{{HON}}
 
*{{LBR}}
 
*{{NCA}}
 
*{{PAN}}
 
*{{PER}}
 
*{{POL1928}}
 
*{{flagicon|POR}} [[ポルトガル第一共和政|ポルトガル共和国]]
 
*{{ROM1881}}
 
*{{Flagicon|YUG1918}} [[ユーゴスラビア王国|セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]
 
*{{Flagicon|THA}}  [[タイ王国|シャム]]
 
*{{TCH}}
 
*{{URU}}
 
;イギリス連邦内の参加国
 
*{{Flagicon|IND1858}} [[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]
 
*{{AUS}}
 
*{{CAN1868}}
 
*{{NZL}}
 
*{{ZAF1912}}
 
 
 
;中央同盟国
 
*{{DEU1919}}
 
 
 
=== 調印したが、批准を行わなかった国 ===
 
*{{USA1912}}
 
 
 
=== 講和会議に参加したが調印を行わなかった国 ===
 
*{{Flagicon|CHN1912}} [[北京政府|中華民国]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-1- |date=1963-01 |publisher=北海道大学法学部 = The University of Hokkaido, Faculty of Law |journal=北大法学論集 |volume=13 |number=2 |naid=120000973657 |pages=282-359 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-2- |date=1963-03 |publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=13 |number=3 |naid=120000953565 |pages=459-551 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-3- |date=1963-08 |publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=14 |number=1 |naid=120000963326 |pages=66-157 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-4(完)- |date=1963-12 |publisher=北海道大学法学部 |journal=北大法学論集 |volume=14 |number=2 |naid=120000964210 |pages=203-234 |ref=harv}}
 
*{{Cite journal|和書|author=清水正義|title=第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追問題|naid=110001161262|journal= 白鴎法學|publisher=白鴎大学|date=2003|issue= 21|pages=pp.133-155|ref=harv}}
 
*{{Cite journal|和書|author=尾崎修治|title=シュレスヴィヒにおける住民投票(1920)--ドイツ系住民運動における国民意識と地域|naid=40006049318|journal= 紀尾井史学|publisher=上智大学大学院史学専攻院生会|date=2003|issue= 23|pages=pp.1-12|ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author= 北村行伸 |title=ソブリンリスクの歴史と教訓|date=2011 |publisher=日本証券アナリスト協会 |journal=証券アナリストジャーナル|volume=49 |number=1 |naid=40017649652|pages=28-37 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author= 尾上一雄 |title=アメリカ金融資本主義と第一次世界大戦|date=1955 |publisher=成城大学 |journal=経済研究|volume=3 |pages=105-145 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=松川周二 |title=ドイツの賠償支払い・トランスファー問題とケインズ(岩田勝雄教授退任記念論文集) |date=2011-01 |publisher=立命館大学 |journal=立命館經濟學 |volume=59 |number=5 |naid=110008604741 |pages=666-694 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=田中美緒 |title=ラパッロ条約締結期のドイツ外交に関する一考察 |date=2006 |publisher=東京女子大学 |journal=史論 |volume=59 |naid=110006607671 |pages=p52-71 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=堀内直哉 |title=ヒトラー内閣成立前後におけるドイツの軍備政策 |date=2009 |publisher=目白大学 |journal=目白大学人文学研究|volume=5 |naid=110007351772 |pages=p61-72 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=黒川康 |title=ドイツ国防軍と「レーム事件」--第1次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察 |date=1970 |publisher=目白大学 |journal=人文科学論集 |volume=5 |naid=110007351772 |pages=p19-31 |ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=牧野雅彦|year=2009|title = ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和|publisher = 中央公論新社|isbn= 978-4-12-101980-6|ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=藤田宏郎 |title=フランクリン・D・ローズベルトの無条件降伏論 |date=2007-09 |publisher=甲南大学 |journal=甲南法学 |volume=48 |number=1 |naid=110006572542 |pages=1-36 |ref=harv}}
 
* ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー『自由と統一への長い道』 1巻 後藤俊明、奥田隆男、中谷毅、野田昌吾訳 (昭和堂、2008年) ISBN 978-4-81-220833-5
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[パリ講和会議]]
 
* [[第一次世界大戦]]の[[平和条約|講和条約]]
 
** [[ヌイイ条約]] - 連合国対[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]
 
** [[サン=ジェルマン条約]] - 連合国対[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]([[オーストリア=ハンガリー帝国]])
 
** [[トリアノン条約]] - 連合国対[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]](オーストリア=ハンガリー帝国)
 
** [[セーヴル条約]] - 連合国対[[オスマン帝国]]
 
**[[米独平和条約]]
 
**[[中独平和回復協定]]
 
* {{仮リンク|第一次世界大戦の影響|en|Aftermath of World War I}}
 
* {{仮リンク|ラインラント占領|en|Occupation of the Rhineland}}
 
* [[戦間期]]
 
* [[第二次世界大戦の背景]]
 
* [[第二次世界大戦]]の講和条約
 
**[[パリ条約 (1947年)|パリ条約]] - 対[[イタリア]]、[[ハンガリー]]、[[フィンランド]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]
 
**[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]] - 対[[日本]]
 
**[[ドイツ最終規定条約]] - 対[[ドイツ]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Treaty of Versailles}}
 
* {{アジア歴史資料センター|A03021294200|御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)}}
 
 
 
{{日本の条約}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:うえるさいゆしようやく}}
 
{{DEFAULTSORT:うえるさいゆしようやく}}
 
[[Category:ヴェルサイユ条約|*]]
 
[[Category:ヴェルサイユ条約|*]]

2019/6/18/ (火) 09:47時点における最新版

ベルサイユ条約の調印式が行なわれたベルサイユ宮殿鏡の間(1919.6.28.).ベルサイユ,フランス.jpg

ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、: Traité de Versailles

第1次世界大戦を終結するため,1919年6月 28日パリ郊外のベルサイユで,連合国側とドイツとの間で調印された講和条約。アメリカそのほか数ヵ国はこの条約に参加しなかった。内容には国際連盟案など戦後の世界平和を目的とした条項も存在したが,他方では敗戦国ドイツに,フランスやポーランドなどへの領土割譲,ライン川左岸の非武装化,オーストリアとの合併禁止,海外植民地の放棄,ドイツの戦争責任を根拠とする巨額の賠償などを課し,講和に向けて W.ウィルソンが発表した十四ヵ条平和構想にはほど遠い不公正な条約となった。そのため,この条約に支えられた戦後世界のベルサイユ体制にも,重要な問題を残すことになった。ドイツは 36年一方的にこの条約を廃棄した。



楽天市場検索: