レーヨン

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ファイル:Rayon closeup 1.jpg
レーヨンの生地

レーヨン (rayon) はに似せて作った再生繊維であり、昔は人絹(じんけん、人造絹糸)、テープル・ァイバーからスフとも呼ばれていた。レーヨンは光線(英:ray)と綿 (cotton) を組み合わせた言葉である。

パルプコットンリンターなどのセルロース水酸化ナトリウムなどのアルカリ二硫化炭素に溶かしてビスコースにし、の中で紡糸して(湿式紡糸)製造する。ポリエステルなど石油を原料とした化学繊維と違い、加工処理したあと埋めると土に還る。そのため、レーヨン自体は環境に負荷をかけない繊維とされるが、製造時の二硫化炭素の毒性や、強度が低いことなどが問題となっていたことと、日本においては原料パルプを針葉樹に求めていたため製造は中止された。その一方で、レンチングリヨセル社がN-メチルモルホリン-N-オキシドを溶媒としたリヨセルを開発し、最近では高級品として広がりつつある。日本固有のセルロース繊維としてはキュプラがあり、コットンリンターを原料としたパルプを銅アンモニア溶液に溶かし、細孔から水中に押し出した再生繊維である。これは銅アンモニアレーヨンの一種である。絹に似た光沢・手触りが特徴。洋服の裏地などに用いられる。

初期のレーヨン

ニトロセルロースを揮発性の有機溶媒に溶かしたものをピロキシリンと呼ぶ。ピロキシリンは、その呼び名がギリシア語の pyr(火)とxylon(木)に由来したように燃えやすい化合物であった。ピロキシリンを小さい孔から噴出させると溶媒は瞬時に蒸発し、ピロキシリンの細い光沢ある繊維が得られた。これは最初の化学繊維で、1855年にフランスのイレール・ド・シャルドネ(Hilaire de Chardonnet)により「レーヨン」として特許が取得されているが、きわめて燃えやすく危険で、レーヨンのドレスを着た人間が火だるまになるという事故が続出し、第一次世界大戦前までには生産は中止された。その後燃えにくい繊維が開発され実用化されたので、ピロキシリンは原料として使用されなくなった。現在のレーヨンはセルロースそのものを再配列したもので再生繊維と呼ばれる。

また、ピロキシリンは化学繊維から医薬部外品に活躍の場を移し、数種の添加物を加えた上で液体絆創膏・水絆創膏として現在も販売されている。

日本におけるレーヨン

日本においては、明治時代末期において東京の糸商西田嘉兵衛の西田商店と京都の糸商藤井彦四郎の藤井彦四郎商店がフランスのシャルドネ社やドイツのグランツストフ社からの輸入契約を結んだことに始まる[1]1905年(明治38年)に神戸税関で人工絹糸が通関されたのが税関統計に記録されている[1]。ただし、この時の商品がレーヨン(人工絹糸)ではなく中間生成物であるビスコースだとする文献、京都の横田商会が1回のみの輸入した際の記録とする文献などもあり、日本におけるレーヨンの輸入第1号であるかの確証はない[1]。いずれにせよ、西田と藤井の両者が日本国内におけるレーヨンの需要拡大、普及に大きく寄与した[1]

なお、レーヨン=アーティフィシャル・シルク(人工絹糸)に対し、「人造絹糸」の訳語を命名したのは藤井彦四郎であると1926年(大正15年)3月18日の中外商業新報で「人造絹糸という名称の起源に就て」として紹介されている[1]

日本で最初のレーヨン製造国産化の試みは、鈴木商店が大株主となった日本セルロイド人造絹糸株式会社であり、これには三菱財閥岩井産業も出資をしていたが、ドイツのJ・P・ベンベルグDeutsch版社の技術導入交渉中に鈴木商店が大損失を被ったために、レーヨン製造計画は中止となっている。この当時、ヨーロッパはニトロセルロースからのレーヨン糸や銅アンモニアレーヨンから、ビスコースによる製法へと転換をしており、ビスコースによる製造メーカーは国際カルテルを組織し、特許権などの共同管理をおこなっていたため、日本への技術導入の見込はなくなっていた。

1915年(大正4年)には中島朝次郎が日本で初めて銅アンモニアレーヨンの製造実験に成功し、三重県松阪に中島人造絹絲製造所を設立し、製造を開始する。中島は同年11月の大正天皇即位大典に製品を献納することもしたが資本的に恵まれなかったため生産も小規模で大成しなかった[2]

一方、鈴木商店1914年にビスコース法によって実験的製造に成功した久村清太に着目、資金バックアップを行い、1915年には東レザー分工場米沢人造絹糸製造所が設立され、日本初のビスコース法レーヨン糸の試験生産を開始した[2]。この工場は1918年(大正7年)に独立し帝国人造絹絲株式会社(帝人の前身)となる。

1914年にはヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しており、日本もレーヨン糸の輸入に支障が起き、価格が騰貴。レーヨン工業は高収益を上げ得る環境が生まれた。このため、1916年から1921年にかけて前述の帝人をはじめ8社ほどレーヨン製造会社が続々と設立される[2]。しかし、第一次世界大戦が終息すると戦争景気からの反動でレーヨン糸の価格は暴落する。この暴落に伴う日本のレーヨン製造業再編成を生き延びたのは旭絹織(後の旭化成)、三重人造絹絲、東京人造絹絲の3社であった[2]

特徴

  • 肌触りがなめらかである。
  • 吸湿、放湿性がよい。
  • 光沢があり美しい。
  • よく染まる。
  • 熱に強い。
  • 静電気を起こしにくい。
  • 焼却した場合でも有害物質の発生がほとんどない。
  • 着用地に擦れると白色化しやすい。
  • 濡れると強度が1/3に低下する。
  • 水ジミができやすい。
  • 洗濯で縮みやすい。

出典・脚注

関連項目

日本の繊維メーカはかつてレーヨンを主力商品にしており、社名にその名残のある会社がある。


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