リクルートスーツ

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リクルートスーツは、現在の日本において就職活動中に着用することを目的とした被服とその着こなしのスタイルのことを指す。和製英語で[1]、「リクスー」や「就活スーツ」[2]と称されることもある。

紺色灰色などがあり、模様は無地や縞模様市松模様などがあり、男性は背広、女性はレディーススーツなどがあり、ジャケットの形はテーラードカラーボタンの数は様々である。

歴史

リクルートスーツなる語が用いられるようになったのは1970年代末頃からで[3]、それ以前は大学入学時に購入した学生服を着用するのが定番であった[4]。1971年の就職情報誌は普段は着ない学生服を着て企業を訪問する学生を取り上げ、丸の内では例年こうした学生の姿が見られる、としている[5]。1975年の週刊誌にも就職活動の学生に向け、学生服を応援団から借りるのはやめた方がよい、と忠告する記述がみられる[6]

スーツ着用が広まり始めたのは、1976年に大学生協が伊勢丹との協力で就職活動向けのスーツの特設販売を行ったのがきっかけで、翌年からはデパートが一斉に追随したという[7]。この特設販売に携わった職員は、「リクルートスーツ」という言葉の生みの親とも呼ばれている[8][注釈 1]

1980年時点では、デパートのスーツ販売を取り上げた新聞記事において、「リクルート・スーツ」がデパートの秋口の目玉商品として定着した、と評される状況となっている[9]。1980年の週刊誌に掲載された記事では商社の採用担当者の発言として、就職活動をする学生は10人に1人が学生服で、大半はスーツと述べている[10]。また同時期の大学生協の調べでもスーツが主流となっており、色は7割から8割が紺系、9割は就職活動の際に新規に購入しているとされている[11]

女子学生については進行が異なっており、1981年の女性誌の調査では、スーツが多数派ながらブレザー、ワンピースを着用する学生もいた。1983年には伊勢丹が女子学生向けのリクルートスーツを売り出し、男女雇用機会均等法が施行された1986年以降は、女子についても濃紺のスーツばかり、という状況となっていった[12]

注釈

  1. 竹之内(1996)は、この生協による特設販売は1977年からであったとしており、竹之内(2000)にも同様の記述がある。一方企画した生協職員自身は1976年からとしており、食い違いがある。

出典

  1. 大沼淳、荻村昭典、深井晃子監修、文化出版局、文化女子大学教科書部編集『ファッション辞典』文化出版局、1999年、22ページ。ISBN 4-579-50158-6。
  2. 吉村誠一『メンズ・ファッション用語大事典』誠文堂新光社、2010年、35ページ。ISBN 978-4-416-81019-4。
  3. バンタンコミュニケーションズ編集『新ファッションビジネス基礎用語辞典』増補改訂第7版、チャネラー、2001年、153-154ページ。ISBN 4-88508-174-2。
  4. 「背広売り出す大学生協 面接試験で好印象を 都内二十四大学がデパートと提携」『朝日新聞』1977年(昭和52年)9月10日付東京本社朝刊15面。
  5. 「春一番 突風注意報の就職戦線」『就職ジャーナル』第4巻第4号、日本リクルートセンター、1971年4月、3-7ページ。
  6. 竹之内幸子「就職活動における「リクルートスタイル」の誕生と普及過程」『立正大学社会学・社会福祉学論叢』第30号、1996年12月、47-58ページ。
  7. 純「根ほり葉ほり リクルートルックは本当に必要か 個性求めながら、常識唱える企業 無難さ選ぶ学生、売る側の戦略も」『朝日新聞』1988年(昭和63年)9月15日付東京本社朝刊18面。
  8. 「紺のスーツに白いブラウス 女子リクルートルック 景気低迷を反映? 保守化が定着」『産経新聞』平成6年(1994年)6月2日付東京本社朝刊25面。
  9. 「早くもスーツ商戦 就職用の特設コーナーも」『日本経済新聞』昭和55年(1980年)8月16日付朝刊18面。
  10. 「就職シリーズ 第5弾 会社訪問好感度アップ作戦 採用側はここを観察している」『週刊サンケイ』1980年9月18日、139-142ページ。
  11. 大学生協東京事業連合編『データが語る 東京の大学生 当世大学生活事情』主婦の友社、1981年、190-192ページ。
  12. 竹之内幸子「女子学生のリクルートスーツからみえるもの」『大学院年報』第18号、 立正大学大学院文学研究科、2000年、129-141ページ。