ラシュタット会議

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ラシュタット会議(ラシュタットかいぎ、: Second congrès de Rastadt, : Rastatter Kongress)は、フランス革命戦争における神聖ローマ帝国および帝国領邦とフランス革命政府との全面的な戦争終結を目指した多国間会議である。1714年ラシュタット会議と区別して第二次ラシュタット会議とも言う。

講和会議の議長として、スウェーデンフェルセン伯爵が調停を行った。この会議には、オーストリアメッテルニヒ侯爵が出席し、外交官として初の業績を残した。

1798年1月19日から会議が始められたが、各諸邦の利害が衝突し合い、遅々として進行しなかった。特にオーストリアは、講和を認めず会議をだらだらと先延ばしにした。講和会議そのものは、イタリアにおけるカンポ・フォルミオ条約において、放棄されたライン川左岸の領有権と補償を巡って紛糾する。オーストリア側は、失ったライン左岸の補償が何らされなかったが、オーストリアの外交官メッテルニヒは会議を半ば主導し、会議はオーストリア優位で行われていった。最終的に講和会議は失敗し、フェルセンの調停は無に帰した。会議は結局、何らまとまりを得ずに1799年3月21日に終了した。

ちなみに1797年11月27日から12月1日までナポレオン・ボナパルト将軍が儀礼的に参加している。この席でフェルセンは、ナポレオンよりマリー・アントワネットとの逸話を聞かれたと言われている。

講和会議が長引き、最終的に和睦に至らなかったのは、オーストリアの策謀と言われている。この会議で、オーストリアはライン川左岸の領有権を一時的にフランス側に譲渡しているが、オーストリア側の意向で革命政府との全面的な和解は見送られた。

メッテルニヒは、この会議において神聖ローマ皇帝フランツ2世の意向を完全に遂行させている。彼は外交官としての才能を遺憾なく発揮し、軍事と崩壊した対仏大同盟(第一次対仏大同盟)の再建という時間稼ぎに成功した。これはオーストリアにとっては、外交的勝利であった。