ユニチカ
ユニチカ株式会社(英称:Unitika Ltd.)は、本店を兵庫県尼崎市に、本社を大阪市中央区と東京都中央区に置く、日本の繊維メーカーである。近年は繊維事業だけでなく高分子事業・機能材事業などにも進出している。三菱東京UFJ銀行系みどり会メンバー。
コーポレート・スローガンは「We Realize It!」。
Contents
事業内容
事業所
沿革
- 1889年(明治22年) 6月19日 - 尼崎の有志と大阪財界の出資により有限責任尼崎紡績会社を創立。(資本金50万円)。
- 1900年(明治33年)12月 – 綿糸の製造を開始。
- 1902年(明治35年) 2月 – 大阪株式取引所に株式上場。
- 1904年(明治37年) 7月 - 商法施行に伴い尼崎紡績株式会社と改称。
- 1909年(明治42年) 5月 - 綿布の製造を開始。
- 1918年(大正7年) 6月 - 摂津紡績株式会社を合併し、商号を大日本紡績株式会社と改称。
- 1926年(大正15年) 3月 - 日本レイヨン株式会社を設立し、レーヨン糸の製造を開始。
- 1933年(昭和8年) 9月 - 羊毛紡績を開始。
- 1949年(昭和24年) 5月 - 証券取引所再開により上場再開。
- 1950年(昭和25年)10月 - ビニロン繊維の製造を開始。
- 1955年(昭和30年)10月 - 日本レイヨン株式会社はナイロン繊維の製造を開始。
- 1958年(昭和33年)12月 - 日本レイヨン株式会社は成型用ナイロン樹脂の製造を開始。
- 1964年(昭和39年) 2月 - 日本レイヨン株式会社はポリエステル繊維の製造を開始。
- 1964年(昭和39年) 4月 - 商号を大日本紡績株式会社からニチボー株式会社と改称。
- 1966年(昭和41年) 4月 - 日本レイヨン株式会社は日本エステル株式会社を設立し、ポリエステル繊維の製造を移管。
- 1968年(昭和43年) 7月 - 日本レイヨン株式会社はナイロン2軸延伸フィルムの製造を開始。
- 1969年(昭和44年)10月 - ニチボー株式会社が存続会社として、日本レイヨン株式会社と合併し、商号をユニチカ株式会社と改称。初代社長は坂口二郎
- 1969年(昭和44年)10月 - 住宅、不動産事業に進出。
- 1970年(昭和45年) 6月 - 水処理設備、焼却炉など公害防止事業(後の環境プラント事業)に進出。
- 1971年(昭和46年) 6月 - ポリエステル不織布スパンボンドの製造を開始。
- 1977年(昭和52年) 6月 - ユニチカ化成株式会社、ユニチカレーヨン株式会社を設立し、ビニロン事業、レーヨン事業を分離。
- 1982年(昭和57年) 9月 - 抗血栓性カテーテルの製造を開始し、医療品事業(後のメディカル事業)に進出。
- 1984年(昭和59年) 4月 - ユニチカウール株式会社を設立し、羊毛事業を分離。
- 1985年(昭和60年) 6月 - アモルファス金属繊維、活性炭繊維の製造を開始。
- 1989年(平成元年)10月 - ユニチカ化成株式会社、ユニチカレーヨン株式会社、ユニチカウール株式会社の繊維事業3社及びユニチカビルディング株式会社、株式会社ユニチカ京都ファミリーセンター、株式会社ユニチカオークタウン、ユニチカ興発株式会社の不動産賃貸業4社を吸収合併。
- 1999年(平成11年) 3月 - ユニチカテキスタイル株式会社を設立し、綿・羊毛事業を分離。
- 1999年(平成11年)10月 - ユニチカファイバー株式会社を設立し、化合繊事業を分離。
- 2002年(平成14年) 5月 - 日本酢ビ・ポバール株式会社に酢ビ・ポバール事業を分割。
- 2003年(平成15年) 3月 - ユニチカロジスティクス株式会社、ユニチカスパンボンドプロダクツ株式会社、ユニチカセントラルサービス株式会社を設立し、物流事業、不織布製造事業、福利厚生・不動産賃貸業務の一部を分離。
- 2004年(平成16年) 9月 - ユニチカ宇治プロダクツ株式会社、ユニチカリアルティ株式会社を設立し、樹脂及びフィルム製造事業、不動産管理業務の一部を分離。
- 2005年(平成17年) 4月 - ユニチカグラスファイバー株式会社、株式会社ユニオンのガラス関連事業2社の営業・開発部門を本社に吸収。
- 2007年(平成19年)10月 - ユニチカ宇治プロダクツ株式会社、ユニチカスパンボンドプロダクツ株式会社、株式会社ユニチカプロテック坂越の製造事業3社を吸収合併。
- 2009年(平成21年)10月 - ユニチカファイバー株式会社の産業資材事業を分割により承継、ユニチカファイバー株式会社の衣料販売事業、ユニチカテキスタイル株式会社及びユニチカサカイ株式会社の販売事業を分割によりユニチカトレーディング株式会社に承継。
- 2010年(平成22年) 1月 - ユニチカビジネスサービス株式会社を吸収合併。
- 2011年(平成23年) 4月 - 環境プラント事業を日立造船グループに譲渡。
- 2012年(平成24年) 5月 - 寺田紡績株式会社(現・テラボウ株式会社)を株式交換により完全子会社化。
- 2014年(平成26年) 5月26日 - メインバンクに対し金融支援を要請[1][2]。
- 2014年(平成26年) 7月17日 - 借入先金融機関と債務返済の延期を合意[3]。
- 2014年(平成26年) 7月31日 - 借入先金融機関への債務返済を目的とした種類株式発行、投資ファンドへの種類株式発行、資本金約1億円への減資を実施[4]。
- 2014年(平成26年)10月 - ユニチカロジスティクス株式会社を吸収合併。
- 2015年(平成27年) 2月 - 株式会社ユニチカ京都ファミリーセンターの株式を譲渡。
- 2015年(平成27年) 3月 - メディカル事業をニプロ株式会社に譲渡。生活健康事業を株式会社ダイセルに譲渡。ユニチカ赤穂開発株式会社の株式を譲渡。
- 2015年(平成27年) 4月 - ユニチカバークシャー株式会社の株式を福助株式会社に譲渡。
- 2015年(平成27年) 5月 - ダイアボンド工業株式会社の株式を譲渡。
- 2015年(平成27年) 6月 - ユニチカ情報システム株式会社の株式を譲渡。株式会社ユニチカ環境技術センター(現・株式会社環境総合リサーチ)の株式を株式会社建設技術研究所に譲渡。
- 2015年(平成27年) 9月 - 金属繊維事業を愛知製鋼株式会社に譲渡。
- 2016年(平成28年) 3月 - 株式会社ユニチカエステート(現・ユニハイムエステート株式会社)の株式を譲渡。
- 2016年(平成28年)4月 - ユニチカリアルティ株式会社及びユニモア株式会社を吸収合併。
- 2017年(平成29年)3月10日 - 自衛隊の戦闘服などの入札で談合を繰り返していたなどとして、公正取引委員会から排除措置命令を受けた上、課徴金2億2,300万円の支払い命令を受ける[5]。
- 2017年(平成29年) 8月23日 - 愛知県豊橋市から借り入れていた工場用地を事業所閉鎖の上、売却したことに住民側が訴訟を起こす[6]。
- 2018年(平成30年) 2月8日 前年の訴訟において、名古屋地方裁判所から当時の豊橋市長に対し、63億円の損害賠償請求を求める判決を受けた。[7]。
ユニチカ(UNITIKA)の社名の由来
ニチボーと日本レイヨン(ニチレ)の合併時、旧社名には関わりのない新しい社名であること、及び、新社名がそのまま商標に使用できることを条件として、全社員から新社名の募集を行った。応募は約2万5000点に及んだが、その多くはすでに商標登録されており、特に3 - 4字のカタカナの名称で登録されていないものを選ぶのは難しかった。
そのため、両社は協議を行って、英語で「結合した」を意味する「ユナイテッド」(united)の『ユ』、両社の社名に共通する頭2文字の『ニチ』、英語で「会社」を意味する「カンパニー」(company)の『カ』を組み合わせ、ニチボーと日本レイヨンとが結びついた会社であることを意味する「ユニチカ」を社名とすることを決定した[8][9]。
スポーツ活動
かつては貝塚工場の女子バレーボール部が著名であった。
バレーボール部のみならず1975年世界選手権で準優勝を果たした日本代表の半数以上を輩出した平野工場(後に山崎工場)の女子バスケットボール部や宇津木妙子が現役時代に所属したことで知られる垂井工場のソフトボール部、常盤工場の軟式庭球部、宇治工場の陸上競技部も強豪であった。
ニチボー貝塚
1954年(昭和29年)にユニチカの前身である大日本紡績は、貝塚工場に全社統一の女子バレーボール部を設立した。それが日本女子バレー史に燦然と輝くニチボー貝塚である。
1961年(昭和36年)のヨーロッパ遠征では24戦全勝の戦績を残し東洋の魔女と呼ばれた。1962年(昭和37年)の世界選手権には単独チームで参加し優勝している。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでもほとんどの日本代表を輩出し金メダル獲得に大きな貢献をした。長らく無敗であったが、1966年(昭和41年)に258連勝でストップした当時、この出来事は社会的な事象として取り扱われた。
1969年(昭和44年)からチーム名はユニチカ貝塚と変わったものの、日本女子バレーボールを牽引してきた。
1994年(平成6年)に日本リーグがVリーグにリニューアルされてからはチームの愛称をユニチカ・フェニックスにした(女子バスケットボール部も同じ愛称)。企業業績の悪化を受け、2000年(平成12年)7月に活動を停止し、選手などは東レに完全移籍という形を取り、チームは東レアローズに生まれ変わった。
なお、「フェニックス」は2005年(平成17年)からユニチカラグビー部(トップウェストA所属)の愛称として再び使用されている。2007年度(平成19年度)より組織が改変され、トップウェストA1所属となる。
ユニチカマスコットガール
1974年(昭和49年)に風吹ジュンを起用して以来、「ユニチカマスコットガール」を企業シンボルとして採用している。任期は1 - 3年間で、これまでに手塚理美、紺野美沙子、大友みなみ、松田莉奈などを選出している。
また1970年(昭和45年)から水着キャンペーンガール「ユニチカスイムウェアキャンペーンモデル」を採用していた。カイヤ、夏川結衣、内田有紀、本上まなみ、米倉涼子、北川弘美、滝沢沙織と多くのタレント、女優を輩出した。2000年(平成12年)よりユニチカマスコットガールに統合されている[10]。
グループ主要企業
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脚注
- ↑ 日本経済新聞. “多角化遅れた繊維の名門 ユニチカ、金融支援を要請”. . 2014閲覧.
- ↑ 第三者割当による種類株式の発行、定款一部変更、資本金、資本準備金及び利益準備金の額の減少、剰余金の処分並びに金融支援要請に関するお知らせ
- ↑ 債務残高の維持を目的とした債務返済条件の変更等に関する借入先金融機関からの同意書取得についてのお知らせ
- ↑ 第三者割当による種類株式の払込完了、資本金、資本準備金及び利益準備金の額の減少並びに剰余金の処分の効力発生に関するお知らせ
- ↑ 公正取引委員会からの排除措置命令および課徴金納付命令について ユニチカ 2017年3月10日
- ↑ ユニチカ用地売却で提訴 住民ら愛知・豊橋市に損賠請求を求め 「所有権ない」と市当局 産経WEST 2017年8月25日
- ↑ 名古屋地裁 住民、豊橋市に勝訴 ユニチカ用地売却訴訟 毎日新聞 2018年2月8日
- ↑ ユニチカ百年史 ユニチカ編・通史編 1章 ニチボー・日本レイヨンの合併(昭和44年) (PDF)
- ↑ 社名の由来 本間之英著 講談社 2002年
- ↑ ユニチカマスコットガール&スイムウェアキャンペーンモデル アーカイブ