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[[1969年]]から[[1982年]]まで放送された[[毎日放送]]([[MBSテレビ|MBS]])制作の公開[[バラエティ番組]]。
 
[[1969年]]から[[1982年]]まで放送された[[毎日放送]]([[MBSテレビ|MBS]])制作の公開[[バラエティ番組]]。
  
== 概要 ==
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==脚注==
=== 沿革 ===
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<references/>
1969年[[7月3日]]開始。[[落語家]]の桂三枝(現:[[桂文枝 (6代目)|六代桂文枝]])とMBS[[アナウンサー]](当時)の[[斎藤努]]がパーソナリティを務めていた公開収録形式の[[ラジオ番組]]『[[MBSヤングタウン|歌え! MBSヤングタウン]]』のテレビバージョンとして制作された<ref name="yomiuri">読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 [[読売新聞社]]、1999年 pp.277-280「ヤングおー!おー!」、pp.281-284「お笑い歌手、月亭可朝」、pp.290-293「上方落語ブーム到来」</ref>。当時は若者向けのテレビ番組がなく、この番組を「若者の“電波解放区”」と名付け、「彼らが興味のありそうなものを雑誌のように、ブロック構成で見せる」ことをはかり、多彩なコーナーを短時間で次々見せていく形式を作った<ref name="yomiuri" />。初代司会は、三枝に加え[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]が担当。すぐに[[横山やすし・西川きよし]]が加わった。初代進行役は斎藤が務め、のちにMBSのアナウンサーが歴代務めた<ref name="yomiuri" />。
 
 
 
当時ディレクターだった[[林誠一]]は、コメディドラマが主流だった従来の在阪局のお笑い番組について「大阪の人気者は必ず役名が肩書につく。だから番組が終わればおしまいになる」と気づき、そのアンチテーゼとして「タレント個人のパーソナリティー」を重視する演出を図った<ref name="yomiuri" />。また、強力な裏番組であった[[ABCテレビ|朝日放送]]の『[[てなもんや一本槍]]』にチャンネルを変えさせまいと、番組開始直後に仁鶴に「ごきげんようー」と絶叫させ、画面に釘付けにさせる工夫を図った<ref name="yomiuri" />。同番組は放送開始後、たちまち人気を獲得し、番組開始2年目の[[1970年]]には[[日本民間放送連盟#日本民間放送連盟賞|日本民間放送連盟賞]]テレビ娯楽番組部門銀賞を受賞するに至った<ref name="yomiuri" /><ref>[http://www.j-ba.or.jp/category/awards/jba100897 日本民間放送連盟賞/1969年度(昭和44年度)入選・事績] [[日本民間放送連盟]]</ref>。
 
 
 
[[吉本興業]]所属の若手芸人の元祖登龍門的番組で、1950年代後半から1970年代前半までは[[松竹芸能]]の独走状態であった上方演芸界の勢力図を、現在のような吉本中心へと至らしめる骨格を築き上げたとされる{{誰2|date=2017-09}}。この番組で全国区の人気者へと上り詰めた仁鶴と三枝は、3か月遅れで番組レギュラー入りし大ヒット曲『[[嘆きのボイン]]』で猛追した[[月亭可朝]]を加えて俗に「上方落語若手三羽烏」と呼ばれた<ref name="yomiuri" />。また仁鶴・三枝・やすきよは「吉本御三家」と並び称された。ほかにもこの番組を「出世作」として人気に火が付き、全国進出のきっかけを作ったタレントは多い(後述)。[[明石家さんま]]が、ブレイクのきっかけとなるプロ野球の[[投手]]・[[小林繁]]の[[ものまね]]を披露したのは、この番組が最初だった。
 
 
 
番組内で芸人複数によるユニット(後述)を結成し、若手スター売り出しをはかるという番組制作は、吉本独特のスター工法としてのちに定着し、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]司会で[[心斎橋筋2丁目劇場]]より生中継された『[[4時ですよーだ]]』(毎日放送、1987年 - 1989年)、さらには[[ナインティナイン]]を中心とした「[[吉本印天然素材]]」などでお家芸として定着していくことになる。
 
 
 
同番組は吉本興業が『[[よしもと新喜劇]]』等の劇場中継番組を除いて放送番組の制作に携わった史上初めてのケースである。きっかけは当初の同番組の収録会場であった[[うめだ花月]]の改修であった。当初、劇場中継番組などでは、劇場前のバス停に2台の[[中継車]]を停めて放送していたが、[[駐車#駐車 (法令)|駐車違反]]に当たるため、警察に指導を受け、中継車の駐車場所を劇場東側の[[新御堂筋]]に変え、長いケーブルを引いて対応することになったが、付近の小学校の改築工事のためにそれが不可能になっていた。そこで吉本は中継機材を放送局から安価で買い取り、うめだ花月の中に設置することにした。劇場自体が放送局並みの中継機能を持つことになり、それは放送番組の制作機能を持つことを意味していた<ref name="yomiuri" />。収録場所は後にうめだ花月から[[中之島 (大阪府)|中之島]]のSABホール(のちの[[リサイタルホール]]。[[2007年]]閉鎖)へ移り<ref name="yomiuri" />、末期には[[毎日放送千里丘放送センター|MBS千里丘放送センター]]内の[[ミリカホール]]からの公開生放送で行われた。大阪での収録・生放送のほか、月に1回の割合で関東地方での収録があり、その他ネット局の制作協力で日本各地の地方公開録画もあった。
 
 
 
1980年9月末の放送をもって、初代司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へ道を譲ることを理由として降板(同時に進行役の[[川村龍一|川村ひさし]]・[[近藤光史]]両アナウンサーも降板)。同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たり、無名時代から何かと共通の仕事が多かった縁から[[島田紳助・松本竜介]]、近藤の後継の進行役として[[青木和雄]]アナウンサーがそれぞれ起用された(1982年4月からの最末期はさんま・紳竜とともにそれまでレギュラー扱いでの出演だった[[オール阪神・巨人]]、[[太平サブロー・シロー]]も司会陣に昇格、4組のうち3人が週替りで総合司会を担当。また川村も同改編を機に番組を降板している)。
 
 
 
最終回(1982年9月19日)は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストで制作スタッフの[[クレジットタイトル]](番組終了当時)の[[クレジットタイトル#スタッフロール|ロール]]と共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤らの姿(VTRが現存していなかったため白黒写真を使用した)を背景にして別れのメッセージとした。
 
 
 
2012年7月29日に、[[NHK BSプレミアム]]で放送された、『桂三枝のすべて 〜六代桂文枝襲名〜』の中で、当時の出演者・三枝や「ザ・パンダ」のメンバー([[林家小染 (4代目)|4代目林家小染]]は死去していたため弟弟子の[[林家染丸 (4代目)|4代目林家染丸]])が出演し、当時行われていた[[大喜利]]「あたかも読書」が再現された。
 
 
 
 
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ヤングおー!おー! (YOUNG OH! OH!)

1969年から1982年まで放送された毎日放送MBS)制作の公開バラエティ番組

脚注



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