「ムハンマド・アリー」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「サムネイル '''ムハンマド・アリー・パシャ'''({{Rtl翻字併記|ar|محمد علي...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Otheruses|[[エジプト]]の[[ムハンマド・アリー朝]]の創始者|同名の人物|ムハンマド・アリー (曖昧さ回避)}}
+
[[ファイル:ムハンマド・アリー(リトグラフ).jpg|サムネイル]]
{{基礎情報 君主
+
'''ムハンマド・アリー・パシャ'''({{Rtl翻字併記|ar|محمد علي باشا|Muḥammad ʿAlī Bāšā}}, [[1769年]]? - [[1849年]][[8月2日]]
| 人名    = ムハンマド・アリー・パシャ
 
| 各国語表記 = Muhammad Ali Pasha
 
| 君主号  = エジプト総督<br>ムハンマド・アリー朝初代君主
 
| 画像    = ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像説明  = ムハンマド・アリー・パシャ
 
| 在位    = [[1805年]] - [[1849年]]
 
| 戴冠日  = [[1805年]][[5月17日]]
 
| 別号    = [[ワーリー]]
 
| 全名    =
 
| 出生日  = [[1769年]]
 
| 生地    = {{OTT}}、[[ルメリア]]、[[マケドニア地方]]、[[カヴァラ]]
 
| 死亡日  = [[1849年]][[8月2日]]
 
| 没地    = {{OTT}}、{{Flagicon image|Flag of Egypt (1844-1867).svg}} [[:en:Eyalet of Egypt|エジプト省]]、[[アレクサンドリア]]
 
| 埋葬日  = 
 
| 埋葬地  = {{EGY}}、[[カイロ]]、[[ムハンマド・アリー・モスク]]
 
| 継承者  =
 
| 継承形式  =
 
| 配偶者1  =
 
| 配偶者2  =
 
| 配偶者3  =
 
| 配偶者4  =
 
| 配偶者5  =
 
| 配偶者6  =
 
| 配偶者7  =
 
| 配偶者8  =
 
| 配偶者9  =
 
| 配偶者10  =
 
| 子女    = [[イスマーイール・パシャ]]<br>[[サイード・パシャ]]など
 
| 王家    =
 
| 王朝    = [[ムハンマド・アリー朝]]
 
| 王室歌  =
 
| 父親    = イブラーヒーム・アーガー
 
| 母親    =
 
| 宗教    = [[イスラーム教]]([[スンナ派]])
 
| サイン  =
 
}}
 
'''ムハンマド・アリー・パシャ'''({{Rtl翻字併記|ar|محمد علي باشا|Muḥammad ʿAlī Bāšā}}, [[1769年]]? - [[1849年]][[8月2日]])は、[[オスマン帝国]]の[[属州]][[エジプト]]の支配者で、[[ムハンマド・アリー朝]]の初代[[君主]](在位:[[1805年]] - [[1849年]])。'''メフメト・アリー'''({{lang-tr|Mehmet Ali}})ともいう。
 
  
[[エジプト・シリア戦役]]においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった[[富国強兵]]策を推し進め、[[アラビア半島]]や[[スーダン]]に勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国から[[シリア]]を奪うに至る。
+
オスマン帝国のエジプト太守 (在位 1805~48) ,[[ムハンマド・アリー朝]]の始祖。トルコ風にメフメット・アリと発音される場合も多い。ナポレオン軍撤退後のエジプトで[[マムルーク]]勢力を追い落して次第に頭角を現し,1805年エジプト太守となった。 11年マムルークの勢力を壊滅させ,11~18年アラビア半島のワッハーブ派 ([[ワッハーブ派運動]] ) を鎮圧,20~21年にはスーダンを征服した。 24~27年ギリシアの独立戦争と戦うオスマン帝国に味方して活躍,クレタを与えられたが,満足せずシリアに出兵。その結果 40年ヨーロッパ諸国の介入を招きシリア,クレタは失ったが,エジプト太守の世襲が決り,ムハンマド・アリー朝が成立。彼はナイル川デルタの灌漑,土地制度,税制の改革などエジプトの政治,経済の近代化をはかった。
  
最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父<ref name="yamaguchi2006-26">[[#山口2006|山口2006]]、26頁。</ref>、エル・キビール(大王)<ref name="yamaguchi2006-104">[[#山口2006|山口2006]]、104頁。</ref>と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている<ref name="yamaguchi2006-104"/>。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 生涯 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[ファイル:Kavala 200708.JPG|thumb|200px|カヴァラ]]
 
当時[[オスマン帝国]]領だった[[カヴァラ (ギリシャ)|カヴァラ]](帝国の欧州側・バルカン半島の[[マケドニア|マケドニア地方]]東部の港町。現[[ギリシャ]]領[[テッサロニキ]]近郊)に生まれる。生年については諸説あるが、ムハンマド・アリー自身は1769年生まれと称し<ref name="yamaguchi2006-26"/>、「私は[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー]]の故郷で、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]と同じ年に生まれた」と語ることを好んだという<ref>[[#牟田口1992|牟田口1992]]、252-253頁。</ref>。民族的な出自は[[アルバニア人|アルバニア系]]とも[[トルコ人|トルコ系]]とも[[イラン人|イラン系]]とも[[クルド人|クルド系]]とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である<ref>[[#日本イスラム協会ほか(監修)2002|日本イスラム協会ほか(監修)2002]]、486頁。(加藤博執筆)</ref>。いずれにしても[[欧州]]出身ということになる。父のイブラーヒーム・アーガーは街道の警備を担当する非正規部隊の司令官で、母のハドラはカヴァラ市長官の親戚であった<ref name="yamaguchi2006-26"/>。幼い頃に父を失ったムハンマド・アリーは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ<ref name="iwanaga1984-32">[[#岩永1984|岩永1984]]、32頁。</ref>。前半生は多分に伝説的で、ムハンマド・アリーがこの時期の自分自身について言及することはなかった<ref>[[#坂本・鈴木(編)1993|坂本・鈴木(編)1993]]、79頁。</ref>。岩永博によると、「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも存在する<ref name="iwanaga1984-32"/>。
 
 
 
=== エジプト・シリア戦役、カイロ暴動を経てエジプト総督に就任 ===
 
[[1798年]]、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した([[エジプト・シリア戦役]])<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、23-27頁。</ref>。エジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、27-28頁。</ref><ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、33頁。</ref>。
 
 
 
遡ってフランス軍の侵入以前、[[18世紀]]エジプトでは[[マムルーク]]たちがエジプト総督([[ワーリー]])を差し置いて政治の実権を掌握し、オスマン帝国からの独立を宣言するマムルークも現れていた。18世紀後半にはマムルークの派閥抗争に支配権回復を図るオスマン帝国の巻き返しが絡む権力闘争が展開され、エジプトの政治情勢は混迷を極めた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、18-21頁。</ref>。イギリス軍がフランス軍を破り、さらに両国の間に講和条約([[アミアンの和約]])が結ばれイギリス軍がエジプトから撤退([[1803年]]3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた([[カイロ暴動]])<ref>[[#山口2006|山口2006]]、28-29 頁。</ref>。カイロ暴動の最中の[[1803年]]5月、アルバニア人非正規部隊の司令官ターヘル・パシャが暗殺され、ムハンマド・アリーが後任の司令官に就任した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、29頁。</ref>。これをきっかけに、ムハンマド・アリーはエジプトにおける権力闘争に割って入った。ムハンマド・アリーはまず、マムルークと協力してオスマン帝国が任命した総督を無力化し、次にマムルーク内の派閥抗争を利用しつつカイロ周辺からマムルーク勢力を排除した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、36-39頁。</ref>。さらに自らがエジプト総督に推したアフマド・フルシド・パシャと対立すると総督に対するカイロ市民の不満を巧みに自身への支持に繋げ、[[1805年]]5月には[[ウラマー]](宗教指導者)たちから新総督への推挙を受けることに成功した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、39-41頁。</ref>。ムハンマド・アリーが市民の支持を背景に新総督への就任を宣言すると、オスマン帝国政府もこれを追認せざるを得なくなった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、29-30 頁。</ref><ref name="suzukisakamoto1993-80">[[#坂本・鈴木(編)1993|坂本・鈴木(編)1993]]、80頁。</ref><ref name="mutaguchi1992-252">[[#牟田口1992|牟田口1992]]、252頁。</ref>。ムハンマド・アリーが数年のうちにアルバニア人非正規部隊の司令官からエジプト総督まで登りつめた過程について、フランスの総領事{{仮リンク|ベルナルディーノ・ドロヴェティー|en|Bernardino Drovetti}}は次のように評した。
 
 
 
{{Quotation|構想力あるアルバニア人指導者の措置は、戦闘をせず、スルタンを個人的に怒らせないで、カイロのパシャとなることを狙っていたように私にはみえた。あらゆる行動は[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェリ]]的精神を顕している。私は実際かれらがあらゆるトルコ人より強い頭脳をもっていると考えた。かれはシャイフ達や民衆の支持によって権力をえ、かれが入手できる地位をスルタン政府も進んで認めざるをえないようにしようと狙っている、と思えた。|[[#岩永1984|岩永1984]]、43頁。}}
 
 
 
加藤博は、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をもって独立王朝[[ムハンマド・アリー朝]]が誕生したとしている<ref name="p53">[[#加藤2006|加藤2006]]、53頁。</ref>{{refnest|name="dokuritsu"|group="†"|ただし国際法上は、エジプトが独立国家となるのは[[1922年]]のことで、[[1914年]]まではオスマン帝国の属州として、1914年から1922年まではイギリスの保護国として扱われた<ref name="p53"/>。}}。
 
 
 
=== 支配基盤の確立 ===
 
エジプト総督に就任したムハンマド・アリーであったが、その支配地域は[[カイロ]]周辺と[[ナイル川デルタ]]の一部に限られ、[[上エジプト]]やナイル川デルタ西部はムハンマド・アリーに敵対するマムルークや遊牧部族などの支配域であった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、46頁。</ref>。また、現状を追認する形でエジプト総督就任を認めたに過ぎないオスマン帝国や、アミアンの和約を破棄しエジプトを対フランス戦の拠点として確保しようとするイギリスは、ムハンマド・アリーの追い落としを画策した。しかし当時の国際状勢はムハンマド・アリーに味方した<ref name="yamaguchi2006-30-31">[[#山口2006|山口2006]]、30-31頁。</ref>。まず[[ナポレオン戦争]]の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった<ref name="yamaguchi2006-30-31"/>。イギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された({{仮リンク|1807年のアレキサンドリア遠征|en|Alexandria expedition of 1807}})<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、47-48頁。</ref>。4月に[[ロゼッタ (エジプト)|ロゼッタ]]近郊の{{仮リンク|アル・ハミード|en|Al Hamed}}で行われた戦闘([[アル・ハミードの戦い]])でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「[[アフガン戦争#第一次アフガン戦争|第一次アフガン戦争]]と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる<ref>[[#山口2006|山口2006]]、30頁。</ref>。ムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。その後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、48・75頁。</ref>。オスマン帝国も[[1807年]]から[[1808年]]にかけて[[セリム3世]]と[[ムスタファ4世]]が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった<ref name="yamaguchi2006-30-31"/>。ムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、31-32頁。</ref>。しかしマムルークはムハンマド・アリーに完全に服従したわけではなく、常に反旗を翻す機会をうかがっていた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、48頁。</ref>。
 
 
 
=== 近代化とマムルークの粛清 ===
 
[[ファイル:Masakra mameluków.jpg|thumb|225px|{{仮リンク|シタデルの惨劇|ar|مذبحة القلعة}}]]
 
 
 
[[1811年]]、オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、[[マッカ]]を支配下に置くなど[[アラビア半島]]のほぼ全域を支配下に置き[[シリア]]や[[イラク]]にも勢力を拡大しつつあった[[第一次サウード王国]]を攻撃するよう要請した。ムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとは言い難いマムルークの反乱を煽り自身を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し、後顧の憂いを断つべく苛烈な手法を用いてマムルークを粛清することを決意した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、32-33頁。</ref>。[[3月11日]]、次男[[アフマド・トゥーソン]]のアラビア遠征軍司令官任命式を執り行うという名目で有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する({{仮リンク|シタデルの惨劇|ar|مذبحة القلعة}})と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、[[1812年]]までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除することに成功した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、32-34頁。</ref>。山口直彦は、マムルーク粛清に成功したことによりムハンマド・アリーのエジプトにおける支配権は確固たるものとなり、実質的に独立王朝ムハンマド・アリー朝が成立したとしている<ref name="dokuritsu" group="†"/>。以後、ムハンマド・アリーは近代化政策を推し進め、国力の増強を図っていくことになる<ref>[[#山口2006|山口2006]]、37頁。</ref>。後年、ムハンマド・アリーはマムルーク粛清について問われると、次のように答えたという。
 
 
 
{{Quotation|私は、あの時期を好まない。あのような状況に私はいやおうなく追い込まれてしまったのであり、いつ果てるとも知らぬ戦いと悲惨、策略と流血について、今さら語ったところで何になろう。私個人の歴史は、私があらゆる束縛から解放され、この国を長い眠りからめざめさせることができた時、初めて開始された。|[[#牟田口1992|牟田口1992]]、259頁。}}
 
 
 
=== アラビアおよびスーダンへの遠征 ===
 
[[1811年]]3月、アフマド・トゥーソンを司令官とするアラビア遠征軍約1万が出陣した。遠征軍は[[ヒジャーズ]]北部[[ヤンブー]]に上陸すると苦戦の末、[[1813年]]までに[[マディーナ]]、マッカ、[[ジッダ]]の攻略に成功。その後本陣が襲撃され敗走を余儀なくされるなど劣勢に立たされたが、[[1814年]]に第一次サウード王国内部で後継争いが起こったことにより戦況は好転し、[[1818年]]9月に1万人の戦死者を出した末に首都[[ダルイーヤ]]を陥落させたことでアラビア遠征は終結した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、67-71頁。</ref>。なお、アフマド・トゥーソンは[[1816年]]2月に病死し、司令官は長男[[イブラーヒーム・パシャ]]が引き継いだ。戦後、イブラーヒーム・パシャはヒジャーズと[[エチオピア|アビシニア]]の総督に任命された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、69・71頁。</ref>。
 
 
 
アラビア遠征の結果マッカを領有するようになったムハンマド・アリーは、一部から「[[カアバ]]を領有し、防衛する者がイスラム教徒の真の首長である」と支持されるようになる<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、128頁。</ref>など一定の名声と宗教的権威を獲得したが、一方で国力は大きく疲弊した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、71頁。</ref>。ムハンマド・アリーは国力を増強するために[[スーダン]]を支配下に置いて[[奴隷貿易]]の権益や資源を得ようと軍を派遣したが、実際に獲得できたものは払った犠牲に見合うものではなかった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、71-73頁。</ref>。遠征軍の総司令官であった三男イスマイルは地元部族の反乱に遭って殺害され、その報復として[[センナール]]の住民3万を虐殺したところさらなる反乱を招いた。[[1820年]]に出陣した遠征軍が反乱の鎮圧に成功したのは[[1826年]]のことである<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、73頁。</ref>。ムハンマド・アリーがスーダンに中央集権的な制度を導入したことはスーダン人の民族意識形成を促した。ムハンマド・アリー死後の1881年、エジプトで[[ウラービー革命]]が起こるとそれに呼応する形でスーダンで[[マフディー戦争]]が起こった<ref>[[#坂本・鈴木(編)1993|坂本・鈴木(編)1993]]、107-108頁。</ref>。
 
 
 
この時期のエジプト軍は様々な人種・部族の傭兵による混成部隊から成り立っており、指揮系統や軍備が統一されていなかった。ムハンマド・アリーはフランスを模範とする近代的な軍隊の創設を目指し、軍事改革を断行。[[1822年]]に農民に対する[[徴兵制]]を導入して陸軍の増強を図り、さらに艦艇の建造を推し進め海軍力の充実を図った<ref>[[#山口2006|山口2006]]、37-41頁。</ref>。こうして創設された近代式軍隊ニザーム・ジェディトは[[1823年]]にアラビア半島で起こった[[ワッハーブ派]]による反乱を鎮圧して以降、各地の戦いで実力を示した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、41-42頁。</ref>。
 
 
 
=== ギリシャ独立戦争 ===
 
{{See also|ギリシャ独立戦争}}
 
[[ファイル:Ibrahim in Peloponese.JPG|thumb|right|300px|モレア地方に上陸したイブラーヒーム・パシャ軍]]
 
[[1822年]]、オスマン帝国からの要請により[[ギリシャ独立戦争]]に参戦。もともとムハンマド・アリーは、カイロや[[アレクサンドリア]]で革命組織が結成されアレクサンドリアから義勇兵が出港するのを黙認するなど反乱に厳しく対処していたわけではなかったが<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、71-73頁。</ref>、アラビア遠征に続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、62頁。</ref>。
 
 
 
エジプト軍は[[1824年]]に[[クレタ島]]、[[カソス島]]、[[カルパソス島]]を制圧。次いでギリシア本土の制圧を命じられたが、この頃からムハンマド・アリーにはただ単にオスマン帝国の命令に従うのではなく、この戦争を近代式軍隊ニザーム・ジェディトの実力を試し、国際社会、イスラム社会における存在感を高める好機ととらえるようになった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、83-84頁。</ref>。ムハンマド・アリーにはさらに、モレア地方([[ペロポネソス半島]])を領有し東地中海における貿易権を獲得しようという目論みを抱くようにもなった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、46頁。</ref>。1824年7月、アレクサンドリアから海路モレア地方上陸を目指したエジプト軍は、反乱軍の艦隊に苦戦しながらも翌[[1825年]]1月に上陸に成功するとイブラーヒーム・パシャの指揮のもと陸上戦を優位に進め、[[ナヴァリノ]](現[[ピュロス (ギリシャ)|ピュロス]]付近)、[[トリポリツァ]]、[[ミソロンギ]]、[[アテネ]]などを制圧した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、84-88頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは単に武力を用いて反乱を鎮圧するのではなく、外交を駆使して自国に有利な状況を作り出そうとしていた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、90頁。</ref>。[[1826年]]9月、ムハンマド・アリーはアレクサンドリア駐在のイギリス総領事{{仮リンク|ヘンリー・ソールト|en|Henry Salt (Egyptologist)}}に対し、海軍力の増強とアラビア方面への勢力拡大を認めることと引き換えにギリシアからの撤退を打診した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、91-92頁。</ref>。この時、ソールトはムハンマド・アリーの真意を以下のように推し量っている。
 
 
 
{{Quotation|ムハンマド・アリーは心中で、かれの独立についての総括的保障をイギリス政府から得、トルコ政府と対抗できるようになることを望んでいるが、直接それに言及することを避けているように思えた。|[[#岩永1984|岩永1984]]、91-92頁。}}
 
 
 
[[ファイル:Russians at navarino.jpg|thumb|right|220px|ナヴァリノの海戦]]
 
イギリスとの交渉に際しムハンマド・アリーは、ギリシアでの軍事行動を抑制し、オスマン帝国や反乱鎮圧を支持する[[オーストリア]]を苛立たせた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、92頁。</ref>。オーストリアはムハンマド・アリーのもとに使者を送り、イギリスはエジプトに対し好意を抱いてはおらず、弱体化を望んでいると説いたが、ムハンマド・アリーはイギリスとの関係を重視する姿勢を崩さなかった<ref name="iwanaga1984-92-93">[[#岩永1984|岩永1984]]、92-93頁。</ref>。オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し戦争の全指揮権を委ねることを打診した。ムハンマド・アリーはこれを辞退したがオスマン帝国側がかつてのエジプト総督でムハンマド・アリーによって追放された<ref>[[#山口2006|山口2006]]、43頁。</ref>、ムハンマド・アリーの仇敵ともいえる<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、93頁。</ref>ヒュスレヴ・パシャ(フスロー・パシャ)をオスマン帝国海軍司令官から解任した上で改めて要請すると、受け入れざるを得なくなった<ref name="iwanaga1984-92-93"/>。[[1827年]][[7月6日]]、イギリス・フランス・ロシアは「休戦をもたらすために共同で努力する」旨の協定を結び、オスマン帝国側が停戦要求に応じない場合は[[海上封鎖]]を行いエジプト軍の補給路を断つことで合意した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、89頁。</ref>。ムハンマド・アリーは軍事行動の開始を引き伸ばしてイギリスとの交渉を続けたが、期待に反し[[1827年]][[8月8日]]、イギリス側はムハンマド・アリーの要求に応えることなく、ギリシアへ軍隊を派遣し強力な干渉を行うことを予告した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、93-95頁。</ref>。岩永博は、イギリスがムハンマド・アリーの期待を裏切った原因として、ギリシャ独立戦争においてエジプト軍が行った虐殺や捕虜虐待に対する非難が西欧社会で湧き起こっていたことを指摘している<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、93-95頁。</ref>。
 
 
 
イギリスとの交渉が決裂する2日前の[[8月6日]]、これ以上出兵を引き延ばせないと判断したムハンマド・アリーはアレクサンドリアから海軍を出撃させた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、94頁。</ref>。これに対しイギリス・フランス海軍も休戦を求め恣意行動を開始し、[[10月13日]]にはロシアの艦隊も合流した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、99頁。</ref>。[[10月20日]]、ナヴァリノ湾においてオスマン帝国海軍が発砲したのをきっかけに戦闘となり、オスマン帝国およびエジプト海軍は艦船の4分の3を失う大敗を喫した([[ナヴァリノの海戦]])。この戦いでエジプト海軍は壊滅し、さらにその後行われた海上封鎖により補給路を断たれたことで陸軍の半分を飢餓で失った<ref>[[#山口2006|山口2006]]、46-47頁。</ref>。ギリシャ独立戦争参戦はエジプトに多大な社会的、経済的損失をもたらすこととなった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、47頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは、事態を楽観視した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、42頁。</ref>挙句3か国の介入に対し「狂信的・短絡的」に反発した「豚頭のスルタン」と「驢馬のような宰相」<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、78-79頁。</ref>の愚鈍さが敗戦を招いたと認識し、オスマン帝国からの完全な独立を決意するに至った<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、101頁。</ref>。
 
 
 
=== 第一次エジプト・トルコ戦争 ===
 
[[ファイル:IbrahimBaja.jpg|thumb|160px|left|エジプト・トルコ戦争で指揮官として活躍した長男イブラーヒーム・パシャ]]
 
{{See also|エジプト・トルコ戦争#第一次エジプト・トルコ戦争}}
 
====開戦経緯====
 
ギリシャ独立戦争終結後、ムハンマド・アリーは戦前にオスマン帝国が参戦の対価として提示していたシリア([[シリア属州]])総督の地位を要求した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、47頁。</ref><ref name="iwanaga1984-110">[[#岩永1984|岩永1984]]、110頁。</ref>。しかしギリシャ独立戦争に続き1828年の[[露土戦争 (1828年)|露土戦争]]でロシアに敗れ莫大な損失を被っていたオスマン帝国<ref>[[#山口2006|山口2006]]、47頁。</ref>は、ギリシャ独立戦争に敗れた以上約束は無効と主張して拒否した<ref name="iwanaga1984-110"/>。この時点でムハンマド・アリーはオスマン帝国側に無断でギリシャから軍を撤退させており、さらに露土戦争において援軍を送ることを拒んでいた。オスマン帝国のスルタン[[マフムト2世]]はムハンマド・アリーのこうした動きに不満を抱いていた<ref>[[#山内1996|山内1996]]、141頁。</ref>。
 
 
 
====開戦====
 
シリア要求を拒否されたことで、ムハンマド・アリーはシリア侵攻を決意する<ref name="iwanaga1984-110"/>。ムハンマド・アリーには、シリアを領有することでヨーロッパ諸国に対抗しようとする狙いと、当時政治情勢が混迷し治安状態が極めて悪かったシリアに秩序をもたらすのは自分であるという自信と志とがあった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、110-113頁。</ref>。侵攻に備え経済・軍備の立て直しを急ピッチで進めた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、47-48頁。</ref>ムハンマド・アリーは[[1831年]]10月、徴兵を逃れたエジプトの農民を庇護していた[[アッコ]]の知事に懲罰を加えるという口実でイブラーヒーム・パシャ率いる軍勢を差し向けた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、114頁。</ref>。エジプト軍は8か月で[[アッコ]]、[[ダマスカス]]、[[アレッポ]]などシリア全域を制圧するとそのまま[[トロス山脈]]を超えて[[アナトリア半島]]に侵攻し、[[1833年]]2月2日、[[コンスタンティノープル]]の南方385kmの都市[[キュタヒヤ]]を占領した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、48-55頁。</ref>。イブラーヒーム・パシャは進軍を続けマフムト2世を廃位に追い込むつもりであったが、ムハンマド・アリーは他国の反応を気にかけ、進軍を止めるよう指示した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、116頁。</ref>。
 
 
 
オスマン帝国はロシアに救援を求め、これに応じたロシア軍が[[ボスポラス海峡]]に布陣。これを見てロシアの勢力拡大を嫌うイギリスとフランスが調停に乗り出し、1833年[[3月29日]]にキュタヒヤ休戦協定が成立した。この協定によりエジプトはシリア・[[アダナ]]・クレタ島の領有を勝ち取り、ギリシャ独立戦争以来の念願であった東地中海における貿易権の獲得に成功した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、55-57頁。</ref>。また、アラブ文化の中心地であるカイロとダマスカスをともに領有するムハンマド・アリーに対し、アラビア語圏全域にわたる王国を樹立し、オスマン帝国を「ロシアの魔手」から救うことを期待する機運も一部に生まれた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、128-129頁。</ref>。とはいえキュタヒヤ休戦協定によって認められた領有権はオスマン帝国によって一年ごとに更新される性質のものであったため、更新を拒絶される危険が残された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、124頁。</ref>。また、イギリスはこの戦争を境にムハンマド・アリーに対し警戒感と不満を抱くようになった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、124-125頁。</ref>。イギリスはムハンマド・アリーの目的について「アラビア王国」の樹立にあると分析したが、それはオスマン帝国の勢力維持を望むイギリスの外交方針と相反するものであった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、124頁。</ref>。イギリスは輸出市場とインドへの通商路を確保するためにオスマン帝国の勢力維持を望んでいたのである<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、126-127頁。</ref>。やがてイギリスはムハンマド・アリーを「イギリスの外交原理に対する障害以外の何ものでもない」とみなすようになっていく<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、166頁。</ref>。また、ムハンマド・アリーの軍事行動が引き金となってオスマン帝国がロシアに接近して軍事同盟を結んだ上、ロシアにのみ[[ダーダネルス海峡]]の航行を認める内容の秘密条約([[ウンキャル・スケレッシ条約]])を締結したことは、18世紀以来一貫してロシアの[[南下政策]]を阻止しようとしてきたイギリスにとって外交上の大きな打撃となったが、これに関するイギリスの不満の矛先はムハンマド・アリーに向けられた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、123-125頁。</ref>。イギリスからの支持を取りつけたいというムハンマド・アリーの願いは「およそ成り立ちがたいもの」となった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、124頁。</ref>。
 
 
 
第一次エジプト・トルコ戦争終結後の[[1833年]]、アレクサンドリア駐在のイギリス総領事キャンベルはイギリス政府への報告において、ムハンマド・アリーを「法的にはスルタンの臣下であるが、実際には独立している。かれは自らスルタンの家臣で、臣民であると言明しているが、そうでないと認められることを誰よりも望んでいるかにみえる……。」と評した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、127頁。</ref>。またフランスは、キュタヒヤ休戦協定締結へ向けた調停を行った際、特命公使をアレクサンドリアに派遣し、ムハンマド・アリーがオスマン帝国から名実ともに独立することを支持する姿勢を見せた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、121-122頁。</ref>。
 
 
 
=== イギリスとの対立 ===
 
[[ファイル:Arabian Peninsula dust SeaWiFS-2.jpg|thumb|right|180px|ムハンマド・アリーはユーフラテス川流域、バーレーン、アデンを巡りイギリスと対立した]]
 
第一次エジプト・トルコ戦争の後、ムハンマド・アリーは各地でイギリスと対立するようになった。イギリスは[[蒸気船]]の実用化が進むにつれて、ムハンマド・アリーの勢力圏を通らずに地中海から[[インド洋]]に至るための経路として[[ユーフラテス川]]を重要視するようになったが、[[1834年]]に[[イギリス東インド会社]]がユーフラテス川を調査する動きを見せたことにムハンマド・アリーは反発し、調査を許可しないよう命じるとともに中流域の要衝であるデールを占領して調査・開発の進行を阻んだ<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、131-132頁。</ref>。
 
 
 
アラビア半島では、1818年のダルイーヤ陥落後一度は放棄していた奥地を再び占領下に置き、[[1839年]]には勢力圏を[[ペルシア湾]]岸にまで伸ばした。この時エジプト軍の司令官はイギリス海軍の提督に対し、当時イギリスが勢力下に置いていた[[バーレーン]]を武力をもって制圧する準備があると告げた。この件ではイギリス側の反発を受けてムハンマド・アリーが譲歩し、バーレーンへ侵攻しないよう軍に命令を出した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、132-134頁。</ref>。
 
 
 
イエメンではイギリスが、ムハンマド・アリーの機先を制する形で[[1839年]]1月にアデンを占領した。これによりムハンマド・アリーは[[モカ]]を抑えることで独占していたコーヒー貿易の利権をイギリスに奪われた上、[[紅海]]およびインド洋に対する政治的経済的影響力を失うこととなった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、134-139頁。</ref>。
 
 
 
エジプトの支配がペルシア湾岸の{{仮リンク|アル・ハサー|en|Al-Hasa}}地方、[[紅海]]沿岸の[[ティハーマ]]地方に及んだことはインドへの交易路としてペルシャ湾、紅海を重視するイギリスの政策に直接の影響を及ぼした<ref>[[#山口2006|山口2006]]、59頁。</ref>。さらにイギリスは中東地域を綿製品の有力な市場とみなしていたことから、イギリスからの綿製品輸入を規制し、繊維産業の国有化と製品の[[専売制]]を敷くムハンマド・アリーの存在を「国益に対する明らかな脅威」とみなすようになった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、60-62頁。</ref>。
 
 
 
=== シリア統治 ===
 
シリアには伝統的に宗教間宗派間の対立が激しく、紛争が絶えなかった。また封建的領主が幅を利かせ、地方行政の担い手が入札によって決められていたこともあって政治・行政の秩序は大いに乱れていた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、152-154頁。</ref>。さらに辺境地域では砂漠地帯の遊牧部族やワッハーブ派が治安を乱し<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、153-154頁。</ref>、治外法権をもつヨーロッパ諸国の商人や領事は特権を悪用して私腹を肥やし、税秩序を乱していた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、154-155頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーはシリア社会の腐敗を是正しようと、シリア総督に就任したイブラーヒーム・パシャを通じ、強力な軍事警察力を背景とした武断的改革を実行しようとした。その結果地租収入が適正化の兆しを見せるなど改革は行政分野において一定の成果を収めたが、軍事力強化のために行われた戦時臨時税の徴収や労働力の徴用・食料の徴発は反発を招いた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、155-158頁。</ref>。さらにキリスト教徒やユダヤ教徒の地位を向上させようとしたことに対し、イスラム宗教界は激しく反発した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、158-159頁。</ref>。イブラーヒームがアラブ人を重用しようとしたことも、アラブ人と同視されることを嫌うシリア人の反感を買った。シリア人はムハンマド・アリーに対し面従腹背したに過ぎなかった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、159-161頁。</ref>。さらにイブラーヒームが強圧的な徴兵制を実施しようとしたことは、ローマ帝国の統治下にあった頃より兵役に就かず傭兵に頼ってきたシリア人の拒絶を招いただけでなく、人道的な観点からヨーロッパ諸国の反発を招いた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、161-163頁。</ref>。
 
 
 
1838年、イスラム教[[ドゥルーズ派]]による大規模な反乱が起こるとオスマン帝国はこれに乗じる動きを見せ<ref>[[#山口2006|山口2006]]、63頁。</ref>、反乱を煽った<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、172頁。</ref>。
 
 
 
=== 第二次エジプト・トルコ戦争 ===
 
[[ファイル:Palmerston.jpg|thumb|150px|1830年から1841年にかけてイギリスの外務大臣を務めたパーマストン]]
 
{{See also|エジプト・トルコ戦争#第二次エジプト・トルコ戦争}}
 
 
 
====開戦まで====
 
オスマン帝国スルタンのマフムト2世は、第一次エジプト・トルコ戦争によってシリアを奪い自らの権威を傷つけたムハンマド・アリーを激しく憎悪し、復讐戦を起こすべくロシアや[[プロイセン王国]]の支援を受けて軍事力の強化に取り組んだ<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、125・130頁。</ref>。ロシアはマフムト2世をけしかけてエジプト軍との戦いに大敗させ、援軍をオスマン帝国領内に進出させようと目論んでいた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、171頁。</ref>。1837年、オスマン帝国は51個の連隊を新たに編成。これに対しシリア総督に就任していたイブラーヒーム・パシャもオスマン帝国との国境に軍隊を集結させ、両者の間に緊張が高まった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、165頁。</ref>。1838年にオスマン帝国との間に通商協定を結んだイギリスは、以前にもましてオスマン帝国擁護の姿勢をとるようになり、オスマン帝国領内への侵攻はもちろんオスマン帝国を脅かす規模の軍隊を保持することにも警告を発するようになった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、166-167頁。</ref>。イギリスの外務大臣[[パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル|パーマストン]]はムハンマド・アリーをマフムト2世の臣下に過ぎないと認識し、「オスマン帝国はいつでもムハンマド・アリーの支配地を回収する権利を持つ」、「ムハンマド・アリーがオスマン帝国との戦争に備える事は不法で反逆的である」と解釈していた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、165-166頁。</ref>。パーマストンは1839年、国策要領の中で「ムハンマド・アリーがシリアを返還し、エジプトに撤兵してオスマン帝国との間に非武装地帯が設けられるまで、『ヨーロッパの平和を脅かす危険は終息しない』」とする見解を述べている<ref>[[#山内1996|山内1996]]、145頁。</ref>。一方、フランスはムハンマド・アリーに好意的{{refnest|group="†"|フランスはムハンマド・アリーの完全な独立を望んだわけではなかったが、現役の軍人を含む多くのフランス人が雇用されていたエジプトを潜在的な同盟国とみなしていた<ref>[[#山内1996|山内1996]]、150頁。</ref>。}}で、ムハンマド・アリーが終身総督権を得られるよう両者の仲介を試みたが、交渉は物別れに終わった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、167-168頁。</ref>。
 
 
 
[[1838年]][[5月25日]]、ムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、62-63頁。</ref>。エジプトで活動するイギリスやフランスの商人から自らの統治体制に対する支持を得ていた事がこの決断を後押しする要因の一つとなったが<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、169頁。</ref>、この独立宣言はムハンマド・アリーに好意的であったフランスを含む欧米諸国の反発を買い撤回された<ref name="yamaguchi2006-63">[[#山口2006|山口2006]]、63頁。</ref>。
 
 
 
====オスマン帝国への攻勢====
 
[[1839年]]4月、肺結核のため死に瀕していたマフムト2世はオスマン帝国軍8万をシリアに侵攻させた<ref name="yamaguchi2006-63"/>。ムハンマド・アリーは当初ヨーロッパ諸国の介入を警戒しイブラーヒーム・パシャに自制するよう命じていた<ref name="yamaguchi2006-63"/>がやがて迎撃に転じた。6月24日、イブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍は現在の[[トルコ共和国]][[ガズィアンテプ]]付近でオスマン帝国軍を撃破し、1万4000人を捕虜にした<ref>[[#山口2006|山口2006]]、63-64頁。</ref>。さらにマフムト2世が[[7月1日]]に病死し、[[アブデュルメジト1世]]が跡を継いだ直後の[[7月7日]]、オスマン帝国海軍大提督[[アフメット・フェウズィ・パシャ]](アフマッド・ムシル)が指揮下の全艦隊を率いてムハンマド・アリーに降伏した。確執のあるヒュスレヴ・パシャがアブデュルメジト1世のもと新宰相に就任したことを、アフメット・フェウズィ・パシャが嫌ったのが原因の一つと言われている<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、173頁。</ref>。窮地に立たされたオスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、全支配地域における統治権の世襲を認める構えを見せた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、173-174頁。</ref><ref>[[#山内1996|山内1996]]、149-150頁。</ref>。
 
 
 
====列強の介入と敗北====
 
[[ファイル:RecepcionMehmetAli.jpg|thumb|left|250px|アレクサンドリアにおいて第二次エジプト・トルコ戦争の降伏交渉を行うムハンマド・アリー]]
 
エジプトがトルコを圧倒する事態に、ついにイギリスが介入した。[[7月27日]]にオスマン帝国に対し、フランス・プロイセン・ロシア・オーストリアとともにヨーロッパ諸国との事前協議なしにエジプトと妥協しないよう申し入れると、親エジプトのフランスを外交的に孤立させた上で翌[[1840年]][[7月15日]]、プロイセン、ロシア、オーストリアと[[ロンドン条約 (1840年)|ロンドン条約]]を締結。第二次エジプト・トルコ戦争での占領地の他、過去に占領したスーダンを除く領土(シリア、クレタ、[[アダナ]]、アラビア)の放棄と、7月に降伏したオスマン帝国艦隊の返還を要求した<ref name="yamaguchi2006-65">[[#山口2006|山口2006]]、65頁。</ref>。オスマン帝国はこの動きをみて方針を転換し、[[8月16日]]にエジプト軍の撤退を要求する[[最後通牒]]を出した<ref name="yamaguchi2006-65"/>。ムハンマド・アリーはフランスの援護を期待しつつ拒絶する構えを見せたが、最後通告の期限が切れた9月16日にイギリス軍はオーストリア軍、オスマン帝国軍とともに[[ベイルート]]に上陸し、シリア沿岸の都市を陥落させていった。フランスの支援は声明にとどまり、フランス海軍がイギリス海軍をけん制するために出撃するというムハンマド・アリーの期待は裏切られた。シリア駐留のエジプト軍は6万の兵力を2万まで失った末にカイロへ撤退した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、65-67頁。</ref>。[[11月15日]]、{{仮リンク|チャールズ・ネイピア (イギリス海軍)|label=チャールズ・ネイピア|en|Charles John Napier}}率いるイギリス艦隊がアレクサンドリアに現れると、ムハンマド・アリーは降伏を余儀なくされた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、182-183頁。</ref><ref>[[#山口2006|山口2006]]、67頁。</ref>。第二次エジプト・トルコ戦争の敗戦について山口直彦は、総督職の世襲を実現しようとするムハンマド・アリーの焦りと、それまでの成功経験への過信<ref name="yamaguchi2006-68">[[#山口2006|山口2006]]、68頁。</ref>が、ついに「英国という強大なイギリスの虎の尾を踏」む結果を招いたと指摘する<ref>[[#山口2006|山口2006]]、65頁。</ref>。歴史学者の[[山内昌之]]は、「フランスを除くイギリスなど4大国から受ける敵意を、かれが過小評価したのは驚くばかりであった」と述べている<ref>[[#山内1996|山内1996]]、156頁。</ref>。
 
 
 
====降伏とムハンマド・アリー朝の成立====
 
第二次エジプト・トルコ戦争に敗北し、降伏交渉が完了したのは1841年6月のことであった。エジプトは領土の多くを失い、最盛期に15万以上の規模を誇った軍隊は1万8000万に削減され、海軍艦艇の建造および将軍以上の軍人の任命にはオスマン帝国の承認を得なければならなくなり、主要生産品の政府独占および専売制は廃止され、定率の関税、および治外法権を認めさせられるなど国力は大きく衰退した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、67-68頁。</ref>。その一方、オスマン帝国の宗主権のもとムハンマド・アリー家のエジプトおよびスーダンにおける総督職の世襲が認められ<ref name="yamaguchi2006-68"/>、エジプトは形式的には引き続きオスマン帝国の統治下に置かれるものの、実質的には本国政府から独立した行政権を行使できるようになった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、183頁。</ref>。山口直彦は、これをもって正式に[[ムハンマド・アリー朝]]が成立したとする<ref name="yamaguchi2006-68"/><ref name="dokuritsu" group="†"/>。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
[[ファイル:Mosquee_mehemet_ali_le_caire.jpg|thumb|200px|ムハンマド・アリー・モスク(カイロ)]]
 
第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後、ムハンマド・アリーは一時精神的に不安定な状態に陥りながらも引き続き政務を執った<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、218-221頁。</ref>が、[[1847年]]頃に老衰の兆しがみられるようになり<ref name="iwanaga1984-222">[[#岩永1984|岩永1984]]、222頁。</ref>、[[1848年]][[4月5日]]に総督の地位を長男イブラーヒーム・パシャに譲った<ref name="iwanaga1984-222"/><ref>[[#山口2006|山口2006]]、105頁。</ref>。しかしイブラーヒーム・パシャは同年[[11月20日]]に結核により死去<ref>[[#山口2006|山口2006]]、105頁。</ref>。その跡を継いだのは次男アフマド・トゥーソンの子[[アッバース・パシャ]]であった{{refnest|group="†"|オスマン帝国スルタンの詔勅により、一族の中で最年長の男子が総督の地位を継ぐことになっていた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、109頁。</ref>。}}。実孫アッバース・パシャに対するムハンマド・アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム・パシャの死を知ったムハンマド・アリーは「これでアッバース・ヒルミがあとを継ぐことになるのか。我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。実際にアッバース・パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、109-111頁。</ref>。
 
 
 
[[1849年]][[8月2日]]、アレクサンドリアで死去。遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された<ref>[[#山口2006|山口2006]]、108-109頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーの生涯について、エジプトの経済学者ガラール・アミーンは、「強力な独立の工業国家建設策を超大国に認められず、……軍事的敗北に続いて門戸開放政策をとるように強制され、外国資本によって操作される政治的・経済的圧迫に屈せざるを得なかった」点において、第2代エジプト共和国大統領[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]の生涯と共通する部分があると指摘している<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、17頁。</ref>。山口直彦は、「ヨーロッパ列強と中東の旧秩序に軍事力で挑み、そして敗れたムハンマド・アリの姿は敗戦までの日本を想い起こさせる」と評している<ref name="yamaguchi2006-68"/>。山内昌之は、「西欧による侵略と分割の脅威に直面して政治をリアリズムの観点から見すえ」る事を余儀なくされながら、片やオスマン帝国、片や江戸幕府による統治が手詰まりに陥った状況を打開すべく、「産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化を図った点」が[[薩摩藩]]の第11代藩主[[島津斉彬]]と共通すると指摘している<ref>[[#山内1996|山内1996]]、192頁。</ref>。歴史学者の牟田口義郎は、「エジプトのほか、一時的ながらシリアも領有し、アラビアを2度征服して、以後150年続く王朝を開いた点では、かの風雲児、[[バイバルス]]に匹敵されよう」と評している<ref name="mutaguchi1992-252"/>。
 
 
 
歴史学者の{{仮リンク|フィリップ・ヒッティ|en|Philip Khuri Hitti}}は、ムハンマド・アリーの生涯を次のように評している。
 
{{Quotation|19世紀前半のエジプトの歴史は、事実上、このひとりの男の物語である。|[[#山口2006|山口2006]]、103-104頁。}}
 
 
 
== 政策 ==
 
[[ファイル:Muhammad Ali Dynasty portrait.jpg|thumb|280px|総督府で執務中のムハンマド・アリー]]
 
=== 総論 ===
 
ムハンマド・アリーは国政の様々な部門で改革・近代化を推し進めた。行政・財政・税制分野における改革の結果、政府の歳入は大幅に増加した{{refnest|group="†"|山口直彦によると1833年の政府の歳入は1798年の15倍以上に増加し、フランス領事によって「エジプトの歳入はフランスとほぼ肩を並べるまでになった」と評された<ref name="p79">[[#山口2006|山口2006]]、79頁。</ref>。}}。岩永博はムハンマド・アリーの経済政策の目的について、「生産を増大し通商を強化して財政収入を拡大し、強大な軍隊を編成して領土的発展を図る」ことにあったと分析している<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、213頁。</ref>。山口直彦によると領土拡大はそれ自体が目的なのではなく、「国内産業のための市場と原材料供給源の獲得や紅海、東地中海における通商ルートの確保という冷静な経済的打算に裏付けられていた」<ref>[[#山口2006|山口2006]]、98-99頁。</ref>。山口はムハンマド・アリーを当時の中東には珍しい「経済のわかる指導者」、「商人の才覚を持つ政治家」であったと評している<ref name="yanaguchi2006-99">[[#山口2006|山口2006]]、99頁。</ref>。歳入は様々な分野における近代化政策推進のために用いられた<ref name="p79"/><ref>[[#加藤2006|加藤2006]]、54頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーの実施した政策について山口直彦は、「日本の[[明治維新]]や清の[[洋務運動]]、さらには現在の開発途上国の経済自立・工業化政策を先取りする画期的な試みであった」と評している<ref>[[#山口2006|山口2006]]、71頁。</ref>。加藤博は「迫り来る西欧列強の進出のなかで非西欧世界が自立的な近代国家建設を目指した、最も早い試みの一つであった」と評している<ref>[[#加藤2006|加藤2006]]、58頁。</ref>。さらに加藤<ref name="suzukisakamoto1993-80"/><ref>[[#加藤2006|加藤2006]]、55頁。</ref>や牟田口義郎<ref name="mutaguchi1992-260">[[#牟田口1992|牟田口1992]]、260頁。</ref>も、ムハンマド・アリーの政策は明治維新と同様「[[和魂洋才]]」の精神に基づくものであったと評している。山内昌之は加藤や牟田口と同様の見解に立ちながら、近代的国営工場の経営に失敗した点が明治維新との違いであると指摘している<ref>[[#山内1996|山内1996]]、133頁。</ref>。ムハンマド・アリーの経済政策は、長期的に見ればヨーロッパ経済への従属を招いた<ref name="katou2006-59">[[#加藤2006|加藤2006]]、59頁。</ref>。
 
 
 
増加した歳入が国民の福祉のために用いられることはなく<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、215頁。</ref>、彼らは過重な税負担や兵役、強制的な労役を課された<ref name="katou2006-59"/>。H.A.リブリンは以下のように指摘している。
 
 
 
{{Quotation|ムハンマド・アリーの治下で国民所得は増加したが、農民の生活水準の改善と向上はみられなかった。かれは、しばしば民衆の福祉を口にのぼらせたが、社会的関心を実行に移すときは、民衆への新しい負担と圧殺的搾取を添加するだけに終わった。|[[#岩永1984|岩永1984]]、215-216頁。}}
 
 
 
山内昌之によると「アラブ人でもなくエジプト人でもなく土着の民に愛情の薄かった」ムハンマド・アリーは民生安定の視点に欠けていた<ref>[[#山内1996|山内1996]]、195頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは改革を推進し近代技術の導入を図るため、ヨーロッパを中心とする国外から専門家を招いた。中心となったのは[[フランス人]]や、オスマン帝国内でマイノリティとして扱われていた[[ギリシャ人]]、[[アルメニア人]]、[[シリア人]]キリスト教徒などである<ref>[[#山口2006|山口2006]]、79-81頁。</ref>。主な外国人専門家として、フランス人オクターヴ・ジョゼフ・アンセルム・セーヴ(軍事分野)<ref>[[#山口2006|山口2006]]、39-41頁。</ref>、フランス人の医師アントワン・バルテルミ・クロット(医療・衛生分野)<ref>[[#山口2006|山口2006]]、79-80頁。</ref>、アルメニア人ボゴス・ユスフィアン(通商・外務分野)<ref>[[#山口2006|山口2006]]、80-81頁。</ref>などが挙げられる。同時に留学生をヨーロッパに送り込み、技術を習得させようとした。代表的な人物として、薬学校、砲兵士官学校、外国語学校の運営やヨーロッパの書籍の翻訳を手掛けた[[啓蒙思想|啓蒙思想家]][[リファーア・ライ・アッ・タフターウィー]]、後にアラブ系エジプト人として初の大臣となり教育制度改革に貢献した{{仮リンク|アリ・ムバラク|en|Ali Pasha Mubarak}}などがいる<ref>[[#山口2006|山口2006]]、81-82頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは農作物、工業製品の専売制により巨大な歳入を得た。軍事支出も巨額であったため度々財政難に陥ったが、他国からの[[借款]]に頼ることはなかった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、216-217頁。</ref>。この方針はヨーロッパ諸国による侵略への警戒からであった<ref>[[#坂本・鈴木(編)1993|坂本・鈴木(編)1993]]、81頁。</ref>。岩永博は、「民衆に誅求の負担をかけたとは言いながら、国家の独立性保持の上から貴重な限界を守ったといえる」と評価している<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、217頁。</ref>。山内昌之はムハンマド・アリーの死後、子孫が他国からの借款に頼り「エジプトを破滅のふちに導く原因」を作った事実を指摘し、「ムハンマド・アリーはやはり<英傑>の名にふさわしい」と述べている<ref name="yamauchi1996-132">[[#山内1996|山内1996]]、132頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーの改革は、エジプトに大幅な人口増をもたらし、後のエジプトの発展の基礎を築いたと評される<ref name="yamaguchi2006-95">[[#山口2006|山口2006]]、95頁。</ref>。19世紀初頭の時点で246万人、1821年に253万人余りであった人口は1847年には447万に達した。しかし通商産業、とくに工業分野における政策は、「結果的には総じて失敗に終わった」とも評される<ref name="yamaguchi2006-95"/>。その最大の原因は第二次エジプト・トルコ戦争に敗れエジプトが政治的自立を失ったことに求められる<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、187-188頁。</ref><ref name="yamaguchi2006-96">[[#山口2006|山口2006]]、96頁。</ref>。敗戦によりムハンマド・アリーは、低率の輸入関税を定め専売制を禁止する通商協定の実施を余儀なくされ<ref name="yamaguchi2006-96"/>、ヨーロッパの製品との自由競争にさらされたエジプトの工業は衰退の一途を辿った<ref name="yamaguchi2006-96-97"/>。
 
 
 
ムハンマド・アリーのとった政策は近代的である反面専制的・強圧的な要素も持っていた。イギリス政府、とりわけパーマストンがムハンマド・アリーの政策を前近代的、非民主的ととらえたことは、より近代的な改革を行いつつあったオスマン帝国を支持する一因となった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、100-101頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーが実施した改革のうち、中央集権化は18世紀のマムルーク指導者{{仮リンク|アリ・ベイ|en|Ali Bey Al-Kabir}}が、軍隊の近代化はオスマン帝国のスルタン[[セリム3世]]が、税制改革や産業振興策はフランス占領軍がすでに構想ないし実行していたものである。山口直彦は、ムハンマド・アリーの政治家としての優れた点は「先人の様々な試みを取捨選択し、エジプトの、そしてその時代の実情に合うようにうまく適応した」点にあると述べている<ref name="yanaguchi2006-99"/>。
 
 
 
=== 財政・税制 ===
 
ムハンマド・アリーが総督に就任した当時、政治の混迷が続いていたエジプトの経済状態は著しく悪く、総督府の財政状態は極めて不健全であった。フランス軍の撤退後、3人の総督およびマムルーク指導者が軍隊への給料遅配あるいはそれを避けるために課した重税に対する反発から失脚しており、財政再建はムハンマド・アリーにとって権力を維持するための最優先課題のひとつであった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、71-72頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは歳入を確保すべく、農地に関する税制の改革に取り組んだ。それまでエジプトには数多くの免税地が存在し、課税対象農地については徴税請負人やその代理人が徴税を担当していた。税収の6割近くはこれら介在者の手に渡っており、さらに様々な名目の税金が不定期に徴収されていた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、72-73頁。</ref>。ムハンマド・アリーは免税地を削減し、20以上あった課税理由を[[ハラージュ]]に一本化し、政府の官吏が定期的に直接徴税を行うよう制度を改めた<ref name="yamaguchi2006-73">[[#山口2006|山口2006]]、73頁。</ref>。税率は農地測量の結果に基づいて決定された<ref>[[#山口2006|山口2006]]、72頁。</ref>。1810年から下エジプトで、1813年から上エジプトで測量が開始されている<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、53-54頁。</ref>。既得権益を抱える徴税請負人たちの抵抗もあったが、農地全体の3分の2を管理下に置いていたマムルークの排除に成功したことで改革を進めることが可能となった<ref name="yamaguchi2006-75">[[#山口2006|山口2006]]、75頁。</ref>。税制改革の結果、徴税効率が向上し税収は増加した<ref name="yamaguchi2006-73"/>{{refnest|group="†"|岩永博によれば、税収の総額は[[1805年]]の約500万[[ピアストル]]から[[1821年]]の約7000万ピアストルに増加<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、53頁。</ref>した。また、山内昌之は、フランス占領期には686万クルシュであった税収が、改革後には6605万クルシュに増え、[[1844年]]には2億3000万クルシュにのぼった<ref name="yamaguchi2006-100"/>としている。なお、ピアストル、クルシュはともに当時のオスマン帝国・エジプトで用いられた[[銀貨]]の通貨単位である。}}。
 
 
 
=== 行政 ===
 
ムハンマド・アリーはフランス、とくに[[ナポレオン・ボナパルト]]の政策に範をとった、行政機構の近代化・中央集権化を断行した<ref name="yamaguchi2006-75"/>。中央集権が実現したことにより、主要生産物の専売制が進み、歳入は拡大した。一方で中央集権化の弊害として、ほぼすべての施策についてムハンマド・アリーの裁可を仰ぐ、行政手続きの煩雑化、[[セクショナリズム]]といった現象も見られた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、78頁。</ref>。
 
 
 
中央政府の機能は当初、総督官房{{refnest|group="†"|総督官房の機能は、総督からの命令および総督絵の情報の伝達、官吏の任免、行政機関同士の業務調整、外交折衝(宗主国であるオスマン帝国との交渉を含む)、会計検査など<ref name="yamaguchi2006-76"/>。}}と内務省{{refnest|group="†"|内務省の機能は、財務以外のほとんどの内政と、宗教、商事分野以外の司法を担った<ref name="yamaguchi2006-76"/>。}}の2つの機関に集約されたが、1837年、行政機能の拡大に対応するため財務・外務など8つの省が設置された<ref name="yamaguchi2006-76">[[#山口2006|山口2006]]、76頁。</ref>。
 
 
 
地方の行政機関は州、県、郡、区の4つの機関により構成され、それぞれの機関に中央政府から官吏が派遣された。これらの機関は中央政府の政策を実現するためのものであって、自治は行われなかった。州や県の知事には施策実施に際して中央政府に対し、事前の承認を得、定期的な報告を行う義務があった。ムハンマド・アリーは地方農村部の行政を「国富の源泉」として重視し、年に2回地方を巡回したほか、監督機関である「監察総局」を設置した<ref name="yamaguchi2006-77">[[#山口2006|山口2006]]、77頁。</ref>。
 
 
 
[[1828年]]に政府[[公文書館]]が設置され、各地に散逸していた行政文書が集められた<ref name="yamaguchi2006-76"/>。行政において用いられる言語は当初、[[トルコ語]]と[[アラビア語]]の併用であったが、アラブ系エジプト人の官吏への登用が進むに従ってアラビア語が優勢となっていった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、76-77頁。</ref>。
 
 
 
=== 農業 ===
 
ムハンマド・アリーは前述のように農地に関する税制の改革に取り組んだ他、国家が農地を管理下に置いた上で栽培する作物を指定し、収穫物を公定価格で買い上げる制度を導入、実質的な農業の国営化を行った<ref>[[#山口2006|山口2006]]、73-74頁。</ref>。また、主要農産物の[[専売制]]を導入し、国内販売および輸出を国家の管理下に置いた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、74-75頁。</ref>。専売制による歳入は1836年の時点で全体の22.4%を占めるなど国家財政の重要な基盤となった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、75頁。</ref>。ただし農業の国営化は短期的には生産の効率化をもたらしたものの、中長期的には農家の生産意欲の低下を招き、在位後期には民営化が進められることとなった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、74頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは農業を振興するため、[[運河]]、[[堤防]]、[[排水路]]、灌漑設備などのインフラ整備を行った。在位中32の運河と42のダムが建設され、運河や堤防などに関する土木工事の総量は約7187万9000ないし約7911万5000[[立方メートル]]にのぼるとされる。[[1843年]]着工、[[1861年]]完成のダム、[[デルタ・バラージュ]]の規模は、建設当時世界最大であったといわれている<ref>[[#山口2006|山口2006]]、85-86頁。</ref>。ムハンマド・アリーが農業政策を実行する前に約321万8700フェッダン{{refnest|group="†"|1フェッダンは、およそ420平方メートル<ref name="p86"/>。}}だった課税対象耕作地の面積は、[[1863年]]には約439万5300フェッダンに拡大した<ref name="p86">[[#山口2006|山口2006]]、86頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーはナイル川流域に用水路を整備し、[[灌漑]]の方式を、増水期に発生する洪水を堤防内に引き入れて作った溜池を利用する旧来の方式(溜池式灌漑)から用水路を活用し増水期減水期を問わず耕作が可能となる方式(通年式灌漑)へ移行させることを試みた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、190-191頁。</ref>。その結果、通年式灌漑は19世紀末には全エジプトに普及した<ref name="iwanaga1984-191">[[#岩永1984|岩永1984]]、191頁。</ref>。加藤博は、ムハンマド・アリーが通年灌漑を導入したことは後にエジプトが農業立国として発展する基礎になったと評価している<ref name="suzukisakamoto1993-80"/>。一方、減水期に用水路にたまった泥土を除去する作業は農民の負担となった。1825年以降、この作業のために毎年35万人の農民が4か月間使役されたといわれている<ref name="iwanaga1984-191"/>。
 
 
 
通年式灌漑の導入・整備により、換金作物の大規模栽培が可能となった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、86-87頁。</ref>。エジプト産の換金作物としては[[綿花]]、[[コメ|米]]、[[インディゴ]]、[[サトウキビ]]などが挙げられるが、ムハンマド・アリーがとくに生産を奨励したのは利幅が大きいとされる綿花であった<ref name="yamaguchi2006-87">[[#山口2006|山口2006]]、87頁。</ref>。綿花の専売による歳入は全体の10分の1ないし4分の1を占めたといわれ、綿花はムハンマド・アリー以降の時代もエジプトにとって主要輸出品であり続けている{{refnest|group="†"|超長繊維綿花と長繊維綿花についてそれぞれ国際市場の6割、3割をエジプト産の綿花が占めている<ref name="p88"/>。}}<ref name="p88">[[#山口2006|山口2006]]、88頁。</ref>。エジプトの主要な長繊維綿花のひとつである「ジュメル」は、ムハンマド・アリー在位中の[[1820年]]にフランス人ルイ・アレックス・ジュメルによって開発された品種である<ref name="yamaguchi2006-87"/>。
 
 
 
=== 工業 ===
 
農業分野と同様、工業分野においても国家主導の振興策がとられた。まず1800年代の終わりから[[造兵廠]]が建設され、1810年代に綿紡績、ジュート加工、石鹸、絹織物、製糖、毛織物、ガラス、1820年代にガラス、皮革、1830年代に製紙と、各分野で国営工場の建設が続いた<ref name="yamaguchi2006-89">[[#山口2006|山口2006]]、89頁。</ref>。1833年には総労働力人口のおよそ9%にあたる11万人ほどがこれら国営工場に勤務していた<ref name="yamaguchi2006-89"/>。ムハンマド・アリーは兵器製造施設の整備にも力を注ぎ、1816年に造兵廠が拡張されるとともに鋳造工場が、1820年に大型の製鉄工場が建設された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、203-204頁。</ref>。1820年に建設された国営の印刷所はエジプト初の印刷所であり、2000年代においても「中東最大規模の政府印刷所」と称されている。この印刷所では1828年11月に、中東地域初のアラビア語による新聞『アル・ワカーイ・アル・ミスリーヤ』が発行された<ref>[[#山口2006|山口2006]]、83-84頁。</ref>。
 
 
 
工場の多くは輸入を抑制するために建設されたが、綿産業など繊維産業についてはそれにとどまらず、将来的に輸出産業とすることが目標とされた<ref>[[#山口2006|山口2006]]、90頁。</ref>。エジプト産の綿製品はやがて国家専売制が敷かれた国内市場ではイギリスからの輸入品に対抗できるだけの競争力を持つまでに成長し、そのことが第二次エジプト・トルコ戦争においてイギリスの介入を招く一因となった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、60-61・90頁。</ref>。もっとも、工場で生産された製品の多くは原価割れで販売された<ref name="iwanaga1984-207">[[#岩永1984|岩永1984]]、207頁。</ref>。資金面の問題から十分な任数の技師を雇用することができず、原料の浪費や機械の故障が相次いだこと<ref name="iwanaga1984-206">[[#岩永1984|岩永1984]]、206頁。</ref>や、工場稼働のために徴用された農民は技術にも意欲にも欠けていたこと<ref name="iwanaga1984-206"/>、何より燃料費が高額で技術者も不足していたため動力に蒸気機関を使うことができず、牛やロバ、ラクダを使役したこと、加えて機械の故障を修理する能力も十分ではなかったことなどが原因で、導入した設備の生産性がたちまち低下したためである<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、206-207頁。</ref>。[[原価計算]]も適切ではなく、製品の原価は輸入品以上に高額となってしまった<ref name="iwanaga1984-207"/>。ムハンマド・アリーは近代的な工場を整備することで歳入の大幅な増加を見込んだが、そのもくろみは失敗に終わった<ref name="iwanaga1984-206"/>。
 
 
 
工業においても農業と同様、国家が生産者に原材料を販売し製品を公示価格で買い上げる制度が導入され、実質的な専売が行われた<ref name="yamaguchi2006-91">[[#山口2006|山口2006]]、91頁。</ref><ref name="iwanaga1984-202">[[#岩永1984|岩永1984]]、202頁。</ref>。この制度は手工業においては、政府が製造者から安く仕入れた製品を商人に高く販売することを可能とし<ref name="iwanaga1984-202"/>、短期的には生産の効率化も実現した<ref name="yamaguchi2006-91"/>。しかし中長期的には製造業者の生産意欲の低下を招くこととなった<ref name="yamaguchi2006-91"/>。
 
 
 
第二次エジプト・トルコ戦争に敗れると、ムハンマド・アリーは1838年にイギリスとオスマン帝国が結んだ通商協定「バルタ・リマン協定」の実施を余儀なくされた<ref name="yamaguchi2006-96"/>。バルタ・リマン協定は低率の輸入関税を定め、専売制を禁止する内容で<ref name="yamaguchi2006-96"/>、締結された当初ムハンマド・アリーは支配領域内での協定適用を拒否していた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、200頁。</ref>。この協定を受け入れたことによりエジプトの専売制はほぼ崩壊し、エジプトの工業製品はヨーロッパの製品との自由競争にさらされた<ref name="yamaguchi2006-96-97">[[#山口2006|山口2006]]、96-97頁。</ref>。自由競争によりエジプト産の製品はイギリス・インドの製品に駆逐されていった<ref>[[#山内1996|山内1996]]、157-158頁。</ref>。さらに軍縮が行われたことで軍需も落ち込んだ<ref name="yamaguchi2006-97">[[#山口2006|山口2006]]、97頁。</ref>。「バルタ・リマン協定」によりエジプトの工業は決定的な打撃を被り<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、208頁。</ref>、衰退の一途を辿ったのである<ref name="yamaguchi2006-97"/>。その後のエジプトは「英国をはじめとするヨーロッパ諸国に綿花などの原材料を輸出し、工業製品を輸入するといういわば植民地型の国際分業の中に組み込まれていくことになる」<ref name="yamaguchi2006-97"/>。
 
 
 
=== 通商 ===
 
ムハンマド・アリーの在位中、エジプトでは工業生産に必要不可欠であった[[鉄鉱石]]や[[石炭]]といった資源が産出されず、船舶建造のための木材も十分に確保することができなかった。それらの資源は輸入によって確保しなければならず、そのための資金(外貨)を捻出するために輸出を振興する必要があった<ref name="yamaguchi2006-91"/>。ムハンマド・アリーにとって幸運だったのは、18世紀末に[[ヴェネツィア共和国]]が滅亡し、イギリスとの戦争によりフランスの国力が低下していたことから、地中海貿易によって利益を得る余地が十分にあったことである<ref>[[#山口2006|山口2006]]、91-92頁。</ref>。貿易は国家の管理の下に行われたが、実際の取引は民間が行った<ref>[[#山口2006|山口2006]]、92頁。</ref>。1830年代の時点で、主な貿易相手はオスマン帝国、オーストリア、[[イタリア]]([[トスカーナ州|トスカーナ]])、フランス、イギリスなどであった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、92-93頁。</ref>。
 
 
 
当初の輸出品目は穀物であったが1821年までに綿花、さとうきび、亜麻、亜麻仁、胡麻、絹、蜂蜜などが加えられていった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、54-56頁。</ref>。綿花は小麦にとって代わるようになり、1840年の綿花の輸出額は小麦の2倍にのぼった<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、195頁。</ref>。ムハンマド・アリーは農産物輸出のための積出港としてアレキサンドリア港を整備し、さらに同港とナイル川とを結ぶ運河([[マフムディーヤ運河]]、1817年着工、1820年完成)を建設した。これによりアレキサンドリア・カイロ間の水路距離が大きく短縮され、輸出能力が向上した<ref>[[#山口2006|山口2006]]、88頁。</ref>。同時にアレキサンドリアへの飲料水の供給が容易となり、アレキサンドリアの水不足が解消された<ref>[[#山口2006|山口2006]]、88-89頁。</ref>。マフムディーヤ運河によって、低迷していたアレクサンドリアは活力を取り戻した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、59頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーが権力を掌握した当初、政治の混迷が続いていたエジプトでは行政が機能せず、市民が[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備を行う始末であった。また、農産物の略奪が相次ぐなど治安は極めて悪かった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、75-76頁。</ref>。
 
治安の改善を図るため、ムハンマド・アリーは各地に軍を駐屯させ、定期的な巡視を行わせた。その成果をイギリスの領事ミゼットは「エジプト全土で驚くほど治安が確立され、[[ヨークシャー]]と同じくらい安全になった」と表現している<ref name="yamaguchi2006-77"/>。これにより交通・通商の安全が確保され、経済活動が促進された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、58頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーは農産物・工業製品の[[専売制]]を実施して多額の利益を上げた。当初は輸出製品についてのみ実施していたが、1829年以降は国内流通分にも適用された。公定価格は市場価格よりも安く設定され、それにより政府は莫大な歳入を得た<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、197頁。</ref>。1836年、ロシアの領事はエジプトの輸出品の95%が専売によるものであると報告している<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、199頁。</ref>。前述のように第二次エジプト・トルコ戦争に敗れ専売制を禁止する「バルタ・リマン協定」の実施を受け入れたことでエジプトの専売制はほぼ崩壊した<ref name="yamaguchi2006-96-97"/>。
 
 
 
=== 軍事 ===
 
[[ファイル:Mouhamed ali army&navy.jpg|thumb|350px|ナヴァリノの海戦での敗戦後、海軍再建を指示するムハンマド・アリー]]
 
前述のように、ムハンマド・アリーはフランスを模範とする近代的な軍隊の創設を目指し、軍事改革を断行した。陸軍強化のために[[1822年]]に農民に対する[[徴兵制]]を導入し、[[ナポレオン戦争]]敗戦により失職したフランスの元軍人を軍事顧問として招へいした。1830年代後半には70人を超える軍事顧問が雇用されていた<ref name="yamaguchi2006-38-39">[[#山口2006|山口2006]]、38-39頁。</ref>。[[ギーザ]]には士官学校が設けられ、軍人の資質のある者への教育が行われた<ref name="iwanaga1984-142">[[#岩永1984|岩永1984]]、142頁。</ref>。ムハンマド・アリーは1807年のイギリス軍上陸を受けて海軍力の強化にも乗り出し、ヨーロッパで艦船の建造を行ったほか、カイロ北部と[[アレキサンドリア]]に海軍[[工廠]]を建設した<ref name="yamaguchi2006-41">[[#山口2006|山口2006]]、41頁。</ref>。ナヴァリノの海戦で多くの艦船を失うと、精密な航海機器と大砲以外のすべてを自力で製造できる能力を備える造船所を建設した<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、204頁。</ref>。エジプト海軍はナヴァリノの海戦で[[フリゲート]]と[[コルベット]]計43隻を失ったが、1837年には[[戦艦]]8隻、[[巡洋艦]]7隻にまで戦力を持ち直している<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、143頁。</ref>。1830年時点の海軍力は世界第7位の規模であったが<ref name="yamaguchi2006-41"/>、第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後就役艦はすべてオスマン帝国に売却された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、144頁。</ref>。
 
 
 
エジプトには農民が兵役につく慣習はなく、農民たちは徴兵制に恐怖した<ref name="yamaguchi2006-38">[[#山口2006|山口2006]]、38頁。</ref>。農村からは逃亡者が相次ぎ、1831年には上エジプトの農民の4分の1が逃亡したと報告されている<ref name="iwanaga1984-146">[[#岩永1984|岩永1984]]、146頁。</ref>。ムハンマド・アリーは徴兵を拒否したり逃亡した者には親族の連帯責任を伴う処罰を課した<ref name="yamaguchi2006-100">[[#山口2006|山口2006]]、100頁。</ref>。農民の中からは故意に身体の一部を傷つけて徴兵から逃れようとする者も多く現れた<ref name="yamaguchi2006-38"/><ref>[[#山内1996|山内1996]]、102頁。</ref>。そうした者は工場で労働に従事させられた<ref name="iwanaga1984-147">[[#岩永1984|岩永1984]]、147頁。</ref>が、1830年代後半になると健常な人間の確保に苦しみ、徴兵の実施地域をシリアおよびカンディヤに拡大させる<ref name="iwanaga1984-148">[[#岩永1984|岩永1984]]、148頁。</ref>とともに、盲人の連隊が設けられるに至った<ref name="iwanaga1984-147"/>。徴兵の方法は強圧的なもので、農村では軍隊が出動して村を包囲し、農民を鎖で拘束して連行した。このような方法は農民の反発を招き、1820年代前半には大規模な反乱が起こった。都市部でも祭礼に参加するために集まった商人を軍隊が包囲し、連行するといった強引な方法がとられた<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、144-146頁。</ref>。キリスト教徒をも徴兵の対象に含めたことはヨーロッパ諸国からの非難を招いた<ref name="iwanaga1984-146"/>。徴兵制は農村の生産力に悪影響を及ぼす一方、兵士には基本的教育が行われ、農村単位の帰属意識を越えた国民的な共同体意識が植えつけられた。軍は[[ウラービー革命]]以降、エジプトで起こった民族運動において中心的な役割を担っていくことになる<ref name="yamaguchi2006-38-39"/>。1837年、ムハンマド・アリーはフランス式の[[志願兵]]制度導入を決めたがこの政策は実行されず、フランスの国民兵制に範をとった兵制が実施された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、147-149頁。</ref>。
 
 
 
ムハンマド・アリーが有する兵力はスーダンへの遠征を開始した時点で1万6000人であった。ギリシア独立戦争中に増強が図られ1829年に6万2150人、第二次エジプト・トルコ戦争後の1832年に12万5000人、第二次エジプト・トルコ戦争開戦直前の1838年に15万7000人に増大したが、第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後1万8000人に削減された<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、141頁。</ref>。一般兵卒は全員エジプト人によって構成されたが、ムハンマド・アリーはエジプト人を信用せず、上級士官には登用しなかった<ref name="yamaguchi2006-100"/>。士官の多くはトルコ人、チェルケス人、アルバニア人、クルド人などトルコ・チェルケス系によって構成された<ref>[[#山口2006|山口2006]]、39頁。</ref>。
 
 
 
=== 教育 ===
 
教育分野では専門部局(後に教育省に昇格)が設置され、フランス式の初等教育制度や、ヨーロッパの技術習得に力点を置いた理工系中心の高等教育制度が導入された{{refnest|group="†"|エジプト初の高等工業専門学校であるムハンデスハーネはフランスの[[エコール・ポリテクニーク]]をモデルとしており、エコール・ポリテクニークと同様、「高級官僚の登竜門」となった<ref name="yamaguchi2006-83"/>。}}<ref>[[#山口2006|山口2006]]、82-83頁。</ref>。また、軍事省の管轄の下、医学、薬学、獣医学、鉱物学、応用化学、農業、通信、工芸、外国語など各種専門学校も設立された<ref name="yamaguchi2006-83">[[#山口2006|山口2006]]、83頁。</ref>。これら教育制度の整備は「その後のエジプトの発展に最も貢献した中核的な政策」と評価されており、現在エジプトが他のアラブ諸国に対し多くの教員を派遣すると同時に多くの留学生を受け入れ、「アラブ世界の知的センター」として機能している基盤を作り上げたと評される<ref name="yamaguchi2006-83"/>。正規の教育を受けたことがなく<ref name="yamaguchi2006-82">[[#山口2006|山口2006]]、82頁。</ref>、47歳のときに読み書きを学び始めた<ref name="mutaguchi1992-260"/>ムハンマド・アリーは、教育の重要性を痛感していたといわれる<ref name="yamaguchi2006-82"/><ref name="mutaguchi1992-260"/>。
 
 
 
== 人物 ==
 
ムハンマド・アリーは清潔好きで、毎朝入浴を欠かさなかった<ref name="yamauchi1996-106">[[#山内1996|山内1996]]、106頁。</ref>。倹約家であり<ref>[[#岩永1984|岩永1984]]、223頁。</ref>、服装は質素<ref name="yamauchi1996-106"/><ref name="yanaguchi2006-99"/>で、金の懐中時計を愛用した以外に宝飾品を身につけることはなかった<ref>[[#山口2006|山口2006]]、99-100頁。</ref>。このことは肖像画に描かれた姿にも表れている<ref name="yamauchi1996-106"/>。身のこなしが優雅で威厳に満ちていた反面、ユーモアのセンスも持ち合わせ、親しい相手には茶目っ気を見せたという<ref name="yamaguchi2006-100"/>。ムハンマド・アリーの目はくるくるとよく動き、会う者を惹きつけたという<ref name="yamaguchi2006-100"/>。
 
 
 
山内昌之はムハンマド・アリーの肖像画の目から、「ほんとうは人なつっこい性格なのに、権力者としてのポーズにそれを包みこんで含羞を隠している風情」が読み取れると述べている<ref>[[#山内1996|山内1996]]、105頁。</ref>。一方牟田口義郎によると、イギリスのある外交官はムハンマド・アリーの笑顔について、「にこやかに笑いながら人を殺したという[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]のあの笑顔だ」と評したという<ref>[[#牟田口1992|牟田口1992]]、253頁。</ref>。ムハンマド・アリーの目はその他に、「もし天才を示す目を持つ人間がいるとしたら、ムハンマド・アリーこそかかる人間であり、……その目は[[ガゼル]]のように魅惑的であり、また、嵐のときにおける鷲の目のように荒々しかった」とも、「落ち着きのない、自分の店で万引きを見張る商人の目」とも評された<ref>[[#加藤2006|加藤2006]]、51頁。</ref>。
 
 
 
== 子女 ==
 
*長男 [[イブラーヒーム・パシャ]](1789年 - 1848年)
 
*次男 アフマド・トゥーソン(1793年 - 1816年)
 
*三男 イスマーイール・カーメル(1795年 - 1822年)
 
*長女 テウヒィーデ(1797年 - 1830年)
 
*次女 ナズーリー(1799年 - 1860年)
 
 
 
以上が正室のアミーナ・ハネム{{refnest|group="†"|アミーナ・ハネム(? - 1824年)。カヴァラ時代の市長官の親戚<ref name="p27"/>。}}との間に生まれた子。他に側室との間に30人の子が生まれており、その中には[[サイード・パシャ]]がいる<ref name="p27">[[#山口2006|山口2006]]、27頁。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=†|35em}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|20em}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[岩永博]]
 
|year = 1984
 
|title = ムハンマド=アリー 近代エジプトの苦悩と曙光と
 
|series = 清水新書 050
 
|publisher = [[清水書院]]
 
|isbn = 4-389-44050-0
 
|ref = 岩永1984
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[加藤博]]
 
|year = 2006
 
|title = 「イスラムvs.西欧」の近代
 
|series = 講談社現代新書 1832
 
|publisher = [[講談社]]
 
|isbn = 4-06-149832-0
 
|ref = 加藤2006
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[牟田口義郎]]
 
|year = 1992
 
|title = 世界の都市の物語10 カイロ
 
|publisher = [[文藝春秋]]
 
|isbn = 4-16-509620-2
 
|ref = 牟田口1992
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[山内昌之]]
 
|year = 1996
 
|title = 世界の歴史20 近代イスラームの挑戦
 
|publisher = [[中央公論社]]
 
|isbn = 4-12-403420-2
 
|ref = 山内1996
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = 山内昌之
 
|year = 2008
 
|series = 朝日新書
 
|title = 帝国のシルクロード 新しい世界史のために
 
|publisher = [[朝日新聞出版]]
 
|isbn = 4-02-273225-3
 
|ref = 山内2008
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author = [[山口直彦 (社会学者)|山口直彦]]
 
|year = 2006
 
|title = エジプト近現代史 ムハンマド・アリ朝成立から現在までの200年
 
|series = 世界歴史叢書
 
|publisher = [[明石書店]]
 
|isbn = 4-7503-2238-5
 
|ref = 山口2006
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|editor = [[坂本勉]]・[[鈴木董]]編
 
|year = 1993
 
|title = イスラーム復興はなるか
 
|series = 講談社現代新書
 
|isbn = 4-06-149175-X
 
|ref = 坂本・鈴木(編)1993
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|editor = 日本イスラム協会ほか(監修)
 
|year = 2002
 
|title = 新イスラム事典
 
|publisher = [[平凡社]]
 
|isbn = 4-582-12633-2
 
|ref = 日本イスラム協会ほか(監修)2002
 
}}
 
 
 
==関連項目==
 
{{Commonscat|Mehmet Ali}}
 
{{Wikisource1911Enc|Mehemet Ali|英語:ムハンマド・アリー}}
 
*[[ギリシャ独立戦争]]
 
*[[エジプト・トルコ戦争]]
 
 
 
{{ムハンマド・アリー朝の君主}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:むはんまと あり}}
 
{{デフォルトソート:むはんまと あり}}
 
[[Category:ムハンマド・アリー朝の君主]]
 
[[Category:ムハンマド・アリー朝の君主]]
335行目: 11行目:
 
[[Category:1769年生]]
 
[[Category:1769年生]]
 
[[Category:1849年没]]
 
[[Category:1849年没]]
 
{{Featured_article}}
 

2019/4/27/ (土) 16:59時点における最新版

ムハンマド・アリー(リトグラフ).jpg

ムハンマド・アリー・パシャالعربية: محمد علي باشا‎, ラテン文字転写: Muḥammad ʿAlī Bāšā, 1769年? - 1849年8月2日

オスマン帝国のエジプト太守 (在位 1805~48) ,ムハンマド・アリー朝の始祖。トルコ風にメフメット・アリと発音される場合も多い。ナポレオン軍撤退後のエジプトでマムルーク勢力を追い落して次第に頭角を現し,1805年エジプト太守となった。 11年マムルークの勢力を壊滅させ,11~18年アラビア半島のワッハーブ派 (ワッハーブ派運動 ) を鎮圧,20~21年にはスーダンを征服した。 24~27年ギリシアの独立戦争と戦うオスマン帝国に味方して活躍,クレタを与えられたが,満足せずシリアに出兵。その結果 40年ヨーロッパ諸国の介入を招きシリア,クレタは失ったが,エジプト太守の世襲が決り,ムハンマド・アリー朝が成立。彼はナイル川デルタの灌漑,土地制度,税制の改革などエジプトの政治,経済の近代化をはかった。



楽天市場検索: