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{{出典の明記|date=2013年7月}}
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'''ブラウ作戦'''(ブラウさくせん、[[ドイツ語]]:'''Unternehmen Blau''')は、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]のドイツ軍夏季攻勢計画の名前である。作戦地域は、ロシア南部で、[[ボルガ河]]西岸への到達と、コーカサスの征服を含んだ、野心的な作戦計画であった。ドイツ軍は、作戦計画に、色名をつけることが多かったが(ポーランド侵攻=白、低地諸国・フランス侵攻=黄)、「ブラウ」はドイツ語で[[青]]の意である。
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'''ブラウ作戦'''(ブラウさくせん、[[ドイツ語]]:'''Unternehmen Blau'''
 
 
== 背景と目的 ==
 
<!--[[バルバロッサ作戦]](独ソ戦・1941年6月21日~12月)を短期間に終わらせることに失敗(モスクワ攻勢の敗退)したヒトラーは、長期戦にむけた戦争経済に傾倒し、資源地帯であるソ連南部への攻勢を決定することによって軍事主体の戦略・作戦を組む参謀本部と意見を対立させることになる。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、[[北方軍集団]]は[[レニングラード包囲戦|レニングラード包囲]]を継続し、[[中央軍集団]]は[[ルジェフ]]付近での現状維持に努めるとし、[[南方軍集団]]は長期戦に備えるため[[カフカース]][[油田]]地帯を確保、[[ペルシア回廊]]を遮断してソ連の継戦能力を奪い、また[[黒海]]の[[制海権]]を握って[[トルコ]]を[[枢軸国]]側に引き込むことも狙った。
 
 
 
前年の攻勢においてソ連を屈服させることに失敗したナチス・ドイツの人的損害は膨大であり、再び同規模の作戦を実行することは出来なかった<ref>坂本雅之「ブラウ作戦 ドイツ軍最後の戦略的攻勢」(『PANZER』No.455、アルゴノート社、2009年9月、100~115頁)。</ref>。残された資源による限定された戦力において最大限の効力を発揮するであろうこの作戦の目標である地点までは相当な距離の進撃をしなければならず、広大な側面を赤軍にさらすはずであった。そしてその側面を防衛するには、ドイツ軍単独では戦線を支えるのにあまりにも兵力が足りず、錬度・軍備の劣悪な同盟枢軸軍に頼らざるを得ない状況であった。
 
-->
 
1941年の[[バルバロッサ作戦]](ソ連侵攻作戦)が失敗に終わり、ソビエト政権の打倒も講和も達成出来なかった状況の中、1941年12月11日には日本との同盟維持の為にアメリカ合衆国にも宣戦布告したため、ドイツは米英ソ相手の長期戦に陥ってしまった。そのような状況のもとで、軍事情勢・戦争経済・周辺国への政治的影響を考慮して、ヒトラーと参謀本部の間で練られたのが、1942年の夏季攻勢計画である本作戦である。作戦立案者は、「前年受けた損害により、もはやドイツ軍は1941年のような全戦線で攻勢に出る力を持っていない」と認識し、戦争経済の観点から、ロシア南部を指向する作戦を計画した。
 
 
 
参謀本部の原案は、「ソ連経済のアキレス腱は、石油供給源がほとんど[[バクー油田]]に依存している事」に着目し、この石油補給路を断つことにより経済を麻痺させ、ソ連の継戦能力を奪おうとするものであった。すなわち、[[スターリングラード]]近郊で[[ボルガ河]]西岸に到達しボルガ河のタンカー運航を阻止し、次に[[アストラハン]]を攻略する事で鉄道輸送による石油供給を断つ、というものであった。バクー油田の占領そのものは、原案には含まれていなかった。
 
<!--立案の段階におけるブラウ作戦は、カフカース地方に攻勢をかけるもので、[[スターリングラード]]は補給線後方の防御拠点確保という副次的なものでしかなかった。計画ではスターリングラードを8月に早期占領し、その後快速部隊で[[カスピ海]]沿岸の都市[[アストラハン]]に進出、[[赤軍|ソ連軍]]の[[バクー]]への陸上交通を断って後方の安全を確保した上で、バクーを攻略する予定だった。
 
-->
 
 
 
しかし、ヒトラー(陸軍最高司令官も兼任)は、この原案には不同意で、自身で大幅に書きなおしたものが、実際の作戦計画となった。
 
 
 
== 作戦計画 ==
 
作戦計画は、2段階になっており、第一段階で、[[ドン河]]湾曲部西岸のソ連軍を撃破し渡河点を確保し、第二段階では、攻勢軸を2つにわけ、ひとつは[[スターリングラード]]周辺でボルガ河西岸に到達する事(のちのB軍集団)、もうひとつは、[[コーカサス地方]]をはるかに南下しバクー油田を占領する事(のちのA軍集団)が、目標とされた。
 
 
 
ドイツ軍の将軍の間では、補給能力限界や4000m級の山岳が連なる[[カフカス山脈]]を超えてのバクーまでの進撃の困難さをあげ、この案には反対の者が多かったが、ヒトラーは、押し切った。
 
 
 
<!--には、[[ドネツ川]]沿いに進んで[[ドン川]]を渡り[[カフカース|カフカース地方]]の[[マイコープ]]・[[グロズヌイ]]を経てバクーを目指す「[[A軍集団]]」([[ヴィルヘルム・リスト]]元帥指揮。[[第17軍 (ドイツ軍)|第17軍]]、[[第1装甲軍]]など兵力100万)と、A軍集団の側面をドン川沿いに進みながらスターリングラードでヴォルガ川を封鎖する「[[B軍集団]]」(男爵[[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]上級大将指揮。[[第2軍 (ドイツ軍)|第2軍]]、[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]、[[第4装甲軍]]、[[イタリア・ロシア戦域軍|イタリア第8軍]]、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍など兵力30万)に分かれ、
 
 
 
ドイツ軍の機甲戦力は以下の通り。A軍集団の第1装甲軍には6個[[機甲師団|装甲師団]]、1個[[自動車化歩兵]]師団、[[グロースドイッチュラント師団]]、SS [[第5SS装甲師団|ヴィーキング師団]]が参加。B軍集団の第4装甲軍には、4個装甲師団、2個自動車化歩兵師団が参加し、両軍集団には[[T-34]]対策として長砲身50mm砲を装備したJ型を含めた[[III号戦車]]が約600両、長砲身75mm砲を装備したF2型を含めた[[IV号戦車]]が約300両配備されていた。
 
-->
 
 
 
==作戦開始時の両軍の兵力==
 
枢軸軍
 
*[[南方軍集団]](フェードア・フォン・ボック元帥)
 
**[[第2軍]](ハンス・フォン・ザルムート歩兵大将)
 
**[[第4装甲軍]](ヘルマン・ホト上級大将)
 
**[[第6軍]](フリードリヒ・パウルス装甲兵大将)
 
**[[イタリア第8軍]]
 
**[[第1装甲軍]](エヴァルト・フォン・クライスト上級大将)
 
**[[第17軍]](リヒャルト・ルオッフ上級大将)
 
**[[ルーマニア第3軍]](ペトレ・ドゥミトレスク大将)
 
**[[第4航空軍]](アレクサンダー・レーア上級大将)
 
 
 
ソ連軍
 
*[[ヴォロネジ方面軍]](ニコライ・ヴァトゥーチン大将)7月7日に新編成
 
*[[南西方面軍]](セミョーン・チモシェンコ元帥)7月12日に[[スターリングラード方面軍]]に改称
 
*[[南方面軍]](ロディオン・マリノフスキー中将)7月28日に北コーカサス方面軍に吸収
 
*[[北コーカサス方面軍]](セミョーン・ブジョーンヌイ元帥)
 
 
 
== 経過 ==
 
===第一段階 - ドン河西岸===
 
ドイツ南方軍集団は、6月28日に攻勢を開始した。ソ連軍大本営は、1942年のドイツ軍攻勢計画に、モスクワが含まれていない事を知らなかったので、モスクワ後方に、大本営予備を配置していたが、[[ヴォロネジ]]への攻撃は、モスクワへの南からの攻勢軸と考えられたので、増援を送りこんで激戦となった。しかし、5月のハリコフ奪回を狙ったティモシェンコ攻勢の失敗のおかげで、ソ連南西方面軍は、攻勢に出たドイツ軍に対して大幅に劣勢であったので、7月9日にはスターリンとティモシェンコは、南西方面軍に対してドン河東岸への戦略的撤退を命令した。
 
7月6日には、ドン河湾曲部の渡河点を抑え、ドイツ軍は、東岸に進み始めた。7月25日には、[[ロストフ・ナ・ドヌ]]が陥落した。そこで、7月23日には、ヒトラーは、作戦の第一段階の目標は達成したと認識し、総統指令第45号を発令した。この中で、ヒトラーは以降の攻勢目標として、スターリングラードとバクーの占領をあげた。それぞれの目標のために、南方軍集団は、コーカサスを目指すA軍集団と、スターリングラードを目指すB軍集団に、7月9日に分割された。ボック元帥は、ヴォロネジでの停滞の責任をとらされて、7月13日にはB軍集団司令官を更迭され、後任には、マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将が起用された。
 
 
 
[[Image:Eastern Front 1942-05 to 1942-11.png|right|300px|thumb|ドイツ軍の進撃。1942年5月から1942年11月にかけての前線の推移]]
 
[[Image:Eastern Front 1942-11 to 1943-03--Velikiye Luki.png|right|300px|thumb|ブラウ作戦後、1942年11月から1943年3月にかけての前線の推移]]
 
 
 
=== A軍集団の戦闘 - コーカサス===
 
[[A軍集団]]は7月25日、ソ連海軍の拠点にあたるロストフ・ナ・ドヌを占領し、8月9日には大規模な油田施設のある[[マイコープ]]を占領した。しかし、油田はソ連軍によって徹底的に破壊されていた。
 
 
 
8月21日には[[ノヴォシーロフ]]を占領。9月1日には[[セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)|セヴァストポリの戦い]]を終えた[[第11軍 (ドイツ軍)|第11軍]]が、初期の予定よりだいぶ遅れて、A軍集団支援の為に[[ケルチ]]から[[タマン半島]]に上陸した。第11軍はカフカース南東部へ進撃するA軍集団を西部から援護攻撃して、補給改善のために黒海沿岸の港湾都市を占領し海からの補給を確保しようとした。9月6日にはタマン半島の南側の黒海に面する港湾都市[[ノヴォロシースク]]を占領。小規模な油田地帯がある[[クバン川]]流域の町を次々と占領していった。しかし油田施設はやはりソ連軍によって破壊されており、石油を確保することはできなかった。9月9日には、ヒトラーは、コーカサスでの進捗が捗々しくないので、A軍集団司令官[[ヴィルヘルム・リスト|リスト]]元帥を解任し、当面、自ら指揮をとることにした。
 
 
 
10月6日、ドイツ軍は[[マルゴベク]]に至るが、ソ連軍の抵抗と石油不足によって一時攻勢を停止せざるを得なくなる。この時ソ連軍はドイツ軍の爆撃を受けつつも[[アストラハン]]からの補給線を確保し、現地の[[赤軍パルチザン|パルチザン]]とも協力して抵抗を強めていた。ソ連軍の戦略的撤退は完了し、反撃の為の補給を受けつつあったのである。初期の作戦ではスターリングラードとアストラハンの両都市を制圧後、バクーを攻略する計画であったが、B軍集団のスターリングラードでの苦戦によって連携を欠いていた。またマイコープからバクーまでの行程はそれまでの平原とは違い、カフカース山脈の尾根が連なる山岳地帯であった。この地域の道路は他のソ連領内同様に整備されておらず、鉄道も破壊されており、補給もままならないためドイツ軍の進撃は滞った。このような地形は装甲部隊の進撃には適しておらず、逆に[[パルチザン]]やソ連軍にとって防衛には適していた。それでもドイツ軍は10月25日に[[テレク川]]の南で攻勢を再開し、[[ウラジカフカス|オルジョニキーゼ]]付近まで進出したが、ついに[[グロズヌイ]]から僅か60キロの所でついに燃料が尽き、進撃を停止してしまった(結果的にはここが東部戦線におけるドイツ陸軍の最遠進出地となった)。
 
 
 
11月8日、ソ連軍がテレク川付近で攻勢を開始したため、ドイツ軍はバクー攻略をあきらめてカフカース西部まで撤退をはじめた。さらに11月22日には当戦線の背後にあたるスターリングラードの第6軍が包囲されてしまい、B軍集団の戦線には大きな穴ができてしまった。ソ連軍はさらにA軍集団も包囲しようと、ロストフを目標とする攻勢を開始した。12月28日にヒトラーは東部戦線南翼全体の崩壊を避けるため、A軍集団にクバン橋頭堡を除いてカフカースからの全面撤退を命令した。[[エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)|フォン・クライスト]]将軍が撤退の指揮を任され、なんとか全部隊の撤退をすることに成功した。だが、ソ連の石油補給路を遮断してソ連の継戦能力を奪い、さらにはソ連の石油で自らの石油供給を確保して長期戦に備えるという、ブラウ作戦の本来の目的を達成することはできなかった。
 
 
 
=== B軍集団の戦闘 - スターリングラード===
 
{{main|スターリングラード攻防戦}}
 
[[B軍集団]]は、[[A軍集団]]支援の為引き抜かれていた[[第4装甲軍]]を取り戻してやっと攻勢を順調にしたが、すでに作戦は予定よりも三週間遅れていた。先に進んでいた第6軍は8月14日にドン川屈曲部のソ連軍を排除し、8月21日には[[クレツスカヤ]]付近でドン川を渡り[[スターリングラード攻防戦]]が始まった。8月25日、スターリングラードの包囲が完成し、9月3日スターリングラードの南で第4装甲軍の一部が[[ヴォルガ川]]西岸に到達。9月4日、ドイツ空軍機約1,000機が2週間に及ぶスターリングラードの爆撃を開始し、市内は瓦礫と化した。この時、ウクライナ各地からの難民が集まっていたスターリングラードの市民にもやっと避難令が出たが、もはやその実行は不可能であった。9月13日、市内に侵入したドイツ軍は一ヶ月以上も[[市街戦]]を続け、10月中旬頃にはヴォルガ河岸まであと150mの地域まで進出したが、ソビエト軍守備隊も1日に2,500人もの犠牲をはらいながら死守を続けていた。ドイツ側の消耗も激しく、たとえば第305歩兵師団のある連隊は戦闘可能な兵が1,200人から60人にまで減っていた。ドイツ軍兵士には[[戦闘ストレス反応|砲弾恐怖症]]になるものも出た。さらに冬が近いにも関わらず兵士たちに冬用装備は無く、悪化する状況に第6軍指揮官[[フリードリヒ・パウルス]]大将は10月6日戦闘を停止させる。10月22日、ついに雪が降り始めた。
 
 
 
ヒトラーは、11月8日に「もはや船1隻たりともヴォルガ川をのぼることはできない」と演説したが、11月19日には、ソ連軍(約100万人)が[[ウラヌス作戦]]でスターリングラードの第6軍の南北で反撃に出て、ルーマニア軍・ハンガリー軍が保持していた戦線を突破し、22日には包囲網が完成した。<!--ドイツ空軍は包囲するソ連軍を爆撃したが、ルーマニア軍・ハンガリー軍の装備は旧式の大砲や馬を中心とする歩兵師団であり、また第4装甲軍の戦車で稼動できていたのはこの時点でたった約100両で、T-34戦車を1,200両余りも投入したソ連軍に反撃する能力は残っていなかった。-->
 
 
 
ヒトラーは第6軍のスターリングラード死守を命じたが、ルーマニア軍の最高指揮官[[イオン・アントネスク]]元帥は脱出を主張。長い協議の末に救援作戦が決定され、[[ドン軍集団]]が編成され、[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン|マンシュタイン]]元帥に指揮が委ねられた。マンシュタイン元帥は12月11日、第6軍の救出作戦「[[冬の嵐作戦]]」を開始し、最後の予備兵力であった[[ヘルマン・ホト|ホート]]将軍の装甲軍団を送りこんで南西部から進撃していった。この方面のソ連軍の配備は手薄だったため進撃は順調で、スターリングラードに取り残された第6軍兵士は、最後の望みである救出部隊の戦闘音が近くなるのを喜んだ。先頭の部隊は[[照明弾]]を第6軍に向けて撃ち、第6軍の脱出は可能になるかと思われた。しかしヒトラーから死守命令を受けていた第6軍パウルス将軍は燃料不足を理由に脱出を拒否する。さらにソ連第2親衛軍がドン河畔で攻勢に出てからは激戦となり、救出部隊の進撃は停止する。救出部隊は戦力不足のため、損害も日に日に多くなっていた。12月24日、このままホート装甲軍団を失っては予備兵力がなくなり、東部戦線全体が崩壊すると危惧したマンシュタイン元帥はドン川南から全面的に退却を始める。これ以後、[[武装親衛隊|SS]]将校やヒトラーに脱出を認められた将官達は、兵士たちを残したまま輸送機でスターリングラードを去っていった。クリスマスを過ぎてから、ソ連軍はスターリングラードの包囲網をさらに狭め、状況はさらに悪化していく<ref>伊藤裕之助「ドイツ第6軍 スターリングラードに消ゆ」(『PANZER』No.312、アルゴノート社、1999年2月、52頁)。</ref>。
 
 
 
[[Image:Map Battle of Stalingrad-en.svg|right|300px|thumb|'''スターリングラードの戦い''' 1942年11月19日(青)から同年12月24日(緑:スターリングラード攻囲後)にかけての前線の推移]]
 
 
 
=== スターリングラードのドイツ軍の降伏 ===
 
スターリングラードに取り残されたドイツ第六軍と第4装甲軍の一部と同盟国軍のルーマニア軍・ハンガリー軍(約33万人)は、ドイツ空軍の輸送機による補給で辛うじて命をつないでいた。既に兵士一人への1日の食料はパン50gとなっていた。運のいい負傷兵(約4万人)は輸送機で病院へ運ばれたが、ほとんどの兵士は[[チフス]]、[[栄養失調]]、[[凍傷]]等で命を落としていた。市内には1万人以上の市民が残っていたが、ドイツ兵達は彼らから食料を接収せざるを得なかった。兵士も市民も飢えに苦しみ、軍馬や犬、最後には人肉を食うしかなくなるケースすらあった。1月に入るとソ連軍による包囲網はさらに狭められ、ヒトムニク飛行場が攻撃され、70機以上の航空機が地上で破壊された。
 
 
 
1月8日、ソ連軍は第6軍に名誉ある降伏を求めたが、パウルス[[上級大将]]はヒトラーの命で拒否。翌々日にはソ連7個軍の攻勢が始まり、陣地は次々に突破されていった。1月14日、ヒトラーの下にビンリッヒ・ベーア大尉が送られて戦況を報告し降伏交渉の許可を求めるが、ヒトラーは断固としてそれを認めなかった。1月30日、ヒトラー政権誕生10周年の党大会で[[ヘルマン・ゲーリング]]は「少し残酷に聞こえるかもしれないが、ノルウェー・アフリカ・スターリングラードでの兵士の死は大きな問題ではない。最終的には我が軍の勝利する地となるからだ。」と演説。[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]も「この困難を乗り越えてこそ真の勝利者となれるのだ。」と述べ、スターリングラードでの敗退を決め付け、第6軍の兵士たちを見捨てた。そしてこの日、ヒトラーはパウルスを[[元帥]]に昇進させる。ドイツ軍の歴史に降伏を選択した元帥はおらず、すなわち昇進は自決を意味する。しかし翌日、南部のパウルス元帥及び彼が率いるドイツ軍は降伏した。2月2日には北部のドイツ軍も降伏した。小規模な戦闘は3月まで続いた。
 
 
 
生き残りの10万人のドイツ兵は捕虜となったが、収容所までの移動により2万人が死亡する(歩けない者は見捨てられるか射殺だった)。このときソ連は各地で鉄道網が爆撃されていて食料補給さえまともにできず、軍は支給される食料の半分を捕虜にまわしていたというものの、それでも飢えとチフスによりさらに5万人が死亡した。[[シベリア]]・[[カザフスタン]]に移送される際に1万3,000人(貨車に乗せられて、食事は三日に一度だった)が死亡。さらに移送先の[[ラーゲリ]]における炭・ウラン採掘という過酷な労働をさせられて次々に命を落とし、最終的には戦後まで生き残れたのは5,700人程度であった。
 
  
== ブラウ作戦の結果と敗因・その後への影響 ==
+
[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]のドイツ軍夏季攻勢計画の名前。
ブラウ作戦は立案時よりヒトラーが深く関与していた。「総統は作戦会議中、提示した作戦に反対する将軍たちに激怒し、地図のカフカースとスターリングラードに拳をつきつけて“この作戦を支持するか?”と聞いた」(フランツ・ハルダーの証言)。{{要出典範囲|date=2018-04|ヒトラーは自分の根拠のない直感と自論の“戦争経済”だけをもとに作戦を推し進め、ソ連軍を侮って自軍を過大評価していた。最初から失敗が決まっていた作戦だったとも言える。たとえば6月頃に諜報機関から“[[ウラル山脈]]周辺の工場から大量の戦車が貨物列車で送られている”という情報がもたらされていたが、ヒトラーはこれを黙殺している。}}
 
  
さらにヒトラーは乱命を繰り返した。苦戦する[[A軍集団]]を支援するために[[B軍集団]]から装甲師団を引き抜いたため、スターリングラードにはまず第6軍のみが到達し、予定より三週間も遅れて第4装甲軍が着くのを待って突入が開始された。この間にスターリングラードには多くの陣地が作られ、撤退してきたソ連軍部隊が集結していた。A軍集団の指揮権を剥奪し、自ら指揮したことも部隊を混乱させている。最も悪い結果をもたらしたのはスターリングラード死守命令であり、第6軍のパウルス将軍もそれを遵守したため、第6軍は脱出も降伏も不可能となった。その結果、約30万のドイツ・ルーマニア・ハンガリー兵と約50万のソ連兵、そして一般市民を合わせて100万人以上が犠牲になっている。ドイツ軍は多くの精鋭師団を失い、東部戦線の主導権がソ連軍に移っていくという事態を招いた。さらにブルガリア、ルーマニアなどの同盟諸国からの信頼も失ってしまった。(もっともこの後、[[マンシュタイン]]元帥の指揮によって第三次[[ハリコフ攻防戦]]に勝利し、一時的にではあるが東部戦線を維持することはできた)
+
作戦地域は、ロシア南部で、[[ボルガ河]]西岸への到達と、コーカサスの征服を含んだ、野心的な作戦計画であった。ドイツ軍は、作戦計画に、色名をつけることが多かったが(ポーランド侵攻=白、低地諸国・フランス侵攻=黄)、「ブラウ」はドイツ語で[[]]の意。
 
 
この作戦はドイツ軍にとって人的被害が極めて大きく、この後はそれまで兵役を免除されていた熟練工や工場労働者も前線に動員されるようになっていった。これは国内の軍需生産率が悪くなっていった原因のひとつであった。
 
 
 
<!--
 
== 外部リンク・脚注 ==
 
*[http://mas-yamazaki.blog.so-net.ne.jp/archive/20131219 ラーゲ・オスト地図(ブラウ作戦開始直前のドイツ軍各部隊(軍から師団まで)の配置と、ドイツ側が確認した範囲でのソ連軍の部隊配置)-琥珀色のノート]
 
<div class="references-small"><references /></div>
 
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
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== 参考文献 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
* ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ソ連軍の大反攻」』、タイム ライフ ブックス
 
* ジェフレー・ジュークス、加登川幸太郎訳、スターリングラード、サンケイ新聞出版局
 
* David M. Glantz & Jonathan House,When Titans Clashed - How the Red Army stopped Hitler,the University Press of Kansas,1995
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://mas-yamazaki.blog.so-net.ne.jp/archive/20131219 ラーゲ・オスト地図(ブラウ作戦開始直前のドイツ軍各部隊(軍から師団まで)の配置と、ドイツ側が確認した範囲でのソ連軍の部隊配置)-琥珀色のノート]
 
 
 
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2018/9/1/ (土) 01:42時点における最新版

ブラウ作戦
戦争: 第二次世界大戦独ソ戦
年月日: 1942年6月28日 - 1942年11月24日
場所: ソビエト連邦ロシア南部、カフカースクバン川ヴォロネジスターリングラードロストフ・ナ・ドヌ
結果: ソ連の戦略的勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国
イタリア王国の旗 イタリア王国
ハンガリーの旗 ハンガリー王国
Flag of Independent State of Croatia.svg クロアチア独立国
スロバキア共和国の旗 スロバキア共和国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
戦力
合計:1,300,000
  ドイツ兵 1,000,000
  同盟国 300,000
戦車 1900両
合計:2,700,000
  1,700,000
  予備兵 1,000,000
戦車 3720両
~ 航空機1671機
損害
1,013,000 2,226,416
死傷・行方不明 1,111,681
負傷者 1,114,735

ブラウ作戦(ブラウさくせん、ドイツ語Unternehmen Blau

第二次世界大戦中の1942年のドイツ軍夏季攻勢計画の名前。

作戦地域は、ロシア南部で、ボルガ河西岸への到達と、コーカサスの征服を含んだ、野心的な作戦計画であった。ドイツ軍は、作戦計画に、色名をつけることが多かったが(ポーランド侵攻=白、低地諸国・フランス侵攻=黄)、「ブラウ」はドイツ語での意。

脚注



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