フレデリック・ショパン

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フレデリック・ショパン
Frédéric François Chopin
基本情報
出生名 Fryderyk Franciszek Chopin
別名 ピアノの詩人
生誕 1810年3月1日(異説あり)
出身地 ワルシャワ公国の旗 ワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラ
死没 1849年10月17日
テンプレート:FRA1848パリ
ジャンル ロマン派音楽
職業 作曲家ピアニスト
活動期間 1817 - 1849
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ショパンの署名

フレデリック・フランソワ・ショパンフランス語: Frédéric François Chopinポーランド語Fryderyk Franciszek Chopin[注 1] (フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン)[注 2]1810年3月1日2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人[注 3]とも呼ばれるように、様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。夜想曲ワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人でもある。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。

1988年からポーランドで発行されていた5000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。2001年、ポーランド最大の空港「オケンチェ空港(Port lotniczy Warszawa-Okęcie)」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。

略歴

生涯

幼少期

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父・ニコラ 1829年。ミエロシェウスキ[注 4]作。
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母・ユスティナ

ショパンの父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。1794年コシチュシュコの蜂起で、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。彼のフランスで受けた洗礼名はニコラ(Nicholas)だったが、ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにし、ミコワイ(Mikołaj)とした。元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。ポーランドの歴史家・公文書保管人のワパチンスキ(Łopaciński)によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」という[2]

フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった[3]。その中にはスカルベク(Skarbeks)がおり、ニコラはその遠い親戚であるユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と結婚した[4]。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んで侍女をしていた。二人の結婚式は16世紀のブロフフ[注 5]の教区の聖ロフ教会で、1806年6月2日に執り行われた。ユスティナの兄弟には、アメリカ南北戦争北軍准将を務めることになるWłodzimierz Krzyżanowskiがいた[5][6]

フレデリック・ショパンは夫妻の2人目の子供として生まれた[注 6]。彼は当時ワルシャワ公国だったワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。1892年に発見された教区の洗礼記録によると、彼の生年月日は1810年2月22日となっているが[10]これは本人やその家族の主張する3月1日という日付より一週間早い。[11]、ショパンが1833年1月16日にパリのポーランド文学協会(Polish Literary Society)の議長に宛てた書簡には、彼が「1810年3月1日にマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた」と記されている[12]

ショパンは1810年4月23日復活祭の日曜日、両親が結婚式を挙げたのと同じブロフフの教会で洗礼を受けた。登記簿には彼の名前はラテン語表記でFridericus Franciscus[10]、ポーランド語表記でFryderyk Franciszekと記されている。彼の代父となったフレデリック・スカルベク(Fryderyk Skarbek)は後に監獄を改修する仕事[注 7]に従事し、第二次世界大戦で悪名をとどろかせたパヴィアク刑務所の設計に携わった。また彼は第二次世界大戦でイギリスの特殊作戦執行部[注 8]に所属していたクリスティナ・スカルベク(Krystyna Skarbek)の租租叔父にあたる。代父の息子のヨーゼフ・スカルベクは、かつてショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカ(Maria Wodzińska)と1841年に結婚する。

1810年10月、ショパンが7か月の時、サミュエル・リンデ[注 13]が父にワルシャワ学院[注 14]フランス語を教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。学院はサクソン宮殿[注 15]内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。サクソン宮殿は1817年コンスタンチン・パヴロヴィチによって軍用地として徴収され、学院はカジミール宮殿[注 16]へ移動を余儀なくされた[13]。カジミール宮殿には新たに設立されたワルシャワ大学も入居していた。ショパン一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになった。ショパンもワルシャワ学院に1823年から1826年にかけて通った。

ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全には自分のものにできなかった[14][15]。伝記作家のルイ・エノー[注 17]はジョルジュ・サンドの言葉を借りて、ショパンは「ポーランドよりもポーランド的」と評している[16]

ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルートヴァイオリンを演奏できた。母ユスティナはピアノに長けており、一家で切り盛りしていたエリートの寮で寮生の少年たちに指導をしていた[14][17]。こういうわけで、ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた[14]

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姉・ルドヴィカ

ショパンと同時代の音楽家のヨゼフ・シコルスキー[注 18]の著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした[18]。しかし、ショパンに最初にピアノのを教えたのは母ではなく、姉のルドヴィカ[注 6]だった[14]

ショパンが本格的にピアノを習ったのは1816年から1822年、指導者はチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィだった[19]。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童モーツァルトベートーヴェンと比較されるようになっていった[14]

同年、7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキ[注 19]の印刷工房で刷られ、出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の『小ポロネーズ』のみならず、ミヒャウ・オジンスキ[注 20]の有名な『大ポロネーズ』にも匹敵する作品と言われた。この後の旋律・和声・ピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の『ポロネーズ 変イ長調』に明らかである。この曲は1821年聖名祝日の贈り物としてジヴヌィに捧げられた[14]

幼少期の知的好奇心旺盛なショパンは、まるで乾いたスポンジのように何でも吸収し、それを発展させるためならば何でも利用した。彼は早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っていた[14]

この頃、11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシアの皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露した[18]。また、ポーランド立憲王国副王だったコンスタンチン・パヴロヴィチ大公の息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿[注 21]に時々招かれ、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了した[14]

ユリアン・ニームチェヴィツ[注 22]は、劇的エクローグ『我らの交わり Nasze Verkehry』(1818年)の中で、8歳のショパン少年を対話の題材に据えて、その人気の高さについて証言している[14]

1820年代、ワルシャワ学院とワルシャワ音楽院に通っていたショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて過ごすようになった。1824年1825年にはシャファルニャ[注 23]1826年にはバート・ライネルツ(現:ドゥシュニキ・ズドルイ[注 24]1827年にはポメラニア1828年にはサンニキ[注 25]を訪れた[21]

休暇で訪れたシャファルニャ村やその他の町では、ショパンは民謡に触れた。この経験は後になって彼の作品へと形を変える。シャファルニャから彼の家に送られた長い手紙[注 26]は、時代を反映した活き活きとしたポーランド語で綴られており、ワルシャワの新聞のパロディ[注 27]として仕立てられたその手紙は大いに家族を楽しませた。


教育

ショパンは13歳になるまで家庭でジヴヌィから指導を受けており、1823年のワルシャワ学院入学後もその関係は続いた。1825年には演奏会でイグナーツ・モシェレスの曲を弾くとともに即興演奏で聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された[14]

ショパンは1826年シレジア出身の作曲家ユゼフ・エルスネル(エルスナーなどと表記されることもある)の指導の下、ワルシャワ音楽院で3年の教育課程に入った。。そして1826年に本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルに付いて音楽理論通奏低音作曲の勉強を開始した。

エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記している。ジヴヌィもそうだったように、エルスネルもまたショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにした[23]

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クラジンスキ宮殿。ショパンは南館(左側)に住んだ。

1827年に一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにあたる、クラコフスキ区[注 31]のクラシンスキ宮殿[注 32]南館に移り住んだ[注 33]。この場所でもショパンの両親はエリート男子学生のための寄宿塾の経営を続けた。ショパンは1830年にワルシャワを後にするまで、ここに住んだ。1837年から1839年には詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィト[注 34]が芸術アカデミーで絵画を専攻する間、ここに住んだ。彼は後に1月蜂起でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して、『ショパンのピアノFortepian Szopena』という詩を詠んだ[24]。ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されている。ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演した。

両親の営む寄宿塾の寮生の中で4人がショパンと親しくなった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ[注 36]、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキ[注 37]ユリアン・フォンタナである。ショパンは同じジヴヌィ門下だったティトゥスとは特に親しく付き合った[25]。またマトゥシンスキ、フォンタナとはパリに出てからの生活でも交流を続けた[26]

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ショパン
ミエロシェフスキ作

1829年、ポーランドの肖像画家のアンブロツィ・ミエロシェフスキ[注 4]がショパンの両親、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとショパン本人の肖像画を描いた。一番下の妹のエミリアは1827年に亡くなっていた。これらの肖像画の原本は第二次世界大戦で消失しており、現在はモノクロの写真が残る。1913年にフランスの音楽学者・ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュ[注 38]はこう記した。この肖像画からは「この若者が結核に罹っていることがわかる。彼の肌は極端に白く、喉頭隆起が見られ、頬は落ち窪んでいる。また耳も結核に典型的な消耗を呈している」。ショパンの妹のエミリアの14歳での死因も結核であり、また父も1844年に同じ病に倒れることになる[23][27]

ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキ[注 39]によれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。なぜならショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。バッハモーツァルトベートーヴェンですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、ショパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである[23][注 40]

ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していた[29]。しかし、彼の作品は感情的・感覚的な人生体験に触発されることもしばしばあった。そのような霊感を与えた最初の人物は、ワルシャワ音楽院の声楽科学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となった美しいコンスタンツヤ・グワトコフスカ[注 41]である。親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中で、彼のどの作品のどのパッセージが彼女への恋心から生まれたものであるかを綴っている。彼はティトゥスにだけ自分の気持ちを吐露していた[30]。彼の芸術家としての精神はマウリツィ・モツナツキ[注 42]、ユゼフ・ザレスキ[注 43]、ユリアン・フォンタナとの交友で豊かになっていった[31]

青年期

1828年、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。家族的な付き合いのあったフェリクス・ヤロツキ[注 44]が 学会に出席するのに同行して、ベルリンに赴いたのである。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニの指揮する馴染みのないオペラを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルター[注 45]メンデルスゾーンなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごした。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバー歌劇魔弾の射手』、チマローザ歌劇秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いた。その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダ(Wanda)もピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲した [32]

1829年、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメルと出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーンで華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しかでなかったという批判もあった[18]。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21』を初演した。また1830年3月17日にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11』を初演した。この頃には『練習曲集』の作曲に着手していた[18][注 46]

演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った[注 50]。ヤヒメツキ[注 39]はこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない[32]」。ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。

その後、11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである[32]」。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。

1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。彼は母語ポーランド語で「コンラッド(Konrad)[33]の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した[34]。彼は家族と市民の安全が犯されることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将[注 51]」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか[35]」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などでの音楽表現として見出すことができる[32]

パリ時代

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『ショパンのポロネーズ』
テオフィル・クヴィアトコフスキ[注 52][注 54]

ショパンは1831年9月の暮れにパリに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか決めかねていた[32]。最初は、現在のパリ2区ポワソニエール大通り (Boulevard Poissonnière) 27番地に住み[36]、翌1832年に現在の9区シテ・ベルジェール (Cité Bergère)、1836年に同ショセ=ダンタン通り38番地へ転居したように[37]、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民[注 55]」の一人となったことになる[11]1832年2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のフェティスは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである[38]」。その3ヶ月前の1831年12月には、シューマンがショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲 Op.2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。「諸君、脱帽したまえ、天才だ[39]

パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た[40]。彼はベルリオーズリストベッリーニヒラーメンデルスゾーンハイネドラクロワチャルトリスキ公ヴィニーアルカンらと交友関係を築いた[40]

ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが[41][42]、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。フランスの旅券で旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる[43]。このフランスの旅券が発行されたのは1835年8月1日であり、これを境にショパンはフランスの市民となった[44]

ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはサロンだった。サロンは貴族や芸術・文学のエリートの集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。彼の健康状態は思わしくなく、そのためヴィルトゥオーゾとしてあちこち外遊することはできなかった。一度ルーアンで演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという[40]。彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた[18]。アーサー・ヘドレイ[注 56]はこう見ていた。「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである[45]

1835年、ショパンはカルロヴィ・ヴァリに行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。パリへ戻る途中でザクセン州を通った彼は、ドレスデンでワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵(Wodziński)一家に会った。5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリア(Maria)はその時16歳になっていた。その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう[46]。翌1836年の9月にはヴォジンスキ一家とマリーエンバードでの休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さ[注 57]によって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより[1]、結婚はついに現実のものとはならなかった[47]。ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda」と書いた[40]

ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』に残されている。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。それらはポーランドロマン派[注 58]の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ[注 59]、ヨゼフ・ザレスキ[注 43]アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものだった[48]

婚約破談後は、ポーランド人のポトツカ伯爵夫人がショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『子犬のワルツ』を献呈している[40]

パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。そのようなプログラム掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。例えば、1833年3月23日の演奏会ではショパン、リストヒラーバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲』を演奏し、1838年3月3日にはショパン、その弟子アドルフ・グートマン(Adolphe Gutman)、アルカンとその師のピーエル・ジメルマン[注 60]の4人で、アルカンのピアノ8手用編曲でベートーヴェンの『交響曲第7番』を演奏している。

また、ショパンはリストのベッリーニの主題による『ヘクサメロン変奏曲』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。

ジョルジュ・サンドとの生活

1836年、友人であり仲間だった作曲家のリストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人のホームパーティーの場で、ショパンはジョルジュ・サンドとして知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)と出会った。サンドの過去の恋人にはジュール・サンドー[注 61](2人が文学において協力関係にあったことで「ジョルジュ・サンド」というペンネームが誕生した)、プロスペル・メリメアルフレッド・ド・ミュッセ、ルイ=クリソストム・ミシェル(Louis-Chrysostome Michel)、作家のシャルル・ディディエール(Charles Didier)、ピエール=フランソワ・ボカージュ(Pierre-François Bocage)、フェリシャン・マルフィーユ[注 62]がいた[49]

ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていた[40]。彼はヒラーにこう宣言している。「なんて不快な女なんだ、サンドというやつは!いや、彼女は本当に女性なんだろうか。疑いたくなってしまうよ[50]」。しかし、サンドは自らとショパンの共通の友人のヴォイチェフ・グジマワ伯爵(Wojciech Grzymała)に32ページにわたる率直な手紙をしたため、そこで彼に対する強い感情を認めている。その手紙の中で、彼女は自分がショパンとの関係を始めるために現在の恋人を捨てるべきか思案しており、またショパンとマリア・ヴォジンスカの以前の関係がいかなるものだったかを知ろうとしていると述べている。マリアとの関係については、万一まだ続いているのであれば彼女は邪魔したくないと考えていた[51]1838年の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となった[40]

彼らが2人でいた時期の特筆すべきエピソードには、大荒れで悲惨だったマヨルカ島での冬(1838年11月8日 - 1839年2月13日)が挙げられる。彼らとサンドの2人の子供は、ショパンの悪化する健康状態が改善するよう願ってその地へ赴いた。しかし宿泊施設を見つけられず、4人は景色は良いながらも荒れ果てて寒々とした、ヴァルデモッサ[注 63]のかつてカルトジオ会修道院だった建物の軒を借りざるを得なくなった[52]

ショパンもまた自分のプレイエルのピアノを輸送するのに問題を抱えていた。ピアノは12月20日にパリから到着していたが、税関で止められてしまったのだ。ショパンは12月28日にこう記している。「私のピアノが税関に引っかかって8日目になる。彼らがピアノを渡すために要求している金額は、信じられないほど高額なのだ」。その間、ショパンはガタガタのピアノを借りて、それで練習をし、作曲を行った。

12月3日、ショパンは体調の悪さとマヨルカ島の医師が無能なことに不満を呈している。「この2週間の間、私は犬のように病にかかっている。3人の医者が往診に来た。1人目は私が死ぬと言い、2人目は今吸っている息が最後になると言い、3人目は私がすでに死んでいると言った」

1839年1月4日にジョルジュ・サンドが300フラン(要求額の半分だった)を払うことを承諾し、プレイエルのピアノは税関を通過することができた。それが届いたのは1月5日だった。その後ショパンは待ちわびた楽器をほぼ5週間にわたって使えるようになり、その十分な時間でいくつかの作品を完成させた。『前奏曲 Op.28』の数曲、『バラード第2番 Op.38』の改定稿、Op.40の『2つのポロネーズ(第3番第4番)』、『スケルツォ第3番 Op.39』、『マズルカ Op.41』のホ短調、。このマヨルカ島でのひと冬は、ショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つと考えられている。

冬の間の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために一行は島を去らざるを得なくなる。愛用のフランス製のピアノは急な帰国の邪魔になった。そのような状況だったが、サンドはなんとかピアノをフランス人夫婦に売却した[注 64]

4人の一行はまずバルセロナへ、次にマルセイユへと向かい、そこで数か月滞在して回復を待った。1839年5月、彼らはサンドの別荘で夏を過ごすためにノアン[注 65]を目指した。彼らは秋にはパリへ戻り、最初は離れて暮らした。ショパンはすぐに現在のパリ8区トロンシェ通り(rue Tronchet)5番地のアパートを離れ、現在の9区ピガル通り(rue Pigalle)16番地のサンドの家へ移り住んだ。4人はその住所で1839年の10月から1842年の11月まで一緒に暮らしたが、1846年まで夏季のほとんどはノアンで過ごした[53]。彼らは1842年に現在のパリ9区スクワール・ドルレアン(Square d'Orléans)があるテブー通り(rue Taitbout)80番地に移り、隣同士の建物で暮らした[54]

この時期にショパンがピアノ以外の楽器を演奏したという証拠がある。ナポリで急逝したテノール歌手のアドルフ・ヌリ[注 66]の遺体が埋葬のためにパリへ戻った際、その葬式でショパンはシューベルトリート『天体 Die Gestirne』のオルガン編曲を演奏した[55]

ノアンでの夏、特に1839年から1843年にかけてはショパンにとって静かながらも創造的な日々となり、そこで多くの作品を生み出した。ショパン作品の中でも有名な『英雄ポロネーズ Op.53』もそうした作品である。サンドはショパンの騒々しい創作の過程について記している。ショパンは情熱に溢れ、涙を流し、不平を口にしつつ、時には着想そのものまで覆してしまうほど多くの構想の見直しを行った。友人のドラクロワと過ごしていた、ノアンでのある午後のことである。

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ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。そうした手紙の中では、彼のことを「子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」などと記していた[54]

1845年、ショパンの病状が悪化を続ける中、彼とサンドの間に深刻な問題が生じた。1846年には彼女の娘のソランジュ(Solange)と若い彫刻家のオーギュスト・クレサンジェとの関係などの諸問題によって、2人の関係はますます険悪になった。サンドは1847年に小説『ルクレツィア・フロリアーニ Lucrezia Floriani』を出版した。主人公の裕福な女優と身体の弱い王子は、サンドとショパンのことを指すと解釈できる。サンドのゲラ刷りの校正を手伝ったショパンが、彼にとって失礼なこの話の内容を見逃すはずはなかった。1847年、彼はノアンを訪れなかった。共通の友人たちは2人を和解させようと試みたものの、ショパンが応じることはなかった[54]

そのような友人の1人にメゾ・ソプラノポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドがいる。サンドは1843年にヴィアルドをモデルに小説『コンシュエロ Consuelo』を執筆しており、三人はノアンで多くの時間を共に過ごした。ヴィアルドは著名なオペラ歌手だったが、元来ピアノで身を立てることを希望しておりリストレイハに師事する優れたピアニストでもあった。彼女はショパンと互いに尊敬しあい、また気が合ったことから友人として付き合っていた[56]。2人はしばしば共演することもあった。ショパンは彼女にピアノの技術的な助言を与え、彼女がショパンの『マズルカ』の旋律をもとに歌曲を作曲するのを手伝った。彼はお返しとして、ヴィアルドからスペインの音楽English版を直接知ることができた[56]

1847年、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた[54]。なれそめから2人の恋路を見届けたヴォイチェフ・グジマワ伯爵はこう述べている。「もし(ショパンが)G.S. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、彼はケルビーニの歳まで生きていただろうに[注 67]

晩年

ショパンのヴィルトゥオーゾとしての一般からの人気は翳りを見せ、それに伴って弟子の数も減少した。1848年に彼はパリでの最後の演奏会を開く。パリでは革命が進行中だった4月[58]、彼はロンドンへと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた[54]。この演奏旅行は彼のスコットランド人の弟子で、時に秘書もこなしたジェーン・スターリングとその姉のカセリン・エースキン(Katherine Erskine)の発案によるものだった。また、スターリングは必要な準備をすべて整え、必要経費を提供した。彼女はサンドとの別離の後、脱出できない鬱状態に陥ったショパンの支えとなった[1]

夏も終わりかけた頃、ショパンはスターリングに招かれて、スターリング家の者が所有するエディンバラ近郊のカルダー邸(Calder House)と居城(グラスゴーに程近いレンフルーシャーのジョンストン[注 70][59]にあった)に滞在した。そうしているとスターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が国を超えて広がったが、ショパンが彼女に恋愛感情を抱いていないことは明らかだった。エディンバラでは開業医のアダム・ウィシュツジニスキ(? Adam Łyszczyński)医師の住むワリストン街路(Warriston Crescent)10にも滞在しつつ、そこで医師の治療を受けた。ショパンはあまりにも弱っており、階段の上り下りでは医師またはその召使が彼を抱えなければならなかった。ショパンはエディンバラでは1度だけ演奏会を開いている。それはクイーン通りのホープトーン・ルームズ(Hopetoun Rooms 現エースキン邸)においてだった[60]

1848年10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家で[61]、ショパンは最後の遺言をしたためた。「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた[54]1848年11月16日、彼はロンドンのギルドホール[注 71]の演奏段上で最後の公開演奏を行った。それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった[18]。この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである[62]

11月の終わりにショパンはパリへ戻った[54]。イギリス旅行はロンドンでのヴィクトリア女王の御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていた[1]。冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のアダム・ミツキエヴィチを見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった[54]

2011年3月24日、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館が長く行方不明だったショパンの手紙を発見した。それらの手紙の日付は1845年から1848年とされており、彼の日常生活と『チェロソナタ』に関する記述がなされている。手紙は博物館で2011年4月25日まで展示されていた[63]

最期

ファイル:Ostatnie chwile Fryderyka Chopina.jpg
『死の床にあるショパン』 1849年
テオフィル・クヴィアトコフスキ[注 52][注 72]

ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。1849年6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた[54]。同年9月にはヴァンドーム12の陽の当たるきれいなアパートに移り住んだ。それは以前はロシア大使館が入居していた物件で、7部屋を有する2階の賃料はショパンに払えるものではなかったが、ジェーン・スターリングが彼のためにそれを肩代わりした[64]

10月15日になるとショパンの病状は一層深刻となり、彼を訪ねてくる多くの者は会うことを許されず、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添った。この最期の2日間で彼らは2回ほどショパンが事切れたものと思ったが、彼は再び息を吹き返すことができた。ポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌っている。また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。もっとも、その数日前には自分は神の存在を信じないからと、信仰告白を拒んでいたのだが。彼はジョルジュ・サンドが自分に「私の腕の中で息を引き取らせあげる」と約束したのに、と不平を口にした。彼は紙片を要求し、そこにこう記した。「Comme cette terre m'étouffera, je vous conjure de faire ouvrir mon corps pour [que] je ne sois pas enterré vif.(土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。生き埋めになりたくないんだ。)[64]」。10月17日の深夜12時過ぎ、医師がショパンの身体に乗りかかってひどく苦しいかと尋ねた。「もう何も感じない」とショパンは答えた[64]。午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った[65]

ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。死亡診断書では死因は肺結核とされている。一方でショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝子疾患嚢胞性線維症など)とする説もある[66][67][68][69][70]。しかし、現代の呼吸器治療と医療的支えのない19世紀において、嚢胞性線維症を抱えながら39歳まで生き延びることは事実上不可能という検討もさらになされ得る[70][71]。ショパンが長く苦しんだ病についての総説が2011年に出版されている[72]。文脈から事実を読み解くと、ショパンを苦しめた疾病は肺結核の可能性が高い[73]

ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって「ショパンの最後に居合わせた」と主張するようになったと、タッド・シュルツ(? Tad Schulz)は記している。彼らは「歴史の証人になりたがっているようだ[74]」。実際にショパンの死の床に付き添ったのは、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人[注 73]、ソランジェとオーギュスト・クレサンジェ夫妻、ショパンの弟子で友人のアドルフ・グートマン、友人のトーマス・アルブレヒト(Thomas Albrecht)、信頼を置いていたポーランドのカトリック教会司祭のアレクサンダー・イェウォヴィツキ(Aleksander Jełowicki)神父だった[65]

夜が明けてから、クレサンジェはショパンのデスマスクを作り、また彼が傑作を生み出した左手の型を取った。彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、クラコフスキ区[注 31]の聖十字架協会[注 74]のレオナルド・マルコーニ[注 75]作のエピタフの下の柱に、コニャックと思しきアルコールに浸けられて収められた[68][69][70]。そこにはマタイによる福音書6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」が刻まれている。ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された時を除き、その教会で眠っている。現在の教会は1944年ワルシャワ蜂起で大きく破壊されて再建されたものである。教会はショパンが最後に住んだポーランドの家であるクラコフスキ区5のクラジンスキ宮殿[注 32]からすぐ近くのところにある。

葬儀

ショパンの墓[注 77]

パリのマドレーヌ寺院で行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れて10月30日に行われることになった。予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた[75]。招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された[75]

モーツァルトの『レクイエム』が歌われることが、急遽決められた。これはショパンの遺言とも言われたが、友人のグートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである[75]。『レクイエム』は大部分が女声合唱によって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。しかし、教会は女性歌手を黒いベルベットのカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。『レクイエム』のソリストは、ソプラノがジャナネ・カステラン(? Jeanne-Anais Castellan)[75]メゾソプラノがショパンとサンドの友人だったポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド[76]テノールがアレクシス・デュポン[注 78][75]バスハイドンベートーヴェンヴィンチェンツォ・ベッリーニの葬儀でも歌ったルイージ・ラブラーケ[注 79]である。また、ショパンの『前奏曲集』から第4番 ホ短調と第6番 ロ短調が演奏された。葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。

葬送の行進は町の中央のオペラ座の隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のペール・ラシェーズ墓地までの非常に長い距離にわたった。葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたチャルトリスキ公であり、芸術家たち(ウジェーヌ・ドラクロワチェリストオーギュスト・フランショーム、ピアニストのカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel)など)が交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた[64]

埋葬の際には、その横でナポレオン・アンリ・ルベール[注 80]管弦楽編曲によるショパンの『葬送行進曲』が演奏された[77]。このことについて、参列していたジャコモ・マイアベーアは後年、自分が編曲者として選ばれなかったことに失望したと述べている[75]

ショパンの墓石はオーギュスト・クレサンジェが設計・製作したもので、音楽のムーサエウテルペーが壊れたライアーの上で涙を流す姿をかたどったものである。葬儀と碑の製作にかかった費用は合計5,000フランだったが、姉のルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて、全てはジェーン・スターリングが負担した[64]。スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していた(生涯そうしていたとする文献もある)。

ショパンの墓には多くの人が訪れ、冬場でも捧げられる多くの花が絶えることはない。

人物

生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。

幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。

後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生已まず、死後遺言により心臓がポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもある。

女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』など多くの傑作が生まれた。

ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これはバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。『前奏曲作品28』を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみだったという。

同時代の有名な作曲家で評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。

性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えば1830年ウィーンに来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して[1])。

写真は2枚残されており[78]1846年の写真は損傷が激しい。もう1枚は、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソンによって撮られたものである。

ファイル:ルイ=オーギュスト・ビソンによる晩年のショパン.jpg
ルイ=オーギュスト・ビソンによる晩年のショパン

2011年3月にショパンの死後撮影された写真を発見したとポーランドの写真収集家が発表した[78][79]。この写真には、ベッドに仰向けに横たわるショパンの横顔が写されており、ビソンの署名がある。しかし、ショパン博物館の学芸員・パリのポーランド図書館の写真専門家・ショパン研究家の3者は、この写真を偽造としている[80]

2017年1月にスイスの物理学者アラン・コーラーによる新たな写真の発見が発表された[81]

ショパンの書簡に関する問題

ショパンの書簡については、作品同様に戦乱によってその大部分が消失していること、ティトゥス・ヴォイチェホフスキら一部の友人及びモーリッツ・カラソフスキら後世のポーランドの伝記作家が国粋主義的な動機から改竄を加えたことなどから、友人による写しなどソースが怪しいものが多く、それらにもとづく虚実不明のエピソードが現在に至るまで流布している。

代表的な事例として、第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンがデルフィヌ・ポトツカ伯爵夫人に書いたという大量の書簡を公表した、というケースがある。これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため議論を巻き起こした。彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作とされている。1950-60年代に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。ちなみに、ショパンがポトツカ伯爵夫人に書いた本物の手紙は一点のみ現存している[82]

作品

ショパンは、多くのピアノ作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。出版されている作品についても、戦乱により自筆譜が失われているものが多い。

ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。

ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったユリアン・フォンタナをはじめとするショパン研究者によって出版された。主な遺作には、『幻想即興曲』『レント・コン・グラン・エスプッレシオーネ 嬰ハ短調(夜想曲 第20番)』などがある。

フォンタナは、ショパンの原稿に手を加え、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。遺作にあたる作品66から74は、フォンタナによって付けられた作品番号である。

なおショパンの作品の分類番号は2つある。KK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とBI(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。ヤン・エキエルは、彼自身が編纂しているナショナル・エディション(ショパン全集)の中で、作品番号の付いていない作品に限って、WN(Wydanie Narodowe = ナショナル・エディション)というエキエル独自の作品分類番号を記している。

編曲

オーケストラ曲

有名なものとして、いくつかの楽曲にオーケストレーションを施してまとめた数種のバレエ音楽がある。

  • レ・シルフィード(Les Sylphides) - 1909年初演のバレエ曲目。バレエ演目としてのショパンの編曲では最も有名なもの。編曲者は多数にわたるが、次項のグラズノフを含む。ラ・シルフィード(La Sylphide) - 1835年初演のバレエ曲目と混同される事があるが、こちらはショパンとは関係ない。
  • ショピニアーナ(Chopiniana) - グラズノフ編曲によるもの。バレエ音楽としての『レ・シルフィード』そのものを指す場合と、『レ・シルフィード』からグラズノフの編曲によるものをさらに抜粋した演奏会用組曲を指す場合がある。英雄ポロネーズや軍隊ポロネーズ、ノクターンやマズルカなどにオーケストレーションが施されている。

ピアノ曲

歌曲

  • ポーリーヌ・ヴィアルド 『6つのマズルカ』 - ルイ・ポメ(Louis Pomey)のフランス語の詞による歌曲への編曲。ショパンの面前でも演奏された[83]
    • 第1集(1864年出版)作品6-1・作品7-1・作品24-1・作品33-3・作品50-2・作品68-2の編曲。
    • 第2集(1888年頃出版)作品6-4・作品7-3・作品24-2・作品33-3・作品50-1・作品67-1の編曲。

楽譜

ポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)やヘンレ社やペータース社などの原典版楽譜では、ショパン自筆の楽譜と、フォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており、比較することができる。

ポーランド音楽出版社polski版 (PWM = Polskie Wydawnictwo Muzyczne )版
ショパン全集 (全27巻) イグナツィ・パデレフスキ編集。通称 「パデレフスキ版」または「クラクフ版」
全27巻の中から1曲または数曲を収めたピース版と作品選集も刊行されている。
ショパン・ナショナル・エディション財団(FWN = Fundacja Wydania Narodowego Dziel Fryderyka Chopina )版
ショパン全集 (全37巻) ヤン・エキエル編集。通称「エキエル版」または「ナショナル・エディション」 (補遺作品集以外は、2010年に完結)
1995年に装丁デザインが変更された。要約及び校訂報告がポーランド語版だけでなく英語版も出版された。一部の楽譜ではフランス語版とドイツ語版も出版されている。
ペータース社
ブロニスラウ・フォン・ポツニアク (ブロニスワフ・プズニャク)とヘルマン・ショルツ編集
ショパン全集・新校訂による原典版 (ロンドン・ペータース社から現在刊行中)
ウィーン原典版
ヤン・エキエル編集。但し、エチュード集がパウル・バドゥラ=スコダ編集で24の前奏曲作品28がコンラート・ハンゼン編集。
ヘンレ社原典版 (通称「ヘンレ版」)
サラベール社版(アルフレッド・コルトーによる校訂。通称 「コルトー版」)
デュラン社版(ガブリエル・フォーレおよびクロード・ドビュッシーによる校訂)
音楽之友社
春秋社版(井口基成による校訂)
全音楽譜出版社
エチュードのみ山崎孝校訂による原典版もある。

メディア

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フレデリック・ショパンを扱った作品

題名及び歌詞に出てくる楽曲

映画

小説・漫画

ゲーム

アニメ

脚注

注釈
  1. 姓のショパンについては、ショパンと同時代のポーランド語文献では Szopę (Chopin) というポーランド語式発音綴りと仏語式綴りの併記が多く見られ(ę [ɛɰ̃] は鼻母音)[1]、近世以降はポーランド語化が進み格変化をもつ Szopen という綴りが Chopin と共に一般的だった。
  2. 国際音声記号による発音表記は [frɨˈdɛrɨk franˈt͡ɕiʂɛk ʂɔˈpɛn]
  3. フランス語 le poète du piano、ポーランド語 poeta fortepianu、英語 the poet of the piano、ドイツ語 der Poet am Klavierなど。
  4. 4.0 4.1 1802年生まれ。ポーランドの画家。ショパンの肖像画で知られる。(Ambroży Mieroszewski
  5. ポーランド中央東寄り、マゾフシェ県、ソハチェフ群の村。ワルシャワより52kmの位置にある。(Brochów
  6. 6.0 6.1 ショパンには3人の姉妹、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとエミリアがいた[7]。特に姉のルドヴィカ(1807年4月6日 - 1855年10月29日)とは仲がよく、読み書きやピアノを彼女から教わった[8]。2人は終生仲睦まじく書簡を交わし、ショパンは彼女が『ピアノ協奏曲第2番』を練習するために『夜想曲第20番』を作曲した。ルドヴィカはショパンの臨終に立ち会い[9]、遺言に従い彼の心臓をパリからポーランドに持ち帰った。
  7. 監獄を改修し、より刑罰に適した環境に造り変える仕事。(Prison Reform
  8. 戦時経済担当大臣(Minister of Economic Warfare)のヒュー・ダルトン(Hugh Dalton)によって組織された部隊。スパイサボタージュ枢軸国の偵察、各地の抵抗運動への協力を行っていた。
  9. ジェラゾヴァ・ヴォラ村にある伯爵ウォンチニスキ家(Łączyński)のマナー・ハウス。ポーランド国立ショパン博物館分館。
  10. ブロフフ村。ここでショパンの両親が結婚し、またショパンが幼児洗礼堅信礼を受けた。
  11. 「この聖域において、ジェラゾヴァ・ヴォラ村で1810年2月22日誕生のフレデリック・ショパンが1810年4月23日に洗礼を受けた」
  12. 写真はショパンが洗礼を受けたときにも使われた聖水盤
  13. ポーランドの言語学者・司書・辞書編集者。ワルシャワ学院の校長だった。(Samuel Linde
  14. 1804年開校のワルシャワのセカンダリー・スクール1830年11月蜂起の後、ロシア帝国に閉鎖された。(Warsaw Lyceum
  15. 1666年建造。1944年ワルシャワ蜂起で破壊され、さらにドイツ軍の計画破壊(Planned destruction of Warsaw)でアーケードのみ残して消滅した。(Saxon Palace
  16. 1660年建造。サクソン宮殿同様の経緯で1944年に破壊されたが、2006年EUの基金などによって再建された。(Kazimierz Palace
  17. フランスのジャーナリスト・小説家。1824年カルヴァドス県、イジニ・シュール・メール(Isigny-sur-Mer)生まれ。(Louis Énault
  18. 1813年生まれ。音楽活動・音楽評論活動などを行った。(Józef Sikorski
  19. Izydor Józef Cybulski; 彫刻師・作曲家・オルガン学校の校長で、ポーランドで数少ない音楽出版業を営んでいた
  20. ポーランドの作曲家・外交官・政治家。スタニスワフ・ポニャトフスキ王に仕え、為政を支えた。(Michał Kleofas Ogiński
  21. 1660年建造。1818年以降、パヴロヴィチの住居になっていたが、彼は11月蜂起で追放される。(Belweder
  22. ベラルーシ生まれのポーランドの詩人・劇作家・政治家。中級貴族の御曹司であり、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキの側近として仕えた。(Julian Ursyn Niemcewicz
  23. ポーランド中央北寄りクヤヴィ=ポモージェ県の村(Szafarnia)。ショパンは級友のドミニク家に招かれここを訪れた。[20]
  24. 現在のポーランド南西部ドルヌィ・シロンスク県チェコとの国境に位置する、19世紀初頭にこの地方で栄えた温泉リゾートの町。当時はプロイセン領。若きショパンも温泉を目指して訪れた。1826年には2度のチャリティーコンサートを開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。現在では世界最大のショパン祭り[2]が毎年開かれている。(Duszniki-Zdrój
  25. ポーランド中央、マゾフシェ県の村。ワルシャワから西に約79km。(Sanniki
  26. これらは「シャファルニャ通信」と題された、新聞形式の手紙である。少なくとも6通が作成されたことがわかっており、うち4通は自筆原本が残っている[22]
  27. ショパンが想定していたのはクリエル・ヴァウシャフスキ紙であり、その書体・体裁を模して書かれている[22]
  28. 1824年1825年にショパンが滞在した。写真はシャファルニャのマナー・ハウス
  29. 温泉リゾート。ショパンは1826年に訪れた。
  30. ショパンがワルシャワに移って最初に住んだ家。ワルシャワ大学の構内だった。現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。
  31. 31.0 31.1 宮殿や教会などに囲まれた、ワルシャワでも有名かつ誉れ高い一角。(Krakowskie PrzedmieścieKrakowskie Przedmieście テンプレート:IPA-pl
  32. 32.0 32.1 チャプスキ宮殿の別名。ポーランドでも優れたロココ調建築の一つと考えられている。(Czapski Palace テンプレート:IPA-pl
  33. この場所は現在、ワルシャワ芸術アカデミー(Academy of Fine Arts in Warsaw)になっている。
  34. 1821年生まれ。ポーランドの詩人・劇作家・画家・彫刻家。ポーランド王ヤン3世の血筋に当たる。(Cyprian Norwid (テンプレート:IPA-pl
  35. ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。
  36. 1808年生まれ。実業家・芸術家のパトロン。(Tytus Woyciechowski
  37. 1809年生まれ。医師。(Jan Matuszyński
  38. 1880年生まれ。ショパン研究家。1911年にはラヴェルらと共にパリにショパン協会(Société Chopin)を設立している。(Édouard Ganche
  39. 39.0 39.1 1882年生まれ。ポーランドの音楽史家・作曲家。ヤギェウォ大学クラクフ音楽アカデミーの教授を務めた。(Zdzisław Jachimecki
  40. ヤヒメツキのようなポーランド人作家の記した伝記には、多分にポーランド人としてのショパン、加えてそのナショナリズムを強調する傾向が見られるという指摘がある[28]。本文にはこの後もヤヒメツキの引用がある。参考にする際は注意。
  41. 1810年生まれ。ポーランドのソプラノ歌手。1830年にポーランドを後にするショパンの送別会で歌っている。2年後に結婚し、5人の子をもうける。1845年に失明。1889年スキェルニェヴィツェで死去。(Konstancja Gładkowska
  42. 1803年生まれ。ポーランドの文学・演劇・音楽批評家。また、出版者・記者・ピアニストなどとしても活躍した。(Maurycy Mochnacki
  43. 43.0 43.1 1802年生まれ。ポーランドの詩人。アダム・ミツキェヴィチの友人だった。ウクライナ詩作学校(Ukrainian school)の創設に関わる。(Józef Bohdan Zaleski
  44. 1790年生まれ。ポーランドの動物学者・昆虫学者。40年以上にわたってワルシャワ大学の動物学科を組織した。(Feliks Jarocki
  45. 1758年生まれ。ドイツの作曲家・指揮者・教育者。メンデルスゾーン姉弟やマイアベーアなどを教えた。(Carl Friedrich Zelter
  46. 初演時期などには異説がある。各曲へのリンクなども参照。
  47. ポーランドのワルシャワに位置する。写真は王宮のオランジュリー。ショパンがよく演奏会を行った。
  48. 初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日の午後に無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。
  49. ポーランド西部、ヴィエルコポルスカ県アントニンにある、狩猟用の宮殿・邸宅。ラジヴィウ家は大貴族(マグナート)であり、その当主のアントニ・ヘンリク・ラジヴィウに招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した。現在はここでショパン祭りが毎年開催される。
  50. このあたりのエピソードに関しては、作り話という指摘もある。
  51. 1777年生まれ。ポーランドの砲兵隊大将。1831年9月6日にはロシア軍の侵攻からワルシャワを防衛するが、降伏後に銃剣で殺害されたという。(Józef Sowiński
  52. 52.0 52.1 1809年生まれ。ポーランドの画家。11月蜂起の後は抑圧を逃れてフランスへ移住した。ショパンに関する絵画作品を残している。(Teofil Kwiatkowski
  53. パリサン=ルイ島の大邸宅であり、ここに集まったポーランドの政治家たちのあだ名ともなった。(Hôtel Lambert 発音: [otɛl lɑ̃bɛːʁ]
  54. パリ、チャルトリスキ公所有のオテル・ランベール[注 53]での舞踏会の様子を描いたもの
  55. 1831年から1870年の間に、ポーランドから国外へ移住した知的階層を指す。これは当時ポーランドがロシア帝国プロイセン王国ハプスブルク君主国の3国に分割されていたことに起因する。(Great Emigration
  56. 1905年生まれ。イギリスの音楽学者。ショパンの伝記を著した。(Arthur Hedley
  57. 1835年から1836年にかけての冬には彼の病状は非常に悪く、ワルシャワではショパンは死んだという噂が囁かれたほどだった
  58. 1820年頃からのポーランドの知的・芸術的文化の栄えた時期をいう。1864年1月蜂起に伴う抑圧により終了した。(Romanticism in Poland
  59. 1801年生まれ。ポーランドの詩人。ショパンは彼に『マズルカ Op.41』を献呈し、また10編の詩に曲をつけている。(Stefan Witwicki
  60. 1785年生まれ。フランスのピアニスト・作曲家・音楽教師。作曲に関してはシャルル・グノーセザール・フランクジョルジュ・ビゼーアンブロワーズ・トマらの師だった。グノーは彼の娘と結婚している。(Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann
  61. 1811年生まれ。フランスの小説家。1858年アカデミー・フランセーズの会員に選ばれている。(Jules Sandeau
  62. 1813年生まれ。フランスの小説家・劇作家。リストの未完のオペラ『サルダナパールEnglish版』の台本を書いた。(Félicien Mallefille
  63. マヨルカ島内の村。彼らが泊まった修道院(Valldemossa Charterhouse)は14世紀1399年)の建築。(Valldemossa
  64. カヌ夫妻 Canutである。カヌ夫妻の子孫は、マヨルカ島のショパンの遺産とショパンが使用したファルデモッサの一人部屋の博物館の管理人をしている。
  65. フランス中央部、アンドル県コミューンシャトールーから南東へ約36キロ。(Nohant
  66. 1802年生まれ。フランスの歌手・台本作家・作曲家。歌手としては特にロッシーニの作品を得意とした。(Adolphe Nourrit
  67. ショパンは39歳で生涯を閉じたが、その友人のケルビーニは1842年にパリで81歳で亡くなっている[57]。両者の墓はペール・ラシェーズ墓地で4メートルの距離に位置している。
  68. 当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンの部分はルーヴル美術館に、サンドの部分はデンマーク王立美術館に所蔵されている。
  69. 1800年生まれ。フランスの画家・リトグラフ作家。多くの作家・芸術家の肖像画を描いた。(Achille Devéria
  70. ペイズリーより3マイル、グラスゴー中心街からは12マイル西に位置し、スコットランドでも最大のコナベーションの一角をなす。(Johnstone
  71. ロンドンで数百年にわたり市民ホールと使用されてきた建物。現在はシティ・オブ・ロンドンとその地方公共団体(City of London Corporation)の行政の中心となっている。(Guildhall, London
  72. スターリングの委嘱で描かれた作品。ショパンがベッドで起き上がっており、左からアレクサンダー・イェオヴィツキ、姉のルドヴィカ、チャルトリスカ公爵夫人、ヴォイチェフ・グジマワ、クヴィアトコフスキ本人の姿が描かれている。
  73. 1817年生まれ。ポーランドの貴族・ピアニスト。フランツ・リストポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドアンリ・ヴュータンなどとともにヨーロッパを演奏旅行するなど、ピアニストとして成功した。(Marcelina Czartoryska
  74. ワルシャワ大学のキャンパス正面にあるカトリック教会で、ワルシャワにおいて名高いバロック様式の建築。(Holy Cross Church
  75. 1835年生まれ。ポーランド及びオーストリア=ハンガリー帝国の彫刻家。(Leonard Marconi
  76. ポーランド、ワルシャワのポヴォンズキ墓地。
  77. エウテルペーが壊れたライアーの上で涙を流す姿がモチーフ。4つ左隣にはケルビーニが眠る。
  78. 1796年もしくは1798年生まれ。フランスの歌手。オペラ=コミック座パリ国立オペラなどで歌っていた。(Alexis Dupont
  79. 1794年生まれ。フランスとアイルランドの血を引く歌手。『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロは適役だった。(Luigi Lablache
  80. 1807年生まれ。フランスの作曲家。バレエ喜劇・4曲の交響曲などを遺している。(Napoléon Henri Reber
  81. ヤヌシュ・オストログスキ1681年より建築、のちにザモイスキ家が購入してワルシャワでの下屋敷として使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。撮影は2007年のものだが、その後全面改装し2010年3月に再開館している。
出典
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  10. 10.0 10.1 ブロフフの聖ロフ教会のショパンの洗礼記録(ラテン語表記、4月23日付)では、ショパンの生まれた陽は2月22日とされている。[3]
  11. 11.0 11.1 Smolenska-Zielinska, Barbara. “Life / Biography – general outline”. Fryderyk Chopin Society. . 26 February 2010閲覧.
  12. ショパンの書簡の縮約版「フレデリック・ショパンの書簡選集 Selected Correspondence of Fryderyk Chopin」 収集、注釈Bronislaw Edward Sydow、翻訳 translated by Arthur Hedley、 McGraw-Hill, 1963, p. 116
  13. [4] Fryderyk Chopin Information Centre.
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 14.7 14.8 14.9 Jachimecki, p. 420.
  15. 「言葉は父から子に共通していた別の問題である。自らの出自を隠し、自分がポーランド人であることを示そうと注意を払う外国人であったニコラは、敵の前線に潜入したスパイの如く慎重であった。彼はポーランドで生まれた子どもたちに、自分のフランスの家族のことを1度も話さなかったようである。フランス語は貴族にとっては『リングワ・フランカ』(共通語)であり、ニコラが他人の子息に教えるものではあったが、自分の子どもには教えなかったのである(中略)結果としてフレデリックのフランス語文法と綴りの把握はおぼつかないものとなった。並外れた『耳』と幼い頃のずば抜けた物真似を褒められていた自分物としては驚くべきことだが、彼の発音もまた貧弱なものであった。より印象的なのは、彼が取り入れた言葉に居心地の悪さを感じていたということだった。フランス人とのハーフで、移民天国であるパリに住みながら、ショパンは常に2重の疎外感を覚えていた。祖国と母語からの疎外感である。外国語という檻の中に閉じ込められたショパンにとって、音楽の持つ表現力が自分を解き放ってくれるものだったのである」Benita Eisler, Chopin's Funeral, Abacus, 2004, p. 29.
  16. 「ショパンは半生をパリで過ごしながらもポーランド人の性質を持ち続けており、『孤独な魂』であった。伝記作家のルイ・エノール(Louis Enault)はこう述べている。『スラヴ人は自らを快く貸しはするが、与えはしない。ショパンはポーランドよりもポーランド人的である。』」 (March 2007) Music Through the Ages – A Narrative for Student and Layman. Google Books. ISBN 978-1-4067-3941-1. Retrieved on 14 February 2010. 
  17. 「両親の寮の下宿生のうち4人が、彼の親友となった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキとユリアン・フォンタナである。彼は(後に)後者2人とはパリでの生活を共にすることになる」Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 41–42.「Tytus Woyciechowskiは最も重要な人物で(中略)1827年にBiałobłockiが結核で死亡してからは、フレデリックは彼を生涯で唯一の最大の信頼を寄せる腹心の友としたのである」Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 42.
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 Hedley, Encyclopædia Britannica, p. 263.
  19. Ambroży Mieroszewski's portrait of Wojciech Żywny, 1829 .
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  22. 22.0 22.1 全書簡 p33.
  23. 23.0 23.1 23.2 Jachimecki, p. 421.
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  25. 小坂 p27-28.
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  28. ショパンの手紙を検証する”. . 2012-11-6閲覧.
  29. Jachimecki, p. 421. Hedley, Encyclopædia Britannica, p. 264:「彼は生涯を通じて、叙述的な表題や『筋書き』を下敷きにするのを嫌悪するのと同様に、(美的な感覚に)重きを置いていた」。彼の作品には内容を表すかのような表題が付つけられているものがあるが、それは出版社などの他人が、彼の意に反して付けたものである。
  30. 小坂 p28.
  31. Jachimecki, pp. 421–22.
  32. 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 Jachimecki, p. 422.
  33. コンラッドはショパンの友人のアダム・ミツキエヴィチの詩に登場するポーランド愛国の英雄。ショパンは後にミツキエヴィチの詩のいくつかに作曲を行う。
  34. 「このショパンの志の形になったもの(文章は1871年Stanisław Tarnowskiが最初に出版したもの)は、今日(1937年現在)ワルシャワのポーランド国立図書館のショパン記念品類の中にある(もともと雑誌は、ショパンの弟子だったMarcelina Czartoryska王女が保管していたもの)」Zdzisław Jachimecki, "Chopin, Fryderyk Franciszek," Polski słownik biograficzny, vol. III, 1937, p. 422.
  35. ショパンの言葉に関する解釈はワルシャワ、Ostrogski Palaceのショパン博物館で聞くことができる。
  36. André Boucourechliev 「Regard sur Chopin」Fayard, collection. « Les Chemins de la musique », 1996. p61 フランス語
  37. Marie-Paule Rambeau 「Chopin : l'enchanteur autoritaire」 L'Harmattan,collection. « Univers musical », 2005. p269, p307 フランス語
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  42. David Ewen, p. 164.
  43. ショパンのフランスのパスポートTad Szulcはこう記している。「(略)フランスが彼にパリでの無期限の滞在資格を与えたのは『彼の芸術を完成させるため』である。4年後、フレデリックはフランス国民となり、1835年8月1日付けでフランスのパスポートが交付された。彼が国籍を変更することに関して、父を含め誰かに相談したという事実は知られていない。彼が国籍を変更したのは、ロシア大使館に赴いてロシアのパスポートを更新するのを愛国的な理由から避けたいがためだったのか、それとも単に日常の利便性の問題だったのか、定かではない」Tad Szulc Chopin in Paris, p. 69
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  46. 彼女は「ショパンがピアノを弾き、喋っている間に彼の頭部をスケッチし、次に彼を肘掛け椅子に座らせて水彩で肖像を描いた。これは現存する中でドラクロワの作品に次いでよく出来た肖像画である。ショパンはリラックスし、哀愁を帯び、平和そうに見える」Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 137. ヴォジンスカの肖像画が正確だったことは、彼女の1830年代の自画像と後年に撮られた写真を比べることで想像がつく。
  47. 1841年7月24日、マリア・ヴォジンスカはショパンの名付け親であるFryderyk Florian Skarbekの息子のJózef Skarbek伯爵と結婚した。2人は7年後に離婚し、マリアは1848年に1人目の夫の土地の賃借人だったWładysław Orpiszewskiと再婚している。
  48. Jachimecki, p 423.
  49. Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 160, 165, 194–95.
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  54. 54.0 54.1 54.2 54.3 54.4 54.5 54.6 54.7 54.8 Jachimecki, p. 424.
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  58. ショパンが幻滅したことに、これによってサンドの急進的・政治的な友人たちが適宜権力を得ていった。Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 366–73.
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  61. ショパンはこの医師と過ごした数日間を非常に心地よく思っていた。というのも、彼は常にポーランド語で会話できる人間を探していたが、この時は特に彼は全く英語が出来なかったということも大きかった。Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 382 and passim.
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  80. ■ショパン博物館の学芸員「死後に写真撮影された記録がない」 ■パリにあるポーランド図書館の写真専門家「写真とデスマスクとは似ておらず、またビソンが自分の名前や日時を写真に添えたことは一度もなく、むしろ偽作と明らかにされている写真に見られるものである」 ■ショパンの研究家「写真はショパンに似ておらず、またショパンの死後三日間遺体に付き添った人々は、数時間を要する撮影に気づきもしなかった」Chopin experts debate photo's authenticity”. ワシントン・ポスト (2011年3月10日). . 2014閲覧.
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  • Cecilia Jorgensen and Jens Jorgensen, Chopin and the Swedish Nightingale, Brussels, Icons of Europe, 2003, ISBN 2-9600385-0-9.

関連項目

外部リンク

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