「フランソワ1世 (フランス王)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2009年8月13日 (木) 04:42 (UTC)|ソートキー=人1547年没}}
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{{基礎情報 君主
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'''フランソワ1世'''([[フランス語|仏]]:'''François I<sup>er</sup>'''、[[1494年]][[9月12日]] - [[1547年]][[3月31日]]
|人名      = フランソワ1世
 
|各国語表記 = {{Lang|fr|François I}}
 
|君主号    = [[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|国王]]
 
|画像      = Francis1-1.jpg
 
|画像サイズ =
 
|画像説明  =
 
|在位      = [[1515年]] - [[1547年]]
 
|戴冠日    = [[1515年]][[1月25日]]、[[ランス]]<ref name=S228>佐藤、p. 228</ref>
 
|別号      =
 
|全名      =
 
|出生日    = [[1494年]][[9月12日]]
 
|生地      = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[コニャック (コミューン)|コニャック]]
 
|死亡日    = [[1547年]][[3月31日]]
 
|没地      = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[ランブイエ]]
 
|埋葬日    =  
 
|埋葬地    = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[サン=ドニ大聖堂]]
 
|配偶者1    = [[クロード・ド・フランス]]
 
|配偶者2    = [[レオノール・デ・アウストリア]]
 
|子女      = [[#子女|一覧参照]]
 
|王家      = [[ヴァロワ=アングレーム家]]
 
|王朝      = [[ヴァロワ朝]]
 
|父親      = アングレーム伯[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|シャルル・ドルレアン]]
 
|母親      = [[ルイーズ・ド・サヴォワ]]
 
|宗教      = [[キリスト教]][[カトリック教会]]
 
|サイン    =
 
}}
 
'''フランソワ1世'''([[フランス語|仏]]:'''François I<sup>er</sup>'''、[[1494年]][[9月12日]] - [[1547年]][[3月31日]])は、[[ヴァロワ朝]]第9代の[[フランス王国|フランス]]王(在位:[[1515年]] - 1547年)。[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の曾孫で[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の従兄に当たる[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル・ドルレアン]]と、[[サヴォイア公国|サヴォイア]]公[[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ2世]]の娘[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]との間に生まれた<ref name=S228 />。
 
  
== 概要 ==
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フランス王 (在位 1515~47) 。[[ルイ 12世]]のいとこアングレーム伯シャルルの子。「大王」とも呼ばれる。即位と同時にシャルル8世以来のイタリア政策を引継いで北イタリアに出兵 (15) ,マリニャーノの戦勝,「[[ボローニャの政教協定]]」 (16) などの成功を収めた。神聖ローマ皇帝の位を要求して[[カルル5世]]に敗れてのち,再度のイタリア遠征 (25) ではパビアの戦いに敗れて自身もカルル5世の捕虜となり,北イタリアにおける一切の地歩と権益を失った ([[イタリア戦争]] ) 。さらに皇帝と戦うこと2度に及んだ (36~38,42~44) 。この間国内では,行政機構や徴税制度の整備,高等法院の再組織など,貴族,教会の権力を削減して王権の強化に努め,絶対王政の確立に向って一歩を進めた。ビレール・コトレ勅令 (39) では公文書用語をフランス語に統一することを命じた。豪華な宮廷生活を愛好し,学芸の保護にあたったので,イタリアから導入された文化は彼の時代にフランス・ルネサンスとして開花した。また G.ビュデの要請を入れて人文主義の高等教育研究機関,コレージュ・ド・フランスの前身「王立教授団」を開設した (30) 。彼自身は旧教徒として終始し,晩年には国内新教徒を弾圧する一連の勅令を発している。
フランソワ1世はフランス・[[ルネサンス]]期を代表する国王とみなされている。この王の治世にフランスの美術および文芸は重要な発展をみることとなった。また、軍事、外交上もフランス史上の画期となる戦争や外交事件が発生している。
 
  
フランソワ1世には[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]という強大なライバルが存在したことから、常に両者の間にあって有利な相手と結ぼうとする[[イングランド王国|イングランド国王]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の外交上の功利心を頼みとしなければならなかった。フランソワ1世の対カール5世政策は成否相半ばするものだが、実現の暁にはフランス王国の維持に支障をきたすカール5世の構想をくじくことには成功した。[[カトリック]]の両大国が敵対したことは、西洋キリスト教世界に重大な影響をもたらした。例えば、このころ興った[[宗教改革]]の拡散を容易なものとしたほか、なにより[[オスマン帝国]]に[[第一次ウィーン包囲|ウィーン包囲]]を許し、[[ハンガリー王国]]のほぼ全土を占領させてしまっている。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
国内の状況をみると、フランソワ1世の統治期間は宗教改革の急速な拡大とはっきり一致している。また、中央集権体制([[絶対王政]])の確立・戦費の捻出・芸術の発達のために国家全体の運営を掌握し最適化する必要が生じたことから、特に税収増を目的とする一連の行政改革を実施し<ref>佐藤、pp. 235-236</ref>、これらの改革は次代の[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]にも受け継がれた。
 
 
 
議会の支援がなくとも資金を簡単に調達する方法がフランソワの治世に考案された。それは、年金型長期国債を国王の直轄財産と徴税権で担保するものである。これらの担保は、引受幹事の[[パリ市]]庁と[[リヨン]]銀行シ団へ移譲された。そしてこれら担保の果実が優先的に弁済へ充当された。国王は信用がなかったので、実際に発行された国債は年利10%をくだらなかった。<ref>富田俊基 『国債の歴史 金利に凝縮された過去と未来』 東洋経済新報社 2006年 [https://books.google.co.jp/books?id=_Q1gBwAAQBAJ&pg=PA125&dq=%E5%9B%BD%E5%82%B5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2+%E9%87%91%E5%88%A9%E3%81%AB%E5%87%9D%E7%B8%AE%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5+%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96%E3%80%80%E5%B9%B4%E9%87%91%E5%9E%8B%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%9B%BD%E5%82%B5&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E5%9B%BD%E5%82%B5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%20%E9%87%91%E5%88%A9%E3%81%AB%E5%87%9D%E7%B8%AE%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5%20%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF1%E4%B8%96%E3%80%80%E5%B9%B4%E9%87%91%E5%9E%8B%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%9B%BD%E5%82%B5&f=false 125頁]</ref>
 
 
 
== 生涯 ==
 
[[ファイル:Francis I teston 592335.jpg |thumb |フランソワ1世の[[テストン]]銀貨。1528年 - 1540年。フランソワ1世治下で最も流通していた銀貨<ref>{{Citation |和書 |last=久光<!--ひさみつ--> |first=重平 |title=西洋貨幣史 |publisher=国書刊行会 |year=1995 |url=http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN12202449 |page=793}}(リンクは書誌情報のみ)。</ref>。]]
 
[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル]]と[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]の間に、長女[[マルグリット・ド・ナヴァル|マルグリット]]に次ぐ第2子として[[コニャック (コミューン)|コニャック]]で生まれた<ref name=S228 />。シャルルはこの2子を残して[[1496年]]に死去し、フランソワは1歳3ヶ月余りでアングレーム伯を継いだ<ref name=S229>佐藤、p. 229</ref>。
 
 
 
[[1498年]]に即位した[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]には男子がなかったため、[[サリカ法典|サリカ法]]により[[続柄#いとこ甥|従甥]]に当たるフランソワが王位継承者とされた。また、ルイ12世と王妃[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]](アンヌ・ド・ブルターニュ)との間に生まれた[[はとこ|又従妹]]の[[クロード・ド・フランス|クロード]]と1514年に結婚し<ref>佐藤、p. 225</ref>、共同の[[ブルターニュ公国|ブルターニュ公]]となった。翌[[1515年]]、ルイ12世の死により王位を継いだ<ref name=S228 />。
 
 
 
クロードの死後は長男[[フランソワ3世 (ブルターニュ公)|フランソワ]]、次いで次男[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が王太子([[ドーファン]])の称号とともにブルターニュ公位を継いでいる。
 
 
 
[[人文主義者]](ユマニスト)の教育を受け、即位後は[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ロッソ・フィオレンティーノ]]らの芸術家を保護し、ルネサンス様式の宮殿を建てた<ref>佐藤、pp. 233-234</ref>。1530年には、後に[[コレージュ・ド・フランス]]となるコレージュ・ロワイヤル(Collège Royal)を設立し、[[ヘブライ語]]、古代[[ギリシア語]]、[[数学]]の研究を促進させた<ref>佐藤、p. 248</ref>。
 
 
 
フランソワ1世は、2代前のフランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が始めた[[イタリア戦争]]を継続した。[[1515年]]に[[マリニャーノの戦い]]に勝利、[[ミラノ公国]]を占領し[[スフォルツァ家]]を追放した<ref>福井、pp. 145-146</ref><ref>佐藤、pp. 232-233</ref>。スフォルツァ家に仕えていた[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、翌年フランスへ移りフランソワ1世が宮殿としていた[[アンボワーズ城]]界隈の[[クロ・リュセ城]]に居住し、ルネサンス文化を伝えることになった<ref>佐藤、p. 233</ref>。[[1516年]]には、ローマ教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させ、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)を完成させた<ref>福井、pp. 147-148</ref>。
 
 
 
[[1519年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が死去すると、教皇レオ10世らの支持を得てフランソワ1世もローマ皇帝位の後継者候補になるが1票も獲得出来ず、[[スペイン王]]カルロス1世(マクシミリアン1世の孫)が皇帝選挙に勝利し、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]として即位する<ref>福井、p. 146</ref>。これにより、フランスは[[ハプスブルク家]]によってドイツ・スペインと周囲を囲まれてしまう状況が固定化した。
 
 
 
[[1521年]]から[[1544年]]にかけては、イタリアを巡ってカール5世と争い、[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]では前線で指揮を取るが、捕虜となってしまう<ref>福井、p. 147</ref><ref>佐藤、pp. 239-242</ref>。スペインで幽閉されていた間の[[1526年]]にカール5世と[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を結ぶが<ref>佐藤、pp. 243-245</ref>、解放されるや条約は無効と宣言し<ref>佐藤、p. 245</ref>、[[教皇]][[クレメンス7世_(ローマ教皇)|クレメンス7世]]もこれを支持した。
 
 
 
カール5世に対抗するため、[[コニャック同盟]]で教皇、[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]らと結び、ドイツの[[プロテスタント]]諸侯([[ルーテル教会|ルター派]])を支援したり、異教徒である[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]と秘かに結びつき<ref>佐藤、pp. 252-253</ref>、[[第一次ウィーン包囲]]をけしかけたりもしている。フランソワ1世自身は[[カトリック教会|カトリック]]であり、[[檄文事件]]をきっかけに国内の[[プロテスタント]]を弾圧している<ref>福井、p. 150</ref>。しかし、[[ローマ略奪]]で教皇はカール5世と和睦、他のイタリア諸国もカール5世に従属し、[[1529年]]にフランスがイタリア放棄を約束した[[貴婦人の和約|カンブレーの和約]]を締結した<ref>佐藤、pp. 247-248</ref>。
 
 
 
和平の一環として、[[1530年]]にカール5世の姉で[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]][[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]の未亡人であった[[レオノール・デ・アウストリア|レオノール]](エレオノール)と2度目の結婚をしている<ref>佐藤、p. 250</ref>。しかし、以後もカール5世との戦闘を継続、ドイツのプロテスタント諸侯が結成した[[シュマルカルデン同盟]]と同盟を結んで戦ったもののハプスブルク家の優勢を覆せず、最終的に1544年に[[クレピーの和約]]([[:fr:Trêve de Crépy-en-Laonnois|fr]])を結び、イタリア政策は失敗に終わった<ref>佐藤、p. 259</ref>。[[1547年]][[3月31日]]に[[ランブイエ]]で死去<ref>佐藤、p. 260</ref>、長男フランソワに先立たれていたため、次男アンリがアンリ2世として即位、イタリア戦争を再開した。
 
 
 
フランソワ1世は[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]のスポンサーとしてその航海を援助した。新大陸の中南米を押さえたカール5世に対抗し北米を狙ったためである。また[[ジャック・カルティエ]]を[[カナダ]]植民に送り出し<ref>福井、p. 212</ref>、[[ヌーベルフランス]](フランス領カナダ、現在の[[ケベック州]])の基礎を築いている。
 
 
 
== 文芸作品に登場するフランソワ1世 ==
 
19世紀フランスを代表する作家の1人[[ヴィクトル・ユゴー]]は、[[1832年]]に戯曲『{{仮リンク|王は愉しむ|fr|Le roi s'amuse|en|Le roi s'amuse}}』(''Le Roi s'amuse'')を発表した。この作品はフランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたため王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品である。1832年11月22日にフランセ座で初演されたが、特権階級の腐敗ぶりとそれに対する批判という、当時としては極めて過激な内容であったため、早くも翌日には上演禁止となり、以後[[1882年]]まで上演されることはなかった。後にこの作品は[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]によってオペラ化され、[[1851年]]に『[[リゴレット]]』として初演された。これは登場というより言及というべきだが[[マルセル・プルースト]]の『失われた時を求めて』の序文の冒頭では「私」がフランソワ1世とカール5世の間の競い合いについて書かれた本について語っている。
 
 
 
== 子女 ==
 
最初の王妃[[クロード・ド・フランス|クロード]]との間に3男4女をもうけた。
 
* ルイーズ(1515年 - 1518年)
 
* シャルロット(1516年 - 1524年)
 
* [[フランソワ3世 (ブルターニュ公)|フランソワ]](1518年 - 1536年) - ブルターニュ公、王太子([[ドーファン]])
 
* [[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]](1519年 - 1559年)
 
* [[マデリン・オブ・ヴァロワ|マドレーヌ]](1520年 - 1537年) - [[スコットランド王]][[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]と結婚するが同年病没
 
* [[シャルル・ダングレーム (オルレアン公)|シャルル]](1522年 - 1545年) - [[オルレアン公]]
 
* [[マルグリット・ド・フランス_(1523-1574)|マルグリット]](1523年 - 1574年) - サヴォイア公[[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|エマヌエーレ・フィリベルト]]と結婚
 
 
 
2番目の王妃[[レオノール・デ・アウストリア|エレオノール]]との間の子はいない。
 
 
 
== 系図 ==
 
 
 
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== 参考文献 ==
 
* 福井憲彦 編 『新版 世界各国史 12 フランス史』 [[山川出版社]]、2001年
 
* 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史 2』 講談社現代新書、2014年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[アンゴルモア]] - [[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]に登場する「アンゴルモアの大王」とは[[アングーモワ]]出身のフランソワ1世のことではないかとする有力な説がある<ref>Balthazar Guynaud, ''La Concordance des prophéties de Nostradamus avec l'histoire, depuis Henry II jusqu'à Louis le Grand...'', Paris : Veuve J. Morel, 1712, pp.360-361</ref>。
 
*[[金襴の陣]]
 
*[[フランソワーズ・ド・フォワ]] - 最初の愛妾。元は最初の王妃クロードの女官。
 
*[[アンヌ・ド・ピスルー・デイリー]] - 2番目の愛妾。元は母ルイーズの侍女だった。
 
*[[アンボワーズ城]]
 
*[[ブロワ城]]
 
*[[シャンボール城]]
 
*[[フォンテーヌブロー宮殿]]
 
*[[パリ市庁舎]]
 
*[[コレージュ・ド・フランス]]
 
== 脚註 ==
 
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[[Category:フランス国王]]
 
[[Category:フランス国王]]

2019/4/30/ (火) 00:02時点における最新版

フランソア1世(J.クルーエ原画,P.デュモンティエ画,フランス国立図書館蔵).jpg

フランソワ1世François Ier1494年9月12日 - 1547年3月31日

フランス王 (在位 1515~47) 。ルイ 12世のいとこアングレーム伯シャルルの子。「大王」とも呼ばれる。即位と同時にシャルル8世以来のイタリア政策を引継いで北イタリアに出兵 (15) ,マリニャーノの戦勝,「ボローニャの政教協定」 (16) などの成功を収めた。神聖ローマ皇帝の位を要求してカルル5世に敗れてのち,再度のイタリア遠征 (25) ではパビアの戦いに敗れて自身もカルル5世の捕虜となり,北イタリアにおける一切の地歩と権益を失った (イタリア戦争 ) 。さらに皇帝と戦うこと2度に及んだ (36~38,42~44) 。この間国内では,行政機構や徴税制度の整備,高等法院の再組織など,貴族,教会の権力を削減して王権の強化に努め,絶対王政の確立に向って一歩を進めた。ビレール・コトレ勅令 (39) では公文書用語をフランス語に統一することを命じた。豪華な宮廷生活を愛好し,学芸の保護にあたったので,イタリアから導入された文化は彼の時代にフランス・ルネサンスとして開花した。また G.ビュデの要請を入れて人文主義の高等教育研究機関,コレージュ・ド・フランスの前身「王立教授団」を開設した (30) 。彼自身は旧教徒として終始し,晩年には国内新教徒を弾圧する一連の勅令を発している。



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