「パルミラ」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{otheruseslist|シリアの古代都市|3世紀にパルミラに存在した国家|パルミラ王国|太平洋のアメリカ領の環礁|パルミラ環礁|コロンビアの都市|パルミラ (コロンビア)}}
+
 
 
{{世界遺産概要表
 
{{世界遺産概要表
 
|site_img =ファイル:Tetrapylon_Palmyra_in_Syria_001.JPG
 
|site_img =ファイル:Tetrapylon_Palmyra_in_Syria_001.JPG
17行目: 17行目:
 
|map_img_width = 275px
 
|map_img_width = 275px
 
}}
 
}}
[[ファイル:PalmyreneDeities.jpg|thumb|250px|パルミラの神々。左から、月の神アグリボル(Aglibôl)、最高神[[バアル|バアル・シャミン]](バアルシャメン、Beelshamên)、[[太陽神]]マラクベル(Malakbêl)。1世紀ごろの浮彫、シリアの Bir Wereb, Wadi Miyah 付近で発見、[[ルーヴル美術館]]所蔵。]]
 
'''パルミラ'''({{lang-en|'''Palmyra'''}})は、[[シリア]]中央部の[[ホムス県]]'''タドモル'''(タドムル、{{lang-ar|تدمر }}、アルファベット転写:'''Tadmor''')にある[[ローマ帝国]]支配時の都市遺跡。シリアを代表する遺跡の1つである。1980年、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)に登録された。ローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門が代表的。ラテン語読みによる'''パルミュラ'''とも呼ばれる。
 
 
== 概要 ==
 
パルミラの遺跡は、シリアの首都[[ダマスカス]]の北東、約215kmの[[シリア砂漠]]の中にある。[[ユーフラテス川]]流域からは南西へ約120km。海抜は400mで<ref name="パルミラの遺跡p13">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、13頁</ref>、シリア中央部を北東方向へ伸びる山脈(Jabal Abu Rujmayn)の南麓に位置する。北から流れるワジアブオベイド川と、西から流れるワジアイド川が形成した[[扇状地]]にある[[オアシス]]に建設されていた。
 
 
パルミラのある東西方向の谷間は、[[地中海]]沿岸のシリアや[[フェニキア]]と、東の[[メソポタミア]]や[[ペルシア]]を結ぶ交易路となっており、パルミラは[[シリア砂漠]]を横断する[[キャラバン]]にとって非常に重要な中継点であった。
 
 
紀元前3世紀頃から多数の[[地下聖堂|地下墓地]]が建設され、当時から[[アラム語]]で現在の[[アラビア語]]名と同じく「'''タドモル'''」 תדמר (Tadmor) と呼ばれていた。[[ナツメヤシ]]の産地として知られたオアシス都市であったが、アラム語や[[ヘブライ語]]など北西セム語ではナツメヤシの実のことを תמר (tamar) といい、都市名はナツメヤシと関係があるともされる<ref name="パルミラの遺跡p14">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、14頁</ref>。[[ギリシア語]]でナツメヤシのことを「パルマ」ということから、[[ギリシア人]]や[[ローマ人]]から「'''パルミラ'''」と呼ばれたようである。しかしこれとは別に、「タドモル」の語源は、「ダマール(破壊)」や、「タトモル(覆う、包む)」に関連するともいわれ、また、古代西セム語の[[語根]]である「ダムル(保護する)」から「守備隊駐屯地」によるともいわれる<ref name="パルミラの遺跡p14"/>。
 
 
紀元前1世紀から3世紀までは、[[シルクロード]]の中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの属州となったこともある。2世紀に[[ペトラ]]がローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ([[パルティア]])式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。
 
 
「軍人皇帝時代」に[[パルミラ王国]]が成立し、270年頃に君臨した[[ゼノビア]]の時代には[[エジプト]]の一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]]は、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。[[273年]]にパルミラは陥落し廃墟と化した。
 
 
この後パルミラは衰え、[[東ローマ帝国]]や[[イスラム帝国]]の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままであった。中世には完全に放棄されたが、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されている。
 
 
== 歴史 ==
 
パルミラの近くからは、約7万5000年前の[[旧石器時代]]の石器が発見されている<ref name="パルミラの遺跡p14"/>。ユーフラテス河畔の[[マリ (シリア)|マリ]]遺跡で発掘された紀元前2000年代ごろの[[粘土板]]からもこの都市の名前(Tadmor、または Tadmur、または Tudmur)と思われる記述が見つかっている[http://www.syriagate.com/Syria/about/cities/Homs/palmyra.htm]。
 
 
[[旧約聖書]]の[[歴代誌|歴代誌第二]]、8章4節では、[[古代イスラエル]]の国王[[ソロモン]]が荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されている<ref name="パルミラの遺跡p17">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、17頁</ref>。[[列王記|列王記第一]]の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に「תמר」(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられるが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、[[タルムード]]や[[ミドラーシュ]]の冊子にある注釈のいくつかではこの街をシリア砂漠にあると記している。[[フラウィウス・ヨセフス]]の『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシア語のパルミラの名も併記されている。現代ヘブライ語においてもパルミラはタドモルと呼ばれる。
 
 
タドモル(パルミラ)の人々は[[アラブ人]]であったが、[[アラム語]]の方言(パルミラ語)を話し、[[アラム文字]]を手直しした独自の文字([[パルミラ文字]])を用いていた。パルミラ文字は今も遺跡の各所に残る。
 
  
=== セレウコス朝からローマ時代 ===
+
'''パルミラ'''({{lang-en|'''Palmyra'''}})
[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]から覇権を奪い取った[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]が[[紀元前323年]]に没すると、[[ディアドコイ戦争]]と呼ばれる後継者争いが勃発した。{{要出典範囲|[[セレウコス朝]]がシリアを奪った際|date=2010年10月}}、パルミラの街は自治に委ねられ、後には独立した。[[紀元前1世紀]]には[[パルティア]]と[[共和政ローマ]]の間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌した。[[紀元前41年]]にローマの将軍[[マルクス・アントニウス]]がパルミラを征服しようとしたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗した。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示す。一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産の絹の貿易を支配していたとされる<ref>''Terry Jones' Barbarians'', [[テリー・ジョーンズ|Terry Jones]], Alan Ereira</ref>。
 
  
皇帝[[ティベリウス]](在位14 - 37年)の時代、パルミラはローマ帝国の[[シリア属州]]の一部となった<ref name="パルミラの遺跡p19-20">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、19-20頁</ref>。[[106年]]に南にある[[ペトラ]]を都とする[[ナバテア王国]]がローマに征服されるとその通商権はパルミラに移り、ローマ帝国と東方のペルシア・インド・中国とを結ぶ重要性はこの時期増していった<ref name="パルミラの遺跡p22">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、22頁</ref>。[[129年]]、ローマの拡大路線を転換した皇帝[[ハドリアヌス]]は視察巡幸の途中にパルミラを訪れた。その魅力にとりこにされたハドリアヌスはパルミラに自由都市の資格を与えパルミラ・ハドリアナ(Palmyra Hadriana, ハドリアナパルミラ〈ハドリアヌスのパルミラの意〉<ref name="パルミラの遺跡p22"/>)と改名した。
+
[[シリア]]中部にある[[オアシス]]を中心とした村。ダマスカスの北東約 210km,[[シリア砂漠]]の北端に位置する。タドモル Tadmorとも呼ばれる。古代には[[隊商]]都市として知られ,住民は[[アラブ人]]を中心としたが,言語は[[アラム語]]であった。[[ソロモン]]が建設したとも伝えられるが,証拠はない。すでに前19世紀の[[楔形文字]]の史料に現れる。前3世紀,[[セレウコス朝]]時代に興隆の兆しが現れ始め,前1世紀シリアと[[バビロニア]]を結ぶ貿易の中継都市として急速に発展した。106年ローマ帝国の支配下に置かれたが,自治を許され,商業活動はいっそう盛んになり,オリエント([[中東]])最大の隊商交易の拠点となった。3世紀後半にローマと[[ササン朝]]ペルシアの対立に乗じて,[[オデナトゥス]]とその一族が実権を握り,その妻[[ゼノビア]]が独立を宣言,小アジアからエジプトにまたがる隊商帝国を形成するにいたった。そのため 272年ローマの[[アウレリアヌス]]帝により滅ぼされた。以後衰退の一途をたどり,アラブに略奪され廃墟と化した。なお,パルミラ人の宗教の発展は重要で,2世紀には「知られざる神」の[[一神教]]が行なわれた。今日では[[ナツメヤシ]]やオリーブの果樹園に取り巻かれた村で,イラクの[[キルクーク油田]]からレバノンの[[トリポリ]]へ向かう[[パイプライン]]が通っている。ローマ時代の遺跡([[パルミラ遺跡]])は今日も残存し,その博物館もある。
  
=== パルミラ王国 ===
 
{{main|パルミラ王国}}
 
[[212年]]、[[サーサーン朝]](ペルシア)が衰退するパルティアを圧迫し、[[チグリス川]]および[[ユーフラテス川]]の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになった。パルミラの長官セプティミウス・ヘロドの息子、[[セプティミウス・オダエナトゥス]]は皇帝[[ウァレリアヌス]](在位253 - 260年<ref name="パルミラの遺跡p24">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、24頁</ref>)から[[シリア属州]]総督に任命された。[[260年]]にウァレリアヌス帝がサーサーン朝との戦いで捕らえられ<ref name="ヒッティp120">[[#シリア|ヒッティ]]、120頁</ref>、虜囚となったままビシャプールで死ぬと、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、[[クテシフォン]]にも2度侵攻した。オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態にあったが、[[267年]]にオダエナトゥスが甥に殺されると、妻[[ゼノビア]]が息子[[ウァバッラトゥス]]を擁立してパルミラの実権を握った。ゼノビアは哲学者カッシウス・ロンギヌス[[:en:Cassius Longinus (philosopher)|(en)]]を顧問に迎え、[[アラビア・ペトラエア]]の州都[[ボスラ]]を征服し、さらには[[アエギュプトゥス]](エジプト属州)へも遠征して領土を拡大した。
 
 
北にある大都市[[アンティオキア]]も奪おうとしていたゼノビアは、[[273年]]に皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]](在位270 - 275年)の親征を受けて敗北し、捕らえられローマに送られた。虜囚となったゼノビアはローマ近郊の[[ティヴォリ]]に邸宅を持つことを許され華やかな余生を送ったが、パルミラの街は破壊され、ロンギヌスらパルミラ政府の高官は殺された。
 
 
ローマ帝国は、以後パルミラをローマ軍団の基地に変えてしまった。[[ディオクレティアヌス]]帝の時代には、ペルシアの侵攻に備えてさらに多くの部隊が駐留できるよう規模が拡大され城壁で囲まれた。
 
 
[[ファイル:Palmyre Vue Generale.jpg|thumb|250px|アラブ砦から見下ろしたパルミラ遺跡。列柱道路の先、オアシスの手前に大きなベル神殿がある。]]
 
=== ローマ以後 ===
 
[[東ローマ帝国]]の時代、パルミラに新たに建設されたのはいくらかのキリスト教会のみで、市街の大半は廃墟のまま放置されていた。6世紀、遺跡とオアシスを見下ろす丘の上に砦が建設されている。[[634年]]、最初のムスリムがパルミラにたどり着き、次いで[[636年]]に[[ハーリド・イブン=アル=ワリード]]率いる[[正統カリフ]]軍がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。800年ごろから数少ない住民もパルミラを去り始め、[[1089年]]の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された<ref>[http://en.wikisource.org/wiki/Catholic_Encyclopedia_%281913%29/Palmyra "Palmyra". Catholic Encyclopedia. (1913). New York: Robert Appleton Company.]</ref>。カトリック教会は、現在もパルミラに名義司教を残している<ref>[http://www.catholic-hierarchy.org/diocese/d2p35.html Palmyra (Titular See)] - [http://www.catholic-hierarchy.org catholic-hierarchy.org]</ref>。
 
 
[[1751年]]、イギリスの探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、[[1753年]]にはその報告書を出版した。これは[[ローマ建築]]の研究およびその後のヨーロッパの[[古典主義建築]]の発展に大きな影響を与えた。
 
 
現在はホムス県に属し、人口およそ5万6000人のタドモルの街が遺跡の隣にある。
 
 
=== ISILによる破壊 ===
 
{{Seealso|en:Destruction of cultural heritage by ISIL|パルミラ攻防戦}}
 
[[シリア騒乱]]下の[[2015年]][[5月21日]]、[[カリフ]]制による[[イスラム過激派]]組織[[ISIL|ISIL (ISIS)]] が[[シリア軍]]を撃破して市街地を制圧、遺跡も同組織の支配下に置かれた<ref name=Reuters20150521>{{Cite web |date=2015-05-21 |url=http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL3N0YC05G20150521 |title=イスラム国、シリア中部パルミラを制圧 世界遺産に破壊の危機 |publisher=[[ロイター]] |accessdate=2015-06-07}}</ref>。その際、遺跡の保護に携わっていた専門家[[ハレド・アサド]]を斬首し、8月にはバール・シャミン、ベル両神殿を相次いで破壊した。[[2015年]][[10月4日]]にはシリアの文化財保護当局が、地元の目撃者らの話として凱旋門が爆破されたことを伝えた<ref name=Reuters20151006>{{Cite web |date=2015-10-06 |url=http://www.cnn.co.jp/world/35071491.html |title=シリア・パルミラ遺跡の凱旋門、ISISが爆破 |publisher=[[CNN]] |accessdate=2015-10-06}}</ref><ref>[http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/23/archeologist-khaled-asaad-refused-to-tell-isis-_n_8029230.html 「考古学者82歳、IS(イスラム国)に斬首される パルミラ遺跡を守り続け」]ハフィントンポス2015年08月24日</ref>。
 
 
[[ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆|ロシア空軍による航空支援]]を得てシリア軍が交戦していたが、[[2016年]][[3月27日]]、シリア国営テレビは、ISILからパルミラ全域を奪還したと報じた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ3W54CFJ3WUHBI00F.html 「アサド政権軍、ISからパルミラ奪還 国営メディア報道」]朝日新聞デジタル2016年3月27日</ref><ref>[http://jp.reuters.com/article/idJP2016032501002239 「アサド政権軍がパルミラ奪還か」]ロイター2016年 03月 26日</ref><ref>[http://www.wsj.com/articles/syrian-regime-regains-control-of-palmyra-1459065134 "Syrian Regime Regains Control of Palmyra"]WALL STREET JOURNAL March 27, 2016</ref>。
 
 
シリア側は、「5年以内の修復が可能」との見解を示したが、ユネスコ側は「虚偽の報道で修復は不可能」と反論し、修復支援を全面拒否する意向を示した。
 
 
2016年[[12月11日]]、パルミラはISILに再び制圧された<ref>[http://hosted.ap.org/dynamic/stories/M/ML_ISLAMIC_STATE?SITE=AP&SECTION=HOME&TEMPLATE=DEFAULT 「MILITANTS RETAKE ANCIENT CITY OF PALMYRA FROM SYRIAN FORCES」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141109114112/http://hosted.ap.org/dynamic/stories/M/ML_ISLAMIC_STATE?SITE=AP&SECTION=HOME&TEMPLATE=DEFAULT |date=2014年11月9日 }} AP通信 Dec 11, 4:15 PM EST</ref>。
 
 
[[2017年]][[3月2日]]、シリア国営テレビは、シリア軍がISILから再びパルミラ全域を奪還したと発表した<ref>[http://www.asahi.com/sp/articles/ASK331PNKK33UHBI001.html アサド政権軍、ISからパルミラ再奪還 シリア] 朝日新聞デジタル 2017年3月3日付</ref>。
 
 
== 主な建築物 ==
 
[[ファイル:Temple of Bel in Palmyra.JPG|thumb|250px|ベル神殿(本殿)。ベル神を祀っていた。]]
 
=== ベル神殿 ===
 
{{main|ベル神殿}}
 
パルミラで最も目を引く建築物は、「中東において紀元前1世紀の最も重要な宗教的建造物」とされる[[バアル]](ベル)の大神殿である<ref>[[#Ross|Ross (1999)]], p. 165</ref>。石材の断片だけが残存する神殿は、[[ヘレニズム]]の神殿として始まる。中央の聖堂([[内陣]])は、コリント様式の巨大な二重列柱廊に続き、紀元1世紀初頭に追加された。西の[[ポルチコ]](柱廊)とその入口([[プロピュライア]])は2世紀からである。神殿は205 × 210メートルにおよぶ<ref name="パルミラの遺跡p49">[[#パルミラの遺跡|パルミラの遺跡 (1988)]]、49頁</ref>。
 
 
[[ファイル:PalmyraAncientAvenue.JPG|thumb|250px|パルミラの列柱道路。ローマの植民都市や軍営の都市計画で、東西に貫く通りは[[デクマヌス・マクシムス|デクマヌス]]と呼ばれたが、中でも最も主となる大通り(都市軸)は[[デクマヌス・マクシムス]]と呼ばれた。]]
 
[[ファイル:Diocletian's camp and Qasr Ibn Maʿan.jpg|thumb|250px|ディオクレティアヌス城砦(手前の列柱)。奥の山の上にあるのは、[[マムルーク朝]]が13世紀に建て、17世紀に[[ドルーズ派]]のマアーン家の領主{{仮リンク|ファフル・アッ=ディーン2世|en|Fakhr-al-Din II}}が拡充したファフルッディーン城(カラート・イブン・マアーン)]]
 
 
=== 列柱道路 ===
 
{{main|{{仮リンク|パルミラの列柱道路|en|Great Colonnade at Palmyra}}}}
 
神殿から始まるパルミラの列柱道路は、古代都市の残る部分に通ずる古代の[[デクマヌス・マクシムス|デクマヌス]]に相当する。列柱道路には、華麗な装飾が施された記念門(3世紀初頭の[[セプティミウス・セウェルス]]の治世にさかのぼる)がある。遺跡の第一区域の端には、大部分が復元された4塔門建築 (''tetrapylon'') である四面門があり、4つの基壇に各4組の柱を備える(エジプトの花崗岩でできた元来の柱のうち1本だけが今も見られる)。
 
 
=== ディオクレティアヌスの浴場 ===
 
記念門から少し離れて、[[ディオクレティアヌス]]の浴場といわれる浴場と、[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]](ナボ)神殿が現在に残る。
 
 
=== ローマ劇場 ===
 
現在のパルミラに残る[[ローマ劇場]]は、9列の座席をもつが、元来は木造の建築物が付け足されておそらく12列まであった<ref>[[#Ross|Ross (1999)]], p. 169</ref>。劇場は紀元1世紀初頭の時代のものとされている。
 
 
ローマ劇場の後方には、地元貴族が法を議論し、政治的決定を行なった小さな元老院の建物、また、キャラバンが支払をする場所であったことを示唆する碑文があるいわゆる「関税所」が位置する。すぐ近くには大きな[[アゴラ]] (48 × 71m) が、宴会場([[トリクリニウム]])の遺構とともにある。アゴラの入口は、セプティミウス・セウェルスと彼の家族の像が飾られていた。
 
 
=== ディオクレティアヌス城砦 ===
 
{{Main|{{仮リンク|ディオクレティアヌス城砦|en|Camp of Diocletian}}}}
 
横軸となる通りは、シリアの統治者ソシアヌス・ヒエロクレスによって築かれたディオクレティアヌス城砦へとつながり<ref>[[#Ross|Ross (1999)]], p. 171</ref>、中央に大きな ''principia'' (軍隊の本営を収容する広間)の遺構がある。近くにはシリアの女神[[アッラート|アラート]]の神殿(西暦2世紀)がある。ディオクレティアヌス城砦のそばのダマスカス門とバール=シャミン神殿は西暦17年に建立され、後に[[セプティミウス・オダエナトゥス|オダエナトゥス]]の統治下で拡大した。遺構には内陣 (''cella'') へと通じる注目すべき[[ポルチコ]](柱廊玄関)がある。
 
 
== ギャラリー ==
 
<gallery>
 
ファイル:PalmyraWoman.JPG|パルミラの地下墳墓群から見つかった胸像。ローマ時代のパルミラでは、墓室の内壁に故人の胸像を安置していた。
 
ファイル:The Scene of the Theater in Palmyra.JPG|パルミラの[[ローマ劇場]]
 
ファイル:PalmyraMonumentalArch.jpg|パルミラの東の入口、記念門。
 
ファイル:PalmyraSunrise2004.JPG|日の出、現在のタドモル市街の側を望む。
 
</gallery>
 
 
== 世界遺産 ==
 
=== 登録基準 ===
 
{{世界遺産基準|1|2|4}}
 
 
=== 危機遺産 ===
 
[[シリア騒乱]]による保全状況の悪化を理由に、他の[[シリアの世界遺産]]とともに危機遺産リストに加えられた。2世紀ごろの建造とされる凱旋門のアーチは崩落している。<ref>[https://mainichi.jp/articles/20171221/k00/00m/030/016000c  世界遺産パルミラ無残 IS破壊の跡]</ref>
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=アドナン=ブンニ、[[ハレド・アサド|ハレド=アル=アサド]] |translator=小玉新次郎 |year=1988 |title=パルミラの遺跡 |publisher=[[東京新聞出版局]] |ref=パルミラの遺跡}}
 
* {{Cite book |和書 |author=P. K. ヒッティ |translator=小玉新次郎 |year=1991 |title=シリア |publisher=[[中央公論社]] |series=[[中公文庫]] |isbn=4-12-201785-8 |ref=ヒッティ}}
 
* <cite id=Ross>{{cite book |first=Ross |last=Burns |title=Monuments of Syria |location=London and New York |year=1999 |pages=162–175 |publisher=I.B. Tauris}}</cite>
 
* <cite id=Isaac>{{cite book |first=Benjamin |last=Isaac |title=The Limits of Empire - the Roman Army in the East |publisher=Clarendon Press |location=Oxford |year=2000 |edition=revised}}</cite>
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Palmyra}}
 
* [http://www.hankyu-travel.com/heritage/mideast/palmyra.php パルミラ遺跡|シリア 世界遺産] - 阪急交通社
 
* [http://allabout.co.jp/travel/worldheritage/closeup/CU20070822A 夕陽に輝くシルクロードのバラ パルミラ] - All About
 
 
{{wide image|PalmyraPanorama.jpg|800px|早朝のパルミラ遺跡}}
 
{{wide image|Vista panorámica de Palmira.jpg|800px|ベル神殿の境内からの眺望}}
 
{{wide image|Palmyra Ruines Temple of Bel.jpg|800px|ベル神殿の境内(中央: 本殿)}}
 
{{wide image|Palmyre - théâtre pano.jpg|800px|パルミラの[[ローマ劇場]]}}
 
  
 
{{シリアの世界遺産}}
 
{{シリアの世界遺産}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:はるみら}}
 
{{DEFAULTSORT:はるみら}}
 
[[Category:古代オリエントの都市]]
 
[[Category:古代オリエントの都市]]

2018/10/16/ (火) 22:59時点における最新版


世界遺産 パルミラ遺跡
シリア
英名 Site of Palmyra
仏名 Site de Palmyre
登録区分 文化遺産
登録基準 (1), (2), (4)
登録年 1980年
危機遺産 2013年 -
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
パルミラの位置
表示

パルミラ英語: Palmyra

シリア中部にあるオアシスを中心とした村。ダマスカスの北東約 210km,シリア砂漠の北端に位置する。タドモル Tadmorとも呼ばれる。古代には隊商都市として知られ,住民はアラブ人を中心としたが,言語はアラム語であった。ソロモンが建設したとも伝えられるが,証拠はない。すでに前19世紀の楔形文字の史料に現れる。前3世紀,セレウコス朝時代に興隆の兆しが現れ始め,前1世紀シリアとバビロニアを結ぶ貿易の中継都市として急速に発展した。106年ローマ帝国の支配下に置かれたが,自治を許され,商業活動はいっそう盛んになり,オリエント(中東)最大の隊商交易の拠点となった。3世紀後半にローマとササン朝ペルシアの対立に乗じて,オデナトゥスとその一族が実権を握り,その妻ゼノビアが独立を宣言,小アジアからエジプトにまたがる隊商帝国を形成するにいたった。そのため 272年ローマのアウレリアヌス帝により滅ぼされた。以後衰退の一途をたどり,アラブに略奪され廃墟と化した。なお,パルミラ人の宗教の発展は重要で,2世紀には「知られざる神」の一神教が行なわれた。今日ではナツメヤシやオリーブの果樹園に取り巻かれた村で,イラクのキルクーク油田からレバノンのトリポリへ向かうパイプラインが通っている。ローマ時代の遺跡(パルミラ遺跡)は今日も残存し,その博物館もある。




楽天市場検索: