パラディウム

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ファイル:Nike warrior Louvre Ma969.jpg
ニーケーウィクトーリア)がトロイのパラディウムを安置した柱にからまっている蛇に卵を与えているところを描いた大理石レリーフヘレニズム期のものを紀元1世紀後半のローマで複製したもの

パラディウム (palladium) またはパラディオン (palladion) とは、ギリシア神話ローマ神話において、都市の安全を守るとされた非常に古いである。特に、オデュッセウスディオメーデーストロイ城塞から盗んだアテーナーの木製の像(クソアノン)を指す。この像は後にアイネイアースローマとなる地に持ち去った。ローマに関わる伝説は、ウェルギリウスの『アエネーイス』や他の作品と関連している。

トロイのパラディウム

起源

トロイのパラディウムはパラスの木像とされている。パラスは古代ギリシアではアテーナー古代ローマではミネルウァに比定されるが、本来の神話では別人である。この像はイリオス(トロイ)の建設者イーロスが祈りを捧げたとき、それに応えて天空から落ちてきたという。

RuckStaplesは「アテネの最古の守護像であり…不思議な発見物であり、女神が擬人化され人間のような外見が与えられるようになる以前は、顔のない柱が地面に立っているだけだった」と記している[1]

この像は、神話によればアテーナーがパラスを殺してしまった自責の念から作ったとされている[2]

トロイへの到着の経緯

パラディウムがトロイに出現した話は都市の創設神話の一部として紀元前7世紀以降ギリシア人が様々に参照している。アトラースの娘エーレクトラーは、トロイ王家の祖先ダルダノスサモトラキ島の秘教の租イーアシオーンの母であり、そのためパラディウムとサモトラキ島の秘教とが結び付けられている[3]。エーレクトラーがパラディウムの置かれていたアテーナーの神殿に妊婦としてやってきてその像に触ったため、処女でない女性の手で汚されたとして神がその像をイリオスの方に投げたという説[4]や、エーレクトラーが自分で像を持ち去ったという説[5]や、もともとダルダノスにその像が与えられたとする説[6]などがある。イリオスの王イーロスは火事になった神殿でその像を守ろうとしてそれに触り、盲目になった[7]

盗難

ファイル:Diomedes Odysseus Palladion Louvre K36.jpg
オデュッセウスとディオメーデースがトロイからパラディウムを盗んだところ(紀元前360年から350年ごろのレッジョ・ディ・カラブリア

トロイア戦争時、トロイにおけるパラディウムの重要性はプリアモスの息子で予言者のヘレノスからギリシア人たちに明かされていたと言われている。パリスの死後ヘレノスはトロイを去るが、オデュッセウスに捕まった。ギリシア人たちはこの予言者から何とかしてトロイの弱点を聞きだした。そして、パラディウムがトロイの城壁内にある間はトロイは決して陥落しないということを知った。そこで、この像を盗み出すという重要な使命がオデュッセウスとディオメーデースに与えられた。ディオメーデースオデュッセウスはトロイの城塞の秘密の通路を抜け、パラディウムの盗み出しに成功する。その後、ギリシア側のトロイアの木馬という奇策でトロイが陥落することになった。

一説によれば、オデュッセウスはディオメーデースを待たせておいて物乞いに変装して夜のトロイに潜入した。そこでヘレネーがオデュッセウスに気づき、パラディウムの在り処を教えた。一方、ディオメーデースは城壁を登ってトロイに侵入した。二人は合流して衛兵を何人か殺し、さらにアテーナーの神殿で神官を殺し、「血まみれの手で」パラディウムを盗んだ。パラディウムを実際に手に取ったのはディオメーデースと言われており、彼がそれを船まで運んだ。パラディウムを手にしたディオメーデースを描いた像や絵がいくつかある。

叙事詩環の『小イーリアス』によれば、船に向かう途中でオデュッセウスはディオメーデースを殺してパラディウムと手柄を独り占めしようと企んだ。オデュッセウスはディオメーデースを背中から切ろうと剣を振りかざした。ディオメーデースは剣が月光を反射したきらめきを感じ、危険を察知した。彼はオデュッセウスの剣を奪い、縛り上げ、剣の平らな部分で打ち付けて、前を歩かせた。この故事からギリシアでは強制されて行動することを "Diomedes' necessity" と呼ぶ。この様子はフランスの彫刻家 Pierre-Jules Cavelier (1814–94) が1842年に彫像で描写している。その像はパラディウムを持ったディオメーデースが肩越しに背後に顔を向けている姿を描いたものであり、オデュッセウスは登場していない。オデュッセウスはトロイ攻略に必要だったため、ディオメーデースは彼を罰することを控えた。

ディオメーデースはトロイを離れる際にパラディウムも携行した。一説によれば、彼はそれをイタリアに持ち込んだ。別の説によれば、帰路の途中で盗まれたという。

ローマへの到着

その後のトロイのパラディウムの行方については様々な説があり、アテネアルゴススパルタといったギリシャ国内説や、イタリアローマという説もある。ローマ説は、アイネイアースが持ち込んだという説(この場合、ディオメーデースが盗んだのは偽物とする)とディオメーデース自身が引き渡したとする説に分かれる。パラディウムと言い伝えられた像がフォルム・ロマヌムウェスタ神殿に安置されていた。

その後、コンスタンティヌス1世がパラディウムをローマからコンスタンティノポリスに移し、フォルム内のコンスタンティヌスの円柱 (en) の下に埋めたと噂された[8]。そのようなはローマの没落を説明するもので、コンスタンティヌス1世の治世(首都移転)を正当化するものだといえる。

大プリニウス (N'H, VII, XLV) によれば、メテッルスはウェスタ神殿が火事になったときパラディウムを救い出そうとして盲目になったという。この故事はオウィディウス[9]ウァレリウス・マクシムス[10]もほのめかしている。

他の文化でパラディウムと対比されるもの

関連項目

脚注・出典

  1. Carl Ruck and Danny Staples, The World of Classical Myth
  2. Bibliotheke iii.144
  3. Bibliotheke, iii.10.1, iii.12.1 and 3.
  4. Bibliotheke iii.145
  5. Scholia on Euripides Phoenissae 1136.
  6. Triphiodorus (fourth century AD), Taking of Ilios (on-line text).
  7. Dercyllus, Foundations of Cities, book i, noted by Pseudo-Plutarch Parallel Stories, "Ilus and Anytus".
  8. Averil Cameron, The Later Roman Empire, 170.
  9. Fast. B. vi. 1. 436, et seq.
  10. B. i. c. 4

参考文献

  • The Oxford Dictionary of Classical Myth and Religion. s.v. "Palladium"

外部リンク