パナマ侵攻

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パナマ侵攻
戦争: 中央アメリカ紛争
年月日: 1989年12月20日 - 1990年1月31日
場所: パナマ
結果: アメリカ合衆国の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
パナマの旗 パナマ反ノリエガ派
パナマの旗 パナマ
パナマ国防軍English版
戦力
57,384以上 16,000以上
損害
死者 24
負傷者 325
死者 100-1,000
ファイル:PanamaJustCause1991.jpg
パナマに展開するアメリカ海兵隊のLAV-25

パナマ侵攻(パナマしんこう、英語: Invasion of Panama)は、1989年から1990年にかけてアメリカ合衆国中央アメリカパナマに軍事侵攻した事件である。

経緯

ノリエガ独裁体制

1983年以来、マヌエル・ノリエガ最高司令官(将軍)は、パナマにおける事実上の最高権力者となっていた。しかしノリエガ体制のパナマは、非民主的な政治体制が原因で中南米の中でも孤立していただけでなく、中南米における麻薬ルートの温床となっているとされていた。ノリエガは、冷戦下の1966年からアメリカ中央情報局(CIA)のために働いていたことも明らかになっている[1]。ノリエガはブッシュ大統領がCIA長官時代にその手先となり、キューバフィデル・カストロ政権やニカラグアサンディニスタ民族解放戦線政権など、中南米やカリブ海左派政権の攪乱に協力していた。アメリカの麻薬対策にも協力していると考えられており、1978年から1987年まではアメリカの麻薬取締局(DEA)から毎年感謝状が贈られていた[2]

麻薬戦争と反ノリエガ運動

ところが1986年に税関主導によって行われた「Cチェイス作戦」により、ノリエガがアメリカへの麻薬の輸出ならびにマネーロンダリングに関与しているという疑いが浮上してきた。さらに1987年6月には1981年のオマル・トリホス大統領暗殺にノリエガが関与したという疑惑が持ち上がり、反ノリエガ派がノリエガ排除に動き出すという事態となった[3]。1988年2月にはエリック・アルトロ・デルバイエEnglish版パナマ大統領はアメリカの支援を受けてノリエガ解任を発表したが、かえってノリエガ派の国会議員によって解任され、マヌエル・ソリス教育相が大統領代行となった[3]。これをうけて3月にはクーデター未遂事件が発生している。また3月にはマイアミ裁判所がノリエガを起訴[3]ロナルド・レーガン大統領は「パナマに民主主義が建設されるまでは制裁を続ける」とし、パナマの在米資産凍結パナマ運河使用料支払い停止を発表した[3]。パナマはこれに対抗してすべての在パナマ外国資産凍結を発表したが、これにより脆弱なパナマの経済システムは大混乱に陥り、産業稼働率が40パーセントに落ち込んだ[3]。アメリカは裏面でノリエガの引退によって訴追を免除するという司法取引を持ちかけたが、ノリエガは受けなかった。またCIAの工作も行われたがノリエガの権力は影響を受けなかった。このためレーガン政権末期の段階で「エラボレート・メイズ」作戦などのパナマ侵攻作戦が策定されている[4]

1989年1月にアメリカ合衆国大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュは、麻薬撲滅のために「麻薬戦争」と呼ばれる麻薬撲滅政策を掲げた。ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派のカルロス・ドゥケEnglish版を出馬させたが、当選したのは反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラEnglish版であった。しかしノリエガはアメリカの干渉があったとして軍をあげて選挙の無効を宣言し、フランシスコ・ロドリゲスEnglish版会計院長を大統領とし、権力の保持を図った。この動きをうけて5月には暴動が発生しただけでなく、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。12月15日、ノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した[4]

ブッシュ大統領は5月の大統領選挙直後から特殊部隊のパナマ派遣を極秘裏に承認した[4]。12月16日頃からアメリカ軍人に対する殺害や暴行事件が発生しているという報告が伝えられるようになった。リチャード・ブラウン国防次官の報告によると米軍施設への武装侵入が数十回、そのうちの一件で2人のアメリカ軍兵士が殺害されたとしている[5]。12月20日午前0時45分、ブッシュ大統領はパナマ在住アメリカ人の保護、パナマ運河条約の保全、ノリエガの拘束を主目的とする「ジャスト・コーズ作戦」(Operation Just Cause)の発動を命令した。15分前にはエンダラを大統領として宣誓させている[4]。ブッシュ大統領はこの侵攻をノリエガの煽動に対するアメリカの自衛権発動であると主張している[6]

侵攻

ファイル:Operation Just Cause.jpg
アメリカ軍の侵攻の経緯
ファイル:PanamaM-113JustCauseUS-Invasion.jpg
パナマに展開するアメリカ陸軍のM113

「ジャスト・コーズ作戦」は当初「ブルー・スプーン」と名付けられていたが、リンゼイ陸軍大将から「奇妙な作戦名だ」と評されたのをきっかけに作戦名は「ジャスト・コーズ」と改められた。ブッシュは12月20日未明に空軍海軍陸軍からなる5万7,384人のアメリカ軍をパナマに侵攻させ、ノリエガの率いるパナマ国家防衛軍との間で激しい戦闘が行われた。

アメリカ製の旧式の武器を中心としたパナマ国家防衛軍に対して、ロッキードF-117「ナイトホーク」やマクドネル・ダグラスAH-64 アパッチなどの最新鋭機を中心とした300機を超える航空機を投入するなど、圧倒的な軍事力を持ったアメリカ軍は間もなく首都パナマ市を占領した。

なお、ノリエガはアメリカ軍による拘束を逃れてバチカン大使館に逃れたものの、その後アメリカはバチカンと交渉しノリエガを大使館より退去させ、1990年1月3日にアメリカ軍に拘束された。

終結

ノリエガはその後アメリカ国内に身柄を移送され、1992年4月にフロリダ州マイアミにて麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた(後に30年に減刑され、さらに模範囚であったため2007年9月9日に釈放されたが、麻薬取引で得た資金のマネーロンダリングフランス銀行システムを悪用して行ったとして2010年4月26日に同国に移送された[7])。その後、禁固7年の有罪判決が下されている[8]。また、パナマ国防軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊、海上保安隊及び航空保安隊で構成される)に再編された。 その後ノリエガは2017年5月29日に死去した。

脚注

参考文献

関連項目