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'''プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス'''({{llang|la|言語記事名=古典ラテン語|'''Publius Aelius Trajanus Hadrianus'''|プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス}}、[[76年]][[1月24日]] - [[138年]][[7月10日]])は、第14代[[ローマ皇帝]](在位:[[117年]] - 138年)。[[ネルウァ=アントニヌス朝]]の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、[[トラヤヌス]]帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
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'''プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス'''({{llang|la|言語記事名=古典ラテン語|'''Publius Aelius Trajanus Hadrianus'''|プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス}}、[[76年]][[1月24日]] - [[138年]][[7月10日]]
 
 
== 治世・歴史的評価 ==
 
=== 皇帝即位からローマ帰還まで ===
 
ハドリアヌスは[[ローマ]]で生まれた(原籍がある[[ヒスパニア・バエティカ]]のイタリカで生まれたとの説もある)。トラヤヌスの従兄弟の子である。
 
 
 
93年(または94年)、二十人委員の職に就き、民生関係の修行をした。ついで、[[パンノニア]]、[[モエシア|モエシア・インフェリオル]]及び[[ゲルマニア・スペリオル]]各[[属州]]で高級軍団将校を務める。その後101年、元首財務官に就任、トラヤヌスの秘書を務める。皇帝の演説を[[元老院 (ローマ)|元老院]]で代読したのは、この時のことである。105年[[護民官]]に就任、ついで法務官([[プラエトル]])に任命された。その後、軍団司令官として第2次[[ダキア戦争]]に従軍、この戦争で実績を重ね、107年からは属州長官として下部パンノニアを治めた。この属州の長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官を務めた。
 
 
 
114年から開始された[[パルティア戦争]]では軍団の司令官に任命され、参謀本部内でトラヤヌスの補佐役として優れた手腕を発揮した。117年、トラヤヌスは、ハドリアヌスを[[シリア属州|属州シリア]]の総督に任命した。病を得たトラヤヌスは、ハドリアヌスを[[パルティア]]遠征軍の総司令官に任命し、ローマへ帰国の途につく。しかし、トラヤヌスは[[キリキア]]地方の[[セリヌス]]で不帰の人となった。死の床でトラヤヌスはハドリアヌスを養子に指名したが、これは皇后プロティナの支持があったからだといわれる。
 
 
 
8月9日、[[アンティオキア]]滞在中のハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス逝去を報ずる書簡が届いた。このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「[[インペラトル]](皇帝)」と歓呼された。公式にはこの日が「即位の日」とされる。ハドリアヌスはセリヌスへいって弔問したあと、再びシリアへ戻る。その際、東部国境の安定化のため、属州[[メソポタミア]]と[[アルメニア]]の放棄を決定した。その処理が終わると、蛮族の侵入によって不穏な情勢にあった[[ドナウ川]]流域を訪れ、属州[[ダキア]]と属州モエシアを再編成し、翌年7月、ようやくローマへ帰還した。
 
 
 
ハドリアヌスの帝位継承については、[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員の一部から異論が出るおそれがあった。そのためであろう、かつてハドリアヌスの後見人であった腹心の近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院の命令により」、執政官を経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌスが命じたとする研究者もいる)。
 
 
 
=== ハドリアヌスの業績 ===
 
[[ファイル:Roman Empire Trajan 117AD.png|thumb|300px|先代[[トラヤヌス|トラヤヌス帝]]により、ローマ帝国の領土は最大となっていた。]]
 
ハドリアヌスの治世において特筆すべき事柄は
 
* 属州[[メソポタミア]]と[[アルメニア]]の放棄による東部国境の安定化ならびに防壁建造などの帝国周辺地域における防衛策の整備
 
* ローマ帝国全体の統合強化と平準化
 
* 2度にわたる長期の巡察旅行
 
* 官僚制度の確立と行政制度の整備
 
* 法制度における改革
 
である。
 
 
 
トラヤヌスは、すでにダキアを属州化していた。パルティア戦争開始後、[[メソポタミア]]、[[アッシリア]]、[[アルメニア]]を属州とし、治世末期にはローマ帝国史上最大の版図を実現していた。しかし、東方の隣国である[[パルティア]]との紛争を収束させていなかった。このような状況に鑑み、ハドリアヌスは外交政策を攻勢から守勢に転換し、[[ユーフラテス川]]以東のメソポタミア、アッシリア、アルメニアを放棄して、東方の国境の安定化を図った。
 
 
 
[[ファイル:Hadrians Wall from Housesteads1.jpg|200px|left|thumb|[[ハドリアヌスの長城]]]]
 
ハドリアヌスは帝国の統一のためには平和が欠かせないことを充分認識しており、帝国の東部以外でも帝国の防衛力を整備した。軍事的脅威を受けている地方では、防壁([[リメス]])の構築あるいは天然の要害によって帝国を防衛することにした。なかでも、[[カレドニア]]人との紛争が続いていた[[ブリタンニア]]北部に「[[ハドリアヌスの長城]]」として知られる防壁を構築した。[[ゲルマン人]]との境界の[[ライン川]]やドナウ川地域、そのほか、[[アフリカ属州|アフリカ]]でも防壁が構築されている。そして、皇帝自ら軍紀の徹底を図り、巡察旅行中も現場で兵士の訓練を査察し、直接指示を出したりした。また、軍団に地元の兵士を採用することによって、軍団の徴募を安定化させ、経費の節約を図った。
 
 
 
パルティア問題を収拾させたあと、帝国内の諸問題に取り組む。まず属州に対する姿勢を変更した。属州の重要性を強調し、開発を推進すると同時にイタリアとの一体化に努力を傾注した。このため、ハドリアヌス自身、2度にわたって長期の巡察旅行に出かけた。この旅行の目的は、帝国防衛の再整備、帝国の行政の調整、統合の象徴としての皇帝の周知、帝国各地(とくにギリシア化していた地域)の巡察にあった。巡察旅行には建設関係者をも随伴していたといわれ、公共工事も行われた。
 
 
 
次に、ハドリアヌスは統治機構を整備した。彼の構築した官僚機構は以降の帝国の基礎となる。
 
 
 
ハドリアヌスは法制度の整備も推進する。[[サルウィウス・ユリアヌス]]に命じて、『[[永久告示録]]』と呼ばれる法典を編纂させた(完成は131年頃、6世紀まで使われた)。これは、法務官が出した従来の告示(属州総督や属州の審判人の法源)を集大成したものである。[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]の時代には、これらを基に『ユスティニアヌス法典』(別名『[[ローマ法大全]]』)が編纂された。
 
 
 
130年、[[エルサレム]]市をローマ風の都市に建設、自らの氏族名[[アエリウス氏族|アエリウス]]にちなんで植民市「[[アエリア・カピトリーナ]]」と命名し、さらに132年には[[割礼]]を禁止した。そのため、[[ユダヤ人]]の大規模かつ組織的な反乱が発生した。[[バル・コクバの乱]]と呼ばれる。ハドリアヌスは他の属州からも軍団を動員し、135年にようやく反乱を鎮圧した。3年以上を要したことになる。この戦争の終結を機に、ユダヤ地方は「属州シリア・パレスティナ」と名称が変更され、この地からユダヤの名が消えた。ユダヤ人は離散([[ディアスポラ]])を余儀なくされ、以後、エルサレム市内への立ち入りも制限された。
 
 
 
=== 皇帝と元老院との関係 ===
 
[[ファイル:Roman Empire 125.png|thumb|300px|ハドリアヌス統治下のローマ帝国]]
 
ハドリアヌスはその治世を通じ、国内外において目覚しい成果を挙げた。しかし、[[元老院 (ローマ)|元老院]]にはハドリアヌスの政策をよしとしない者がいたことも事実である。
 
 
 
まず、治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している。ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと判断して、[[メソポタミア]]、[[アッシリア]]、[[アルメニア]]から撤退するという現実路線に切り換えた。ところが、当時の元老院には実際に戦場へ赴いて領土拡大に貢献した者もおり、ハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対してハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。
 
 
 
治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。しかし、いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと見る向きもある。
 
 
 
皇帝の死後、元老院では、ハドリアヌスを[[神格化]]し国家神の列の加えることに反対する動きがあった。神格化されないと、[[ドミティアヌス]]帝のように[[記録抹殺刑|記憶の抹殺]]が行われ、ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。後継者のアントニヌス帝は涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。このため、アントニヌスは[[アントニヌス・ピウス]](敬虔なアントニヌス)と呼ばれることになった。
 
 
 
ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、[[五賢帝]]の一人とされるハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。
 
 
 
=== その他 ===
 
文化面では[[118年]]、ローマ近郊の[[ティヴォリ]]に大規模な別荘[[ヴィッラ・アドリアーナ (ティヴォリ)|ウィラ・ハドリアヌス]]の造営を開始し、同時に後世の[[新古典主義建築]]に大きな影響を与えた、ローマに今日まで残る[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]神殿の再建に着手した{{いつ|date=2016年5月23日 (月) 13:09 (UTC)}}。そのほか、ローマの[[ウェヌスとローマ神殿]]など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。
 
 
 
私生活では、[[ビテュニア]]の美青年の愛人[[アンティノウス]](アンティノオス)を寵愛し、属州[[アエギュプトゥス]](エジプト)視察中にこの美青年が[[ナイル川]]で事故死を遂げたあとは、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建したほか、帝国中にアンティノウス像を建てさせ、天空に[[アンティノウス座]]を作ったことが知られている。
 
 
 
もともと頑健であったが、晩年は体調不良に苦しみ、幾度か自殺を試みるも直前に家内奴隷に制止された。また、自分の後継者と決めていた[[ルキウス・アエリウス・カエサル]]が138年1月に死去するという悲運もあったが、翌月には[[アントニヌス・ピウス|アントニヌス]]を養子とし、自らの後継とした。138年7月、[[バイアエ]] ([[:en:Baiae|Baiae]]) の別荘において62歳で没した。
 
 
 
== 建築物 ==
 
[[ファイル:RomaCastelSantAngelo-2.jpg|thumb|ハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始した[[サンタンジェロ城]]]]
 
=== ローマ市内 ===
 
* トラヤヌスの記念柱
 
* [[ウェヌスとローマ神殿]]
 
* [[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]の再建
 
* アグリッパ橋の再建(アエリウス橋と改名)
 
=== 属州地 ===
 
* [[ハドリアヌスの城壁]](ブリタニア)
 
* [[ヴィッラ・アドリアーナ (ティヴォリ)|ウィラ・ハドリアヌス]] (ティヴォリ)
 
* アテネの建築群<ref>http://www.livius.org/ha-hd/hadrian/hadrian.html</ref>
 
* レプティス・マグナの浴場<ref>http://www.livius.org/ha-hd/hadrian/hadrian.html</ref>
 
 
 
== 最期の詩 ==
 
ハドリアヌスは死に際して、以下の詩を残したと伝えられる<ref group="注釈">日本語訳は藤原道郎 『物語イタリアの歴史 II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで』<small>([[中央公論新社]]〈[[中公新書]] 1771〉、2004年11月。ISBN 978-4-12-101771-0)</small> {{要ページ番号|date=2016-05-23}}をもとに仮訳。<!--著作権の関係で元訳はWikipediaに掲載できない。--></ref>。
 
{|
 
|-valign="bottom"
 
|
 
:原文:
 
: {{lang|la|''Animula, vagula, blandula''}}
 
: {{lang|la|''Hospes comesque corporis''}}
 
: {{lang|la|''Quae nunc abibis in loca''}}
 
: {{lang|la|''Pallidula, rigida, nudula,''}}
 
: {{lang|la|''Nec, ut soles, dabis iocos...''}}
 
|
 
:日本語訳:
 
:さまよう、魅力的な、小さな魂
 
:身体に宿った客よ仲間よ
 
:どこへ出発しようとしているのか
 
:暗く、冷たく、むきだしで
 
:冗談を言う力もないか……
 
:
 
|}
 
 
 
== 家系図 ==
 
{{ネルウァ・アントニヌス朝系図}}
 
 
 
== 逸話 ==
 
{{雑多な内容の箇条書き|date=2016年5月23日 (月) 13:09 (UTC)}}
 
* ハドリアヌスは、ローマ皇帝のなかで初めて髭を生やした皇帝である。
 
* 元首財務官時代、皇帝の演説を元老院で代読したとき、少しヒスパニア訛りがあったので揶揄されたといわれる。これはおそらく側近が地方出身者であったからであろう。そこで青年ハドリアヌスは練習を重ね、矯正したという。
 
*大浴場を訪れた際、老人が石鹸のついた背中を壁面で擦り落としているのを見たハドリアヌスは、老人が自分の指揮下にいた元[[ケントゥリオ|百人隊長]]であることをすぐに思い出し、体を清める専門の奴隷すら雇えない経済状況に同情してその老人に料金の負担を申し出た。後日、この噂を聞きつけたローマ中の老人がこぞって浴場の壁面に背中をこすり付けたという。
 
* ハドリアヌスは詩に深い造詣があった。詩人[[フロルス]]がいつも地方巡察をしているハドリアヌスに対して皮肉を込めて詩を送ると、ハドリアヌスもパロディ風に同じ統辞構造を使った詩で返答した{{Refnest|group="注釈"|フロルス「皇帝なんぞにはなりたくない。ブリトン人の間をうろついて、……の間に潜んで、[[スキタイ|スキュティア]]人の地の冬を、辛抱しなければならぬから」  ハドリアヌスの返答「フロルスなんぞにはなりたくない。安料理屋の間をうろついて、居酒屋に潜んで、丸々と太った蚊の餌食になるのを、辛抱しなければならぬから」{{sfn|スパルティアヌス||pp=51&ndash;52|loc=ハドリアヌスの生涯16節}}}}。この応答に彼の詩才の一端を垣間見ることができる。
 
* 18世紀の歴史家[[エドワード・ギボン]]はハドリアヌスについて、「ハドリアヌスの情熱の元は『好奇心』と『虚栄心』から構成されており、対象によってハドリアヌスは優れた君主にも、滑稽な[[ソフィスト]]にも、また嫉妬深い暴君ともなった」と評している。
 
*[[ネロ]]と同じく非常にギリシャへの傾倒が強く、その影響か男色家だった。当時のローマでは男色は嫌悪されることではなかったが、大っぴらにするようなものでもなかったため、公にされることはほとんどなかった。
 
 
 
== 伝記 ==
 
* ステュワート・ペローン 『ローマ皇帝ハドリアヌス』 (暮田愛訳、[[前田耕作]]監修・解説、[[河出書房新社]]、2001年)<!--2005年4月3日 (日) 11:24 (UTC)-->
 
<!--  * [[塩野七生]] 『[[ローマ人の物語]]IX 賢帝の世紀』 ([[新潮社]]、2000年/[[新潮文庫]] 3分冊、2006年) - 文学作品 2005年4月3日 (日) 11:24 (UTC)-->
 
* [[マルグリット・ユルスナール]] 『[[ハドリアヌス帝の回想]]』 ([[多田智満子]]訳、[[白水社]]、新装版2008年) - 歴史小説<!--2005年4月3日 (日) 11:24 (UTC)-->
 
* {{仮リンク|レモン・シュヴァリエ|fr|Raymond Chevallier}}、レミ・ポワニョ 『ハドリアヌス帝 - 文人皇帝の生涯とその時代』 (北野徹訳、白水社〈[[文庫クセジュ]]〉、2010年)
 
* アントニー・エヴァリット 『ハドリアヌス - ローマの栄光と衰退』 (草皆伸子訳、白水社、2011年)
 
 
 
== ハドリアヌスが登場する作品 ==
 
* 漫画 『[[テルマエ・ロマエ]]』
 
** 上記を映画化した『[[テルマエ・ロマエ#映画|テルマエ・ロマエ]]』(2012年)、『[[テルマエ・ロマエ#映画2作目|テルマエ・ロマエⅡ]]』(2014年)では、[[市村正親]]がハドリアヌスを演じた。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
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ローマ皇帝 (在位 117~138) [[五賢帝]]の一人。ヒスパニアの元老院議員家系の出身。先帝[[トラヤヌス]]の血縁にあたる。トラヤヌスが死の床で彼を養子としたと称して,そのときシリアにあったハドリアヌスは現地で即位。しかし元老院がこれに疑いをもって両者の関係は冷却,またダキア,エジプト,ブリタニアの政情不安もあってユーフラテス川以遠の,トラヤヌスが征服した地域を放棄してローマに帰り,借財帳消し,貧民救済策によって人気を獲得し,対外的には防衛策に転じた。ローマを離れて各地を巡察し,騎士身分 ([[エクイテス]] ) を登用して官僚制を整え,貨幣発行による財政建直し,立法整備を行なった。また新しい形式のラテン市民権である大ラテン市民権を創設,この権利を得た都市のすべての地方元老院議員にローマ市民権を与え,ローマ元老院に多くの属州の貴族を補充させた。辺境には[[ハドリアヌス長城]]などの城壁を修築,駐屯地からの徴兵などの軍制改革,荒廃したエジプトなどでは植民に努めた。アテネを愛しオリュンピア,ゼウスの神殿を造らせ,ほかにも公共施設を多く建設させた。エルサレムには新市[[アエリア・カピトリナ]]を建設。これに反抗したラビ・アキバらユダヤ人を徹底的に弾圧した (132) 。また同性愛の愛人アンチノースの死後,エジプトに新市アンチノポリスを建設し,祭儀を行わせた。晩年はチボリ (ローマ近郊) の広大な別荘に引きこもった。すぐれた政治的手腕をもつとともに,文芸,絵画,算術を愛好,学者を厚遇した。アントニヌス・ピウスを養子とし,死後彼によって神格化された。
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。
 
書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。-->
 
{{参照方法|date=2016年5月23日 () 13:09 (UTC)}}
 
* {{Cite book |和書 |author=[[桜井万里子]] |author2=[[本村凌二]] |title=世界の歴史 5 ギリシアとローマ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref= }}
 
** 桜井万里子、本村凌二 『世界の歴史 5 ギリシアとローマ』 [[中央公論新社]][[中公文庫]]〉、2010年5月。ISBN 978-4-12-205312-0。<!--2005年10月16日 () 15:14 (UTC)-->
 
* {{Cite book |和書 |ref={{sfnref|スパルティアヌス|}} |author=アエリウス・スパルティアヌス |title=ローマ皇帝群像1|date=2004-01 |year=|publisher=[[京都大学学術出版会]] |translator=[[南川高志]] |isbn=4-87698-146-9 }}
 
  
== 関連書籍 ==
 
{{Commonscat|Hadrianus}}
 
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。
 
書籍の宣伝はおやめ下さい。-->
 
* {{仮リンク|クリス・スカー|en|Chris Scarre}} 『ローマ皇帝歴代誌』([[創元社]]、1998年)<!--2008年7月4日 (金) 23:40 (UTC)-->
 
* フランソワ・トレモリエール 『図説 ラルース世界史人物百科』([[樺山紘一]]監修、[[原書房]]、2004年)<!--2007年1月9日 (火) 07:20 (UTC)-->
 
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{{ローマ皇帝}}
 
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[[Category:ローマ皇帝]]
 
[[Category:ローマ皇帝]]

2018/10/6/ (土) 14:53時点における最新版


プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス古典ラテン語Publius Aelius Trajanus Hadrianus (プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス)、76年1月24日 - 138年7月10日

ローマ皇帝 (在位 117~138) 。五賢帝の一人。ヒスパニアの元老院議員家系の出身。先帝トラヤヌスの血縁にあたる。トラヤヌスが死の床で彼を養子としたと称して,そのときシリアにあったハドリアヌスは現地で即位。しかし元老院がこれに疑いをもって両者の関係は冷却,またダキア,エジプト,ブリタニアの政情不安もあってユーフラテス川以遠の,トラヤヌスが征服した地域を放棄してローマに帰り,借財帳消し,貧民救済策によって人気を獲得し,対外的には防衛策に転じた。ローマを離れて各地を巡察し,騎士身分 (エクイテス ) を登用して官僚制を整え,貨幣発行による財政建直し,立法整備を行なった。また新しい形式のラテン市民権である大ラテン市民権を創設,この権利を得た都市のすべての地方元老院議員にローマ市民権を与え,ローマ元老院に多くの属州の貴族を補充させた。辺境にはハドリアヌス長城などの城壁を修築,駐屯地からの徴兵などの軍制改革,荒廃したエジプトなどでは植民に努めた。アテネを愛しオリュンピア,ゼウスの神殿を造らせ,ほかにも公共施設を多く建設させた。エルサレムには新市アエリア・カピトリナを建設。これに反抗したラビ・アキバらユダヤ人を徹底的に弾圧した (132) 。また同性愛の愛人アンチノースの死後,エジプトに新市アンチノポリスを建設し,祭儀を行わせた。晩年はチボリ (ローマ近郊) の広大な別荘に引きこもった。すぐれた政治的手腕をもつとともに,文芸,絵画,算術を愛好,学者を厚遇した。アントニヌス・ピウスを養子とし,死後彼によって神格化された。




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