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{{Infobox scientist
 
| name        = Niels Bohr<br>ニールス・ボーア
 
| image      = Niels Bohr.jpg
 
| image _size      = 200px
 
| caption    = ニールス・ボーア(1922)
 
| birth_name  = Niels Henrik David Bohr
 
| birth_date  = {{birth date|1885|10|7|df=y}}
 
| birth_place = {{DEN}} [[コペンハーゲン]]
 
| death_date  = {{death date and age|df=yes|1962|11|18|1885|10|7}}
 
| death_place = {{DEN}} コペンハーゲン
 
| nationality = {{DEN}}
 
| field      =
 
| alma_mater  = [[コペンハーゲン大学]]<br />[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]
 
|thesis_title = Studier over Metallernes Elektrontheori (Studies on the Electron Theory of Metals)
 
|thesis_url  = http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S187605030870015X
 
|thesis_year  =1911
 
| workplaces  = コペンハーゲン大学<br>[[ケンブリッジ大学]]
 
| doctoral_advisor  =
 
| academic_advisors = [[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]<br />[[アーネスト・ラザフォード]]
 
| doctoral_students = [[ヘンリク・アンソニー・クラマース]]
 
| notable_students  = [[レフ・ランダウ]]
 
| known_for  = [[ボーア半径]]<br>[[ボーアの量子条件]]
 
| influenced  =
 
| awards      = [[ノーベル物理学賞]](1922)<br>[[コプリ・メダル]](1938)
 
| signature  = Niels Bohr Signature.svg
 
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1922年|ノーベル物理学賞|原子構造とその放射に関する研究}}
 
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'''ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア'''({{lang-da|Niels Henrik David Bohr}}<ref>デンマーク語では'''ネルス・ボア'''{{ipa|nels ˈb̥oɐ̯ˀ}}と発音</ref>、[[1885年]][[10月7日]] - [[1962年]][[11月18日]])は、[[デンマーク]]の理論[[物理学者]]<ref>{{cite web
 
| url = http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1922/bohr-bio.html
 
| title = Niels Bohr The Nobel Prize in Physics 1922 Biography
 
| accessdate = 2012-10-08}}</ref>。[[量子論]]の育ての親として、[[前期量子論]]の展開を指導、[[量子力学]]の確立に大いに貢献した。[[王立協会]]外国人会員。
 
  
== 生涯 ==
+
'''ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア'''({{lang-da|Niels Henrik David Bohr}}<ref>デンマーク語では'''ネルス・ボア'''{{ipa|nels ˈb̥oɐ̯ˀ}}と発音</ref>、[[1885年]][[10月7日]] - [[1962年]][[11月18日]]
=== ヨーロッパ時代 ===
 
[[コペンハーゲン]]に生まれ、[[1903年]]に[[コペンハーゲン大学]]に入学。[[1911年]]に[[イギリス]]へ留学し、[[キャヴェンディッシュ研究所]]にて[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]の下で研究を行った後、[[1911年]]に[[マンチェスター大学]]の[[アーネスト・ラザフォード]]の元で[[原子模型]]の研究に着手した。コペンハーゲン大学に戻り、[[ラザフォードの原子模型]]の欠点を[[マックス・プランク]]の[[量子仮説]]を用いて解消し、[[1913年]]に[[ボーアの原子模型]]を確立した。[[1921年]]にコペンハーゲンに理論物理学研究所([[ニールス・ボーア研究所]])を開き、外国から多くの物理学者を招いて[[コペンハーゲン学派 (量子力学)|コペンハーゲン学派]]を成することになる。[[原子物理学]]への貢献により[[1922年]][[ノーベル物理学賞]]を受賞。
 
  
その後も、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]らの後進とともに、量子力学([[行列力学]])の形成を推進。[[エルヴィン・シュレーディンガー]]が[[波動力学]]を発表したときには、コペンハーゲンに招きよせ、討論に疲弊して倒れたシュレーディンガーの病床で議論を続けたことは有名である。[[アルベルト・アインシュタイン]]が量子力学に反対するようになると、尊敬するアインシュタインとも論争を続けて説得しようとした。有名なエピソードに[[マックス・ボルン]]宛にアインシュタインが書いた手紙({{Lang|de|"Der Alte [[wikt:würfelt|würfelt]] nicht."}} 神はサイコロを振らない)に反論した名言({{Lang|de|"Einstein, schreiben Sie Gott nicht vor, was er zu tun hat."}} アインシュタインよ、神が何をなさるかを貴方が語るなかれ)がある。ボーアは社交的な人柄だったので、多くの物理学者から慕われ、量子力学の形成に指導的役割を果たした。また、彼は実験をせず科学的発見を行ったといわれている。{{誰|date=2012年10月}}
+
デンマークの理論物理学者。父はコペンハーゲン大学の生理学教授。 1911年コペンハーゲン大学から学位を取得後,イギリスへ留学。 [[J. J.トムソン]][[E.ラザフォード]]らのもとで研究。 16年コペンハーゲン大学の教授に任命されるまで,イギリスとデンマークの間を往復。 21年にコペンハーゲン理論物理学研究所を創設し,みずから所長となり,世界でも有数の研究所に育て上げた。 1913年ラザフォードの原子模型とプランクの量子仮説とを組合せ,水素原子のスペクトルの説明に成功 ([[ボーアの原子理論]] ) 。これ以後量子論建設に中心的な役割を果した。 18年古典論と量子論を関係づける対応原理を発表,27年量子論の提起した認識論的問題に対して相補性の概念を展開。 1930年代原子核が研究対象になるに及び,核の液滴模型を提出し,原子核理論に大きな影響を与えた。 40年母国がドイツ軍に占領され,43年身の危険を感じ一家でスウェーデンに逃れた。その後息子の [[A.N.ボーア]]とともにイギリス,アメリカで原子爆弾開発に協力したが,第2次世界大戦後は原子力の平和利用運動に尽力した。 1922年ノーベル物理学賞受賞。
 
 
=== アメリカ時代 ===
 
[[第二次世界大戦]]が始まり、[[ナチス・ドイツ]]が[[ヨーロッパ]]での侵略を始めると、[[ユダヤ人]]を母に持つボーアは[[イギリス]]を経由して[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡った。
 
 
 
[[1939年]]に発表されたボーアの[[原子核分裂]]の予想([[ウラン235]]は他の[[ウランの同位体]]に比べ分裂しやすい)は、[[原子爆弾]]開発への重要な理論根拠にされた。しかし、ボーアは[[軍備拡張競争|軍拡競争]]を憂慮し、[[西側諸国]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]も含めた原子爆弾の管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走したが、結局ボーアの願いは叶わなかった。
 
 
 
{{See|日本への原子爆弾投下#原子爆弾投下阻止の試みと挫折}}
 
 
 
== 業績 ==
 
ボーアの研究は、実験物理学から始まった。1905年に液体の表面張力の実験的研究でデンマーク王立科学アカデミーから金メダルを獲得した。その後、段々と理論的傾向が強くなった。1911年の博士論文では、金属中の電子を古典論で扱う限り、磁性が生じないことを示した。英国留学中の初期段階では、実験的研究を行っていたが、ラザフォードの下に留学中に理論家に転向した。この時、水素原子のボーア模型の着想を得た。デンマークに帰国後、上記のような水素原子のボーア・モデルを提案し、同時に[[対応原理]]を提唱した。また、量子力学の創出に貢献し、[[相補性]]の概念を確立した。さらに原子核の[[液滴模型]]を改良し、[[ウラン238]]でなく[[ウラン235|235]]が核分裂を生じやすいことを指摘した。20世紀初頭の物理学に様々な貢献しており、相対性理論の確立者であるアインシュタインと双璧を成すと称される。アインシュタインとは量子力学の基礎論の分野で、多くの議論を戦わせた。アインシュタインが「光子箱」の思考実験を持ち出し、不確定性関係 {{Math|Δ''E''Δ''t'' > ''h''}} の成立に異論を唱えると、一般相対性理論を使って {{Math|Δ''E''Δ''t'' > ''h''}} を擁護し、アインシュタインを論破した。
 
 
 
業績内容の詳細ついては「[[ボーア]]」の項(「[[ボーアの原子模型]]」、「[[ボーアの量子条件]]」、「[[ボーア半径]]」、「[[ボーア磁子]]」、「[[ボーア=ファン・リューエンの定理]]」)も参照。
 
{{節スタブ}}
 
 
 
==個人的関心==
 
[[File:Coat of Arms of Niels Bohr.svg|thumb|ボーアがデザインした勲章]]
 
ボーアは、[[量子論]]の解き明かした[[粒子と波動の二重性]]、[[位置]]と[[速度]]の間の[[不確定性原理|不確定性]]などの[[世界像]]を「'''[[相補性]]'''」と名付け、後半生には[[量子物理学]]と[[東洋哲学]]に[[類似性]]があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。さらに、次のようにも言っている。「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれは[[ブッダ]]や[[老子]]といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる[[存在]]のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」その傾倒ぶりは、偉大な功績により、[[デンマーク]]最高の[[勲章]]である[[エレファント勲章]]を受けた時、「[[紋章]]」に選んだのが、[[陰]]と[[陽]]、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、[[太極図]]であったことからもうかがえる。その紋章は、デンマークの[[フレデリクスボー城]]に、世界の王室・元首の紋章とともに飾られている。
 
 
 
== 後世への影響と記念 ==
 
[[1997年]]に107番[[元素]]がボーアの名にちなみ「[[ボーリウム]]」と命名された。
 
 
 
ボーアは[[ランタノイド]]の性質の類似性や3価イオンの色などから[[ランタノイド]]の[[電子軌道]]の構造を推定し(ボーアのランタノイド仮説)、当時未発見だった72番元素はランタノイドではなく[[ジルコニウム]]に類似したものだと予言してボーア研究所の[[ディルク・コスター]]と[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]に[[ジルコン]]の分析を提唱。結果発見されたのが[[ハフニウム]]である[http://www.ielement.org/hf.html]。
 
 
 
また、[[1975年]]には、息子の[[オーゲ・ニールス・ボーア]]も[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。更に、父の[[クリスティアン・ボーア]](Christian Bohr)は、[[ボーア効果]]で知られる生理学者である。
 
 
 
== エピソード ==
 
 
 
*<!--1908年ロンドンオリンピック、サッカーデンマーク代表選手(非補欠登録GK)-->アマチュアサッカー選手出身、{{Lang|dan|Akademisk Boldklub}}([[ABコペンハーゲン]])ゴールキーパー<ref>[http://www.theguardian.com/football/2005/jul/27/theknowledge.panathinaikos National service for footballers] the guardian 2005</ref>。なお、ボーアは若い頃[[サッカー]]が得意だったが、デンマーク正代表選手として[[ロンドンオリンピック (1908年)|オリンピック]]に出場し銀メダルを獲得したのは弟の[[ハラルト・ボーア]]である<ref>{{cite news|last=Dart|first=James|date=27 July 2005|url=http://www.guardian.co.uk/football/2005/jul/27/theknowledge.panathinaikos|title=National service for footballers|work=The Guardian|location=London|accessdate=8 October 2012}}</ref>。ハラルトは[[数学者]]で、[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]の[[リーマンゼータ函数|ゼータ関数]]を研究し、また[[概周期函数]]を発見した。文武両道のハラルトに比べ、数学の虫だったニールスはサッカーの試合で失点する度に「ニールスはゴールキーパーなのに頭の中は数学の事でいっぱいだからシュートが止められない」と数学好きと絡めて茶化され、果てには「紙に数式をメモしている間にゴールされてしまった」という逸話がジョークとして残っている。1908年ロンドンオリンピックは欠員が出た場合の予備選手として声がかかっていたが本選には招集されていない。
 
 
 
*弟は2歳年下であったが、ボーアの博士号取得の前年に若干22歳で博士号を取得した<ref>ステファン・ローゼンタール編、豊田利幸訳「ニールス・ボーア-その友と同僚よりみた生涯と業績」(岩波書店、1970年)</ref>。誰もが名声を得るのは弟の方だろうと思っていたが、後年世界的に有名になったのは兄の方であった(しかし、弟は若い時分からそうなることを予見し、周囲にもそう言っていた)。
 
 
 
*論文原稿は、いつも徹底的に書き直し完璧を目指した(改訂の回数は十指に余った)。しかし、苦労して完成させた原稿は、非常に深遠ではあるが、明快とは言い難いものであった<ref>エミリオ・セグレ著、久保亮五、矢崎裕二訳「X線からクォークまで」(みすず書房、1982年)</ref>。
 
 
 
*手紙を書く場合も上記の流儀を通した。ある日、弟がニールスの机の上で見つけた手紙(弟には完全に出来上がっているように見えた)を投函しないのか尋ねたところ、「それは、下書きのための第1草稿だよ」と答えた<ref>文献5</ref>。
 
 
 
*[[口述筆記]]で原稿を作成することも多く、仲間がボーアの口述を筆写した。口述筆記で作成した講演会の原稿(徹底的な改訂を加えたもの)をいつも事前に準備していたが、いざ登壇すると、原稿を一切無視した講演を行い、仲間を仰天させた<ref>アブラハム・パイス著、杉山 滋郎、伊藤 伸子訳「物理学者たちの20世紀-ボーア、アインシュタイン、オッペンハイマーの思い出」 (朝日新聞社、2004年)</ref>。
 
 
 
*[[英語]]力は[[英文学]]を読んで上達させたため、文法的に正しい英語を書くことはできたが、会話はデンマーク訛りが強かった<ref>[http://www.mediatheque.lindau-nobel.org/videos/31564/1962-atomic-physics-and-human-knowledge/laureate-bohr リンダウ会議のボーア講演 録音(1962年)]</ref>。ある時、理論物理学者のリチャード・[[ファインマン]]は兵役検査で精神科医の「聞こえるはずがない声を聞いた事があるか」という質問にいたずら心を出して、デンマーク訛りの英語を[[声帯模写]](ボーアを真似)した結果、「適性不良」として兵役検査から落とされた。
 
 
 
*1937年(昭和12年)に来日した際<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Gty26kHct-g 「ニールス・ボーア博士の見た東北大学」(東北大学史料館所蔵フィルム、2006年)]</ref>、観光で見た富士山の姿を相補性原理の説明に使ったことがある<ref>長島要一著「ニールス・ボーアは日本で何を見たか:量子力学の巨人、一九三七年の講演旅行」(平凡社、2013年)</ref>。
 
 
 
==ボーアが登場する作品==
 
[[マイケル・フレイン]]の1998年の戯曲『[[コペンハーゲン (戯曲)|コペンハーゲン]]』は、1941年にハイゼンベルクとボーアが会った際に何が起こったのかを探求するという内容である<ref>{{cite web |url=http://www.complete-review.com/reviews/fraynm/cophagen.htm |title=Copenhagen – Michael Frayn |publisher=The Complete Review |accessdate=27 February 2013 }}</ref>。本戯曲は[[BBC]]によってボーア役が[[スティーヴン・レイ]]、ハイゼンベルク役が[[ダニエル・クレイグ]]というキャストでテレビドラマ化されており、2002年9月26日に初放映された。BBCの科学ドキュメンタリーシリーズ、『ホライズン』でも同じ1941年の会見が既に1992年にテレビ化されており、ボーア役はアンソニー・ベイト、ハイゼンベルク役はフィリップ・アンソニーであった。<ref>''Horizon: Hitler's Bomb'', [[BBC Two]], 24 February 1992</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 著作 ==
 
*{{Cite book|和書|editor=[[大学書林]]編輯部編|year=1941|title=原子論と力学|publisher=大学書林}}
 
*{{Cite book|和書|others=[[玉木英彦]]ほか訳解説|year=1988|month=4|title=国連への公開状 1950年6月9日|series=Publication no.29|publisher=仁科記念財団}}
 
*{{Cite book|和書|others=[[井上健 (物理学者)|井上健]]訳|year=1990|month=3|title=原子理論と自然記述|publisher=みすず書房|isbn=4-622-02544-2}}
 
**{{Cite book|和書|others=井上健訳|year=2008|month=1|title=原子理論と自然記述|edition=新装版|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-07357-4}}
 
*{{Cite book|和書|others=[[山本義隆]]編訳|year=1999|month=4|title=因果性と相補性|series=岩波文庫 ニールス・ボーア論文集 1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339401-1}}
 
*{{Cite book|和書|others=山本義隆編訳|year=2000|month=4|title=量子力学の誕生|series=岩波文庫 ニールス・ボーア論文集 2|publisher=岩波書店|isbn=4-00-339402-X}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2017年10月|section=1}}
 
*{{Cite book|和書|author=西尾成子|title=現代物理学の父ニールス・ボーア ''開かれた研究所から開かれた世界へ''|date=|year=1993|publisher=中公新書}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ボーア半径]]
 
* [[ボーアの量子条件]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Niels Henrik David Bohr}}
 
* [http://archive.org/details/Niels_Bohr ボーアの紹介動画] - [[インターネットアーカイブ]]
 
* [http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2%EF%BC%88Niels%20Henrik%20David%20Bohr%EF%BC%89/ ボーア]([[Yahoo!百科事典]])
 
* [http://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2 ボーアとは]([[コトバンク]]
 
* [http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/niels_bohr.html 宇宙情報センター / SPACE INFORMATION CENTER :ニールス・ボーア]
 
* {{青空文庫|001163|43657|旧字旧仮名|NIELS BOHR}}([[仁科芳雄]]著)
 
 
 
{{ノーベル物理学賞受賞者 (1901年-1925年)}}
 
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[[Category:デンマークの物理学者]]
 
[[Category:デンマークの物理学者]]

2019/4/27/ (土) 09:29時点における最新版

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日

デンマークの理論物理学者。父はコペンハーゲン大学の生理学教授。 1911年コペンハーゲン大学から学位を取得後,イギリスへ留学。 J. J.トムソンE.ラザフォードらのもとで研究。 16年コペンハーゲン大学の教授に任命されるまで,イギリスとデンマークの間を往復。 21年にコペンハーゲン理論物理学研究所を創設し,みずから所長となり,世界でも有数の研究所に育て上げた。 1913年ラザフォードの原子模型とプランクの量子仮説とを組合せ,水素原子のスペクトルの説明に成功 (ボーアの原子理論 ) 。これ以後量子論建設に中心的な役割を果した。 18年古典論と量子論を関係づける対応原理を発表,27年量子論の提起した認識論的問題に対して相補性の概念を展開。 1930年代原子核が研究対象になるに及び,核の液滴模型を提出し,原子核理論に大きな影響を与えた。 40年母国がドイツ軍に占領され,43年身の危険を感じ一家でスウェーデンに逃れた。その後息子の A.N.ボーアとともにイギリス,アメリカで原子爆弾開発に協力したが,第2次世界大戦後は原子力の平和利用運動に尽力した。 1922年ノーベル物理学賞受賞。



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  1. デンマーク語ではネルス・ボア/nels ˈb̥oɐ̯ˀ/と発音