ニュースステーション

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ニュースステーション』(英語: NEWS STATION)は、1985年昭和60年)10月7日から2004年平成16年)3月26日まで、テレビ朝日系列(ANN)で平日祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。テレビ朝日オフィス・トゥー・ワン(形としては企画・制作協力扱い)の共同制作。全4,795回の平均視聴率は、14.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)[1]。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。

概要

テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』『ANNスポーツニュース』に代わり、ドラマバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転(アークヒルズ)と同時に開始された。構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。久米宏も構想の段階で起用が決まり会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した[2][注 1]

当時としてはこの時間帯のニュース番組は前例のない番組であり、開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム、以下断りのない限り略)と低視聴率に悩んだ[3]1986年2月エドゥサ革命以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった[注 2]。視聴率20%超えは、245回(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)[1]。関東地方より先に関西地方(朝日放送)で視聴率(ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム)を獲得した。

中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップ地図模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした[注 3]。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社ウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い[4]イラク戦争では地図に「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。

また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。久米のコメントや番組の基本姿勢は、久米がマスコミ人として持っている反権力・反戦争の信条を色濃く反映したものだったため、広く人気を博した反面、自民党筋や保守派などから、報道内容が偏向しているとの根強い批判・反発も呼んだ。

従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、ごく一部の例外[5] を除いて番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。

音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日[6] からステレオ放送になった。

番組の歴史

初期(1985年10月 - 1988年4月)

1985年10月7日、民放初の平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。

今までにない全く新しい形の報道番組を目指す」というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの朝岡聡、リポーターの渡辺宜嗣)に加えて、一般公募による出演者オーディション(応募者5760名)から数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、橋谷能理子(元テレビ静岡アナウンサー、スタジオアシスタント)、若林正人(元東京銀行調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元三菱商事勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元つくば科学万博コンパニオン、ニュース担当)、内田誠早稲田大学大学院院生、リポーター、後にジャーナリストへ転身)、松本侑子筑波大学学生、天気キャスター、後に作家へ転身)などがいた。

第1回の放送で最初に取り上げたのは、石狩鍋に入れるの話題。長谷川宏和(当時北海道テレビアナウンサー)の自宅、九州朝日放送鹿児島放送のスタジオ、新潟テレビ21のサービスエリアにある新潟市村上市を結んでの生中継を実施した。その直後には、同市出身の稲葉修(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。

初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17、金曜日のみ22時台は『必殺シリーズ[注 4] などの朝日放送制作枠であったため、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 翌0:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時は23:00 - 23:45)。

開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオではストレートニュースを放送しない(ストレートニュースは前身の『ANNニュースファイナル』の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井(貴)が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道色にバラエティ要素を加味した内容となっていた。しかし、開始早々から阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、エドゥサ革命など、重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でスタジオ公開を廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色中心の構成に変更された(この際、リポーターと並行して不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。

ただし「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続き、バラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)し、観客も入れていた。この「金曜版」では毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。

1986年7月から選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタートする。

1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台撤退により月曜日から金曜日まで放送時刻が統一されることとなり、3月25日4月1日の2週にわたって「金曜版」終了スペシャルを放送する予定だったが、3月25日は臨時ニュース[注 5] のため放送できず、4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」は2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日より22:00 - 23:17の放送となっている。

中期1(久米・小宮時代、1988年4月 - 1998年3月)

新体制となる1988年4月4日から全曜日統一して報道色中心の構成となったが、金曜日は金曜版からの名残もあり、月曜日から木曜日までとは違う雰囲気作りが図られるようになる。

1990年には久米が第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[7]。1993年には番組としてギャラクシー賞30周年記念賞を受賞[8]

1993年7月1日(木曜日)、久米が同年の下半期突入を期にメガネ[注 6]を着用するようになった。この頃のメガネはまだ報道キャスターらしいシンプルな枠が無いレンズのみのものであり、このメガネは1999年10月の一時降板までは一貫して変更せずに着用し続けた。

1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。

1996年10月3日からスポーツキャスターが坪井直樹から角澤照治に変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。

1997年4月から金曜日のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の長島三奈が務めた。

1998年3月27日、小宮が『スーパーJチャンネル』のメインキャスター就任のため降板。但し、金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜のみ出演せず)。小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年5月8日までサブキャスター代理として月曜から木曜は堀越むつ子(3月30日 - 4月17日)・渡辺みなみ(4月20日 - 5月1日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 8日)の3人で繋いだ。

中期2(久米・真理時代、1998年4月 - 1999年12月)

1998年5月11日、改編期から約1ヶ月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の渡辺真理、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の白木清か、1997年11月から出演しているコメンテーターの菅沼栄一郎の4人体制となる。これまでは金曜日のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。なお、金曜日のみは引き続き小宮と丸川珠代が担当する。テーマ曲がゴスペラーズの曲に刷新されて、番組ロゴも若干アレンジしてリニューアル。オープニング映像もニュース映像に変わり、最初から日付表示がなされるようになった。

1998年9月25日を以って番組開始から13年出演してきた小宮が完全降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から月曜と火曜のみ上山千穂が担当し、白木は水曜から金曜の担当に縮小となった。

1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2ヶ月後の10月6日放送を以て、契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態となった。これを受けて翌10月7日放送から約3ヶ月間、年末まで宜嗣が代役を務めた。

後期(2000年1月 - 2003年9月)

2000年1月4日、前年12月23日に寿退社のため降板した白木清かと入れ替わる形で、久米が3ヶ月ぶりに番組に復帰。それに伴い番組もリニューアルした。スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターも清水建宇萩谷順森永卓郎船曳建夫の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。テーマ曲が福岡ユタカ作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルした。オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。その際に復帰した久米は髪染めをやめ白髪交じりとなり、口ひげを蓄えた上メガネについてもそれまでの枠がないレンズのものから枠のあるシャレたデザイン、さらにそれまで金曜チェックなどごく一部の日しか着用していなかったノーネクタイスタイルという、第1期の出演時期とは全く違う大幅なイメージチェンジという出で立ちとなり、復帰翌日のスポーツ紙各紙や日本テレビザ・ワイド』、TBS『ジャスト』、フジテレビ2時のホント』をはじめとした他局での各ワイドショーで大きく採り上げられた。また、復帰当日の全国紙にはテレビ朝日のロゴと「今夜、ニュースステーションがニュースになる」という文字だけが描かれた広告が掲載された[9]

2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のフライングスタートとなった。これにより終了時間も23:20→23:09と11分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員[注 7] として復帰)した長島三奈に代わり、『進ぬ!電波少年』(日本テレビ系列)で注目を集めたタレント・女優の真中瞳(現・東風万智子)を起用。

同日よりNHKが本番組に対抗する形で同時間帯で『NHKニュース10』を開始。

2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の2002 FIFAワールドカップ開催に伴い、オープニングで毎日FIFAワールドカップの歴史を流す特別オープニングに変更。テーマ曲はCharが担当した。

2002年7月1日からテーマ曲がサラ・ブライトマンの曲に変更。また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜から木曜だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日には河野明子が担当することになった。その後、2002年10月4日を以って真中が降板。これと同時に番組開始から17年(一時期降板していた時期あり)出演してきた宜嗣も降板した。翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木・金曜日は河野がスポーツを担当する。

2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送終了が発表された。久米は番組終了発表会見で「十分にやった、スタミナ切れ」「2000年復帰後3年という話だったこと」ということを終了理由に挙げていた[10]

テレビ朝日広瀬道貞社長は2003年9月30日の定例会見で、久米が3年ほど前から降板の意向を度々申し出ており、これ以上の慰留は出来ないと判断したため出演契約を2004年春で満了とする事で合意したことを明らかにした[11]

末期(2003年10月 - 2004年3月)

2003年9月29日、テレビ朝日の本社移転に伴い、放送スタジオがテレビ朝日アーク放送センター(アークヒルズ)からテレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)へ移りスタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲はU2が担当した。

2004年3月26日の最終回ではその日のニュースに加え、過去18年半のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどの内容で放送され18年半の歴史に幕を下ろした(最終回の詳細は後述)。

後継番組は『報道ステーション』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている宮嶋泰子栗山英樹は引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。

久米が会見で後継番組の初代メインキャスターを務める古舘伊知郎に関して記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ。」と発言した事に対し、雑誌のインタビューで古舘は「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど。」「それから久米さん嫌いになったんですけど。」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど。」と語った[12]。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある[13][14]

  • また、久米は「古舘君をはじめ、かなり人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている[15]

久米は本番組終了後、テレビ朝日へは直接の出演を一切行っていない(BS朝日へは出演がある)。

なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『ANN NEWS&SPORTS』をつなぎ番組として放送した。

出演者

メインキャスター・サブキャスター・コメンテーター
期間 メイン サブ コメンテーター
月 - 木曜日 金曜日
1985.10.7 1991.2 久米宏 小宮悦子 小林一喜
1991.2 1991.5.17 (不在)
1991.5.20 1992.10.9 田所竹彦
1992.10.12 1996.3.29 和田俊
1996.4.1 1997.10.31 高成田亨
1997.11.3 1998.3.27 菅沼栄一郎
1998.3.30 1998.5.8 (週替わり)1 小宮悦子
1998.5.11 1998.10.2 渡辺真理
1998.10.5 1999.4.20 渡辺真理
1999.4.23 1999.10.6 轡田隆史2
1999.10.7 1999.12.23 渡辺宜嗣3
2000.1.4 2004.3.26 久米宏 清水建宇4
萩谷順4
森永卓郎4
船曳建夫4

  • 1 渡辺真理の着任延期に伴い、代理のキャスターが担当(前述)。
  • 2 『スーパーJチャンネル』コメンテーターを兼務。
  • 3 久米の降板に伴う事実上の代役。
  • 4 日替わりで出演。船曳は2002年頃までの出演。

  • 小林を含めニュース解説者としてのコメンテーターは船曳・森永を除いて歴代、朝日新聞記者またはその経験者。開始にあたり人選を朝日新聞社に依頼し、小林が選ばれた。
  • 初代コメンテーターの小林は、久米・小宮と名トリオとして親しまれたが、1991年2月19日に逝去。小林は、久米不在時に一度だけメインの代役を試みたことがある。
  • 1990年代まで金曜日は主にゲストコメンテーターが出演する場合あり。
  • 渡辺真理は、久米と同じTBS出身であり、当番組とその競合番組「筑紫哲也 NEWS23」の両方でキャスターを務めた唯一の人物である。
ゲストコメンテーター
  • 黒柳徹子 - 「ユニセフカード」告知のため。
  • 福岡政行 - 国政選挙時に出演し、選挙予想をことごとく当て有名になった。
  • 青木功 - 特に全米・全英オープンゴルフ大会(彼が解説者として出演)のPRと現地中継リポートで出演することが多かった。
  • 笑福亭松之助 - 金曜日にレギュラー格として出演していた(1996年)。
  • テリー伊藤 - 主に金曜日に準レギュラー格として出演していた(1997 - 1998年頃)。
  • 糸井重里 - 主に初期の金曜版に出演。巨人ファンということもあり、ジャイアンツエイドにも出演していた。
  • 栗山英樹 - 本人による取材リポートが中心、後番組『報道ステーション』も引き続き出演。
  • 大橋巨泉 - 本人曰く「出てやる」。
  • 黒鉄ヒロシ - 巨人ファン代表としてたびたび出演し、どんな状況でも巨人が優勝するとこじつける「安心理論」を展開した。
など
スタジオサブキャスター・スポーツキャスター・お天気キャスター
期間 スタジオサブ スポーツ お天気
月・火曜日 水・木曜日 金曜日 月 - 水曜日 木曜日 金曜日 月 - 木曜日 金曜日
1985.10.7 1986.3 橋谷能理子1
坪井貴久美1
朝岡聡
杉本典子
松本裕子
1986.4 1987.9.18 なし 朝岡聡
1987.9.21 1988.4.1 松井康真2
1988.4.4 1990.3.30 松井康真3 朝岡聡3・4 大谷千亜紀

勝恵子
坪井直樹
1990.4.2 1991.3.29 松井康真
1991.4.1 1993.10.1 飯村真一
1993.10.4 1994.3 坪井直樹
1994.4 1995.3.31 大石恵
内藤聡子6
1995.4.3 1996.3.29 なし 岡田洋子5
1996.4.1 1996.10.2 岡田洋子5
小谷真生子
乾貴美子
河合薫
1996.10.3 1997.3.28 角澤照治
1997.3.31 1998.3.27 小谷真生子
丸川珠代
角澤照治 長島三奈
1998.3.30 1998.5.8 丸川珠代
1998.5.11 1998.10.2 白木清か
1998.10.5 1999.1.29 白木清か
1999.2.1 1999.10 上山千穂 白木清か
1999.10 1999.12.23 渡辺美奈子
2000.1.4 2000.4.7 上山千穂 増田雅昭 斎藤義雄
宮部二朗
飯島真一7
2000.4.10 2000.12 真中瞳
2001.1.4 2002.6.28 上山千穂
2002.7.1 2002.10.4 角澤照治8 河野明子
2002.10.7 2004.3.26 河野明子8

その他のキャスター

スポーツキャスター(メイン以外)
スタジオサブキャスター(不定期出演、代役時)

リポーター

補足
  • 渡辺宜嗣は、休暇中の久米の代役の定番であり、当番組長寿化の功労者の一人。また、リポーター・スタジオサブキャスターを務めた小谷を始め、初期のCNNコーナーを担当した安藤や、スタジオサブやリポート、お天気コーナーまでマルチにこなした橋谷など、後に他局で活躍する女性キャスターたちがこの番組を足掛りとしている場合も多い。

代役について

  • 久米が夏休みや取材等で不在の時は、初期から1990年は宜嗣、1991年から1994年までは朝岡が代理を務めていた。1995年から再び宜嗣が代理を務めたが、メインキャスターというよりはサブキャスター的ポジションであり、実質上の代理はいずれも小宮が務めた。真理がサブキャスターとして登場して以降は宜嗣が担当。2000年からは宜嗣は出演せず、真理が実質上の代理を務めていた。
  • 小宮が不在の場合は渡辺みなみが代理を務め(後期は小谷が代理を務めることもあった)、真理が不在の場合は不定期出演のスタジオサブキャスターが代理を務めていた。
  • 上山が不在の場合は久米と真理の2人体制で行うか、同局の若手女性アナウンサーが代理を務めていた。
  • スポーツニュースの代役は、朝岡時代は宮嶋、それ以降は不明。2000年代は上山・河野(2002年より)が担当した(上山も不在場合は女性アナウンサーが担当)。

放送時間

すべて日本時間(JST)で記す。

期間 月 - 木曜日 金曜日
1985.10.07 1988.03.31 22:00 - 23:17(77分) 23:00 - 翌0:00(60分)
1988.04.01 1994.09.30 22:00 - 23:17(77分)
1994.10.03 2000.03.24 22:00 - 23:20(80分)
2000.03.27 2001.09.28 21:54 - 23:09(75分)
2001.10.01 2004.03.26 21:54 - 23:10(76分)
備考
  • プロ野球中継による繰り下げ、ドラマバラエティ番組の拡大・特番により、放送時間が変更される場合もあった。
  • 年末年始は年末・正月特番編成の関係上、放送休止。代わりに『ANNニュース』を10 - 15分間放送している。
  • 2000年3月27日から開始時刻を6分前倒し、フライングスタートを実施。この間、平日20時以降の時間帯の番組は一斉に正時の6分前からのフライングスタートとしたが、視聴者の反応が鈍く、20時台の番組は2000年9月に、21時台の番組は2001年9月に廃止された。
    • 21:54 - 22:00枠[16] は廃止されたが、2000年3月27日から2001年9月までは21:48 - 21:54枠[16] を充てて、2000年10月より19:54 - 20:00枠を新設した。
  • 末期の放送時間は後継番組『報道ステーション』でも受け継いでいる。

特別編成

大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を21時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。

初めて放送終了時間の延長を行ったのは、1986年2月25日である。この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。

初めて前倒し編成を行ったのは、1986年11月21日である。この日に発生した伊豆大島三原山の大噴火に関連して、22時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。

この件をはじめとして、それ以後も湾岸戦争開戦、皇太子徳仁親王ご成婚、阪神・淡路大震災アメリカ同時多発テロ事件などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時クロスネット局で、テレ朝枠を持っていた山形放送が編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。

スポーツ番組による特例編成

高校野球開催期間中

全国高等学校野球選手権大会が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『熱闘甲子園』(朝日放送制作)を放送するための特例編成となっていた。

  • 1989年までは平日の同番組の放送が22:00 - 22:30[注 8] であったので、1986年1987年は番組の開始から終了まで全編30分ずらし(通常日は22:30 - 23:47、金曜版のみ23:30 - 翌0:30)としていた。1988年1989年は1時間に短縮し22:30 - 23:30とした。
  • 1990年から1999年は終戦記念日(8月15日)前後を基点とし、大会前半は通常と同じ22:00 - 23:17→22:00 - 23:20、大会後半は1時間短縮版で22:00 - 23:00とした。同番組の放送は大会前半は23:20 - 23:50、大会後半は23:00 - 23:30であった。
  • 2000年のフライングスタート開始以後は全日程を通して通常と同様の時間帯(21:54 - 23:09→21:54 - 23:10)となった。同番組の放送も全日程を通して23:09 - 23:39となったが、2002年からは23:10 - 23:40となっている。
大相撲開催期間中

大相撲期間中は『大相撲ダイジェスト(以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。2000年4月のフライングスタート開始以後はネオバラエティ金曜ナイトドラマの後に『ダイジェスト』を放送した。2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。

番組での出来事など

1980年代

ニュースステーションスペシャル
初期には年末に『ニュースステーションスペシャル』と題して、大掛かりな特集を中心とした長時間番組を放送した。1985年日本航空123便墜落事故を特集し、1988年は後述の10.19ロッテ-近鉄戦であった。その後も何度か、長時間特番を組むことがあった。
1986年2月25日
フィリピンで「エドゥサ革命」が起こり、フィリピン共和国大統領が交代した。この日は、マニラ首都圏からの生中継を企画するも、通信衛星回線が各国のテレビ局に全部押さえられてしまい、現地からの生放送を断念。当時のテレビ朝日プロデューサー・早河洋が、番組前に30分の放送時間延長を決断した。
久米の責任でコラソン・アキノを新しいフィリピン共和国大統領と断言。放送終了の1分30秒前に、CNN生中継された米国ジョージ・シュルツ国務長官記者会見日本語翻訳付きで流し、マルコス大統領の亡命および政権崩壊の一報を伝えた。
当時女子大生だった安藤優子(現在、フジテレビ直撃LIVE グッディ!』メインキャスター)が、マニラ市から国際電話で中継を行った。安藤は、隣にいたNBCニュースの情報を聞き取っていたという。この日のニュースは、後に「ニュース番組を変えたニュース」として伝えられている。
また、2009年(平成21年)2月1日に「テレビ朝日開局50周年記念特番の一環」として、当時の放送内容を再編集して放送された「“ニュースの記憶”〜あの頃あの時あなたは…報道50年映像全史〜」では、冒頭10数分に渡り、この日の放送の一部が放送された。この日放送の視聴率は、19.3%を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
1986年11月21日
東京都伊豆大島にある三原山が、数日前から活発な火山活動を始め、この日の夕刻、新たな噴火口から大規模な噴火が始まった。これに伴い、大島町全町民に避難命令が出され、さらには島外への退避命令が出されるに至る。
その動きに合わせ夕方から番組の休止や内容変更が続く中、朝日放送の責任枠であった当時の金曜21時枠および22時枠を内容変更し、この番組が急遽放送開始を前倒しし、21時台のANN報道特別番組に引き続き、22時から23時57分まで時間枠を拡大し放送された。なお23時までは番組自体はテレビ朝日から放送されたが、提供クレジット・および番組配信は朝日放送側が行った。
1988年10月19日
プロ野球パ・リーグの優勝決定試合であるロッテ近鉄戦(いわゆる10.19)を朝日放送が放送しており、テレビ朝日は中継制作協力を行っていた。21時からテレビ朝日が『さすらい刑事旅情編』を休止し、CMを一切入れずに全国放送。さらにニュースステーションも放送予定の大半をやめて、そのまま試合終了まで生中継を続けた。なお、視聴率は30.6%((ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。関西地区は46.4%〈ビデオリサーチ調べ、関西地区・世帯・リアルタイム〉)で、初の30%台以上の記録だった。
この日は、阪急ブレーブスの身売り発表や、貨物列車脱線事故などニュースがあり、またこの日に予定していたニューヨークからの中継を中止した。

1990年代

1991年2月21日
番組開始から出演していた初代コメンテーターの小林一喜が1991年2月19日に亡くなり、この2日後に番組の冒頭で20分間にわたり追悼特集を組み、終盤では小林夫人が記した手紙を小宮が読み、号泣した。
1995年2月17日
兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)の発生から1ヶ月後の1995年2月17日、神戸市中央区ポートアイランドにあるサンテレビジョン本社からニュースステーションを放送した。サンテレビはテレビ朝日系列の朝日放送の放送区域である兵庫県をカバーしている系列外の独立UHF放送局である(朝日放送とは業務提携関係にあった)。震災の主たる被災地の地元局であることから、この日のみサンテレビジョンと共同で番組を制作・放送したものである。またサンテレビジョンのニュース番組である『ニュースEyeランド』の関西向け天気予報なども全国のANN系列でそのまま流されるなど、報道番組としては極めて異例の取り組みが行われた。
1999年2月1日
同日の特集により所沢ダイオキシン騒動(後に民事訴訟で提訴された)が発生[17]
久米の降板
久米はテレビ朝日との間で契約更新に合意できなかったため、1999年10月7日から年末まで番組を降板する[注 9]
この期間は渡辺宜嗣と渡辺真理の2人で進行する。
この期間の久米についてテレビ朝日は「休暇」としているのに対し、久米の著書・ウェブページなどでは、この期間を「無職」としている。

2000年代

2000年1月4日
久米が3ヶ月ぶりに番組に復帰。同時に番組オープニング、タイトルロゴ、スタジオセットがリニューアルされた。この時久米は口ヒゲを生やし、それまで黒く染めていた髪を白髪のままにするなど、イメージチェンジを遂げた。
2000年5月3日
ほぼ全編西鉄バスジャック事件の立てこもり現場の中継に終始。
2001年7月23日 - 27日
福岡市で開催した世界水泳の独占放送権をテレビ朝日が取得。世界水泳の中継が午後9時24分に終わってしまうため、ちょうど第19回参議院議員通常選挙が行われる直前ということもあって、この間「SPECIAL WEEK」とし、21時36分からの放送となった。
2001年9月11日 - 13日
久米が遅めの夏休みをとり、真理と萩谷だけで放送していた11日。放送開始前の日本時間午後9時45分、ニューヨーク市世界貿易センタービル旅客機が突入。台風15号のニュースを伝えた後、第一報を報じた(アメリカ同時多発テロ事件)。その後、台風15号のニュースの続報を伝えている最中に2機目が突入。この事態により、午前0時まで放送した。上山は直後のANN報道特別番組から宜嗣と共に担当。
12日、『はぐれ刑事純情派』を休止。21時から23時30分までの放送で、全編テロ報道となる。
13日、休暇中の久米が夏休みを切り上げて復帰。番組欄の最後に「久米宏」と書いてアピール。プロ野球速報も伝え、放送時間の拡大も無かったが、11日・12日より高い視聴率を記録した。
2002年1月18日
NHK京都放送局で立てこもり事件が発生し、21時54分の番組冒頭からトップニュースで伝え、「犯人は現在も立てこもり中、動きがあり次第お伝えする」として次のニュースへ進行したが、午後10時ちょうどに京都府警察が突入を開始。『NHKニュース10』で、まさにその瞬間を生中継で放送し、ニュースステーションとしては遅れを取った格好となってしまった。その後、犯人確保の続報を伝えるも、久米が最後に「いやんなっちゃうなぁ~、(NHKのニュースが始まる)10時ちょうどに突入するんだもん。」とぼやく始末だった。
2002年5月14日
ミャンマーで、軍事政権により軟禁されているアウンサンスーチーと久米が5分間の電話対談を行い、録音した音声を放送した。なお、久米はミャンマーの軍事政権を嫌い、国名を旧国名の「ビルマ」と伝えていた。
2002年6月14日
2002 FIFAワールドカップで、日本代表が初めての決勝トーナメント進出を決定したこの日は、この日チュニジア戦が行われた長居陸上競技場にほど近い、大阪市ABCスタジオから生放送が実現した。
2003年12月19日
同じ六本木ヒルズ内に本社を置くJ-WAVE六本木ヒルズ森タワー)の『Jam the WORLD』と同時放送(午後9時から30分ほど。年内最後の放送という事もあり1時間早めて放送)、久米とパトリック・ハーランがニュース原稿を読み、久米がJ-WAVE社内の様子をリポート、平井堅が六本木ヒルズ内から生中継で『見上げてごらん夜の星を』を披露した。

最終回(2004年3月26日放送)

オープニングでは、番組開始と同じ年に植えられたアークヒルズの桜並木から夜桜中継をした。

番組中盤では、1994年の番組10年目突入の際に、10年目を迎えた久米が、番組初回の自分を激励しに、当時のスタジオへ行った企画の映像を使い、最終回を迎える久米が、1年目の自分と10年目の自分に、番組終了を報告しに行くVTRが放送された(2004年3月23日に収録)。ただ、番組終了を報告した部分はスタジオ見学のVTR終了後のフラッシュニュース・天気予報・スポーツコーナーの後に放送された。その後続けて、歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交えて、過去18年半のニュースを振り返った。

エンディングでは久米が、民間放送の在り方について、視聴者を始め、広告代理店電通、歴代のスポンサー・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの通知表の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。さらに、中国語によるパロディ予告編「久米的電視台」が放送された。

最後は、久米が一人手酌のビールを一気に飲み干して、(降板していた時期があったため)「本当にお別れです。さようなら」と挨拶し、18年半の歴史に幕を閉じた。

番組終了後、同日中に競合番組である『筑紫哲也 NEWS23』内のコーナー「多事争論」で、筑紫哲也が久米宏への「労いの言葉」を述べたことを始め(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた[18]

本番組終了で、プロダクションのオフィス・トゥー・ワンは、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。

後継番組『報道ステーション』は、本番組とは全く別の番組という位置付けがなされ、花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。

最終回の視聴率は19.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。

番組構成

番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。

主なコーナー

ニュースフラッシュ
番組終盤に放送。開始当初は「ニュースウォッチ」と題し、映像に乗せてNスタジオから小宮と坪井(貴)が交互に読み上げていた。後に久米・小宮・コメンテーターの3人体制が定着してから90年代までは久米単独、もしくは久米とサブキャスター(小宮→真理)の2人[注 10]で16項目表示可能な電光ボードを使いながらニュースを1項目20秒程度で一気に伝えていた[注 11]。90年代半ばにボードを更新してからは、初めに「一枚の写真」と題してボードに映し出された写真にまつわるニュースを伝えた後、ボードのパネルを回転させてニュース項目を表示させる場面転換の演出を付加した。
2000年から番組終了までは初期以来、スタジオ演出を用いず映像のみで構成、BGMやアタック音も加わった(読みは主に真理が担当)。この時、久米が前振りで「できるだけニュースです[注 12]と言うのが通例だった。
天気予報
天気キャスターが読み上げる。2001年1月から番組終了までは上山がスタジオサブキャスターと兼任して読み上げる。中期になると季節の変わり目等の節目節目に有名な産地や名所へ行ったり、後述の夜桜中継や滝中継・紅葉中継と合わせて行うこともあった。
特集
様々なニュースやそのニュースに関連した内容など、多種多様にわたって取り上げる。この他、後述の企画、各月の行事や最新の流行もの、話題のものに関するものまで幅広く取り上げている。2000年代は気になる現代社会問題のニュースや最近のニュースに関連した内容を取り上げる「NEWS IN-DEPTH」というコーナーもあった。

スポーツ

野球

プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。2月の「キャンプフラッシュ」、3月の「順位予想」、10月の「日本シリーズ予想&解説」が恒例。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。

プロ野球速報
番組初期、プロ野球のある日は「日本一速いプロ野球速報」をウリにしていた『スポーツTODAY』に対抗すべく22:25頃から「プロ野球速報」として放送していた。試合速報は取材した放送局が編集・ナレーションを行い、各リーグの順位表が初代セットの一部に組み込まれていた。
試合映像は各放送局から配信(ナレーションも原則各放送局アナウンサー。地方球場遠征の場合、系列局がない地域ではテレ朝か近隣系列局アナウンサーが行う場合あり)しており、試合の映像が終わってから、東京のスタジオから詳細なスコアテーブルを全画面表示して、選手・監督のコメント、記録などの一口メモを流すという体裁だった。
当初から独自のコーナージングル[注 13] を採用しており、アニメ番組の主題歌のイントロを加工したもの[注 14] も使用されたりした。
また、1992年のシーズンからチームの呼称を報道番組としては初めて愛称名(「ジャイアンツ」「ライオンズ」など)のみとした。その後一時「親会社名+愛称名」のフル名称になった時期もあったが、「巨人」あるいは親会社名のみの呼び方は番組終了までされなかった。ペナントレースの優勝チームの決定が近づくとくす玉がセットに吊り下げられ、優勝が決まるとそれを割って祝福するシーンもあった。
日刊スポーツとの中継
番組開始当初、1990年代まで木曜日の放送では「マユゲのノーさん」こと日刊スポーツ編集委員・野崎靖博記者と同社東京本社(築地)と中継回線をつないで、プロ野球解説や翌日の紙面の紹介を行っていたことがあった。2000年1月の久米復帰後も出演を続けたが、レギュラー最後の出演時期は未詳。
プロ野球1分勝負
ニュースフラッシュのあとに放送された名場面(珍プレー)を中心に、その日のプロ野球を1分でまとめたコーナー。1999年のシーズンまで放送された。BGMは真心ブラザーズの「どか〜ん」、高原兄の「天下無敵の一発屋」等。
クドちゃんナベちゃん キャンプフライデー
1987年の春季キャンプシーズン、西武ライオンズに当時在籍していた工藤公康渡辺久信によるキャンプ地からのリポートをするコーナー。
ジャイアンツエイド
カープファンの久米宏が、巨人ファンの著名人(糸井重里黒鉄ヒロシなど)を招いて、巨人が優勝するための策などを主張させ合った。
宜嗣とドラゴンズ
プロ野球キャンプ取材では、大の中日ファンである渡辺宜嗣が中日の北谷キャンプを訪れ、監督らにインタビューし、「燃えよドラゴンズ!」を大熱唱することが恒例となっていた。
久米さん、始球式ですよ!
2000年、久米宏が福岡ドームで行われる福岡ダイエーホークス千葉ロッテマリーンズ開幕戦の始球式を務めることになり、始球式用の練習の様子やキャッチボール、本番に至る様子が数回に渡って放送された。久米はファンであるダイエーのユニフォームで登場し、背番号はこの年、当番組がフライングスタート(9時54分)を開始したことにちなんだ「9:54」。

サッカー

川平慈英が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。1998年サッカーW杯では川平がフランスから連日放送。2002年W杯ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。

放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1-2試合程度しか行われなかった場合は除く)。

マンデーJ/MJ
水曜の常時開催が無くなると月曜に名シーンを放送する「MJ(Monday J League)」を放送。日本人選手の海外進出や2002年W杯人気もあり、海外リーグの話題も伝えた。特に1999年J2リーグ発足以後からは、週末に行われたJ2の試合を他のスポーツニュースよりも詳しく伝えた(J1は注目のカード数試合を抜粋して放送)。これには川平は登場しない。
川平慈英のJ2めぐり
この「マンデーJ」との連動で、1999年のJ2発足当時に、「J2のオリジナル10」といわれるチームを川平が訪問し、そのチームのJリーグでの取り組みや試合の観戦レポートを紹介するコーナーがあった。
都並さんといっしょ
当時サッカー解説者であった都並敏史が登場し、川平とともに、サッカーについてのミニ知識などを解説したコーナー。
レインボー
Over The Rainbowのエレキギター演奏と共に、ゴールシーンの映像を振り返り、ボールの軌道を虹なぞらえて演出する。日本代表試合での日本代表選手のゴールシーンなどに使用。
「次はいつ?」
川平にはお馴染みのフレーズが多く存在した。「いいんですか?いいんです!」や心酔した時の「くぅーーー!」など。ハイテンション過ぎて、久米から「次はいつ来るの?」と冷やかし半分に訊かれ、未定だと「(呼ばれれば)いつでも!!」と締める事が多かった。

その他スポーツ

特集
スポーツ特集は野球・サッカー以外の幅広い競技にも及ぶ。マイナースポーツの取材数では他のスポーツニュース番組より圧倒的に多く、さらに毎年継続して取り上げた(パリ・ダカール・ラリーアメリカスカップなど)。スポーツ特集には宮嶋泰子がディレクターとして取材。
スポーツ中継告知
テレビ朝日で放送されるスポーツ中継の告知は色々な形で行われた。ル・マン24時間レース全英オープンゴルフ全米オープンゴルフ(男女・シニア)のある時期は開催先から解説陣が最新の様子を伝えるなど、告知は怠らなかった。また、全英オープンの際の久米と青木功の掛け合いも名物であった。
ネーミング
なにかとダジャレや気の利いたフレーズを使うことが多かった。Jリーグ順位掲示板「回転くん」「かめすけ」や、2002 FIFAワールドカップカウントダウンの「あと韓日くん」など。
角澤ポジション(角ポジ)
2000年1月4日の久米復帰に合わせたスタジオリニューアルに合わせ、ブーメランテーブルの手前に、当時のスポーツ担当であった角澤照治の専用席が設けられ、以降、角澤担当曜日のみその専用席に角澤が位置してスポーツコーナーを進行する形になった。これにより、角澤は久米・真理・上山の3人を背にして進行を行う形になり、各出演者の表情も一緒に覗うことができるようになった[注 15]。基本的にはコーナー全体を通して専用席で進行するが、最初は専用席で進行し、途中からブーメランテーブルに移動して進行を行うこともあれば、以前と同じように一貫してブーメランテーブルで進行することもあった。この専用席は通称「角澤ポジション」と呼ばれた。
なお、角澤以外の女性スポーツキャスターは従来通りブーメランテーブルで進行していたが、角澤不在時の代行担当者らが「角ポジ」を使用するとカビラーバ上山地方といった名称がついた。

名物企画・シリーズなど

夜桜中継
「夜桜中継」は例年春に行われた大規模な中継である。初期に担当した若林正人は、久米の進行が気に食わないことが多く、契約が終わると久米批判で知られるようになった。夜桜中継は他系列の南海放送四国放送も中継に協力していた(裏送り)。正式なANNのネットワークニュースではないために協力が得やすかったと言われる。初回は1986年3月31日、最終回は2004年3月26日(番組自体も最終回)に放送、初回・最終回いずれも鹿児島市仙巌園(磯山)が中継先となった[19]。このほかに夏の「滝中継」、秋の「紅葉中継」も行われた。
立松和平こころと感動の旅
作家・立松和平が自然の中を旅するリポート。須賀潮美による水中リポートも織り込まれることがあった。立松の独特の語り調子と、須賀の酸素ボンベでの呼吸音が話題を呼んだ。初期は、須賀の実父須賀次郎がカメラマンとして同行していた。
金曜コンサート
若林正人がクラシック音楽を紹介した企画。
最後の晩餐
『最後の晩餐』は、久米が著名人に「人生最後に食べたいもの」というテーマでインタビューするという企画。のちに単行本化された。なお、久米の夏季休暇が3週間で定着してから考え出された企画で、初期は休暇3週目に放送されていた。
シリーズ日本の駅
国鉄分割民営化が目前に迫っていた1986年当時、日本の様々な駅を紹介した。中島みゆきの「おだやかな時代」がテーマソング。国鉄民営化をもってコーナーも終了した。
シリーズ新・日本の駅
小林旭の「駅」がテーマソング。
マンハッタン瓦版
ニューヨーク支局の内田忠男が、地元紙の気になる記事を紹介するコーナー。渡辺みなみが代役を務めることもあった。
絶滅危惧商品
忘れかけた頃に放送されるシリーズ。戦後復興期に使われ、その後使用されなくなった商品の今昔を、ナレーターがその商品に扮して伝える。
小泉武夫の○○の快楽
発酵食品の研究で知られる小泉武夫教授が、さまざまな地域の地元食を訪ねるもの。これを端に、発酵食品だけにとらわれず、いろいろな地元食を扱った。
業界新聞
あまり目に触れることのない、業界内向けの新聞に着眼点を置き、その新聞の生い立ちや、取り扱う業界について探る。
登山シリーズ
テレビ朝日のディレクター・大谷映芳(『渡辺篤史の建もの探訪』プロデューサーなどを歴任)による登山紀行。ムスタン取材は何回かに分けて放送、これ以降は江守徹がナレーターを務める。後に日曜午後に放送される番組の先行ダイジェスト版という形式をとる。
ビートルズ映像公開
ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に出演した映像や、1995年に発表した「新曲」「フリー・アズ・ア・バード」のミュージック・ビデオの日本初公開、アップルコンピュータがリマスタリングした際に作成した日本で1回しか放送できないミュージックビデオなど貴重な映像を放送。
チャンスの前髪
渡辺真理が、話題の人物にインタビューする企画。
轡田隆史のぶらり旅
朝日新聞の論説委員でかつてコメンテーターだった轡田隆史が各地を旅するという企画。

所沢ダイオキシン問題

1999年2月1日[17] に「汚染地の苦悩 農作物は安全か?」と題した特集で、民間の環境測定コンサルティング企業である株式会社環境総合研究所(1986年設立、本社・品川区、青山貞一社長)が1998年に独自に計測したデータから、『所沢市の“ホウレンソウをメインとする野菜”/“葉っぱものの野菜”から1グラム当たり3.8ピコグラムダイオキシン濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。予てから埼玉県所沢市東部の関越自動車道沿いに広がる「くぬぎ山」と称する雑木林周辺で産業廃棄物の小型焼却炉や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却に含まれるダイオキシンによる大気汚染環境問題が懸念されていた[17]。1997年に厚生省が全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、JA所沢(現:JAいるま野)は地元産のホウレンソウ白菜など野菜5品目を測定するも公表しなかった。そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。

この結果、ホウレンソウを始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されていると食品スーパーなど小売業各社が認識し、翌2日より所沢・入間郡産はもとより、一部で県北部深谷ネギなど埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展[17]。農作物の出荷は継続されるも青果市場で埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。

テレビ朝日は『ザ・スクープ』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ!」と生放送の番組内で大声で啖呵を切るなどして誤りを認めなかった。

これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せて情報番組などで騒動を取り上げるようになった。同月6日にJA所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。同月9日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表し、安全宣言[17]。同月18日に埼玉県が報道の最高値は煎茶であったと発表し、テレビ朝日は番組内で不手際があった事を認めた。煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0.75ピコグラムであったことが後日公表されており、青山や久米が“ホウレンソウをメインとする葉っぱものの野菜”と抽象的で曖昧な表現に歪曲して批評したことから報道被害を招いたとされている。

同月12日に中川昭一農水相がテレビ朝日報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。

テレビ朝日は同年6月21日付で郵政省(現:総務省)から「農業生産者に迷惑をかけ、視聴者に混乱を生じさせる不正確な表現が行われたことは、放送法の趣旨に照らし遺憾」として厳重注意の行政指導を受けた[20]

所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。また逆に狭山茶など埼玉産の煎茶が販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。後に中川農水相や小渕恵三首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。

農家側は同年に風評損害を受けたとして、同年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求の集団訴訟提訴し(浦和地裁 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙の埼玉新聞でほぼ連日報道されていたが、同時期に桶川ストーカー殺人事件本庄保険金殺人事件など皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生し、前者は日本におけるストーカー問題提起のきっかけとなる程社会に衝撃を与えた事件であり後者は被疑者が繰り返しメディアに会見を行うというその行動の特異性からこぞって各マスコミがこの2つの事件の取材に人員を回したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。

訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審(東京高裁平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴[17]最高裁で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)[17]。番組終了後の2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。原告団は900万円を三宅島噴火被害による農業振興に役立てて欲しいと三宅村に、100万円を食育活動へ役立てて欲しいと所沢市に寄付した。環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している[17]

『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかの条例を施行していたが、この騒動を受けて埼玉県は野焼きの自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「ダイオキシン類対策特別措置法」・「循環型社会形成推進基本法」が施行され、廃棄物焼却炉に対する規制が強化された。また、くぬぎ山に所在する産業廃棄物の焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ[注 16]

久米はゲスト出演した2014年2月23日放送の「爆笑問題の日曜サンデー」(TBSラジオ系)の中で「地域的にも、所沢の方とか、いろんな所に迷惑をかけた。裁判所に呼ばれそうになるし」といった発言をしている[21]

平均視聴率ベスト10

  • 数字はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。
視聴率 放送年月日 備考・放送内容
1 34.8% 1994年10月26日 日本シリーズ西武巨人」戦終了後
2 31.9% 1995年10月24日 日本シリーズ「ヤクルトオリックス」戦終了後
3 30.6% 1988年10月19日 いわゆる「10.19」当日。上記を参照
4 28.2% 1995年4月24日 オウム真理教の村井(元)幹部刺殺事件発生など
5 27.6% 1995年5月8日 オウム真理教幹部への単独インタビュー放送など
6 26.7% 1989年6月26日 歌手美空ひばり死去など
7 26.3% 1989年2月13日 リクルート事件リクルート江副浩正前会長逮捕など
1995年3月23日 地下鉄サリン事件発生など
1995年4月10日 オウム真理教幹部各地で逮捕など
1995年4月13日 オウム真理教施設一斉捜索など

ネット局

本番組の放送が始まった頃のANN加盟フルネット局はキー局テレビ朝日を含めて12局。クロスネット加盟である福井県の福井放送(放送開始後の1989年4月加盟)と、宮崎県のテレビ宮崎は、その関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『NNNきょうの出来事(現:NEWS ZERO)』などを放送していた。その他、ANNフルネット局が出現するまでANNに加盟していたクロスネット局に、ネットしていた局はなかった(報道特番等の臨時ネットは除く)。

ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが優位的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。1989年のKAB熊本朝日放送の開局を皮切りに、テレビ朝日はそれまで進んでいなかった全国ネットワーク構築を再展開。それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、フルネット24局体制を『ニュースステーション』の放送期間中に完成させ、「ニュースステーション」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した[注 17]

なお、番組中に系列局発のローカルニュースを挿入する部分が一貫してなかったため、系列局今日最後のニュースは、この番組の放送終了後か、深夜枠に回されている(とは言え深夜枠は日付が翌日になったあとに系列局が放送する例が多く、実際は日付が変わったあとのニュースと捉えなければいけないようである。これは『報道ステーション』に移行した今日にも至っている)。

「ニュースステーション」ネット局
放送対象地域 放送局名 系列 放送時間 放送開始・備考
関東広域圏 テレビ朝日(ANB→EX) テレビ朝日系列 放送時間を参照 制作局、 2003年9月まではANB
北海道 北海道テレビ放送(HTB) 番組開始から
青森県 青森朝日放送(ABA) 1991年10月1日開局[注 18] から
岩手県 岩手朝日テレビ(IAT) 1996年10月開局から
宮城県 東日本放送(KHB) 番組開始から
秋田県 秋田朝日放送(AAB) 1992年10月開局から
山形県 山形テレビ(YTS) ANNに再加盟しANNのフルネット局となった1993年4月1日から
福島県 福島放送(KFB) 番組開始から
新潟県 新潟テレビ21(NT21)
長野県 長野朝日放送(abn) 1991年4月1日開局から
静岡県 静岡朝日テレビ(SATV) 1993年9月までは静岡県民放送(静岡けんみんテレビ・SKT)
石川県 北陸朝日放送(HAB) 1991年10月開局から
中京広域圏 名古屋テレビ放送(NBN) 番組開始から
近畿広域圏 朝日放送(ABC) 番組開始から(現:朝日放送テレビ)
広島県 広島ホームテレビ(HOME) 番組開始から
山口県 山口朝日放送(yab) 1993年10月開局から
香川県
岡山県
瀬戸内海放送(KSB) 番組開始から
愛媛県 愛媛朝日テレビ(eat) 1995年4月開局から
福岡県 九州朝日放送(KBC) 番組開始から
長崎県 長崎文化放送(NCC) 1990年4月開局から
熊本県 熊本朝日放送(KAB) 1989年10月開局から
大分県 大分朝日放送(OAB) 1993年10月開局から
鹿児島県 鹿児島放送(KKB) 番組開始から
沖縄県 琉球朝日放送(OAB) 1995年10月開局から

※1993年1月19日のみ、山形放送皇太子妃雅子の婚約に伴い60分間のみネットしている。

関連番組

『ニュースステーション』開始から1年後の1986年10月24日から毎週金曜日20時台に放送されている関口宏タモリが司会を務める音楽番組。番組タイトルに「ステーション」を持つ『Nステ』の派生番組。初代番組ロゴは『Nステ』の初代番組ロゴと共通のデザインだった。
国政選挙の開票速報番組。1986年7月の衆参同日選挙から2003年11月の第43回衆議院議員総選挙まで『Nステ』の特別番組として放送された。
1987年10月4日から1988年4月3日まで、日曜日午前11時台に放送された。渡辺みなみが司会を務め、若林正人が経済解説をした。テーマ曲も当時の『ニュースステーション』と同じであり、「金曜チェック」の再放送が目玉の一つだった。
ニュースステーション=駅・根拠地に対して「シャトル=定期便」とした、かつて放送された平日夕方時間帯のニュース。週末ランキングコーナー(後に「はなきんデータランド」として独立)が有名。
ニュースステーションブランドを採用した、かつて放送された夕方のニュース。600ステーションと530ステーションのロゴの「ステーション」の部分はニュースステーションと同じであった。
番組開始前の1983年より『水曜スペシャル』等の特番枠で不定期放送してきた久米宏司会による患者とその周囲を扱ったドキュメンタリーシリーズ。
  • ドキュメント天皇崩御 昭和から平成へ
「平成」改元が行われた1989年1月8日(日曜日)12時から2時間にわたって放送された報道特別番組。久米宏と小宮悦子が司会を務め、『ニュースステーション』のスタジオセット(ただし背景は昼の風景)から放送した。
  • ニュースチャレンジステーション
1996年と1997年に放送された『熱血27時間!!炎のチャレンジ宣言』の番組内ニュースコーナー。通常編成における『ANNニュース』の代用的位置付けであり、1996年放映版はニュースステーションのタイトルロゴをアレンジしたものだった。キャスターはタレントの雛形あきこ高井正憲
『ニュースステーション』の後継番組。『Nステ』とは別番組の位置付けではあるが、『Nステ』の制作手法などの名残りを受け継いでいる。
TBS系列で平日23時台に放送されている報道番組。1989年10月2日より放送開始。『Nステ』同様平日最終版のニュースの概念を大幅に変えた番組。同時間帯で何かと比較された。また、久米宏と筑紫哲也は双方とも早稲田大学の出身、かつプロ野球広島東洋カープのファン」でもあった。ちなみに、双方の古巣は久米宏はTBS、筑紫哲也は朝日新聞社であった。また、渡辺真理もTBSアナウンサー時代、この番組に出演していた。
『ニュースステーションに対抗する報道番組』を作ってほしい、という自由民主党の意向を受けたNHK幹部から声が挙がって、海老沢勝二会長時代に放送開始。視聴率では『Nステ』に負けていた。2006年3月に『ニュースウオッチ9』に移動する形で放送終了。

脚注

注釈

  1. その『おしゃれ』も1987年4月に終了し、以後久米は最終回まで仕事はほぼ本番組に絞っていた。
  2. しかし、番組開始に伴う番組編成の改編で、平日夜22時台に放送されていた番組を中心に放送時間が変更され、これに伴う視聴者離れで『特捜最前線』、間接的だが番組編成上の問題で『必殺シリーズ』が終了に追い込まれた。これらの改編に加え、1980年代後半から1990年代はテレビ朝日ではヒット番組に恵まれず視聴率において、終始4位(民放キー局、NHK総合テレビ除く)だった。
  3. これを見ていた当時NHK記者池上彰がこれを応用し、1994年4月に『週刊こどもニュース』をスタートさせた。
  4. 2009年1月 - 6月、金曜21時に『必殺仕事人2009』として放送。
  5. 中国で起きた高知学芸高等学校の修学旅行生を載せた列車が脱線した事故に関するニュースが中心。
  6. 正確には老眼鏡である(当時の久米は48歳)。
  7. 2001年2月1日から2014年1月31日まで。
  8. 1982年の第1回熱闘甲子園のみ21時開始。1983年の第2回以降1989年まで22時開始がずっと定着していた。
  9. 1995年頃から事ある毎に週刊誌で「久米降板」説が取り沙汰された。
  10. 1995年から1998年までの金曜版は、小宮とスタジオサブキャスターの2人で交互に伝えていた。
  11. 番組前半で伝えたものも含めてニュース項目は原則、時系列順に並べていた。また80年代は円相場もこの中で伝えていた(ニュース項目の一番下段に為替を表示)。
  12. この台詞は最終回のエンディングで流れた予告編「久米的電視台」(前述)でも使われた(久米と中国人女性の2人でこの台詞をコール)。
  13. 荻野目洋子『湾岸太陽族』、B'z『LOVE & CHAIN』など。
  14. 機甲戦記ドラグナー」OP『夢色チェイサー』、「からくり剣豪伝ムサシロード」ED『てなもんだ人生』など。
  15. コメンテーターは基本的に映ることはないが、3人のうち1人が不在の場合は、コメンテーターも背にして進行を行うこともある。
  16. 具体的な事例としては石坂産業を参照のこと。
  17. 但し、石川県以外の北陸山陰四国九州などごく一部の地域ではフルネットを未だに開局できていない地域がある。また沖縄県の琉球朝日放送も、この番組の放送当時は沖縄本島久米島にしか中継局がなく、先島諸島宮古島石垣島)と大東諸島北大東島南大東島)ではケーブルテレビを含め視聴できなかった。
  18. 実際は9月24日のサービス放送開始日から(出典:1991年9月24日以降の東奥日報テレビ欄)

出典

  1. 1.0 1.1 2007年4月5日スポーツニッポン「小宮悦子、2度目の離婚 10歳“姉さん婚”から12年--「女性セブン」報じる」
  2. 嶌信彦『メディア 影の権力者たち』1995年4月講談社 ISBN 4062076284
  3. 読売新聞夕刊 1985年10月16日。
  4. ウェザーニューズ 報道気象の歴史』 株式会社ウェザーニューズ (PDF)
  5. テレビ朝日は1978年まで報道部門を自社ではなく朝日テレビニュース社に委託していた。
  6. 朝日新聞縮刷版の番組表を確認。
  7. 第27回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. . 2014閲覧.
  8. 第30回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. . 2014閲覧.
  9. 『朝日新聞』、2000年1月4日付朝刊、36面。
  10. Nステはどこへ行く…久米が18年間振り返る ZAKZAK 2003年8月27日
  11. 広瀬道貞社長 定例社長会見要旨(2003年9月30日)
  12. 古舘伊知郎が懺悔告白“テレビはウソしか伝えていない”,LITERA,2014年7月15日
  13. 『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言。
  14. 久米宏過激に復帰 渡辺前オーナー口撃,Sponichi Aneex,2004年9月21日
  15. [1],スポーツニッポン,2016年4月23日
  16. 16.0 16.1 テレビ朝日では1985年10月7日から1987年5月29日までは『ニューヨーク情報』、1987年6月1日から2001年9月28日までは『世界の車窓から』。なお、『世界の車窓から』は2001年10月1日より23:10 - 23:15に移動。
  17. 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 17.6 17.7 “農家「ツケ負わされた」 産廃施設、報道後に激減”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 18(夕刊・社会). (2003年10月16日) 
  18. 2004年3月26日 「さようならN.S」
  19. 『鹿児島放送30年のあゆみ』鹿児島放送、2013年 p.15, p.36
  20. 鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶 編『放送法を読みとく』p.86 2009年 商事法務
  21. 「所沢の方には迷惑かけた(笑)」 久米宏が「ダイオキシン騒動」振り返るJ-castニュース

関連項目

外部リンク

テレビ朝日およびANN系列 平日最終版のニュース
前番組 番組名 次番組
ANNニュースファイナル
(1975年10月13日 - 1985年10月4日)
ニュースステーション
(1985年10月7日 - 2004年3月26日)
報道ステーション
(2004年4月5日 - )
テレビ朝日およびANN系列 平日スポーツニュース枠
ANNスポーツニュース(第2期)
(1982年4月 - 1985年9月)
ニュースステーション
(1985年10月7日 - 2004年3月26日)
報道ステーション
(2004年4月5日 - )

21時台

テレビ朝日 平日21:54 - 22:00枠
前番組 番組名 次番組
世界の車窓から
【6分繰り上げて継続】
ニュースステーション
(2000年3月27日 - 2004年3月26日)
報道ステーション
※21:54 - 23:10

22時台

テレビ朝日系列 月曜22:00 - 23:00枠
前番組 番組名 次番組
月曜ワイド劇場
※21:02 - 22:54
【1時間繰り上げて継続】
ニュースステーション
(1985年10月7日 - 2004年3月22日)
報道ステーション
(2004年4月5日 - )
※21:54 - 23:10
テレビ朝日系列 火曜22:00 - 23:00枠
パーティー野郎ぜ!
【ここまで朝日放送制作枠】
ニュースステーション
(1985年10月8日 - 2004年3月23日)
【ここからテレビ朝日制作枠】
報道ステーション
(2004年4月6日 - )
※21:54 - 23:10
テレビ朝日系列 水曜22:00 - 23:00枠
特捜最前線
【木曜21:00 - 21:54枠に移動して継続】
【ここまでドラマ枠】
ニュースステーション
(1985年10月9日 - 2004年3月24日)
報道ステーション
(2004年4月7日 - )
※21:54 - 23:10
テレビ朝日系列 木曜22:00 - 23:00枠
愛川欽也の探検レストラン
※22:00 - 22:30
【土曜19:30 - 20:00枠へ移動して継続】
美女紀行!E湯!E味
※22:30 - 23:00
【日曜18:30 - 18:55枠へ移動して継続】
ニュースステーション
(1985年10月10日 - 2004年3月25日)
報道ステーション
(2004年4月8日 - )
※21:54 - 23:10
テレビ朝日系列 金曜22:00 - 23:00枠
ダウンタウン探偵組
【ここまで朝日放送制作・ドラマ枠】
ニュースステーション
(1988年4月1日 - 2004年3月26日)
【ここからテレビ朝日制作枠】
報道ステーション
(2004年4月9日 - )
※21:54 - 23:10

23時台

テレビ朝日系列 月曜 - 木曜23:00 - 23:09枠
前番組 番組名 次番組
ANNニュースファイナル
※23:00 - 23:15
ニュースステーション
(1985年10月7日 - 2004年3月25日)
報道ステーション
※21:54 - 23:10
テレビ朝日 月曜 - 木曜23:09 - 23:10枠
ANNニュースファイナル
※23:00 - 23:15
ニュースステーション
(1985年10月7日 - 2000年3月23日)
ネオバラエティ
※23:09 - 23:54
ネオバラエティ
【6分繰り下げて継続】
ニュースステーション
(2001年10月1日 - 2004年3月25日)
報道ステーション
※21:54 - 23:10
テレビ朝日 月曜 - 木曜23:10 - 23:17枠
ANNニュースファイナル
※23:00 - 23:15
ANNスポーツニュース
※23:15 - 23:25
ニュースステーション
(1985年10月7日 - 2000年3月23日)
ネオバラエティ
※23:09 - 23:54
【15分拡大】
テレビ朝日 月曜 - 木曜23:17 - 23:20枠
ミニ番組
※23:17 - 23:25
ニュースステーション
(1994年10月3日 - 2000年3月23日)
ネオバラエティ
※23:09 - 23:54
テレビ朝日系列 金曜23:00 - 23:09枠
前番組 番組名 次番組
TVスクープ
※23:00 - 23:50
ニュースステーション
(1985年10月11日 - 2004年3月26日)
報道ステーション
※21:54 - 23:10
テレビ朝日 金曜23:09 - 23:10枠
TVスクープ
※23:00 - 23:50
ニュースステーション
(1985年10月11日 - 2000年3月24日)
金曜ナイトドラマ
※23:09 - 翌0:04
金曜ナイトドラマ
【6分繰り下げて継続】
ニュースステーション
(2001年10月5日 - 2004年3月26日)
報道ステーション
※21:54 - 23:10
テレビ朝日 金曜23:10 - 23:17枠
TVスクープ
※23:00 - 23:50
ニュースステーション
(1985年10月11日 - 2000年3月24日)
金曜ナイトドラマ
※23:09 - 翌0:04
テレビ朝日 金曜23:17 - 23:20枠
TVスクープ
※23:00 - 23:50
ニュースステーション
(1985年10月11日 - 1988年3月25日)
ミニ番組
※23:17 - 23:25
ミニ番組
※23:17 - 23:25
ニュースステーション
(1994年10月7日 - 2000年3月24日)
金曜ナイトドラマ
※23:09 - 翌0:04
テレビ朝日 金曜23:20 - 翌0:00枠
TVスクープ
※23:00 - 23:50
ANNニュースファイナル
※23:50 - 翌0:05
ニュースステーション
(1985年10月11日 - 1988年3月25日)
ミニ番組
※23:17 - 23:25
華麗にAh!so
※23:25 - 23:55
ミニ番組
※23:55 - 翌0:00