「ドワイト・D・アイゼンハワー」の版間の差分

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ja>Bain Steinway
 
 
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{{大統領
 
{{大統領
 
| 人名 = ドワイト・D・アイゼンハワー
 
| 人名 = ドワイト・D・アイゼンハワー
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}}
{{ゴルフ殿堂
 
|世界選出年 = 2009年
 
|世界選出部門 = 特別功労
 
}}
 
'''ドワイト・デビッド・アイゼンハワー'''(Dwight David Eisenhower、[[1890年]][[10月14日]] - [[1969年]][[3月28日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[連合国遠征軍最高司令部|連合国遠征軍最高司令官]]([[英語]]:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)、[[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]]、[[北大西洋条約機構|NATO軍]]最高司令官、第34代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]を歴任した。アメリカ国民からは'''アイク'''(Ike)の愛称で親しまれていた。モットーは「物腰は優雅に、行動は力強く」。身長5[[フィート]]10.5インチ(約179cm)<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。
 
 
== 生い立ちと家族 ==
 
アイゼンハワーは、デイヴィッド・ジェイコブ(David Jacob Eisenhower)とイーダ・エリザベス・ストーバー・アイゼンハワー(Ida Elizabeth Stover)の7人の息子の3番目として、[[テキサス州]][[デニソン (テキサス州)|デニソン]]で生まれた。
 
 
[[ドイツ]]西南部、[[フランス]]との国境に近い[[ザールブリュッケン都市連合|ザールブリュッケン郡]][[カールスブルン]]([[:de:Karlsbrunn|Karlsbrunn]])より[[宗教]]的迫害を逃れて17世紀に[[スイス]]に移住し、さらに[[1730年]]アメリカの[[ヨーク (ペンシルベニア州)|ヨーク]]地区、のちに[[ランカスター (ペンシルベニア州)|ランカスター]]に移住した[[ペンシルベニア・ドイツ人]]に近い家系の出身である。
 
 
[[スウェーデン]]系説、ユダヤ系説も存在し、父は[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウェストポイント]]の1915年に発刊された卒業年次別名簿に、スウェーデン系[[ユダヤ人]]と書かれている。
 
 
また、母イーダは[[メノー派]]スイス系[[ドイツ人]]の[[リヴァー兄弟団]]([[:en:River Brethren|River Brethren]])、のちに[[エホバの証人]][[ものみの塔]]協会のメンバーで1898年に洗礼を受ける<ref>『[[ニューヨーク・タイムズ]]』1946年9月12日号</ref>。
 
 
アイゼンハワー家は、[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]]であったが、18世紀以来ずっとアメリカで暮らしていた。その後一家は[[1892年]]に[[カンザス州]][[アビリーン (カンザス州)|アビリーン]]へ転居した。
 
 
==バター工場からウエストポイントへ==
 
アイゼンハワーはアビリーン高校に入学、[[1909年]]に卒業した。在学中膝の怪我による[[感染症]]が脚の付け根まで拡がり、命の危険があると診断された。医師は足の切断を勧めたが、彼は拒否し、後に奇跡的に回復している。しかし1年留年するはめとなった。
 
 
高校卒業後、ドワイトと兄エドガーは大学進学を希望していたが、経済的に困難な状況であった。そこで彼らは、一方が大学に通い、もう一方がその年の授業料を稼ぐという取り決めをした。始めの年はエドガーが大学に通い、ドワイトはベルスプリングの[[バター]][[工場]]で夜勤シフトの従業員として働き始めた。1年後、エドガーは連続で通学したいと申し出た。ドワイトは承諾して、引き続きバター工場で働くこととなった。
 
 
その時期、ハズレットという友人が[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]へ出願する際、授業料は必要ないからとドワイトにも受験するよう勧めてきた。彼は軍人になる決意を固め、[[カンザス州]]上院議員ジョゼフ・L・ブリストウの推薦を得ることに成功した(今日ブリストウ議員はアイゼンハワーの推薦人となったことで最もよく知られている)。アイゼンハワーは[[アメリカ陸軍|陸軍]]と[[アメリカ海軍|海軍]]の入学試験に首尾よく合格したが、海軍は年齢制限のため入れず、1911年に[[ウエストポイント]]にある[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]への入学を決めた。これ以後1969年に死去するまで、大統領であった8年間を除き、軍人としてのキャリアが続くこととなる。約束は果たされなかったが、兄エドガーは無事[[ミシガン大学]]ロースクールを卒業し、やり手の[[弁護士]]として[[ワシントン州]]で開業している。
 
 
== 結婚 ==
 
アイゼンハワーは、[[コロラド州]][[デンバー (コロラド州)|デンバー]]の[[マミー・アイゼンハワー|マミー・ジュネーブ・ダウド]]([[1896年]] - [[1979年]])と[[1916年]][[7月1日]]に結婚した。彼らはダウド・ドワイト・アイゼンハワー([[1917年]] - [[1921年]])およびジョン・シェルドン・ダウド・アイゼンハワー(1922年ー2013年)をもうけた。ジョン・アイゼンハワーは陸軍で勤務し、次に作家になり、[[ベルギー]]大使を務めた。ジョン・アイゼンハワーの息子デーヴィッド・アイゼンハワーは、[[リチャード・ニクソン]]の娘ジュリーと[[1968年]]に結婚した<ref>http://www.jewwatch.com/jew-leaders-eisenhower.html</ref>。
 
 
== 軍歴 ==
 
[[File:Lieutenant Colonel Dwight D Eisenhower 1919.gif|200px|right|thumb|少佐時代のアイゼンハワー]]
 
アイゼンハワーは士官学校を[[1915年]]に卒業し、[[テキサス州|テキサス]]と[[ジョージア州|ジョージア]]の様々なキャンプで[[1918年]]まで歩兵と共に、また1918年から[[1922年]]までは[[メリーランド州]]キャンプ・ミード等で戦車隊と共に軍務に就いた。[[第一次世界大戦]]への従軍を願い出たが、許可されなかった。
 
 
[[1917年]]に大尉、[[1920年]]に少佐に昇進し、次いで[[1922年]]から[[1924年]]の間に[[パナマ運河地帯]]でフォックス・コナー将軍の副官の地位にあり、軍事面で彼から大きな影響を受け、優れた管理能力を身に付けた。[[1925年]]と[[1926年]]には[[カンザス州]]フォートレヴェンワースで指揮官および参謀学校に勤務し、[[1927年]]まで[[ジョージア州]]フォートベニングで大隊指揮官を務めた。
 
 
[[1920年代]]の終わりから[[1930年代]]の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。階級も16年間少佐のままであった。アイゼンハワーはアメリカ戦碑委員会に就任、その後[[ジョン・パーシング]]将軍によって[[ワシントンD.C.]]の陸軍戦争大学での奉職を余儀なくされた。そして次に、ジョージ・V・モゼリー将軍(国防副長官、1929年 - 1933年)の副官を務めた。その後、アイゼンハワーは[[1935年]]まで[[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]][[ダグラス・マッカーサー]]大将の主任補佐武官を務め、1935年に陸軍参謀総長を退任して少将に戻ったマッカーサーが[[フィリピン]]政府の[[軍事顧問]]を務めることになった時、マッカーサーの希望で副官となった{{sfn|児島襄|1974|pp=173}}。マッカーサーは着任後、[[アメリカ軍]]の威容を示すために[[マニラ]]市内でパレードをすることを思いつき、アイゼンハワーに計画を立てさせ、各方面に折衝を行わせた。ところが、このパレード計画は[[フィリピン・コモンウェルス]]政府に無断で行われていたため、[[マニュエル・ケソン]][[フィリピンの大統領|大統領]]が抗議を行った。マッカーサーは副官であるアイゼンハワーのミスであると弁解し、アイゼンハワーをしかりつけた{{sfn|児島襄|1974|pp=173}}。以後、マッカーサーはアイゼンハワーの細かい失敗を指摘しつづけ、嫌になったアイゼンハワーが転任希望を出してもそれを握りつぶし続けた{{sfn|児島襄|1974|pp=173}}。その後、[[1936年]]に、ようやく中佐に昇進した。
 
 
その後、[[1940年]]1月にアメリカへ戻り、[[ワシントン州]]{{仮リンク|フォート・ルイス|en|Fort Lewis}}の第15歩兵連隊勤務となった{{sfn|児島襄|1974|pp=174}}。これ以降は順調な出世を重ね、11月には第3師団の参謀長、[[1941年]]3月に大佐に昇進して第9軍団参謀長、6月には[[テキサス州]]{{仮リンク|フォート・サム・ヒューストン|en|Fort Sam Houston}}で[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]の司令官[[ウォルター・クルーガー]]中将の参謀長に任命された{{sfn|児島襄|1974|pp=175}}。アイゼンハワーは[[1941年]]9月に准将に昇進した。アイゼンハワーの管理能力は注目されたが、[[第二次世界大戦]]へのアメリカの参戦前夜においては、実戦での指揮経験が全くなく、大きな作戦の司令官となる可能性は極めて薄かった。
 
 
1941年[[12月7日]]の[[日本軍]]による[[真珠湾攻撃]]の後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に任命された{{sfn|児島襄|1974|pp=174}}。アイゼンハワーは陸軍参謀総長[[ジョージ・C・マーシャル]]大将の信任を得、[[1942年]]3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に任命され、数日後には少将に昇進した{{sfn|児島襄|1974|pp=175}}。アイゼンハワーはここで対独作戦計画を立案した。アイゼンハワーの計画は、イギリスを基地として、戦略爆撃・海軍艦艇の大量起用・大規模な上陸作戦を行うことで西北ヨーロッパを制圧するというものであった{{sfn|児島襄|1974|pp=178}}。マーシャルはこの計画を承認し、その際の指揮官としてアイゼンハワーを登用することを決めた{{sfn|児島襄|1974|pp=179}}。まもなく中将に昇進したアイゼンハワーは、来るべき[[ヨーロッパ]]での反攻作戦のために[[イギリス]]に向かうことになった。
 
 
== ヨーロッパにおける連合国軍指揮官 ==
 
[[File:Gen._Dwight_D._Eisenhower_talks_with_Lt._Gen._Lucius_B._Clay_at_Gatow_Airport_in_Berlin,_Germany_during_the_Potsdam..._-_NARA_-_198840.tif|200px|right|thumb|ポツダム会談時]]
 
[[File:General Omar Bradley, General Dwight Eisenhower, and General George Patton, all graduates of West Point, survey war damage in Bastogne, Belgium. 1944-1945.jpg|thumb|200px|右から[[オマール・ブラッドレー]]、アイゼンハワー、[[ジョージ・パットン]]]]
 
1942年6月、アイゼンハワーは[[ロンドン]]に司令部を置く[[ヨーロッパ作戦戦域|ヨーロッパ戦域]]の連合国軍最高司令官([[:en:Allied Force Headquarters|Commander in Chief, Allied Force]]、略称:CINCAF)に着任し、[[イギリス軍]]や旧[[ヴィシー政権]]軍の将軍たちとの調整を行った{{sfn|児島襄|1974|pp=183-185}}。アイゼンハワーはアメリカ軍による新聞[[検閲]]制度を廃止し、兵士たちのトラブルをあえて開示することで綱紀を粛正しようとした{{sfn|児島襄|1974|pp=181}}。また兵士たちに対して、アメリカの戦争目的が[[民主主義]]のためであるという教育を徹底させ、さらに兵士たちに[[イギリス人]]に対する配慮を求めることで、両国間の関係を改善させた{{sfn|児島襄|1974|pp=180-183}}。アイゼンハワー自身に対する人気も高まり、日に9回もパーティーに出席せねばならないほどであった{{sfn|児島襄|1974|pp=183}}。
 
 
最初の大仕事は[[モロッコ]]と[[アルジェリア]]への連合軍上陸作戦、すなわち1942年11月8日に開始された「[[トーチ作戦]]」であった。アイゼンハワーがトーチ作戦の最高司令官の座を要求した[[アンリ・ジロー]]大将を説得し、[[北アフリカ]]における民政長官の座を与えることで収めたことは、彼の高い調整能力を示すものであった{{sfn|児島襄|1974|pp=185}}。マーシャルや[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は「国威発揚をもたらし、高い調整能力をもつ」として、1944年3月にアイゼンハワーを大将に任命した{{sfn|児島襄|1974|pp=185}}。中佐になってからわずか4年であり、この時点では空前のスピード昇進であった。以降[[ハスキー作戦]]に始まる[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]の最高指揮官となり、[[ジョージ・パットン]]や[[バーナード・モントゴメリー]]といった癖の強い部下たちの調整に当たった{{sfn|児島襄|1974|pp=185}}。9月8日には[[イタリア王国]]との休戦条約を締結している([[イタリアの降伏]])。
 
 
== 連合国遠征軍最高司令官 ==
 
イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]は、ヨーロッパ反攻作戦における[[連合国遠征軍最高司令部|連合国遠征軍最高司令官]]にアイゼンハワーではなく陸軍参謀総長マーシャル大将を希望し、ルーズベルト大統領もそれに傾いていたが、[[統合参謀本部]]のメンバーである大統領付参謀長[[ウィリアム・リーヒ]]大将、合衆国艦隊司令長官兼[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]][[アーネスト・キング]]大将、[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍航空軍]]総司令官[[ヘンリー・アーノルド]]大将は、統合参謀本部にマーシャルは不可欠であるとして反対し、ルーズベルト大統領は[[カイロ会談]]、[[テヘラン会談]]を終えて帰国する直前に、アイゼンハワーを連合国遠征軍最高司令官とすることに決定した<ref>King and Whitehill, ''Fleet Admiral King'', pp. 502-504, p. 526.</ref><ref>Buell, ''Master of Seapower'', pp. 425-426, p. 436.</ref>。
 
 
連合国遠征軍最高司令部はヨーロッパ反攻作戦として「[[ノルマンディー上陸作戦|オーバーロード作戦]](ノルマンディー上陸作戦)」の計画を行い、アイゼンハワーはその計画の実行を[[1944年]][[6月6日]]([[D-デイ]])とする決断を行った{{sfn|児島襄|1974|pp=193}}。上陸作戦は成功し、その後も順調に戦線を拡大した。
 
 
12月20日、陸軍[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]に昇進した。アイゼンハワーは1920年に少佐になってから中佐に昇進するまで16年を要し、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した(1941年3月大佐昇進、同年9月准将昇進、1942年3月少将昇進、同年11月中将昇進、1944年大将昇進)。これはアメリカ陸軍史上、空前の記録であった。1945年末まで、ヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。
 
 
アイゼンハワーはこれらの地位で、リーダーシップと外交の偉大な才能を示した。アイゼンハワーは[[オマル・ブラッドリー]]将軍やパットン将軍のような前線の指揮官の尊敬を勝ち取り、チャーチル首相、モントゴメリー元帥および[[シャルル・ド・ゴール]]将軍のような一筋縄ではいかない協力者と巧みに取り引きした。戦略上チャーチルやモントゴメリーとは基本的に相容れないものがあったが、彼らとの関係を転覆することはなかった。またアイゼンハワーは、[[ゲオルギー・ジューコフ]]のような[[ソビエト連邦|ソ連]]の司令官や、しばしば[[ヨシフ・スターリン]]と直接交渉することさえあったが、それはルーズベルト大統領が彼に対して信頼を抱いていたからであり、ソ連からもアイゼンハワーは高く評価されて[[勝利勲章]]を贈られた。彼はサインに「アイク」と署名することを好み、一般の兵士たちにも気を配って不正を根絶しようとした。このため一般将兵からも高い人気を得、彼らは後の大統領選挙においてもアイゼンハワーを支持することになる{{sfn|児島襄|1974|pp=193-194}}。
 
 
[[1945年]]5月8日の[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツの降伏]]後、アイゼンハワーは[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]を本拠に、アメリカによる占領地帯の軍政長官に就任したものの、ほどなくパットンにこの地位を委任した。彼は1945年11月に陸軍参謀総長に任命され、1948年2月まで在任した。
 
 
冷戦中の[[1950年]]12月には[[北大西洋条約機構]](NATO)軍の最高司令官になった。元帥であるアイゼンハワーは終身、現役陸軍軍人に留まる資格を有していたが、大統領選挙に当たって[[1952年]]7月に陸軍を退役している。そして大統領を2期8年務めた後、次の[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]大統領はただちにアイゼンハワーを「1944年12月20日に溯って現役の陸軍元帥に再任」している(「現役復帰」ではない)。
 
 
== 大統領選でのアイゼンハワー ==
 
アイゼンハワーは[[1948年]]7月に[[コロンビア大学]]の学長に選ばれ、ニューヨークに居を構えた。1945年以来、大統領候補となる可能性を指摘されてきたが、1936年以来積極的に共和党大統領候補としての指名を求めていた[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]と異なり、当人は政治にほとんど関心がなく選挙で投票したこともなかったので、支持政党が[[共和党 (アメリカ)|共和党]]か[[民主党 (アメリカ)|民主党]]かも知られていなかった。
 
 
[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]は否定しているが、歴史家の何人かは、[[1948年アメリカ合衆国大統領選挙|1948年の大統領選挙]]でトルーマンがアイゼンハワーを支持して引退することを申し出たとする。[[1952年アメリカ合衆国大統領選挙|1952年の大統領選挙]]では、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。その理由としてアイゼンハワーは「民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだ」と語った。[[オハイオ州]]選出の[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員[[ロバート・タフト]]を破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。
 
 
大統領選の序盤には、アイゼンハワーは「非政治家」としてキャンペーンを行い、対立候補である[[イリノイ州知事]]で民主党の[[アドレー・スティーブンソン]]<ref>http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/.../0205.html</ref>について言及しなかった。その代わりに他の共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「[[共産主義]]に寛大」として非難する[[冷戦]]キャンペーンをすることを黙認した。このため、アイゼンハワーはカリフォルニアから選出された若手の上院議員で、[[反共主義|反共]]姿勢で知られた[[リチャード・ニクソン]]を副大統領候補に選んだ。アイゼンハワーとニクソンは442人の選挙人の投票を得て、11月の選挙に勝利した。対するスティーブンソンの得票は89だった。
 
 
== 大統領としてのアイゼンハワー ==
 
[[File:Eisenhower in the Oval Office.jpg|thumb|right|200px|ホワイトハウスで、1956年2月29日]]
 
[[1953年]][[1月20日]]に大統領に就任したアイゼンハワーは、大統領職にある間を通じて人気を保持した。1956年には、1952年に続いてテキサスとテネシーのような伝統的に共和党勢力が強い州の票を維持し、再びスティーブンソンを前回選挙以上の大差をもって破り、1期目の副大統領のニクソンとともに再選された。
 
 
=== 外交問題 ===
 
[[File:Ngo Dinh Diem at Washington - ARC 542189.jpg|thumb|right|200px|[[ワシントンD.C.]]を訪れた[[南ベトナム]]の[[ゴ・ディン・ジエム]]大統領を迎えるアイゼンハワー]][[File:Eisenhower and Nixon at Dinner with King Saud.jpg|200px|thumb|[[サウジアラビア]]の[[サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ]][[サウジアラビアの国王一覧|国王]]およびニクソン副大統領とともに]]
 
[[File:Dwight Eisenhower Nikita Khrushchev and their wives at state dinner 1959.png|thumb|right|200px|[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]夫妻とともに]]
 
[[File:Franco eisenhower 1959 madrid.jpg|thumb|right|200px|[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ]]とアイゼンハワー]]
 
[[File:Einseninaug.jpg|right|200px|thumb|2期目の就任式に臨むアイゼンハワーとニクソン]]
 
大統領時代は、[[ソビエト連邦]]を筆頭とする[[東側諸国]]とアメリカ合衆国を代表とする[[西側諸国]]との[[冷戦]]の最盛期ともいえる時代であった。アイゼンハワー政権を支えたニクソン副大統領と[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官は、[[共産主義]]との戦いを指揮、拡大した。また、当時の[[ジョセフ・マッカーシー]]を代表とする共和党右派の過激な[[反共主義]]者の煽動も存在した。だが、[[ジョージ・ケナン]]によって提唱された[[封じ込め政策]]を受け、[[平和]]共存と穏健な保守路線を追求した。
 
 
====アジア====
 
就任後には行き詰まった[[朝鮮戦争]]を終了すると約束し、停戦は[[1953年]]7月に署名された。さらに[[アジア]]での共産主義国による脅威をとどめるために、[[大韓民国|韓国]]と[[米韓相互防衛条約]]を、[[中華民国]]と[[米華相互防衛条約]]に署名したほか、[[東南アジア条約機構]]を形成した。また、ニクソン副大統領を[[日本]]や韓国、[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]などの友好国に送り、[[自由主義]]陣営と同盟国を重視する外交を推進した。
 
 
====インドシナ====
 
トルーマンが拡大を続けた[[インドシナ戦争]]を戦う[[フランス軍]]へのアメリカからの援助は、[[1952年]]度までに年額約3億[[ドル]]に及び、アイゼンハワーが大統領に就任した[[1953年]]には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)はフランス軍の兵力不足を補うべく活動した。
 
 
1953年[[11月]]に行われた[[ディエンビエンフーの戦い]]において、フランス軍降伏の報せを聞いたニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型[[原子爆弾]]の使用をアイゼンハワーに進言したが却下された<ref>リチャード・ニクソン著『ノー・モア・ヴェトナム』[[宮崎成人]]・[[宮崎緑]]共訳(講談社 1986年 ISBN 4062024462)。</ref>。またアメリカの統合参謀本部は[[フィリピン]]に展開している[[ボーイング]][[B-29]]爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。
 
 
1954年に[[ジュネーブ協定]]が締結しインドシナ戦争が終結したことでフランスが去り、[[ベトナム共和国]](南ベトナム)が成立した後の1955年11月には、「インドシナ米軍事援助顧問団」が「[[南ベトナム軍事援助司令部|南ベトナム米軍事援助顧問団]]」へと改組された。その後フランスに代わりインドシナ半島の反共勢力を支援することとなったアメリカと、[[ゴ・ディン・ディエム]]率いる南ベトナムとの関係は強化され、軍事支援の規模も拡大されたが、アイゼンハワー政権下においては正規軍の派遣は行われなかった。しかしケネディ政権では事実上の正規軍の派遣までその規模が拡大され、その後[[ベトナム戦争]]となる。
 
 
====日本====
 
[[1957年]]6月、[[岸信介]]が初めて訪米した際、アイゼンハワーは岸を真っ先に[[ゴルフ]]に連れ出した。プレー後には「大統領になると嫌なやつともテーブルを囲まねばならないが、ゴルフは好きなやつとしかできない」と語るなど、両者の信頼関係の礎となった<ref>{{cite news|url=‪http://www.sankei.com/premium/news/170211/prm1702110028-n1.html‬|title=‪【日米首脳会談】安倍晋三首相「私は朝日新聞に勝った」 トランプ大統領「俺も勝った!」 ゴルフ会談で日米同盟はより強固になるか?|publisher=[[産経新聞社]]|date=2017-02-11|accessdate=2017-02-11}}</ref>。
 
 
[[1960年]]1月に、「[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]」を日本との間で締結したのを受け、6月に岸の招待で日本を訪問しようと試みたが、[[安保闘争]]の最中の6月10日に、訪日の日程を協議するため来日した[[ジェイムズ・ハガティ]](当時の日本における表記は「ハガチー」)[[ホワイトハウス報道官|大統領報道官]]が[[東京国際空港]]周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、[[アメリカ海兵隊]]のヘリコプターで救助されるという事件が発生した。さらに6月15日には、[[日本の警察官|警官]]隊が[[国会議事堂]]正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生の[[樺美智子]]が圧死するという事件が発生した上、銃撃などによりアイゼンハワーの身に危害が加えられる可能性も出てきたという情報すら入ってきたため、最終的に日本側よりアメリカに訪日を止めるよう要請し、訪問を取りやめた。なお、その後の条約の自動承認を受けて、岸は辞職した。
 
 
====中東====
 
[[1956年]]に[[スエズ運河]]の管理に関する論争で、[[イギリス]]と[[フランス]]の[[エジプト]]への軍事介入を強く非難した([[スエズ危機]])。この際にアイゼンハワーは冷戦で対立していた[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ニコライ・ブルガーニン]][[ソビエト連邦の首相|首相]]と協力し、[[国際連合]]で[[拒否権]]行使する英仏を押し退けて米ソ協調で可決<ref>[http://al.odu.edu/mun/conference/suez.PDF]</ref>された{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議第119号|en|United Nations Security Council Resolution 119}}によって[[平和のための結集決議]]での国連緊急総会が招集され、同年11月2日には英・仏・[[イスラエル]]に対し即時停戦を求める決議を求める総会決議997の採択に成功する。米国・国連・ソ連により圧力を受け、同年11月6日に英仏は停戦受諾、同年11月8日にはイスラエルも受諾、スエズ危機は解決した。
 
 
大統領職2期目中、[[1957年]]に[[レバノン]]へ軍隊を送り、また[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|シャー・マホメット・レザ・パーレヴィ]]が権力を回復するための[[イラン]]でのクーデターを支援して、中東問題にますます没頭するようになった。
 
 
====ソ連====
 
アイゼンハワーの下、アメリカは初の世界的核戦力を保持したが、世界は[[核兵器]]を含む[[第三次世界大戦]]を恐れていた。[[1953年]]のスターリンの死後、後継者の[[ニキータ・フルシチョフ]]と核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。同年末に[[国際連合総会|国連総会]]で行った「[[平和のための原子力]]」演説は有名である。
 
 
ソ連のリーダーと首脳会議を開催するいくつかの試みはなされたが、最後のそのような試みは、[[1960年]]にソ連上空で[[U-2 (航空機)|U-2偵察機]]が撃墜されたこと([[U-2撃墜事件]])で失敗した。フルシチョフは、自身の回想録音テープの中で「アイゼンハワーは事あるごとにダレスの助言がないと返答出来ない」と見透かし、自国と自身の優位を感じたという。なお、アイゼンハワーは[[モスクワ]]の[[レーニン廟]]から初めて[[赤軍]]のパレードを閲兵した[[外国人]]である。
 
 
====キューバ====
 
大統領任期の末期(1959年1月1日)、[[キューバ]]に[[社会主義]]革命政府が誕生。当初革命指導者の[[フィデル・カストロ]]はアメリカに歩み寄る姿勢を見せ、革命直後に行われたアメリカ訪問時にはアイゼンハワーとの会見を申し出たが、「カストロは[[容共]]的である」との政府内からの報告を受けて会見をせず、その後もカストロ率いる革命政府に対して距離を取ったこともあり次第にカストロはソ連との関係を深めた。
 
 
その後ソ連との関係が深まることと同時に、カストロはアメリカ資産の差し押さえや国営化を進めたため、アイゼンハワーはキューバに対して[[国交]]断絶と[[経済制裁]]を行うこととなり、この対立関係はケネディ政権に持ち越された。
 
 
=== 国内問題 ===
 
[[File:David Dubinsky shakes hands with President Dwight Eisenhower at the AFL convention, September 15, 1952..jpg|thumb|right|200px|[[アメリカ労働総同盟]]大会に出席したアイゼンハワー]]
 
[[File:101st Airborne at Little Rock Central High.jpg|thumb|200px|right|リトルロック高校事件で、アイゼンハワーが派遣した第101空挺師団に守られながら登校する黒人生徒たち]]
 
[[File:Eisenhower visits Taiwan (June 1960).jpg|thumb|200px|right|中華民国の蒋総統からの歓迎を受けるアイゼンハワー]]
 
多くの共和党大統領と同じく、自由企業経済が自らを発展させるべきだと考え、国内政策にほとんど興味を持たなかった。1952年の選挙の圧勝は、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に上下両院の主導権を与えたが、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]は国内政策に対する批判で、[[1954年]]の[[中間選挙]]で主導権を回復した。議会リーダー、特に[[アメリカ合衆国下院議長|下院議長]]{{仮リンク|サム・レイバーン|en|Sam Rayburn}}との良好な関係を作り上げることで対応した。
 
またアイゼンハワーは、多くの実業家を[[アメリカ合衆国大統領顧問団|閣僚]]に任命し国を統治させた。それによって外交問題に専念することができた。
 
 
====経済政策====
 
国内で果たした功績として、1956年に承認した[[連邦補助高速道路法]]が挙げられる。同法はアメリカ国内41,000[[マイル]]の幹線道路網を構築するというアメリカ史上最大の公共工事プログラムだったが、これはかつてアイゼンハワーが関与した軍事警護で、アメリカ大陸を横断するのに62日を要した経験が生み出したものであった。
 
 
もう一つの成功は、在職中に世帯所得を20%増加させたことであり、大変誇りとしていた。アイゼンハワーは内閣に10番目の省として[[保健教育福祉省]]を新設した。また大統領在任中の3ヶ年において、収支の均衡の取れた予算を達成していることも注目される。
 
 
====対人種差別====
 
「1950年代に、[[共産主義]]および[[アフリカ系アメリカ人|黒人]][[公民権運動|公民権]]の2つの主な問題において、アイゼンハワーは強いリーダーシップを発揮しなかった」と評価されることもあるが、以下のような事実もある。[[1957年]]に、[[ブラウン対教育委員会裁判]]の判決以降も白人しか入学させていなかった[[アーカンソー州]]立リトルロック・セントラル高校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだ[[白人至上主義]]者の{{仮リンク|オーヴァル・フォーバス|en|Orval Faubus}}州知事が拒否し、「[[白人]][[過激派]]による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という理由をつけて州兵を召集し、学校を閉鎖して黒人学生の入学を妨害するという事件が起きた。
 
 
これに対してアイゼンハワーは、フォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、この命令が無視されたため、急遽[[アメリカ陸軍]]の[[第101空挺師団 (アメリカ軍)|第101空挺師団]]を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた([[リトルロック高校事件]])。
 
 
====対赤狩り====
 
上院議員[[ジョセフ・マッカーシー]]による[[反共主義]]のキャンペーン([[赤狩り]])に対し、公的に非難する態度をとらなかったことで非難されたが、私的にはマッカーシーを嫌っていた。友人でもある大戦中の同僚で、トルーマンの下の国務長官だった[[ジョージ・C・マーシャル|ジョージ・マーシャル]]をマッカーシーが非難していたからである。アイゼンハワーは、「私は彼に跪いて落ちぶれるつもりはない」と非公式に発言した。
 
 
=== ニクソンとの関係 ===
 
[[File:Eisenhower meets the Nixons.gif|thumb|right|200px|ニクソンとともに(1952年)]]
 
[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]の[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]に対しては、複雑な感情を抱いていたと言われる。ニクソンは副大統領としてアイゼンハワーを支え続けた8年間の間、多くの汚れ役を背負い、その仕事を忠実にこなした。これを誇りに感じていたニクソンは、[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|1960年の大統領選挙]]において、経験に欠けた[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]に対して8年間の副大統領として積んだ実績をキャンペーンした。
 
 
しかしアイゼンハワーは、ニクソンが共和党の候補として出馬した際にニクソンを指名するように依頼された時、冗談を意図して「1週間くれ。そうすれば、考えてもよい」と返答し、単なる一共和党候補として不承不承にニクソンを支持した。これはニクソンに対する厳しい打撃だった。ニクソンはケネディに対して歴史上に残る僅差で敗北すると、アイゼンハワーを非難した。 
 
 
=== 内閣 ===
 
{| cellpadding="1" cellspacing="4" style="margin:3px; border:3px solid #000000;" align="left"
 
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
 
|-
 
|align="left"|'''職名'''||align="left"|'''氏名'''||align="left"|'''任期'''
 
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!bgcolor="#000000" colspan="3"|
 
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|align="left"|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||align="left" |'''ドワイト・D・アイゼンハワー'''||align="left"|1953 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||align="left"|'''[[リチャード・ニクソン]]'''||align="left"|1953 - 1961
 
|-
 
!bgcolor="#000000" colspan="3"|
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||align="left"|'''[[ジョン・フォスター・ダレス]]'''||align="left"|1953 - 1959
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[クリスチャン・A・ハーター]]'''||align="left"|1959 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||align="left"|'''[[ジョージ・M・ハンフリー]]'''||align="left"|1953 - 1957
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''[[ロバート・B・アンダーソン]]'''||align="left"|1957 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|チャールズ・E・ウィルソン|en|Charles Erwin Wilson}}'''||align="left"|1953 - 1957
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|ニール・H・マッケロイ|en|Neil H. McElroy}}'''||align="left"|1957 - 1959
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|トーマス・S・ゲイツ|en|Thomas S. Gates Jr.}}'''||align="left"|1959 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|ハーバート・ブラウネル・ジュニア|en|Herbert Brownell Jr.}}'''||align="left"|1953 - 1957
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|ウィリアム・P・ロジャース|en|William P. Rogers}}'''||align="left"|1957 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|アーサー・E・サマーフィールド|en|Arthur Summerfield}}'''||align="left"|1953 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|ダグラス・マッケイ|en|Douglas McKay}}'''||align="left"|1953 - 1956
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|フレッド・A・シートン|en|Fred A. Seaton}}'''||align="left"|1956 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]||align="left"|'''[[エズラ・タフト・ベンソン|エズラ・T・ベンソン]]'''||align="left"|1953 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|シンクレア・ウィークス|en|Sinclair Weeks}}'''||align="left"|1953 - 1958
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|ルイス・L・ストラウス|en|Lewis Strauss}}'''||align="left"|1958 - 1959
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|フレデリック・H・ミューラー|en|Frederick H. Mueller}}'''||align="left"|1959 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|マーティン・P・ダーキン|en|Martin Patrick Durkin}}'''||align="left"|1953
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|ジェームズ・P・ミッチェル|en|James P. Mitchell}}'''||align="left"|1953 - 1961
 
|-
 
|align="left"|[[アメリカ合衆国保健教育福祉長官|保健教育福祉長官]]||align="left"|'''{{仮リンク|オヴェータ・カルプ・ホビー|en|Oveta Culp Hobby}}'''||align="left"|1953 - 1955
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|マリオン・B・フォルサム|en|Marion B. Folsom}}'''||align="left"|1955 - 1958
 
|-
 
|align="left"|&nbsp;||align="left"|'''{{仮リンク|アーサー・S・フレミング|en|Arthur Sherwood Flemming}}'''||align="left"|1958 - 1961
 
|}
 
{{clear}}
 
 
== 大統領退任後 ==
 
退任後は[[ペンシルベニア州]][[ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)|ゲティスバーグ]]にある農家にて隠棲した。1969年3月28日、アイゼンハワーはワシントンD.C.にあるウォルターリード陸軍病院で、鬱血性心不全のため死亡した。
 
 
== 死後 ==
 
アイゼンハワーは戦後の生涯の大半を[[ペンシルベニア州]][[バレーフォージ]]で過ごしたが、アイゼンハワーの記念館は彼が成長したカンザス州アビリーンにある。アイゼンハワーとその妻は、瞑想の場所と呼ばれる小さな礼拝堂に埋葬されている。
 
 
アイゼンハワーの肖像は1971年から1978年までの1ドル銀貨に使用された。 また、[[ニミッツ級航空母艦]]の[[ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)|2番艦]]にその名が使用された (USS Dwight D. Eisenhower, CVN-69) 。
 
 
=== アイゼンハワー公園 ===
 
[[File:Eisenhower Park Main Entrance.jpg|thumb|アイゼンハワー公園エントランス]]
 
アイゼンハワーはニューヨーク州イーストメドウの広大な公園に、アスレチックや家族施設などの設置を行った。この公園は[[1969年]][[10月13日]]にアイゼンハワー記念公園と改められて現在にいたっている。公園内にはレクリエーション施設のほか、退役軍人記念公園も包含されており、軍人を顕彰する石碑などが設置されている。[[2012年]][[6月20日]]には[[朝鮮戦争]]で戦没したアメリカ兵を顕彰する石碑の隣に「日本軍が性奴隷にするため20万人を超える少女らを拉致して[[慰安婦]]にした」とする碑が[[大韓民国]][[光州広域市]]と韓米公共政策委員会によって設置されている<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=mYC7Rjvlmic Korean desecration of USA Korean War Memorial] [[トニー・マラーノ]] 2012年6月26日</ref><ref name=donga20120618>[http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=060000&biid=2012061890558 第2の慰安婦碑、ニューヨーク州に建立] [[東亜日報]] JUNE 18, 2012 </ref><ref>[http://www.hani.co.kr/arti/society/area/539077.html 일본군 위안부 기림비 미국 땅에 2번째 둥지] [[ハンギョレ]] 2012.06.21</ref>。
 
 
== 評価 ==
 
大統領時代は高い支持率を保ち続けたものの、退任すると若く活動的に見えた後継者[[ジョン・F・ケネディ]]との対比から、「何もしない大統領だった」と批判され、その評価は下がった。ただし、その後に暗殺されたケネディも同様の批判を受けた。
 
 
1960年代および1970年代のリベラルな風潮の中で前任のトルーマンから引き継いだ[[公民権運動]]への支援や[[マッカーシズム]]への抵抗により、近年評価は回復した。歴史家の最近の投票では、アイゼンハワーはすべての大統領の間で11番目と評価された。しかし何人かの歴史家は、「アイゼンハワーの最も大きな業績は大戦中の軍司令官時代のものだった」としている。
 
 
職業軍人出身らしく、戦争の残虐さを身をもって体験しており、外交は情報収集を基本に行い、また冷戦真っただ中の任期にあっても、[[スプートニクショック]]の際も国防費の増額はせず、[[軍産複合体]]制を批判した。
 
 
== その他 ==
 
* 第二次世界大戦で日本の敗戦が決定的になり、原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日に[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領に進言しており、原爆の使用を強硬に反対した。1945年10月、フランクフルト郊外の自宅でハリマン駐ソ連大使を迎えた夕食の際に、ハリマンは「アイゼンハワー氏は、原爆を使わずに戦争が終わっていたらどんなによかったことか、と話した」と記していた。被爆地広島に原子力発電所を造る案が1953年時点で、米政権内で浮上していたが、大統領に就任したアイゼンハワーは「(原爆投下への)罪悪感を示すことになる」という理由で反対した。ストローズ米原子力委員長は広島への原発建設案をアイゼンハワーに提案したが、アイゼンハワーは「その考えは捨てた方がよい。(原爆を使ったことへの米国の)罪悪感を示すことになるからだ」と発言した。
 
* 大統領時代の[[1958年]][[5月22日]]に、米[[NBC]]の系列局WRC-TVのワシントンD.C.スタジオの開所式典に招かれ、来賓として祝辞を述べている。この模様は生放送されたばかりか、当時出始めの[[2インチVTR|放送用の2インチのカラーVTR]]でも収録された。その時収録されたビデオテープが、現時点において現存が確認されている最古のカラービデオテープであり、またカラー放送史において非常に貴重な資料の一つとされている。このビデオテープはのちにデジタルリマスタリングされて、米NBCのビデオ・アーカイブスはもちろんのこと、[[カンザス州]]のアイゼンハワー・ライブラリーにも保管されている<ref>この映像の一部は、YouTubeにて閲覧可能である(局の演出により、最初は白黒映像で、途中からカラー映像になっている)。http://www.youtube.com/watch?v=QKqHZcXvUAs</ref><ref>詳しくは[http://www.novia.net/~ereitan/rca-nbc_firsts.html RCA-NBC Firsts in Color Television] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060206115435/http://www.novia.net/~ereitan/rca-nbc_firsts.html |date=2006年2月6日 }}を参照のこと。</ref>。
 
* 第二次世界大戦中に着ていた「ウール・フィールドジャケット」が愛称を取って「[[アイゼンハワージャケット|アイクジャケット]]」(IKE Jacket)と呼ばれ、[[アメリカ合衆国の警察]]官や[[保安官]]の着ている防寒[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]にその形式(丈は腰まで、両肩に[[肩章]]、両腹部にはボタン止めの蓋を持つパッチポケット)を残す。
 
* 核攻撃を受けた際の連邦議会開催のための核シェルターを、[[ウエストバージニア州]]グリーンブライア郡の高級ホテル地下に構築した。
 
* [[クローン病]]という難病を抱え、大統領在任中に2回手術を受けたと伝えられている。
 
*[[コカ・コーラ]]を愛飲し、[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]][[6月29日]]に[[ジョージ・C・マーシャル]][[陸軍参謀総長]]宛てで「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし」と[[電報]]を送ったほどである。また政治的にも[[ザ コカ・コーラ カンパニー]]の支援を受けていた。
 
 
== 著作 ==
 
*『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』([[朝日新聞社]]訳 朝日新聞社、1949年)
 
*『アイゼンハワー回顧録』1・2([[仲晃]]、[[佐々木謙一]]、[[渡辺靖]]共訳 みすず書房、1965年-1968年)
 
 
== 関連書籍 ==
 
*『アイゼンハウアー 民主主義の兵士』K.デーヴィス [[土屋明]]訳、読売新聞社、1952年
 
*『アイゼンハワー 彼は世界を動かしている』[[ジョン・ガンサー]]、[[木下秀夫]]訳、文藝春秋新社、1952年
 
*『アイゼンハワー 昇る巨星』[[沢田謙]]、偕成社(偉人物語文庫)、1953年
 
*『人間アイゼンハウァー』[[松山敏]]、人生社(人生伝記新書)、1953年
 
*『アイゼンハワーの兄弟 偉大なアメリカの遺産』ベラ・コルニッツア [[深沢正策]]訳、時事通信社、1956年
 
*『アイゼンハワー 人間アイゼンハワーの全貌』[[松山悦三]] アジア書院、1960年
 
*『愛は絶ちがたく アイゼンハワーとの秘められた恋』ケイ・サマーズビー・モーガン [[関口英男]]訳、パシフィカ年、1977年12月
 
*『ヴェトナム戦争の起源 アイゼンハワー政権と第一次インドシナ戦争』[[赤木完爾]] 慶応通信、1991年6月
 
*『アイゼンハワー政権の中東政策』[[泉淳]] 国際書院、2001年6月
 
*『アイゼンハワー政権と西ドイツ 同盟政策としての東西軍備管理交渉』[[倉科一希]] ミネルヴァ書房(国際政治・日本外交叢書)、2008年6月
 
*『アイゼンハワー政権の封じ込め政策 ソ連の脅威,ミサイル・ギャップ論争と東西交流』[[佐々木卓也]] 有斐閣、2008年2月
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=[[児島襄]] |title=指揮官(下) |date=1974|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-14-714102-7|ref=harv}}
 
*{{cite book |last = King |first = Ernest J.|last2 = Whitehill |first2 = Walter Muir |title = Fleet Admiral King: A Naval Record |publisher =W. W. Norton & Company|year = 1952 |location = New York}}
 
*{{Cite book|last=Buell|first=Thomas B.|year=2001|title=Master of Seapower: A Biography of Fleet Admiral Ernest J. King|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis|isbn=978-1591140429|ref=Buell}}
 
 
== アイゼンハワーを描いた作品 ==
 
;テレビドラマ
 
* [[将軍アイク]](1979年、主演:[[ロバート・デュヴァル]])
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[U-2撃墜事件]]
 
* [[PBSUCCESS作戦]]
 
* [[ロッキード コンステレーション]]
 
* [[バリー・ゴールドウォーター]]
 
* [[マッカーシズム]]
 
* [[軍産複合体]]
 
* [[CIA]]
 
* [[FBI]]
 
* [[NSA]]
 
* [[ダグラス・マッカーサー]]
 
* [[ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)]]
 
* [[クローン病]]
 
  
== 外部リンク ==
+
'''ドワイト・デビッド・アイゼンハワー'''<br>
{{Commons|Dwight D. Eisenhower}}
+
(Dwight David Eisenhower、[[1890年]][[10月14日]] - [[1969年]][[3月28日]]
* {{gutenberg author| id=Dwight+D.+Eisenhower | name=Dwight D. Eisenhower}}
 
* [http://www.badley.info/history/Eisenhower-Dwight-David-USA.biog.html Eisenhower Chronology World History Database]
 
* [http://www.eisenhower.archives.gov/ The Eisenhower Presidential Library and Museum]
 
* [http://kansastravel.org/eisenhower.htm Eisenhower Home and Tomb]
 
* [http://www.heraldrysociety.us/presidents/index.php?page=Eisenhower Armigerous American Presidents Series]
 
* [http://www.whitehouse.gov/history/presidents/de34.html White House biography]
 
* [http://www.whitehousetapes.org/pages/tapes_dde.htm Eisenhower Tapes @ University of Virginia's Miller Center of Public Affairs] (Oval Office recordings)
 
* [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/eisen1.htm First Inaugural Address]
 
* [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/eisen2.htm Second Inaugural Address]
 
* [http://vvl.lib.msu.edu/showfindingaid.cfm?findaidid=EisenhowerD Audio clips of Eisenhower's speeches]
 
* [http://www.americanrhetoric.com/speeches/dwightdeisenhowerfarewell.html Farewell Address](原文と音声)[http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/kb/EisenhowerAddress.html 日本語訳全文]
 
* [http://www.jan.vandercrabben.name/unidocs/kcl/Eisenhower_and_Nukes.pdf Essay: Why the Eisenhower administration embraced nuclear weapons (PDF)]
 
* [http://www.eisenhowermemorial.org/index.html The Dwight D. Eisenhower Memorial Commission]
 
* [http://www.eisenhowermemorial.org/presidential-papers/index.htm The Presidential Papers of Dwight David Eisenhower (Searchable Online)]
 
* [http://www.army.mil/cmh-pg/brochures/ike/ike.htm Dwight David Eisenhower' biography at the Official U.S. Army website]
 
  
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アメリカの軍人,政治家。第 34代大統領 (在任 1953~61) 。 1915年[[ウェストポイント陸軍士官学校]]卒業。 26年陸軍幕僚学校を首席で卒業。 33~35年 D.[[マッカーサー]]のもとで参謀本部に勤務。 41年 12月日本の[[真珠湾攻撃]]後,陸軍参謀本部作戦計画部副部長となり,ヨーロッパ進攻計画の作成に従事。次いでヨーロッパ戦線におけるアメリカ軍司令官としてノルマンディー進攻 ([[オーバーロード作戦]] ) を指揮するなど,連合国勝利のために活躍,44年元帥に昇進。 48年軍務から退き,コロンビア大学総長に就任。 50年 12月 [[H.トルーマン]]大統領により[[北大西洋条約機構]] NATO軍最高司令官に任命された。共和党から大統領に立候補し,53年1月大統領に就任。 56年再選。その間,朝鮮戦争休戦,[[国際原子力機関]]の創設,ソ連の [[N.フルシチョフ]]首相との会談などで平和共存への努力を重ねた。しかし他方,[[アイゼンハワー・ドクトリン]]の声明などにみられるように,ソ連に対抗する強い姿勢もみせた。著書『ヨーロッパ十字軍』 Crusade in Europe (1948)
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[[Category:ドワイト・D・アイゼンハワー|*]]

2018/8/27/ (月) 23:24時点における最新版



ドワイト・デビッド・アイゼンハワー
(Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日

アメリカの軍人,政治家。第 34代大統領 (在任 1953~61) 。 1915年ウェストポイント陸軍士官学校卒業。 26年陸軍幕僚学校を首席で卒業。 33~35年 D.マッカーサーのもとで参謀本部に勤務。 41年 12月日本の真珠湾攻撃後,陸軍参謀本部作戦計画部副部長となり,ヨーロッパ進攻計画の作成に従事。次いでヨーロッパ戦線におけるアメリカ軍司令官としてノルマンディー進攻 (オーバーロード作戦 ) を指揮するなど,連合国勝利のために活躍,44年元帥に昇進。 48年軍務から退き,コロンビア大学総長に就任。 50年 12月 H.トルーマン大統領により北大西洋条約機構 NATO軍最高司令官に任命された。共和党から大統領に立候補し,53年1月大統領に就任。 56年再選。その間,朝鮮戦争休戦,国際原子力機関の創設,ソ連の N.フルシチョフ首相との会談などで平和共存への努力を重ねた。しかし他方,アイゼンハワー・ドクトリンの声明などにみられるように,ソ連に対抗する強い姿勢もみせた。著書『ヨーロッパ十字軍』 Crusade in Europe (1948) 。




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