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{{複数の問題
 
| 出典の明記 = 2017年6月
 
| 独自研究 = 2017年6月
 
}}
 
{{Infobox anthem
 
|題名={{lang|de|Das Deutschlandlied}}
 
|翻字=
 
|和訳例=ドイツの歌
 
|画像=Deutschlandlied.jpg
 
|画像サイズ=180px
 
|画像代替=原稿の複製
 
|画像説明=ファラースレーベンによる原稿 "{{lang|de|Lied der Deutschen}}" の複製。実物はコレクション「[[ベルリンカ]]」(在[[クラクフ]])が保有。
 
|採用対象=国
 
|採用共同体={{DEU}}
 
|別名={{lang|de|Das Lied der Deutschen}}
 
|別名和訳=ドイツ人の歌
 
|別名2=
 
|別名2和訳=
 
|作詞者=[[アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン]]
 
|作詞時期=[[1841年]]
 
|作曲者=[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]
 
|作曲時期=[[1797年]]
 
|採用時期=[[1922年]]
 
|採用終了=
 
|試聴=Deutschlandlied played by USAREUR Band.ogg
 
|試聴タイトル=ドイツの歌(演奏)
 
}}
 
[[File:Nationalhymne der Bundesrepublik Deutschland.svg|thumb|250px|Einigkeit und Recht und Freiheit]]
 
[[Image:Deutschlandlied-Geographie.png|thumb|right|250px|1番の歌詞において歌われる地名。<br>Von der '''Maas''' bis an die '''Memel''',von der '''Etsch''' bis an den '''Belt'''.<br>'''[[マース川]]'''から'''[[ネマン川|メーメル川]]'''まで、'''[[アディジェ川|エッチュ川]]'''から'''[[小ベルト海峡|ベルト海峡]]'''まで。]]
 
[[File:Weimar Republic location.svg|thumb|right|250px|国歌として採用された当時の[[ヴァイマル共和国]]時代のドイツの領土]]
 
[[File:LocationThirdReich.png|thumb|right|250px|[[ナチス・ドイツ]]時代の領土]]
 
[[File:LocationFRGInEurope.PNG|thumb|right|250px|現在のドイツ連邦共和国の領土]]
 
『'''ドイツの歌'''』({{lang-de|''Deutschlandlied''}})または『'''ドイツ人の歌'''』({{lang|de|''Das Lied der Deutschen''}})は、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]の[[国歌]]である。
 
  
== 概要 ==
+
『'''ドイツの歌'''』({{lang-de|''Deutschlandlied''}})または『'''ドイツ人の歌'''』({{lang|de|''Das Lied der Deutschen''}}
この歌は、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]が[[1797年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ2世]]に捧げた『[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]』(後に[[弦楽四重奏曲第77番 (ハイドン)|弦楽四重奏曲『皇帝』]]第2楽章の主題に用いられる)のメロディーに、[[1841年]]に[[アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン]]({{lang|de|August Heinrich Hoffmann von Fallersleben}})が[[ヘルゴラント島]](当時はイギリス領)で詠んだ詩を付けたものである<ref name="frg-embassy">[http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/01-Willkommen-in-Deutschland/03-bundeslaender/Hymne.html ドイツ連邦共和国国歌 (ドイツ連邦共和国大使館)] 2017年8月24日閲覧</ref>。なお、同じメロディーは[[オーストリア帝国]]、続く[[オーストリア=ハンガリー帝国]]でも国歌として使用したが、こちらの方が[[ハプスブルク家]]の皇帝ともども元の『神よ、皇帝フランツを守り給え』を引き継いでいる。
 
  
この歌詞は、黒・赤・金の旗(現在の[[ドイツの国旗]])とともに、権威主義的な諸邦を倒して君主制下での[[自由主義]]的な統一ドイツをもたらそうとした[[1848年革命|1848年のドイツ3月革命]]のシンボルとなった。[[ドイツ帝国]]崩壊後の[[ヴァイマル共和国]]時代に正式に国歌として採用された。[[第二次世界大戦]]敗戦による[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍のドイツ占領]]を経て[[1949年]]に[[西ドイツ]]に西側諸国の承認を得て設立された[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]では3番のみを公式なものとしており、1990年11月に[[ドイツ民主共和国]]を[[ドイツ再統一|統合]]した時に3番のみを公式とすることを確定した<ref name="frg-embassy"/><ref name="news-postseven20140704">[https://www.news-postseven.com/archives/20140704_264089.html ジダンが仏国歌を歌わずドイツの先生が国歌の1番歌わぬ理由] [[NEWSポストセブン]] 2014年7月4日、2017年8月12日閲覧</ref><ref name="huffingtonpost20140714">[http://www.huffingtonpost.jp/yamane-ito/123w_b_5583369.html なぜ1番・2番ではなく3番が歌われるのか? W杯の覇者ドイツ国歌の謎] [[ハフィントンポスト]] -[[いとうやまね]]  2014年7月14日、2017年6月30日閲覧</ref>。
+
ドイツ連邦共和国の国歌。1797年にハイドンが作曲したオーストリア皇帝賛歌を元に、ホフマン=フォン=ファレルスレーベンによる歌詞を付けたもの。同じ旋律がオーストリア帝国およびオーストリアハンガリー帝国の国歌としても使用された。ドイツの歌。
  
ただし、現在でもドイツでは国歌に関する正規の法律は未だに制定されていない<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
なお、ドイツ国歌はハイドンのオリジナル版やそれに続くオーストリア=ハンガリー帝国のバージョンと比べて、曲を若干修正し、[[ト長調]]から[[変ホ長調]]に変えたバージョンを採用している。
 
 
== 歌詞 ==
 
{|class="toccolours" cellpadding="10" align=center rules="cols"
 
!colspan="2" bgcolor="steelblue" |Deutschlandlied(ドイツの歌)
 
|-
 
!ドイツ語 !! 日本語訳
 
|-
 
!colspan="2" bgcolor="lightsteelblue" |1番
 
|-
 
|<poem>
 
''Deutschland, Deutschland über alles,
 
''Über alles in der Welt,
 
''Wenn es stets zu Schutz und Trutze
 
''Brüderlich zusammenhält.
 
''Von der Maas bis an die Memel,
 
''Von der Etsch bis an den Belt,
 
''Deutschland, Deutschland über alles,
 
''Über alles in der Welt!''</poem>
 
|<poem>
 
''ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
 
''この世のすべてのものの上にあれ
 
''護るにあたりて
 
''兄弟のような団結があるならば
 
''[[マース川]]から[[メーメル川]]まで
 
''[[アディジェ川|エチュ川]]から[[ベルト海峡]]まで
 
''ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
 
''この世のすべてのものの上にあれ
 
''</poem>
 
|-
 
!colspan="2" bgcolor="lightsteelblue"|2番
 
|-
 
|<poem>
 
''Deutsche Frauen, deutsche Treue,
 
''Deutscher Wein und deutscher Sang
 
''Sollen in der Welt behalten
 
''Ihren alten schönen Klang,
 
''Uns zu edler Tat begeistern
 
''Unser ganzes Leben lang.
 
''Deutsche Frauen, deutsche Treue,
 
''Deutscher Wein und deutscher Sang!
 
''</poem>
 
|<poem>
 
''ドイツの女性、[[忠誠宣誓 (ドイツ)|ドイツの忠誠]]、
 
''[[ドイツワイン|ドイツのワイン]]、ドイツの歌は
 
''古からの美しき響きを
 
''この世に保って
 
''我々を一生の間
 
''高貴な行いへと奮い立たせねばならぬ
 
''ドイツの女性よ、ドイツの忠誠よ、
 
''ドイツのワインよ、ドイツの歌よ
 
''</poem>
 
|-
 
!colspan="2" bgcolor="lightpink"|3番<br>(第二次世界大戦後に設立された[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]では3番のみが公式なものとなっている)
 
|-
 
|<poem>
 
''Einigkeit und Recht und Freiheit
 
''Für das deutsche Vaterland!
 
''Danach lasst uns alle streben
 
''Brüderlich mit Herz und Hand!
 
''Einigkeit und Recht und Freiheit
 
''Sind des Glückes Unterpfand
 
''Blüh' im Glanze dieses Glückes,
 
''Blühe, deutsches Vaterland!''</poem>
 
|<poem>
 
''[[ドイツ統一|統一]]と正義と自由を
 
''父なる祖国ドイツの為に
 
''その為に我らは挙げて兄弟の如く
 
''心と手を携えて努力しようではないか
 
''統一と正義と自由は
 
''幸福の証である
 
''その幸福の光の中で栄えよ
 
''父なる祖国ドイツ''</poem>
 
|}
 
 
== 歴史 ==
 
{| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:left;"
 
|-
 
| [[ファイル:Hoffman von Fallersleben Gemälde.jpg|175px]]|| [[ファイル:Haydn portrait by Thomas Hardy (small).jpg|220px]]
 
|-
 
| colspan="2" style="text-align: left;" |ホフマン・フォン・ファラースレーベン(左)とF.ハイドン(右)
 
|}
 
 
=== 経緯 ===
 
1815年以降、主にドイツ語が話されていた地域は39の国家(帝国1、[[王国]]5、[[選帝侯]]国1、[[大公]]国7、[[公国]]10、侯国11、[[自由都市]]4)から成り、[[ウィーン会議]]ではこれらの諸国家が結集して[[ドイツ連邦]]を結成することが決まった。だが当のドイツ連邦にはその全てを束ねる国家[[元首]]も、全体を統括する役所や法律もなく、共通の経済、[[関税]]制度、軍隊も保持していなかった。そのため、批判的知識人はこうした小邦乱立と領邦君主権の撤廃とドイツ民族の統一国家建国を公然と主張していた<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
当時、作詞者ファラースレーベンは反体制的な詩集を発行したということで、教鞭をとっていた大学から追放されて各地を放浪していた。その頃まだ[[イギリス|英国]]領だった[[ヘルゴラント島]]へ向かう船に、偶然[[フランス]]と[[イギリス|英国]]の軍楽隊が同乗し、英国国歌『[[女王陛下万歳]]』(''God Save the Queen'')とフランス国歌『[[ラ・マルセイエーズ]]』(''La Marseillaise'')を演奏していた。当時ドイツという国はなく、「[[ドイツ連邦]]」というものがあるだけで、[[国歌]]も統一国家もなかったため、彼は大きなショックを受けたという。
 
 
そこで、ファラースレーベンはヘルゴラント島での休暇中に、当時は夢物語と言われていたドイツ民族の統一を願ってこの歌詞を作詞し、直後の9月4日に[[ハンブルク]]の出版社[[フリードリヒ・カンペ]]が初版を出版した。この時、メロディーはハイドン作曲『Gott erhalte Franz den Kaiser(神よ、皇帝フランツを守りたまえ)』を借用した<ref name="frg-embassy"/>。1番における「この世界の全ての存在を上まわりし国よ!(Deutschland &#252;ber alles in der Welt)」という言葉には、元々ファラースレーベンの[[ドイツ人|ドイツ民族]]の統一を悲願する意味が込められていたと言われている。
 
 
=== ドイツ帝国時代まで ===
 
この歌が初めて公開の場にて演奏されたのは、[[1841年]]10月5日のハンブルクで行われた[[松明]]行列に際してであり、公式の席で初めて歌われたのは、[[1890年]]に[[ヘルゴランド=ザンジバル条約|ヘルゴラント島がアフリカのザンジバル島との交換で再びドイツ領となった時]]であった。しかし、当時はまだ国歌となるまでには至らず、[[1871年]]の[[ドイツ帝国]]成立時にはそれまで広く知れ渡っていた『[[ラインの守り]]』に代えて『[[皇帝陛下万歳]]』を非公式ながら国歌とし、[[1918年]]の帝政崩壊まで使用した<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
一方、この当時から既に1番の歌詞が行き過ぎであるとの批判が絶えなかった。これは、ドイツ帝国の時代でも、マース川流域は大半がフランスないし[[ベルギー]]国内であり、エチュ川は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]と[[イタリア王国]]を流れ、ベルト海峡は[[デンマーク]]にあったことが理由である<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
=== ワイマール共和国からナチス・ドイツまで ===
 
[[第一次世界大戦]]後、[[ワイマール共和国]]時代の[[1922年]]8月11日、[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]政権が正式な国歌として制定した。この時点では「国歌」という名称は使用されなかった<ref name="frg-embassy"/>。これに対して[[フリードリヒ・エーベルト]]大統領は式典の挨拶で以下のように述べた<ref name="frg-embassy"/>。{{Quotation|「'''統一と正義と自由!''' ここで謳われているこの三つの言葉は、ドイツ内部の分裂と抑圧の時代に、ドイツ人全ての抱く切なる希望を表したものである。これらの言葉は、今後もより良き未来の構築に向け、困難な道のりを歩む我らの座右の銘となろう。」}}また、ワイマール共和国時代には、一時期4番が作られたが、すぐに人々から忘れ去られた<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
その後、[[アドルフ・ヒトラー]]が政権を掌握してから僅か数週間後に、[[ナチス]]指導部はこの国歌をナチスの党歌『[[旗を高く掲げよ]]』と組み合わせ、2番と3番を演奏禁止にした上で、「'''最初に国歌1番を歌い、次に『旗を高く掲げよ』を歌う'''」を公式とし、[[ナチス・ドイツ]]時代ではこの2つの歌を連続して歌うことが実質的な国歌とされた<ref name="frg-embassy"/>。この時、ナチスが1番をドイツ人の優越や領土拡大を目指した解釈に変更したため、[[第二次世界大戦]]後は、「歌詞が[[軍国主義]]的である<ref name="news-postseven20140704"/>」「歌詞がナチス・ドイツの覇権を正当化するもので、[[覇権主義]]の野望が盛り込まれている」「戦後ドイツの領土ではなくなった地名が含まれており、外国を刺激する<ref name="huffingtonpost20140714"/>」という批判を受ける原因になった。
 
 
=== 冷戦以降 ===
 
[[第二次世界大戦]]後、[[連合国]]を始め他国の人々からは、『ドイツの歌』はナチスの狂信的人種差別と世界制覇の野望を強烈に表す象徴と見られており、連合軍は『ドイツの歌』を禁止にして処罰の対象とした。しかし、1948年に[[ヴォルフスブルク]]で[[ドイツ帝国党]]の集会の時に、その禁を破ってこの歌が再び歌われた。[[ドイツ連邦共和国]]([[西ドイツ]])の初代連邦大統領となった[[テオドール・ホイス]]は、「この歌に関しては、政治家も占領軍も、ドイツ人のこの歌に寄せる強い思いを恐らく過小評価していた」と、後に述べている。そのため、西ドイツ建国直後に、早くも複数の党の議員達が、『ドイツの歌』の1番から3番までを国歌とする議案を提出した<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
西ドイツでは[[ナチス・ドイツ]]時代に使用されたこの国歌を引き継ぐのに抵抗を感じ、全く新しい国歌を制定しようとする試みがあった。ホイス大統領は、民主的国家としてのドイツの新たな始まりを明らかにするために、新しい国歌が必要であると考えていた。そのため、まずは[[1950年]]8月に『ドイツ人の歌』に代わり、『Ich hab' mich ergeben([[我はこの身を故国に捧げり]])』を代用し、それと同時に、詩人の[[ルドルフ・アレクサンダー・シュレーダー]]と作曲家の[[カール・オルフ]]に新しい国歌の制作を依頼した。オルフが断ったために、代わって[[ヘルマン・ロイター]]が新しい国歌『Land des Glaubens, deutsches Land([[信仰の国ドイツ]])』を作曲し、1950年の[[大晦日]]に初演されたが、国民からは全く反響がなく、受け入れられなかった。更に、[[1951年]]秋に実施した世論調査では、西ドイツ国民の3/4が『ドイツの歌』を再び国歌とすることに賛同し、また約1/3の国民が将来1番の代わりに3番を歌うことに賛成した。しかし、『ドイツの歌』そのものへの連合軍の禁止措置はなおも続いた<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
[[コンラート・アデナウアー]]首相は、既に国歌の問題の難しさを痛感しており、1950年4月に議会で自ら『ドイツの歌』をあからさまに歌い出し、議員の大半が感動して共に3番を歌った時には、同席していた連合軍幹部達は驚きと不快感を露にし、すぐに大きな政治問題となった。それでもアデナウアーは1951年初め、自身の75歳の誕生日の式典において、[[ボン]]市庁舎の外階段に居並ぶ人々に、一緒に『ドイツの歌』3番を歌うように促した。最初、楽団は予定になかったこの歌の演奏を拒否したが、アデナウアーは最後にはその意志を通して演奏が行われた。これを契機に、1951年10月、[[キリスト教民主同盟]]カールスルーエ支部はホイス大統領に対して、「『ドイツの歌』の禁止処分を解き、3番だけでもドイツの伝統を汲んで国歌としての扱いを受けるべきである」と全会一致で要請した。その後も、連邦政府の公報において、アデナウアーは「この歌ほどドイツ国民の心に深く根ざしているものは他にない」と説き、ホイス大統領との書簡を往復させた後、アデナウアーは[[1952年]]5月にその意志を通した<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
このようにして、当時の流行歌を用いたり、[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|ベートーヴェンの第九]]を代用したりしたこともあったが、どれもこれといったものが出てこなかった<ref name="huffingtonpost20140714"/>。その後、西ドイツが[[近代オリンピック|オリンピック]]に復帰するに当たり、偶然にも3番の歌詞が東西に分断された祖国の統一を願う詩として最適と言うことになり、1952年に3番を歌詞として、再び正式に国歌と決められた<ref name="huffingtonpost20140714"/>。
 
 
一方で、これにより国歌に昇格したのが、この歌の3番のみであったのか、この歌全体であったのかに関して、法律家が冷戦終了まで論争を繰り広げたが、結論がつかず、1990年3月に、[[連邦憲法裁判所]]が、3番のみが「刑法によって保護される」と判断して決着がついた<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
『ドイツの歌』は、[[1990年]]の[[ドイツ再統一|東西統一]]後も引き継がれ、[[1991年]]11月に[[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]大統領と[[ヘルムート・コール]]首相との間で、40年前のホイス大統領とアデナウアー首相との歴史的往復書簡に準拠して、ドイツの歌3番を統一ドイツの国歌と宣言する旨の合意が書簡の往復でなされた。しかし、ドイツ連邦共和国における国歌に関する正規の法律は未だに策定されていない<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
== 歌詞への評価 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2011年4月}}
 
=== 1番 ===
 
[[神聖ローマ帝国]]の形骸化と解体以降、[[ドイツ語]]圏の諸邦が一部を除き小国に分裂していた状況に対して、ドイツ人たちが「同じ言葉を話す人々が集まり統一国家を築こう」と立ち上がりドイツ語圏を統一すべきとの悲願が込められている。当時の[[ドイツ連邦]]はドイツ語を話さない民族の住む地方を多く抱える一方で、例えば[[東プロイセン]]のようにドイツ語が優勢な地域が除外されていた。1番は、ドイツ語話者の多い地域をドイツという[[国民国家]]へまとめあげることを目指しており、言語と国民国家の範囲を一致させようという19世紀の[[ナショナリズム]]を反映した歌詞である<ref name="frg-embassy"/>。
 
 
歌詞にある「Deutschland, Deutschland über alles (ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ)」は、本来は上述の通り、当時の39の国家全てを超越したドイツ人の統一国家を築くことへの願いを込めたものであった。
 
 
[[マース川]]は現在はオランダ領である[[リンブルフ州 (オランダ)|リンブルフ]]を貫いて流れる川で、ドイツ語の最西部の方言[[リンブルフ語]]を話す人々が住んでいた。[[メーメル川]](ネマン川)は[[東プロイセン]]北部を流れる川で、ドイツ語圏の最東北端といえる地域であった。[[エチュ川]](アディゲ川)は現在はイタリア領だが、19世紀当時はすべて[[オーストリア帝国]]の領域であり、特に上流の[[南チロル]]はドイツ語が優勢な地域でいまでもドイツ語圏の最南部である。[[小ベルト海峡|ベルト海峡]]はドイツ語圏の最北部でありデンマークの属領でもある[[シュレースヴィヒ公国]]の東海岸にあるが、公国南部のホルシュタインに住む民族ドイツ人はデンマーク支配への反感を強めており、帰属をめぐる[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]が起こっていた。
 
 
[[ナチス・ドイツ]]時代には1番のみを国歌とし、ドイツ人の優越や領土拡大を盛んに呼びかけた<ref name="frg-embassy"/>。しかし戦後、上述のような批判を受け、また歌詞にある「[[マース川]]から[[メーメル川]]まで、[[エチュ川]]から[[小ベルト海峡|ベルト海峡]]まで」は、[[ドイツ統一]]時にはドイツ領であったが、戦後に失われた領土であることもあって、2番と共に流されず、3番のみ流れる。1986年のドイツ人への世論調査によると、1番から3番まで国歌として学校で教えるべきだとする意見に対し、「賛成」「反対」「わからない」とする声は四、三、三の比率にわかれている。
 
 
=== 2番 ===
 
当時またはそれまでのドイツの文化、歴史について書かれている。歌詞の内容がもっぱら[[言葉遊び]]に終始していることや、[[女性差別]]と解されることから、正式に採用されていない。
 
 
=== 3番 ===
 
ドイツ民族の統一に対しての展望が書かれている。歌詞中にあるフレーズ「Einigkeit und Recht und Freiheit; 統一(団結)と正義(権利、法)と自由」は、{{要出典範囲|date=2015年8月|ドイツ連邦共和国(西ドイツおよび統一ドイツ)の標語となっている}}<!--明確な出典が必要です(俗説であるなら俗説と明確に分かる出典)-->。
 
 
また、1989年にベルリンの壁が崩壊した時、街の至る所で3番が歌われたという<ref name="news-postseven20140704"/>。
 
 
=== 4番 ===
 
[[第一次世界大戦]]後、敗戦国である当時のドイツでは、フランス占領軍に対する国民の不満から、ドイツの国家としての正当性の主張が求められた。そんな中、アルベルト・マッタライという人物によってこの歌詞が作られた。
 
 
内容は「苦難の時も常にドイツは正義であること」を歌うもの。この4番はナチス時代には歌われており、比較的知られていた歌詞だった。しかし、[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]の[[アドルフ・ヒトラーの死|自殺]]と共にナチス[[第三帝国]]は完全に滅亡した。
 
 
それから年月は経過し、ドイツ国民から次第に忘れ去られていったために「幻の歌詞」となってしまった<ref name="frg-embassy"/>。4番は決して法的に禁止された歌詞ではないものの、やはり現在のドイツでは一般に知る人間は少ない。
 
{|class="toccolours" cellpadding="10" align=center rules="cols"
 
!colspan="2" bgcolor="steelblue" |Deutschlandlied(ドイツの歌)
 
|-
 
!ドイツ語 !! 日本語訳
 
|-
 
!colspan="2" bgcolor="lightsteelblue" |幻の4番
 
|-
 
|<poem>
 
''Deutschland, Deutschland über alles,
 
''Und im Unglück nun erst recht.
 
''Nur im Unglück kann die Liebe
 
''Zeigen, ob sie stark und echt.
 
''Und so soll es weiterklingen
 
''Von Geschlechte zu Geschlecht:
 
''Deutschland, Deutschland über alles,
 
''Und im Unglück nun erst recht.''</poem>
 
|<poem>
 
''ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
 
''艱難の時にこそ冠たるドイツよ。
 
''艱難の時にのみ愛は
 
''己が強さと清さの程を示さん。
 
''かくて世代から世代へと
 
''ドイツはこれぞと遍く報らすなり。
 
''ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
 
''艱難の時にこそ冠たるドイツよ。''</poem>
 
|}
 
 
=== 論争 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2011年4月}}
 
[[オーストリア人]]ハイドンが[[ハプスブルク家]]の皇帝を賛美するために作り、ハプスブルク家統治下の[[オーストリア帝国]]国歌でもあった曲がドイツ国歌となっていることに釈然としないオーストリア人は多い。これに対してドイツ側の見解はおおむね次の通りである。
 
* 1806年以前には[[オーストリア]]という国は存在しなかった。法的には「ドイツ人の[[神聖ローマ帝国]]」の皇帝であるハプスブルク家が[[オーストリア大公|大公]]を兼ねる[[オーストリア大公領]]でしかなかった。したがって、作曲当時は「[[オーストリア皇帝]]」ではなく「ドイツ皇帝([[神聖ローマ皇帝]])」に捧げられたものである。
 
* 1806年以降も[[オーストリア帝国]]は1866年まで[[ドイツ連邦]]の議長国として、分裂ドイツ国家のリーダー役と見なされていた。
 
最近では同じ論法で、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を「史上偉大なドイツ人」として顕彰しようとしたドイツの[[マスメディア|マスコミ]]([[第2ドイツテレビ|ZDF]])が論議を巻き起こしており、議論は収まりそうにない(これに対しオーストリア人は「当時「ドイツ国」という国家もなかったのだから、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]は「ドイツ人」ではない」と反論した)。一方、オーストリア国内でもドイツ民族主義が急進しており、「祖国ドイツよ」と歌詞で強調されるこの歌を高唱する右翼学生も、ウィーンでは目につく。オーストリアが名実ともにドイツの中心的存在であった時期に作られたこの曲が、オーストリアを除外したドイツの国歌として現在も使用されていることは、かつての[[大ドイツ主義]]、ドイツ民族主義を微妙に揺さぶる要素をはらんでいる。
 
 
このほかに2018年時点、ドイツ政府の[[男女共同参画]]を担当している社会民主党系の女性[[ジェンダー]]活動家が、歌詞のうち男性を示す「父なる」の除外や「兄弟」の語の置き換えを提唱し、論争となっている。保守系政治家をはじめ、女性の[[アンゲラ・メルケル]]首相も反対を表明している。なおオーストリア国歌では2012年、「息子たち」に「娘たち」を付け加える歌詞変更が行われている<ref>独国歌の性差 論争に「父なる祖国」「兄弟」活動家が解消提案『[[読売新聞]]』朝刊2018年3月30日(国際面)</ref>。
 
 
== 賛美歌との関係 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2011年4月}}
 
メロディーは、[[1802年]]頃には英米で[[賛美歌]](チューン・ネーム:''Austria'')として採用されており、これはファラースレーベンによる愛国歌の作詞より前のことである。
 
 
メロディーの使用例として、[[日本基督教団]][[讃美歌 (1954年版)]]194番『[[栄えに満ちたる|さかえにみちたる]]』が挙げられる。原歌詞は「[[アメイジング・グレイス]]」で有名な[[ジョン・ニュートン]]による(1779年、歌詞初行: Glorious things of thee are spoken)。神が治める天の[[エルサレム]]を称える内容であり、皇帝賛歌とは関係がない。日本基督教団の最新の賛美歌集 ([[讃美歌21]]) には採用されなかったが、[[日本福音連盟]]新聖歌(2001年版)145番、[[救世軍]]歌(1997年版)362番・367番などでは引き続きこのメロディーが使用されている。
 
 
国歌と賛美歌が同じメロディーを用いているために生じた問題もある。
 
 
[[エホバの証人]]も、[[1905年]]から[[1938年]]頃までこの賛美歌を歌っていた(歌詞はジョン・ニュートンの詞のアレンジ版)。ナチスによる弾圧が強まった[[1933年]]の6月、ドイツの信者らは[[ベルリン]]で抗議集会を開催したが、開会の歌がこの賛美歌であった。これは後に、「ナチス懐柔のために国歌の曲を歌った」と批評家から指摘されることになった。エホバの証人側は「1905年以来賛美歌として歌ってきた曲が 後からドイツ国歌とされた」と反論している。さらに、批評家からは「教団のドイツ語版歌集に初掲載されたのは1928年で、ドイツ国歌となった1922年より後」と指摘されたが[http://www.sektenausstieg.net/sekten/26-zeugen-jehovas/staat/nationalsozialismus/4035-deutschlandlied-im-liederbuch?showall=1 (参照: ドイツ語サイト)]、しかし、ドイツ国歌はナチス台頭前から存在すること、当時エホバの証人の活動が政府の監視下にあったこと、当時の翻訳は[[タイプライター]]などを使って手作業でなされたことなどを考え、エホバの証人側はこうした非難は事実無根であると反論している。
 
 
== その他 ==
 
*イギリスのロック歌手[[ピート・ドハーティ]]が、2009年11月28日に[[ミュンヘン]]で生中継されていた音楽祭でドイツ国歌の1番を歌い、観客からやじを浴びせられ、さらに歌を止めに入った司会者にマイクを投げつける事件を起こした。その後、主催者側から謝罪を求められ、ドハーティは11月30日に謝罪した。また彼の広報担当者は、[[Sky News|スカイニュース]]のウェブサイトで、「ドイツの国歌の問題を認識していなかった」「感情を害したとしたら、深く謝罪する」と述べた<ref>[http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-12721220091201 P・ドハーティ、ナチス時代のドイツ国歌を歌い謝罪] [[ロイター|トムソン・ロイター]] 2009年12月1日、2017年8月23日閲覧</ref><ref>[http://www.asahi.com/showbiz/enews/RTR200912010087.html P・ドハーティ、ナチス時代のドイツ国歌を歌い謝罪] [[朝日新聞デジタル]] 2009年12月1日、2017年8月23日閲覧</ref>。
 
 
*2017年2月11日にアメリカのハワイで行われた[[フェドカップ]]にて、アメリカ対ドイツの試合前の斉唱で、ドイツ国歌の1番が歌われるハプニングがあり、米テニス協会がドイツチームやファンに対して謝罪した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3117531 チェコ対スペインは1-1のタイ、米独戦では国歌間違えるミス フェド杯] [[フランス通信社|AFPBB News]] 2017年2月12日、2017年6月30日閲覧</ref><ref>[https://www.cnn.co.jp/showbiz/35096548.html 米テニス協会が謝罪、試合前の国歌斉唱にナチス時代の歌詞] [[CNN|CNN.co.jp]] 2017年2月14日、2017年6月30日閲覧</ref>。
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[旗を高く掲げよ]](ホルスト・ヴェッセルの歌) - [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の党歌。ナチス・ドイツ時代には実質的に第二国歌として扱われていた。
 
* [[廃墟からの復活]] - [[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の国歌。
 
* [[山岳の国、大河の国]] - 現在のオーストリア共和国における国歌。
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wikisourcelang|de|Lied der Deutschen|ドイツ語版の歌詞}}
 
{{Wikisource|ドイツ国歌|日本語訳|歌詞}}
 
* [http://musi.ca/refer/deutsch3.MP3 Das Lied der Deutschen. All three stanzas. Sung by a women choir.] Source: Ingeb.org
 
* [https://www.bundesregierung.de/Content/DE/StatischeSeiten/Breg/die-nationalhymne-der-bundesrepublik-deutschland.html ドイツ連邦共和国連邦政府サイト内ドイツ国歌のページ(ドイツ語)] オーディオファイル付
 
* {{YouTube|zfzZdSxkzMw|Former German National Anthem}}{{de icon}}
 
 
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{{song-stub}}
 
 
{{ヨーロッパの国歌}}
 
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 +
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[[Category:国歌]]
 
[[Category:国歌]]

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ドイツの歌』(ドイツ語: Deutschlandlied)または『ドイツ人の歌』(Das Lied der Deutschen

ドイツ連邦共和国の国歌。1797年にハイドンが作曲したオーストリア皇帝賛歌を元に、ホフマン=フォン=ファレルスレーベンによる歌詞を付けたもの。同じ旋律がオーストリア帝国およびオーストリアハンガリー帝国の国歌としても使用された。ドイツの歌。




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