トゥール・ポワティエ間の戦い

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トゥール・ポワティエ間の戦い(トゥールポワティエかんのたたかい、フランス語: Bataille de Poitiersアラビア語: معركة بلاط الشهداء‎)は、732年フランス西部のトゥールポワティエの間で、フランク王国ウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いとも表記する。

フランク王国の内紛

メロヴィング家が創設したフランク王国では、伝統的な均分相続制が取られていたため、王位継承のたびに国土が分割(3分割・4分割)された。こうして王権は弱体化していき、それに反比例して、王に仕える宮宰(王宮の人事・経済を管理する役職)の力が強まっていった。7世紀後半のフランク王国は、2国(西北のネウストリアと北東のアウストラシア)に分かれており、それぞれの宮宰が争っていた。アウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン2世が勝利して、実権を掌握した。この内紛に乗じて、イベリア半島の西ゴート王国を征服したウマイヤ朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入を始めたのである。とりわけ720年からは大規模な侵入が始まり、ブルグント地方を支配下に置いた。

山脈を越えて迫るイスラム軍

ウマイヤ朝カリフヒシャームによってイベリア知事に任じられたアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーEnglish版は、ピレネー山脈の西端を越えて北上し、アキテーヌ公ウードを破ってボルドーを略奪し、破壊した後、軍を東に向けた。アル・ガーフィキーは、トゥールのサン・マルタン教会に莫大な財宝があることを知って、軍をロワール川流域に進めたのである。この知らせを受けたフランク王国の宮宰カール・マルテル(ピピン2世の子)は、事態の重大さを察知し、急遽軍勢を集めてパリからトゥールに急行した。

トゥールに入ったところ、イスラム軍は到着していなかったため、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、ここに布陣して互いに相手方の様子を伺っていたが、1週間目の正午から全面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。カールマルテルは日頃から厳格に兵の訓練をおこなっていた。このよく訓練されていた重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。これまで数々打ち勝ってきたイスラム重装騎兵による突撃戦術は、フランク軍の盾の壁に跳ね返され、アラブ兵はフランク軍の前に死体を重ねた。モサラベ年代記によると“北の人々は海のように動かすことができず、まるで氷の砦を作るように互いに堅固に立ち、強い打撃でアラブ人の首をたたき落とす”。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。アル・ガーフィキーの遺骸もあった。将軍を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。

新しく生まれた「封建制度」

この勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。その後も735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがマルテルにより撃退され撤退した。また、マルテルは、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。カール・マルテルの子のピピン3世は、こうしてローマ教皇の支持を得た。ピピン3世は751年、名ばかりのメロヴィング家の王を廃して、自ら王位に就いた。これに始まるのがカロリング朝である。

備考

SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類史最大の悲劇の一つ」と評している。

参考文献

関連項目