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'''テーベ'''({{lang-grc|Θῆβαι}}, ''Thēbai'')は[[古代エジプト]]の{{仮リンク|古代エジプトの地名の一覧|label=都市|en|list of ancient Egyptian sites}}。[[エジプト語|古代エジプト語]]では'''ワセト(Waset)'''と呼ばれた。この都市は[[地中海]]から800キロメートル南、[[ナイル川]]の東に位置する。都市の遺跡は現代の[[エジプト]]の{{仮リンク|エジプトの地名の一覧|label=都市|en|list of ancient Egyptian sites}}[[ルクソール]]の中に広がっている。テーベは上エジプト第4[[ノモス (エジプト)|州]](権杖のノモス Sceptre nome)の主要都市であり、[[エジプト新王国|新王国]]時代のエジプトの首都であった。テーベは貴重な鉱物資源と交易ルートがある[[ヌビア]]と東部砂漠に近接していた。この都市は{{仮リンク|テーベ三柱神|label=信仰の中心|en|Theban Triad}}であり、その全盛期にはエジプトで最も富裕な都市であった。テーベの市域には、[[カルナック]]と[[ルクソール神殿|ルクソール]]が本来立っていたナイル川東岸と、上流階級と王家の墓地と葬祭殿群による{{仮リンク|テーベのネクロポリス|label=ネクロポリス|en|Theban Necropolis}}がある西岸地区が含まれる。
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'''テーベ'''({{lang-grc|Θῆβαι}}, ''Thēbai'')
 
 
<!--{{anchor|Toponym|Etymology}}-->
 
 
 
== 地名学 ==
 
 
 
{|class="wikitable"
 
|{{hiero|''wꜣs.t''<br>権杖の都市(''City of the Scepter'')<ref>Adolf Erman, Hermann Grapow: ''Wörterbuch der ägyptischer Sprache.'' akademie Verlag, Berlin, 1971. p.259</ref>|<hiero>R19</hiero>|align=left|era=egypt}}
 
|{{hiero|''wꜣs.t''|<hiero>R19-t:niwt</hiero>|align=left|era=egypt}}
 
|{{hiero|''niw.t rs.t''<br>南の都市(''Southern City'')<ref>Wörterbuch, p.211</ref>|<hiero>niwt:t*Z1-M24-t</hiero>|align=left|era=egypt}}
 
|{{hiero|''iwnw-sm’''<br>南のヘリオポリス(''Heliopolis of the South'')<ref>Wörterbuch, pp.54,479</ref>|<hiero>O28-nw:niwt-Sma</hiero>|align=left|era=egypt}}
 
|}
 
テーベを指す[[エジプト語|古代エジプト語]]での元々の名前は'''ウォ・セ(Wo'se)'''、または'''ワセ(Wase)'''である。 語根になっている[[ウアス|ワス]](ウアス)とは、[[ファラオ]]の[[王笏]]のことであり、上端に動物の頭が付き、下端が二又に分かれた形状の長い杖である。
 
 
 
英語名のThebesは[[古代ギリシア語|ギリシア語]]形の'''テーバイ(Thebai)'''の[[ラテン語]]化された名前から来ている。そして{{仮リンク|ヘレニズム化|label=ギリシア語形|en|Hellenization}}のテーバイは、[[デモティック|デモティック・エジプト語]]の'''タ・ペ({{nowrap|Ta-pe}})'''から来ている。このタ・ペと言う名前は、元々テーベ市それ自体ではなく、ナイル東岸地域にある[[カルナック]]神殿群の名前であった(正式なエジプト語の表記は '''タ・オペト {{lang|egy|Ta-opet}}''')。
 
 
 
早くも[[ホメロス]]の『[[イリアス]]<ref>『イリアス』第4歌406行、第9歌383行</ref>』では、ギリシア人はエジプトのテーベを{{nowrap|'''百門のテーベ'''}}({{lang|grc|Θῆβαι ἑκατόμπυλοι}}<ref group="注釈">テーバイ・ヘカトンピュロイ。英語では'''Hundred-Gated Thebes'''または'''Hundred-Gated Thebes'''とも訳される.</ref>)と呼び、[[ギリシア]]の[[ボイオティア]]にある[[テーバイ|七門のテーベ]]({{lang|grc|Θῆβαι ἑπτάπυλοι}}<ref group=注釈>テーバイ・ヘプタピュロイ</ref>)と区別していた{{refn|group=注釈|[[パウサニアス]]はエジプトの都市との「繋がり」によって、ボイオティアのテーベにも紀元前5世紀から[[アメン]]神殿と偶像があったと記録している<ref>''Description of Greece'', IX.16 §1.</ref>。}}。
 
 
 
[[エジプト新王国|新王国]]の終焉頃から、テーベはエジプト人から{{nowrap|'''ネウト・アメン(Niwt-Imn)'''}}(アメンの街)と呼ばれるようになった。[[アメン]]は[[ムト]]、[[コンス]]と共に構成される{{仮リンク|テーベ三柱神|en|Theban Triad}}の主神である。ネウト・アメンの名前は[[聖書]]の『[[ナホム書]]』<ref>『ナホム書』3章8節</ref>では{{nowrap|「ノ・アーモン」(Nōʼ ʼĀmôn}} {{lang|he|נא אמון}})と言う形で現れ、恐らく『[[エゼキエル書]]』<ref>『エゼキエル書』30章14節–16節</ref>と『[[エレミヤ書]]』<ref>『エレミヤ書』46章25節</ref>で「ノ」(No {{lang|he|נא}})と言う名前で言及されている物も同様である。ギリシア人はアメン神を[[ゼウス#エジプト神話|ゼウス]](Zeus Ammon)であると解釈([[:en:interpretatio graeca|interpretatio graeca]])した。従って、ネウト・アメンと言う名前はギリシア語ではディオスポリス(ゼウスの街)と翻訳された。ディオスポリスと言う名前を持つ都市は他にも複数あったため、特に区別するため、メガレー・ディオスポリス(大ディオスポリス {{lang|grc|μεγάλη Διόσπολις}})と言う名前でも知られた。ラテン語形ではディオスポリス・マグナ({{lang-la|Diospolis Magna}})となる。ギリシア語の名前は[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によるエジプト征服によって、[[マケドニア人]]<ref group="注釈">マケドニア人はギリシア語を話す古代ギリシア人の一派。</ref>の支配者([[プトレマイオス朝]])がエジプトを統治するようになった後、広く使われるようになった。
 
 
 
== 諸元 ==
 
=== 地理 ===
 
テーベは[[上エジプト]]の中部、[[ナイル川デルタ]]から約800キロメートル南に位置し、ナイル川に沿って広がっていた。大部分はナイル川の大湾曲部に沿った{{仮リンク|ナイル渓谷|en|Nile Valley}}の[[沖積平野]]に建設された。そのため、自然の成り行きとしてテーベは北東から南西に向けて当時のナイル川の流路と並行に広がっていた<ref>{{Cite book |和書 |author=イアン・ショー |author2=ポール・ニコルソン |authorlink= |others=内田杉彦訳 |title=大英博物館 古代エジプト百科事典 |publisher=[[原書房]] |date=1997-05 |isbn=978-4-562-02922-8 |}}, p. 344 「テーベ」の項目に地図が記載されている。</ref>。テーベは93平方キロメートルの面積を持ち、その中には西部のテーベ丘陵地帯の一部が含まれていた。この丘陵地帯は標高420メートルの聖なる{{仮リンク|アル・クルン|en|al-Qurn}}を最高峰とする。東側には、[[東部砂漠]]の山岳地帯があり[[ワジ]](涸れ川)が谷に流れ出ていた。このようなワジの中でも重要な物はテーベ近郊の{{仮リンク|ワジ・ハンママト|en|Wadi Hammamat}}で、紅海沿岸へ向かう陸上交易路として使用された。
 
 
 
上エジプト第4[[ノモス (エジプト)|州]]には、テーベの近隣都市として、{{仮リンク|ゲベレイン|label=ペル・ハトホル|en|Gebelein}}、{{仮リンク|メダムド|label=マドゥ|en|Medamud}}、{{仮リンク|エル・トド|label=ジェルティ|en|El-Tod}}、{{仮リンク|ヘルモンティス|label=イウニ|en|Hermonthis}}、スメヌ(Sumenu)、イミオトル(Imiotru)のような街があった<ref>Wilkinson, T. (2013). "The Rise and Fall of Ancient Egypt". Erenow. Retrieved 2016-02-25, from http://www.erenow.com/ancient/theriseandfallofancientegypt/8.html</ref>。
 
 
 
=== 人口 ===
 
[[File:Thebes historical population.png|thumb|left|テーベの人口、前2000-前900]]
 
[[ジョージ・モデルスキー]]によれば、テーベには紀元前2000年に40,000人の住民がいた(対して、当時世界最大の都市であった[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]は60,000人とする)。紀元前1800年までに、メンフィスの人口は約30,000人に減少し、テーベはエジプトにおける当時最大の都市となった<ref>George Modelski, "[https://faculty.washington.edu/modelski/WCITI2.html Cities of the Ancient World: An Inventory (−3500 to −1200)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140519232105/https://faculty.washington.edu/modelski/WCITI2.html |date=2014年5月19日 }}"; see also [[list of largest cities throughout history]].</ref>。歴史学者{{仮リンク|イアン・モリス (歴史学者)|label=イアン・モリス|en|Ian Morris (historian)}}は紀元前1500年までに、テーベは世界最大の都市に成長し、その人口は75,000人となったと推定している。また、テーベは紀元前900年頃に(数ある都市の中でも)[[ニムルド]]に凌駕されるまでは、世界最大の都市であり続けたとも推定している<ref>Ian Morris, "[http://www.ianmorris.org/docs/social-development.pdf Social Development]"; see also [[list of largest cities throughout history]].</ref>。
 
 
 
=== 経済 ===
 
テーベの考古遺跡は、エジプト文明の昇った高みを印象付ける遺物を現代に残している。ギリシアの詩人[[ホメロス]]は、[[イリアス]]の第9歌(前8世紀頃)でテーバイの富を称えた。「...エジプトのテーベ - ここでは家々に莫大な富が蓄えられ、城門の数は百、それぞれの門からは二百の兵が戦車を列ねて出撃できるというが...」<ref group=注釈>訳注:訳文は{{Cite book |和書 |author=[[イリアス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[イリアス]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1992-9 |isbn=978-4-00-321021-5}}, p. 283 に依った。ただし松平訳にある「テバイ」は記事に合わせてテーベと変更してある。</ref>
 
 
 
=== 文化 ===
 
テーベでは毎年60以上の祝祭が催された。エドフのホルス神殿の壁面の浮彫と碑文(Edfu Geographical Text<ref group=注釈>訳注:適切な訳語が見当たらないためこの訳語を置くが、学術的に確立した訳語に置き換えるべきである。「神殿の壁面の浮彫と碑文」と言う訳語は、同様の物を指すと見られる{{Cite book |和書 |author=イアン・ショー |author2=ポール・ニコルソン |authorlink= |others=内田杉彦訳 |title=大英博物館 古代エジプト百科事典 |publisher=[[原書房]] |date=1997-05 |isbn=978-4-562-02922-8 |}}, p. 80 「エドフ」の項目に依った。</ref>)によれば、特に重要な祝祭として、{{仮リンク|オペト祭|en|Opet Festival}}、コイアク(Khoiak)、{{仮リンク|シェム|en|Shemu}}1月のフェスティバル、シェム2月のフェスティバルがあった。他に人気のある祝祭としてハロウィーンのような{{仮リンク|谷の美しき祭り|en|Beautiful Festival of the Valley}}があった{{Citation needed|date=February 2017}}。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古王国 ===
 
[[File:SFEC AEH -ThebesNecropolis-2010-FULL-Overview-039.jpg|thumb|テーベのネクロポリス]]
 
テーベには紀元前3200年頃から人が住んでいた<ref>[http://www.ancient-wisdom.co.uk/egyptkarnak.htm Karnak (Thebes), Egypt]. Ancient-wisdom.co.uk. Retrieved on 2013-07-29.</ref>。この都市には[[上エジプト]]第4[[ノモス (エジプト) |州]]の名前ワセトと同じ名前が与えられ、第4州の主都であった。[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]がファラオの王宮の役割を務めていたこの時点では、テーベはまだ小さな交易拠点であった。恐らく[[エジプト中王国|中王国]]時代に作られたカルナック神殿複合体の一部よりも古い建造物は何も現存していないが、[[エジプト第5王朝|第5王朝]]のファラオ、[[ニウセルラー・イニ|ニウセルラー]]像の下部が、カルナックで発見されている。[[エジプト第12王朝|第12王朝]]の王センウセルトによって捧げられた別の彫像は、ベルトにニウセルラーのカルトゥーシュがあるため、再利用されセンウセルトに名前を奪われたものかもしれない。カルナック王名表には[[エジプト第4王朝|第4]]-[[エジプト第6王朝|第6王朝]]の7人の王が記載されているため、少なくても古王国時代のテーベ地区には神殿があった可能性がある<ref name="auto">[http://www.touregypt.net/featurestories/thebes.htm Egypt: Thebes, A Feature Tour Egypt Story]. http://www.touregypt.net/. Retrieved on 2016-02-06.</ref>。
 
 
 
=== 第1中間期 ===
 
紀元前2160年までに、新たな王家([[エジプト第9王朝|第9王朝]]と[[エジプト第10王朝|第10王朝]])が{{仮リンク|ヘラクレオポリス・マグナ|en|Herakleopolis Magna}}を拠点に[[下エジプト]]と[[上エジプト]]の北部を統合した。これに対抗する王家([[エジプト第11王朝|第11王朝]])がテーベを拠点に上エジプトの残りの部分を支配した。
 
 
 
テーベの支配者は明らかにテーベ{{仮リンク|イリ・パト|label=公|en|iry-pat}}{{仮リンク|大アンテフ|en|Intef the Elder}}(アンテフA)の子孫である。彼の孫であると考えられる[[アンテフ1世]]は、テーベ周辺以外の地域へ支配を広げてはいなかったが、この家系で初めてファラオ位を部分的に主張した。
 
 
 
=== 中王国 ===
 
[[File:Intef I.jpg|thumbnail|140px|left|アンテフ1世の[[セレク]]。彼の死後メンチュヘテプ2世によって刻まれた]]
 
遂に紀元前2050年頃、[[アンテフ3世]]の息子[[メンチュヘテプ2世]](「メンチュ神は歓喜せり」の意)は軍事力でヘラクレオポリスを奪い、エジプトを再び一人の支配者の下に置いた。これによって、現在'''[[エジプト中王国|中王国]]'''として知られる時代が始まった。メンチュヘテプ2世は51年間統治し、[[ハトシェプスト女王葬祭殿|デイル・エル=バハリ]]に最初の葬祭殿を建設した。この葬祭殿はまず間違いなく、[[エジプト第18王朝|第18王朝]]時代に[[ハトシェプスト]]によって隣接して建てられた[[ハトシェプスト女王葬祭殿|葬祭殿]]に影響を与えている。これらの出来事の後、メンチュヘテプ2世の死から[[メンチュヘテプ4世]]までの20年弱という短期間で滅亡した。その経緯は謎である。
 
 
 
[[エジプト第12王朝|第12王朝]]の時代、[[アメンエムハト1世]]は玉座を北の{{仮リンク|イチ・タウィ|en|Itjtawy}}へ遷した。だがテーベは、その地方神[[アメン]]がエジプト全土で崇拝されるようになったため、宗教的中心地として繁栄を続けた。最も古いアメン神殿の遺跡は、[[センウセレト1世|センウセルト1世]]の時代のものである<ref name="auto"/>。テーベは既に中王国時代にはかなりの大きさの都市であった。カルナック神殿周辺の発掘で、中王国時代のテーベは格子状のレイアウトを持っていた事がわかっている。テーベは少なくても1キロメートルの長さと、50ヘクタールの面積を持っていた。二つの豪華な建物の遺跡も発見されている<ref>Barry J. Kemp: ''Ancient Egypt, Anatomy of a Civilization'', Second Edition, New York 2006, ISBN 9780415235501, pp. 225-229</ref>。
 
 
 
第12王朝の後半に入ると、[[カナン人]]の集団がナイルデルタ東部に居住し始めた。彼らはその後、[[エジプト第14王朝|第14王朝]]を[[アヴァリス]]で打ち立てた(前1805年頃、または前1710年頃)。こうして、アジア人達はデルタ地域の大部分に覇権を確立し、同時期に第12王朝を引き継いだ[[エジプト第13王朝|第13王朝]]の影響下からこれらの地域を切り離した。<ref>{{cite book |last= Wilkinson |first= Toby |authorlink= Toby Wilkinson |date=2011 |title= The Rise and Fall of Ancient Egypt |url=https://books.google.it/books?hl=it&id=P07rgiJjsk4C&q=nehesy#v=snippet&q=nehesy&f=false |location=New York |publisher= Random House |page=560 |isbn=9780747599494 }}, pp. 183-187</ref>
 
 
 
=== ヒクソス時代 ===
 
[[File:Beni Hassan (Lepsius, BH 3) 03.jpg|thumbnail|right|アジア系の人々(左)とエジプト人(右)。アジア人のリーダーは「異国の支配者」とラベルされている。(イブシャ)]]
 
 
 
アジア人の第二の波は[[ヒクソス]]と呼ばれている。この名前は彼等の統治者を指すエジプト語、'''ヘカ・カスウト'''('''Heqa-khasut''' 異国の支配者達)から来ている。彼らはエジプト内に移住し、アヴァリスのカナン人の権力中枢を制覇して[[エジプト第15王朝|第15王朝]]が始まった。ヒクソスの王達は[[エジプト第2中間期|第2中間期]](前1657年 - 前1549年)の速い段階で下エジプトの支配権を得た<ref>Wilkinson (2011), pp. 188 ff.</ref> 。ヒクソスがメンフィスを奪取した第13王朝の[[アイ (第13王朝のファラオ)|メンネフェルラー・アイ]]の治世中(前1700年頃)かそのすぐ後、第13王朝の支配者達はテーベへと引き、テーベを首都として再興した<ref name="bentor">Daphna Ben Tor: ''Sequences and chronology of Second Intermediate Period royal-name scarabs, based on excavated series from Egypt and the Levant'', in: ''The Second Intermediate Period (Thirteenth-Seventeenth Dynasties), Current Research, Future Prospects'' edited by Marcel Maree, Orientalia Lovaniensia Analecta, 192, 2010, p. 91</ref>。
 
 
 
ヒクソスが[[ナイル川デルタ|デルタ]]の南方からエジプト中部へと進むと、テーベ公たち(現在[[エジプト第16王朝|第16王朝]]として知られている)は、頑強に立ちふさがった。テーベ人たちは平和的に共存する取り決めをすることで、ヒクソスの更なる前進を防いだ。この取り決めの下、ヒクソスは[[ヌビア人]]と交易するために、テーベと{{仮リンク|ナイル川急湍|en|Cataracts of the Nile}}を越えて上流へと航海することができ、テーベ人は敵に出会う事なく彼らの家畜をデルタへと運んだ。
 
 
 
その状態はヒクソスの支配者[[アペピ1世|アポフィス]]([[エジプト第15王朝|第15王朝]])が、テーベの[[セケンエンラー・タア]]を侮辱するまで続いた。まもなく、テーベの軍隊がヒクソスの支配地へ進軍した。この戦いでタアは戦死し、彼の息子[[カーメス]]が軍を引き継いだ。更にカーメスの死後、その兄弟[[イアフメス1世]]はヒクソスの首都[[アヴァリス]]を占領するまで攻撃を続けた。イアフメス1世はエジプトとレヴァントからヒクソスを追い出し、かつて彼等が支配していた土地を取り戻した<ref>Margaret Bunson, "[http://www.e-reading.club/bookreader.php/142072/Bunson_-_Encyclopedia_of_ancient_Egypt.pdf Encyclopedia of Ancient Egypt]"</ref>。
 
 
 
=== 新王国とテーベの最盛期 ===
 
[[File:Statues of Memnon at Thebes during the flood-David Roberts.jpg|thumbnail|right|洪水の中の[[メムノンの巨像]]、デイヴィッド・ロバーツ(David Roberts)作]]
 
[[イアフメス1世]]は統一されたエジプトの新たな時代を築き、テーベはその首都となった。首都としてのテーベの遺跡は大部分[[エジプト第18王朝|第18王朝]]([[エジプト新王国|新王国]])時代のものである。
 
 
 
テーベはまた、新たに設立された専門の{{仮リンク|役人|en|civil service}}達の中枢となった。王室の書庫で会計報告と報告書が記入されるようになったため、このような専門の書記と学者のような専門の{{仮リンク|役人|en|civil service}}には大きな需要があった<ref>Tyldesley, Joyce. ''Egypt's Golden Empire: The Age of the New Kingdom'', pp. 18–19. Headline Book Publishing Ltd., 2001.</ref>。この都市ではヌビアにおける植民地統治の管理者とするため、特に選ばれた少数の[[ヌビア]]人がエジプト文化によって再教育された<ref>Draper, R. (2008). "The Black Pharaohs". National Geographic Magazine. Retrieved 2016-02-24, from http://ngm.nationalgeographic.com/</ref>。
 
 
 
[[File:Temple of amun karnak.jpg|thumbnail|right|[[カルナック]]神殿の見取り図]]
 
エジプトは再び安定し、宗教とその中心地は栄え、テーベ以上の存在はなかった。例えば[[アメンホテプ3世|アメンヘテプ3世]]は、外国からの貢物によって得た莫大な富をの多くをアメン神殿につぎ込んだ<ref name="auto1">Dorman, P. (2015). "Thebes|Ancient city, Egypt". Encyclopædia Britannica. Retrieved 2016-02-07, from http://www.britannica.com/place/Thebes-ancient-Egypt</ref>。テーベの神アメンは国家の主神となり、全ての建築プロジェクトが、アメンとファラオ自身の栄光を称揚し、最後に建てられた物を凌駕することを意図された<ref>Mark, J. (2009). "Thebes". Ancient History Encyclopedia. Retrieved 2016-02-06, from http://www.ancient.eu/Thebes_(Egypt)/</ref>。[[トトメス1世]](在位:前1506年 - 前1493年)は、崇拝を集めた[[カルナック]]神殿の初めての大規模拡張を始めた。そののち、カルナック神殿の大規模拡張は新王国時代を通して継続された。
 
 
 
女王[[ハトシェプスト]](在位:前1479年 - 前1458年)は交易網を再整備(主にテーベの[[紅海]]の港{{仮リンク|アル=クサイル (エジプト)|label=アル・クサイル|en|El Qoseir}}及び[[エイラート|エイラト]]と[[プント国]]との間の紅海交易)し、テーベを経済的に繁栄させた。彼女の後継者[[トトメス3世]]は、[[ミタンニ]]までの地から得られた膨大な戦利品テーベにもたらした。第18王朝は彼の息子[[アメンホテプ3世|アメンヘテプ3世]]の治世(前1388年 - 前1350年)に最盛期を迎えた。彼はアメン神殿を飾り立てると言う1点を除き、テーベにおける建築活動を空前の規模で行った。アメンヘテプ3世はテーベの西岸で、巨大な{{仮リンク|アメンヘテプ3世の葬祭殿|label=葬祭殿|en|Mortuary Temple of Amenhotep III}}と、364ヘクタールの面積を持つ人造湖に面した[[マルカタ]]王宮を建設した。他に彼によってテーベに建てられた建物には、[[ルクソール神殿]]とカルナックに繋がるスフィンクスの街道がある。
 
 
 
アメンヘテプ3世の息子[[アメンホテプ4世|アクエンアテン]](前1351年 - 前1334年)の束の間の治世の間、テーベは受難の時を迎えた。テーベの王宮は放棄され、アメン神に対する信仰は禁止された。首都はテーベとメンフィスの間に作られた新たな都市[[アマルナ]](アケトアテン)に遷った。アクエンアテンの死後、彼の息子[[ツタンカーメン]](トゥトアンクアメン)はメンフィスに戻った<ref>J. van Dijk: <nowiki>''</nowiki>''The Amarna Period and the later New Kingdom'', in: I. Shaw: ''The Oxford History of Ancient Egypt'', Oxford 2000, ISBN 0-19-815034-2, p. 290</ref>。しかし、テーベでの建築活動への関心を新たにし、栄光ある神殿や社が更に作り出された<ref name="auto1"/>。
 
[[File:John Frederick Lewis - The Ramesseum at Thebes - Google Art Project.jpg|thumbnail|right|テーベのラメセウム(''The Ramesseum at Thebes'')。ジョン・フレデリック・ルイス(John Frederick Lewis)作]]
 
 
 
[[エジプト第19王朝|第19王朝]]では、政府は[[ナイル川デルタ|デルタ地帯]]に遷ったが、テーベは[[セティ1世]](前1290年 - 前1279年)と[[ラムセス2世]](前1279年 - 前1213年)の治世を通して、その財力と威信を維持した。彼等はまだ一年のうちの一部の期間は毎年テーベに住んでいた<ref name="auto1"/>。ラムセス2世はテーベで広範な建築プロジェクトを実施した。その中には巨大な像とオベリスク、[[カルナック]]神殿の三番目の周壁、[[ルクソール神殿]]の増築、及び彼の巨大な葬祭殿[[ラメセウム]]の建設が含まれる。これらの建設資金は、上エジプトから集めた税を集中させた巨大な[[穀倉|穀倉群]]<ref>Wilkinson, T. (2013). "The Rise and Fall of Ancient Egypt". Erenow. Retrieved 2016-02-25, from http://www.erenow.com/ancient/theriseandfallofancientegypt/18.html</ref>(ラメセウムの周囲に作られた)及び、ヌビアと東部砂漠への金採掘の遠征<ref>Wilkinson, T. (2013). "The Rise and Fall of Ancient Egypt". Erenow. Retrieved 2016-02-25, from http://www.erenow.com/ancient/theriseandfallofancientegypt/20.html</ref>によって賄われた。ラムセスの66年の長きにわたる統治の下で、エジプトとテーベはかつての最盛期と同等かそれ以上の圧倒的な繁栄を迎えた<ref>[http://www.touregypt.net/featurestories/treaty.htm Egypt: Ramses the Great, The Pharaoh Who Made Peace with his Enemies And the First Peace Treaty in History]. http://www.touregypt.net/. Retrieved on 2016-02-06.</ref>。
 
[[File:SFEC-2010-MEDINET HABU-061.JPG|thumbnail|130px|left|{{仮リンク|メディネト・ハブ (神殿)|label=メディネト・ハブ|en|Medinet Habu (temple)}}]]
 
テーベは[[20世紀]]初めまで良好な状態で保存されていた。{{仮リンク|ハリス・パピルス|label=大ハリス・パピルス|en|Papyrus Harris I}}は[[ラムセス3世]](在位:前1187年 - 前1156年)が86,486人の奴隷と広大な土地をアメン神殿に寄進したと記している。ラムセス3世は[[海の民]]と[[リビア人]]の部族{{仮リンク|メシュウェシュ|en|Meshwesh}}を含む全ての臣民から貢物を受けた。しかしエジプトは全体としては財政的な問題を抱えており、この問題はテーベの村落{{仮リンク|デイル・エル=メディナ|en|Deir el-Medina}}にも及んでいた。ラムセス3世の治世第25年には、デイル・エル=メディナの労働者は給与不払いに対してストライキをはじめ、全ての社会階級に不安が広がった。ラムセス3世の後宮では大逆の事件が発生したが、結果としてこの反逆行為はテーベの官吏と女性を含む多くの人々の死につながった<ref>[http://www.greatdreams.com/thebes/ramiii.htm RAMESSES III: THE LAST GREAT PHARAOH]. http://www.greatdreams.com/. Retrieved on 2016-02-06.</ref>。
 
 
 
ラムセス王朝([[エジプト第20王朝|第20王朝]])の後半、テーベは衰退を始めた。政府は重大な財政不安に陥ったように見える。[[ラムセス9世]]の治世(前1129年 - 前1111年)中、紀元前1114年頃に、テーベ東岸の市長によるテーベ西岸の同僚の告発が行われ、その後行われた西岸のネクロポリスにある王墓群で行われた略奪に関する一連の調査によって、権力の腐敗の証拠が明らかにされた。
 
 
 
盗み出された王たちのミイラは、点々と場所を移され、最後はアメン神官によって[[ハトシェプスト女王葬祭殿|デイル・エル=バハリ]]の墓穴と、[[アメンホテプ2世|アメンヘテプ2世]]の墓に保管された(1881年と1898年に、この二つの隠し場所がそれぞれ発見されたことは、現代の考古学における大発見であった。)。このようなテーベにおける不手際は、社会不安に繋がった<ref name="auto1"/>。
 
 
 
=== 第3中間期 ===
 
[[エジプト第3中間期|第3中間期]]の間、地方の支配権は[[アメン大司祭国家|アメン大司祭]]の手の中にどんどん収まっていった。アメン大司祭はデルタ地帯を支配していた[[エジプト第21王朝|第21王朝]]、[[エジプト第22王朝|第22王朝]]の王達と等しい立ち位置となり、エジプトの南部で絶対的な権力を及ぼした。相互の婚姻と、養子縁組によってアメン大司祭とタニスに拠点を置くデルタ地帯の王達の結びつきは強まり、タニスの王女達はテーベでアメンの神妻に就任し、大きな権力を振るった。第3中間期の後期にはテーベの政治的影響力は後退した<ref name="auto"/>。
 
[[File:Karnak Taharkasäule 01.JPG|thumb|150px|right|[[タハルカ]]王の柱。元の高さに復元された。]]
 
紀元前750年頃、[[クシュ人]](ヌビア人)達はテーベと上エジプトに対する影響力を増大させていた。かつてのエジプトの植民地[[クシュ王国|クシュ]]は、帝国へと成長していた。紀元前721年、クシュ人の王{{仮リンク|シャバカ|en|Shabaka}}は、{{仮リンク|オソルコン4世|en|Osorkon IV}}([[エジプト第22王朝|第22王朝]]、{{仮リンク|ペフチャウアバステト|en|Peftjauawybast}}([[エジプト第23王朝|第23王朝]])、{{仮リンク|バクエンレネフ|en|Bakenranef}}([[エジプト第24王朝]])の連合軍を打ち破り、再びエジプトを統一した。彼の治世では全エジプト、特に彼が王国の首都としたテーベ市で相当な量の建築活動が見られた。
 
 
 
[[カルナック]]では、シャバカは[[プスケント]](上下エジプト王冠)を身に着けた自分の王像をピンクの花崗岩で造らせた。{{仮リンク|タハルカ|en|Taharqa}}王は、アッシリア人がエジプトに対して戦いを仕掛ける前に、テーベとヌビアにおける多くの有名な建設事業を完了させた(例えば、カルナックのキオスク)。
 
 
 
=== 末期王朝時代 ===
 
紀元前667年、[[アッシリア]]王[[アッシュールバニパル]]の軍隊がエジプトを攻撃した。タハルカは下エジプトを放棄し、テーベへと逃亡した。彼の死の3年後、甥の{{仮リンク|タヌトアメン|en|Tantamani}}はテーベを押さえ、下エジプトに侵攻してメンフィスを包囲した。しかし紀元前663年にエジプトを再征服する試みを放棄し、南方へと引いた<ref>{{Cite book |和書 |author=ジャック・フィネガン |authorlink=:en:Jack Finegan |others=三笠宮崇仁訳 |title=考古学から見た古代オリエント史 |publisher=岩波書店 |date=1983-12 |isbn=978-4-00-000787-0 |ref=フィネガン 1983 }} pp. 379-380</ref>。アッシリア人はタヌトアメンを追撃し、テーベを占領した。テーベ市の名はアッシリアが占領し破壊した長い都市のリストに加えられた。アッシュールバニパルは以下のように書いている。
 
 
 
<blockquote>
 
この都市の全てを、アッシュール神とイシュタル神の加護によって余は征服した。銀、金、貴石、宮殿の財宝の全て、高価な布、貴重なリネン、素晴らしい馬、男女の監督者、エレクトラムでできた二つの素晴らしいオベリスク、2,500タラントの重さの神殿の扉の数々、余はこの品々を彼等の拠点から剥ぎ取り、アッシリアへと持ち帰った。エジプトとクシュに対し、余は槍を取り余の力を示した。両手を満たして、余は恙なくニネヴェへと帰還した{{citation needed|reason=where is this quote from?  It needs a citation.|date=July 2016}}。
 
</blockquote>
 
 
 
この後テーベはかつての政治的意義を取り戻すことはなかったが、重要な宗教的中心としては残っていた。アッシリアはエジプトの王に[[プサムテク1世]](プサメティコス1世)を据え、彼は紀元前656年にテーベを手に収めた。そして彼の娘{{仮リンク|ニトクリス1世|en|Nitocris I}}(ネイトイケルティ1世)をアメンの神妻の後継者として連れてきた。紀元前525年、ペルシアの[[カンビュセス2世]]がエジプトに侵攻しファラオとなった。エジプトは[[アケメネス朝]]の[[サトラップ|サトラペイア]](州)として、その従属王国となった。
 
 
 
=== グレコ・ローマ時代 ===
 
[[File:Temple of Deir el-Medina 18.JPG|thumb|150px|right|[[ハトホル]]神殿のレリーフ。デイル・エル=メディナ([[プトレマイオス朝]]時代の建設)]]
 
テーベと北部の中央権力の良好な関係は、エジプトのファラオが[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の征服によって現地人からギリシア人に置き換わった時に終わった。アレクサンドロス大王は{{仮リンク|オペト祭|en|Opet Festival}}の最中にテーベを訪れた。この訪問は歓迎されたにも関わらず、テーベは反対勢力の中心地となった。紀元前3世紀の終わりに、ヌビアに出自を持つ可能性がある{{仮リンク|ハロンノフリス|en|Hugronaphor}}(ホルウェンネフェル)は上エジプトでプトレマイオス朝に対する反乱を起こした。ハロンノフリスの後継者{{仮リンク|アンクマキス|en|Ankhmakis}}(カオンノフリス、アンクウェンネフェルとも)は紀元前185年まで上エジプトの大部分の支配を維持していた。この反乱はテーベの神官団によって支えられていた。紀元前185年に反乱を鎮圧した後、[[プトレマイオス5世]]は反乱に加担した神官達を許した。プトレマイオス5世はテーベの神官達の支持を必要としていたからである。
 
 
 
半世紀後、テーベで再び反乱がおこり、紀元前132年にハルシエセが王位に昇った。ハルシエセは資金調達のためテーベの王の金庫を押さえたが、翌年には逃走した。紀元前91年には別の反乱が発生した。翌年にはテーベは制圧され、都市は瓦礫の山となった<ref>[http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/the_destruction_of_thebes.htm The fall of Thebes to the Assyrians and its decline thereafter]. http://www.reshafim.org.il/. Retrieved on 2016-02-06.</ref>。
 
 
 
[[ローマ帝国|ローマ]]による支配(前30年 - 349年)の間、テーベに残存した住民達のコミュニティはルクソール神殿のピュロン<ref group=注釈>訳注:原文 pylon この場合はエジプトの神殿に見られる特別巨大な塔門の事。詳細については http://www.kamit.jp/01_introdctn/5_mattan/mattan.htm を参照</ref>の周りに集まった。テーベはローマの[[テバイス]](テーバイス)属州の一部となった。後にこの属州はテーベ市を中心とする'''テバイス・スペリオル'''と、{{仮リンク|プトレマイス・ヘルミオウ|en|Ptolemais Hermiou}}市を中心とする'''テバイス・インフェリオル'''に分割された。ローマがヌビアへの軍事遠征をしている間、[[ローマ軍団]]はルクソール神殿に本営を置いた<ref>Dorman, P. (2015). "Luxor". Encyclopædia Britannica. Retrieved 2016-02-27, from http://www.britannica.com/place/Luxor</ref>。テーベでの建設活動が突然終わることはなかったが、その後のテーベは衰退を続けた。西暦1世紀、[[ストラボン]]はテーベが単なる一村落に転落したと述べている<ref name="auto1"/>。
 
 
 
== 主要な遺跡 ==
 
'''東テーベ:'''[[File:Karnak temple 4.jpg|thumb|ラムヘッドのスフィンクスが配置されたカルナック神殿のメインエントランス]][[File:Egypt.LuxorTemple.05.jpg|thumb|ルクソール神殿のオベリスクとピュロン。わずかにオレンジが生育している。]]
 
* 古代に建設された地区
 
* '''[[カルナック神殿|アメン大神殿]](カルナック神殿)''' (古代エジプト語:タ・オペト Ta-opet)。この神殿はそれまでに建設された2番目に大きな宗教建造物であり、テーベの守護神[[アメン]]の信仰の根拠地であった。また、強大な[[アメン大司祭国家|アメン大司祭]]の居館でもあった。エジプトの多くの神殿との違いは、それが建設された期間である。この神殿は中王国に建設が始まってから2000年以上増改築が続けられた。この神殿の主な特徴は10ある巨大なピュロン(塔門)と、大列柱室、聖なる湖、付属神殿、数多くの社と複数の[[オベリスク]]である。この神殿は[[古代エジプトの歴史]]の大部分において最も重要な神殿であった。
 
* '''[[ルクソール神殿]]'''('''イペト・レスィト''')は、テーベにある他の神殿と異なり、神や王の葬祭に捧げられていない。そうではなく、王権の再生に捧げられていた。この神殿では多くのエジプトの[[ファラオ]]達の戴冠の場であったかもしれない。この神殿はオペト祭の中心となる場所であり、{{仮リンク|テーベ三柱神|en|Theban Triad}}の聖なる[[バーク]]がカルナックからルクソール神殿まで旅をして、ファラオの戴冠式の神聖さを強調した。
 
* {{仮リンク|コンス神殿|en|Temple of Khonsu}}
 
* {{仮リンク|ムト神殿|en|Precinct of Mut}}
 
* {{仮リンク|メンチュの聖域|en|Precinct of Montu}}
 
* スフィンクスの街道
 
 
 
'''西テーベ:'''[[File:Luxor Temple of Hatshepsut A.jpg|thumb|陽光に照らされたハトシェプスト葬祭殿]][[File:Grabeingang-Tal der Könige-Aegypten.jpg|thumb|王家の谷にある墓の入口]]
 
* {{仮リンク|デイル・エル=メディナ|en|Deir el-Medina}}村
 
* {{仮リンク|マルカタ|en|Malkata}}王宮複合体
 
* {{仮リンク|ラメセウム|en|Ramesseum}}
 
* {{仮リンク|アメンヘテプ3世の葬祭殿|en|Mortuary Temple of Amenhotep III}}
 
* [[ハトシェプスト女王葬祭殿|ハトシェプスト女王の葬祭殿]]
 
* {{仮リンク|セティ1世の葬祭殿|en|Mortuary Temple of Seti I}}
 
* {{仮リンク|ラムセス3世の葬祭殿|en|Mortuary Temple of Ramesses III}}
 
* [[王家の谷]]
 
* [[王妃の谷]]
 
* {{仮リンク|貴族達の墓 (ルクソール)|label=貴族達の墓|en|Tombs of the Nobles (Luxor)}}
 
 
 
== 世界文化遺産 ==
 
遺跡群は「'''古代都市テーベとその墓地遺跡'''」として[[1979年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。古代エジプトの偉大な成果である二つの{{仮リンク|神殿 (エジプト)|label=神殿|en|Egyptian temple}}([[ルクソール神殿]]と[[カルナック神殿]])及び、[[王家の谷]]と[[王妃の谷]]がその中に含まれる。
 
 
 
== 登録基準 ==
 
{{世界遺産基準|1|3|6}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist|group=注釈}}
 
{{clear}}
 
 
 
== 出典 ==
 
{{reflist|30em}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons category|Thebes}}
 
{{commons category|Theban Necropolis}}
 
*[http://whc.unesco.org/en/list/87/ More information on ancient Thebes, a World Cultural Heritage site]
 
*[http://www.thebanmappingproject.com/ Theban Mapping Project]
 
*[http://archive.cyark.org/ancient-thebes-intro Ramesseum/Ancient Thebes Digital Media Archive (photos, laser scans, panoramas)], data from an Egyptian [[Supreme Council of Antiquities]]/[[CyArk]] research partnership
 
*[http://www.international.icomos.org/risk/2001/egyp2001.htm ICOMOS Heritage at Risk 2001/2002]
 
  
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古代エジプトの都市。ギリシア名テバイ。カイロの南方約 674km,ナイル川中流の両岸にまたがり,現在の[[ルクソール]]にあたる。テーベは古王国時代まではあまり目立たない農村であったが,その末期から勢力をもちはじめ,第 11王朝 (前 2133頃~1991) にテーベ侯[[メントゥホテプ2世]]がエジプトを再統一してからにわかに注目された。アジアから侵入した[[ヒクソス]]をテーベ出身の第 17王朝が追放したため,第 18王朝には首都となった。以後第 19,第 20王朝と新王国時代 (前 1567~1320) の首都として繁栄。この時代の遺構としてナイル東岸では,北のカルナックにアモン大神殿 ([[カルナック神殿]] ) ,モントゥ,コンス,ムトの諸神殿が,南のルクソールにはアモンをまつった[[ルクソール神殿]]がある。またナイル西岸には,[[デル・エル・バハリ神殿]],ハトシェプスト女王葬祭殿をはじめ,セティ1世,ラムセス2世,ラムセス3世らの王たちの葬祭殿があり,さらに墓地としては「[[王陵の谷]]」「[[王妃の谷]]」「貴族の墓」がある。 1979年世界遺産の文化遺産に登録。
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2018/10/9/ (火) 11:05時点における版


世界遺産 古代都市テーベと
その墓地遺跡
エジプト
英名 Ancient Thebes with its Necropolis
仏名 Thèbes antique et sa nécropole
登録区分 文化遺産
登録基準 (1),(3),(6)
登録年 1979年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
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テーベ古代ギリシア語: Θῆβαι, Thēbai

古代エジプトの都市。ギリシア名テバイ。カイロの南方約 674km,ナイル川中流の両岸にまたがり,現在のルクソールにあたる。テーベは古王国時代まではあまり目立たない農村であったが,その末期から勢力をもちはじめ,第 11王朝 (前 2133頃~1991) にテーベ侯メントゥホテプ2世がエジプトを再統一してからにわかに注目された。アジアから侵入したヒクソスをテーベ出身の第 17王朝が追放したため,第 18王朝には首都となった。以後第 19,第 20王朝と新王国時代 (前 1567~1320) の首都として繁栄。この時代の遺構としてナイル東岸では,北のカルナックにアモン大神殿 (カルナック神殿 ) ,モントゥ,コンス,ムトの諸神殿が,南のルクソールにはアモンをまつったルクソール神殿がある。またナイル西岸には,デル・エル・バハリ神殿,ハトシェプスト女王葬祭殿をはじめ,セティ1世,ラムセス2世,ラムセス3世らの王たちの葬祭殿があり,さらに墓地としては「王陵の谷」「王妃の谷」「貴族の墓」がある。 1979年世界遺産の文化遺産に登録。

座標: 東経32度36分37秒北緯25.72056度 東経32.61028度25.72056; 32.61028




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