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{{Infobox 事件・事故
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{{テンプレート:20180815sk}}
|名称 = テルアビブ空港乱射事件
 
|正式名称 =
 
|画像 = Airport Tel Aviv Bengurion.jpg
 
|脚注 = 現在の空港ターミナル
 
|場所 = {{ISR}} [[テルアビブ]]
 
|緯度度=|緯度分=|緯度秒=
 
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|日付 = [[1972年]][[5月30日]]
 
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|死亡 = 26
 
|負傷 = 73
 
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|遺族会 =
 
|被害者の会 =
 
|管轄 =
 
}}
 
'''テルアビブ空港乱射事件'''(テルアビブくうこうらんしゃじけん)は、[[1972年]][[5月30日]]に[[イスラエル]]の[[テルアビブ]]近郊都市[[ロード_(イスラエル)|ロッド]]に所在する[[ベン・グリオン国際空港|ロッド国際空港(現・ベン・グリオン国際空港)]]で発生した、後に「[[日本赤軍]]」を名乗る[[日本人]][[極左]][[過激派]]組織(以下、「日本赤軍」と表記)による[[テロリズム|テロ]]事件。別名は'''ロッド空港乱射事件'''。また、[[英語]]では「Lod Airport massacre(ロッド空港の[[虐殺]])」と呼ばれる。
 
 
 
== 事件の経緯 ==
 
=== サベナ機ハイジャックの失敗 ===
 
1972年[[5月8日]]に、[[パレスチナ国|パレスチナ]][[過激派]][[テロリズム|テロリスト]]4人が、[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]発テルアビブ行きの[[サベナ航空]]の[[ボーイング707]]型機を[[ハイジャック]]してロッド国際空港に着陸させ、[[逮捕]]されている仲間317人の解放をイスラエル政府に要求した([[サベナ航空572便ハイジャック事件]])。
 
 
 
しかし、イスラエル政府はテロリストによる要求を拒否し、ハイジャックしているテロリストを制圧し、[[犯人]]の内2人は射殺され、残る2人も逮捕された。93人の人質の解放に成功したものの、乗客1人が銃撃戦で死亡した。
 
 
 
=== PFLPと日本赤軍の協力 ===
 
そこで、[[パレスチナ解放人民戦線]](PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、[[アラブ人]]ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは日本赤軍の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。
 
 
 
なお事件発生時点では、まだ[[正犯|首謀者]]たちの組織名称は流動的であり「日本赤軍」とは名乗っていない([[日本赤軍#結成|当該記事]]参照)ので、「日本赤軍の前史に属する事件」ともいえる。
 
 
 
== 襲撃 ==
 
[[File:Ben Gurion International Airport P5310007.JPG|thumb|220px|right|現在の空港ターミナル内部]]
 
犯行を実行したのは、日本赤軍幹部の[[奥平剛士]](当時27歳)と、[[京都大学]]の学生だった安田安之(当時25歳)、[[鹿児島大学]]の学生だった[[岡本公三]](当時25歳)の3名である<ref name="takayama">{{Cite web|author=高山文彦|authorlink=高山文彦 (作家)|url=http://g2.kodansha.co.jp/?p=169&page=4|title=奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉|work=G2|pages=p. 4|publisher=[[講談社]]|accessdate=2010-03-01}}</ref>。
 
 
 
[[フランス]]の[[パリ]]発[[ローマ]]経由の[[エールフランス]]機でロッド国際空港に着いた3人は、[[スーツケース]]から取り出した[[Vz 58]][[自動小銃]]を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射し<ref name="takayama"/>、さらに、ターミナル前に乗客を乗せて駐機していた[[エル・アル航空]]の[[旅客機]]に向けて[[手榴弾]]を2発投げつけた。
 
 
 
この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され<ref>{{Cite book|和書|editor=[[警察庁]]編|title=昭和48年 警察白書|origyear=1973|url=http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s48index.html
 
|accessdate=2010-03-01|publisher=警察庁|chapter=第7章 公安の維持|chapterurl=http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480700.html}}</ref>、73人が重軽傷を負った。死傷者の約8割が巡礼目的で訪れた[[プエルトリコ]]人であった<ref name="takayama"/>。死者のうち17人がプエルトリコ人([[アメリカ合衆国|アメリカ]]国籍)、8人が[[イスラエル人]]、1人は[[カナダ]]人であった。犠牲者の中には、後に[[イスラエルの大統領]]となる[[エフライム・カツィール]]の兄で著名な科学者だった[[:en:Aharon Katzir|アーロン・カツィール]]も含まれている。
 
 
 
その後、岡本は警備隊に取り押さえられ、奥平と安田は死亡した。2人の死について、「奥平は警備隊の反撃で射殺。安田は手榴弾で[[自爆]]した」として中東の過激派の間では英雄化されたが<ref>立花隆『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』講談社、2004年</ref><ref>フランソワ=ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』創元社、2013</ref>、詳しくは判明していない<ref>{{Cite web|author=高山文彦|url=http://g2.kodansha.co.jp/?p=169&page=6|title=奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉|work=G2|pages=p. 6|publisher=講談社|accessdate=2010-03-01}}</ref><ref>{{Cite web|author=高山文彦|url=http://g2.kodansha.co.jp/?p=169&page=7|title=奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉|work=G2|pages=p. 7|publisher=講談社|accessdate=2010-03-01}}</ref>。
 
 
 
なお、計画に携わっていたとされる檜森孝雄の手記によると「当初の計画では空港の[[管制塔]]を襲撃する予定だった」としているが、[[警備]]が厳重な管制塔を3人だけでどのように襲撃するつもりだったのかなど具体的な計画は不明である<ref>{{Cite web|author=高山文彦|url=http://g2.kodansha.co.jp/?p=169&page=9|title=奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉|work=G2|pages=p. 9|publisher=講談社|accessdate=2010-03-01}}</ref>。
 
 
 
== 事件後 ==
 
=== 赤軍への国際的非難と日本での影響 ===
 
当時は、テロリストが無差別に一般[[市民]]を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による[[民間人]]への無差別[[虐殺]]には国際的な非難が起こった。一方でイスラエルと敵対するパレスチナの一部の民衆の間で実行犯たちは英雄視され、PFLPは日本赤軍の[[重信房子]]幹部と共同声明を出し、事件発生の日を「『日本赤軍』結成の日」と位置づける<!--公式な改名は1974年以降だが、1972年5月30日付に遡って「共産主義者同盟赤軍派」内の「アラブ委員会」ではなく別組織となったことの宣言か?-->など、これに対抗する態度を取り続けた。
 
 
 
また、[[アラブ世界|アラブ]]-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない[[日本人]]であったことも、世界に衝撃を与えた。[[日本国政府|日本政府]]は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った<ref>『死へのイデオロギー』パトリシア・スタインホフ、岩波書店、2003年(平成15年)10月16日、p1-p52</ref>。
 
 
 
日本国内でも、その年の3月に発覚した[[連合赤軍]]による[[山岳ベース事件]]に続く[[極左]]団体の凶行として、日本国民に強く印象に残り、凶行を繰り広げる極左[[過激派]]と日本国民との隔絶がさらに広がる事件となった。また、この事件において、[[武器]]を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、この事件以降、搭乗時の手荷物検査が世界的に強化されたほか、空港ターミナル内における警備も世界各国で強化されることとなった。
 
 
 
事件は、パレスチナ・ゲリラを始めとするイスラム武装組織の戦術にも大きな影響を与えたと言われる。岡本らが初めから成功の望みがない自殺的攻撃を仕掛けた事は[[イスラム教]]の教義で自殺を禁じられていた当時のアラブ人にとっては衝撃的であり、以降の[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]が[[自爆テロ]]を[[ジハード]]であると解釈するのに影響を与えたとの説もある<ref>[[立花隆]]「自爆テロの研究」 [[文藝春秋]] 2001年11月特別号 103-104頁</ref>。なおこのテロ事件を日本赤軍側は'''リッダ闘争'''と呼ぶ。リッダ(Lydda)はロッドの非ヘブライ語での名称である。
 
 
 
=== 犯人のその後 ===
 
事件後唯一生存した岡本公三はイスラエルで[[終身刑]]で受刑した後に[[捕虜]]交換で[[保釈|釈放]]され、現在はイスラエルと敵対する勢力の庇護を受け[[レバノン]]郊外の[[アパート]]に居住している。
 
{{main|岡本公三}}
 
 
 
=== 北朝鮮の関与 ===
 
[[2009年]]にはイスラエルの[[人権団体]]「シュラト・ハディン」が、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)が日本赤軍への支援を行ったとしてプエルトリコの連邦裁判所に対し、北朝鮮を相手取り遺族への総額3000万ドルの補償を要求する[[訴訟]]を起こした。同年12月に予備審理が行われたと[[報道]]されている<ref>{{Cite news|url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100214-OYT1T00788.htm|title = 赤軍乱射事件で北朝鮮提訴…イスラエル人権団体|newspaper = [[読売新聞]]|date = 2010-02-14|accessdate = 2010-03-01}}</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[日本赤軍事件]]
 
 
 
{{デフォルトソート:てるあひふくうこうらんしやしけん}}
 
[[Category:日本赤軍事件]]
 
[[Category:イスラエルのテロリズム]]
 
[[Category:テロ事件]]
 
[[Category:イスラエルの事件]]
 
[[Category:日本のテロリズム]]
 
[[Category:日本における反ユダヤ主義]]
 
[[Category:日本における反シオニズム]]
 
[[Category:無差別殺人事件]]
 
[[Category:銃乱射事件]]
 
[[Category:日本人の国外犯罪]]
 
[[Category:日以関係]]
 
[[Category:日本・パレスチナ関係]]
 
[[Category:北朝鮮・パレスチナ関係]]
 
[[Category:1972年のイスラエル]]
 
[[Category:中央地区 (イスラエル)]]
 
[[Category:1972年5月]]
 

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