チャールズ1世 (イングランド王)

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チャールズ1世Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)は、イングランドスコットランドアイルランドの王(在位:1625 - 1649年[1])。

生涯

幼年期

スコットランド王ジェームズ6世(当時はイングランド王位継承以前、後のイングランド王ジェームズ1世)の次男として、スコットランドのダンファームリンに生まれた。

話し始めることと歩き始めることが非常に遅かった。父ジェームズ1世も歩き始めたのが5歳以降とも言われている。チャールズの舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除、金属製の長靴様の拘束具(補強具としての使用を意図した)の使用の提案を医師団がしたが、結局乳母の反対により、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動いたり話したりできるようになった。

ヘンリー・フレデリック・ステュアートが亡くなったため、1612年コーンウォール公ロスシー公に、1616年プリンス・オブ・ウェールズに叙位された。

王位継承

1625年3月、父の死去に伴い王位を継承した。6月にはフランスアンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚した。しかし、カトリック信徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。

チャールズ1世は父同様に王権神授説を信奉し、議会と対立した。1628年、議会に「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズは、一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。

清教徒革命へ

ファイル:The Execution of Charles I.jpg
チャールズ1世の処刑

この間チャールズは、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードの助言で国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。ロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会長期議会)。1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦ピューリタン革命)。

内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、王党派が各地で打ち破られた。1646年5月、チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。一旦は脱出したものの、1648年11月に再び議会軍に投降した。

1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿バンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズは斬首された。 彼の最期の言葉は、「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")であった。(30 January, 1649).

王位継承の家系図

テンプレート:ステュアート朝の家系図

脚注

  1. 木村靖二, 岸本美緒, 小松久男 『詳説世界史 改訂版』 山川出版社、2017年。ISBN 978-4-634-70034-5。

関連項目

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