ソポクレス

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ソポクレースギリシャ語: Σοφοκλῆς, Sophoklēs, ギリシア語発音: [so.pʰo.klɛ̂ːs]; 紀元前497/6年ごろ – 406/5年ごろの冬[1]

 古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人。アテナイの富裕な武器製造業者の子として生まれる。少年時代から読み書き,算術,体育をはじめ,高名な音楽家ランプロスに竪琴(リユラ)を習うなど,当時の最高の教育を受けた。アテナイが大ペルシャ艦隊を破った記念すべき日,すなわちサラミス海戦(前480)勝利の祝典の折に,美貌(びぼう)と楽才を認められた15歳のソポクレスは,裸身に油を塗り竪琴を奏して,犠牲式の舞踏団を先導したという。28歳で悲劇の競演に初登場し,早くも優勝した。以後90歳で没するまで旺盛(おうせい)な創作活動を続け,生涯に約30回競演参加作家に選ばれた。うち24回は1等すなわち優勝,残りはすべて2等を獲得,3等にとどまったことはなかった。

 また,声望ある一市民として,いくどか国政に深く関わった。アテナイは,前477年対ペルシャ防衛機構として結成されたデロス同盟の盟主となり,以後めざましく国力を伸長させるが,ソポクレスは前443〔442〕年同盟の財務官を務めた。前441〔440〕年には10人の将軍の一人に選ばれて,同盟国サモスの反乱を鎮めるために出征した。この前後15年間がペリクレス時代と呼ばれるアテナイの最盛期であったが,前431年に勃発(ぼつぱつ)したペロポネソス戦争を境に盛運は傾き,以後27年にわたるスパルタとの抗争に国力を疲弊させた。その間ソポクレスはさらに2回将軍職に就いたともいわれるが,疑う学者も多い。前413年ごろの先議委員就任は確実といえる。すなわちその前々年,アテナイはスパルタに対する劣勢挽回(ばんかい)を期してシチリア島に遠征を試みたが,完敗を喫したうえ同盟国の多くを失った。加えて民主政体は崩壊に瀕(ひん)するなど,内政外交ともに未曾有(みぞう)の危機に立ち至った。ここに市民の総意を受けて10名の高齢市民による国策審議会が設けられ,ソポクレスもその一員に選ばれたのである。彼の死の翌々年(前404),アテナイがスパルタの軍門にくだり,エーゲ海に君臨した栄光の歴史を閉じることを思い合わせるならば,祖国の隆盛とともに人と成り,壮年の日々を国運の絶頂期に過ごし,晩年にその落日を見たソポクレスは,文字どおりアテナイの黄金の世紀の申し子であった。

 全部で123編と伝えられる作品は,後述の7悲劇を除いて散逸したが,断片などからうかがえるところでは,詩人は好んでトロイア伝説圏に材を求めた様子である。これに属す叙事詩群には,ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』が含まれていたが,ソポクレスは語彙(ごい),事件構成,人物造形など多くをホメロスから学んだ。また思想性や問題意識に偏らず,人間が世に生きる姿をありのままに,深い愛を込めて描いたホメロスの魅力を,豊潤高雅な筆に受け継いだソポクレスは,ホメロスの最も良き弟子といわれた。ギリシャ人の理想の原型であったホメロスの英雄像が,ソポクレスによってアテナイの土壌に移植され,民主主義の時代の空気を存分に吸って新しい花を咲かせたともいえよう。後世の伝記作家は,「ホメロスは叙事詩のソポクレスであり,ソポクレスは悲劇のホメロスである」という評言を伝えている。

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  1. Sommerstein (2002), p. 41.