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{{政治家
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[[ファイル:セシル・ローズ.jpg|サムネイル]]
|各国語表記 = {{Lang|en|Cecil Rhodes}}
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'''セシル・ジョン・ローズ'''(Cecil John Rhodes、[[1853年]][[7月5日]] - [[1902年]][[3月26日]]
|画像 = Cecil Rhodes - Project Gutenberg eText 16600.jpg
 
|画像説明 = セシル・ジョン・ローズ
 
|国略称 = {{GBR1801}}({{ZAF1875}})
 
|生年月日 = [[1853年]][[7月5日]]
 
|出生地 = {{GBR1801}}、{{ENG}}、[[ハートフォードシャー]]
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1853|7|5|1902|3|26}}
 
|死没地 = {{GBR1801}}、{{ZAF1875}}、[[ムイゼンベルグ]]
 
|出身校 =
 
|前職 = ビジネスマン
 
|現職 =
 
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|国旗 = ケープ植民地
 
|職名 = ケープ植民地政府第6代首相
 
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|就任日 = 1890年
 
|退任日 = 1896年
 
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|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
 
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}}
 
[[Image:Rhodes.Africa.jpg|thumb|200px|right|[[ケープタウン]]から[[カイロ]]へ鉄道用の電線を敷設するローズ。ローズの名前と[[ロドス島の巨像]]を引っ掛けた同時代の諷刺画]]
 
'''セシル・ジョン・ローズ'''(Cecil John Rhodes、[[1853年]][[7月5日]] - [[1902年]][[3月26日]])は、[[イギリス帝国]]の[[植民地]][[政治家]]。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て植民地首相となり、占領地に自分の名([[ローデシア]])を冠した<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA-152855 ローズ]コトバンク</ref>。
 
  
==「アフリカのナポレオン」と呼ばれた男==
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イギリス出身の南アフリカの政治家。19世紀イギリス帝国史上有数の植民地開拓者の一人。牧師 F.ローズの 5男として生まれた。1870年南アフリカに移住。オックスフォード大学を卒業したのち,1881年[[ケープ植民地]]議会議員となった。1889年のちにローズの名にちなんでローデシア(今日の[[ザンビア]][[ジンバブエ]])と名づけられた地方の開発のため,[[ビクトリア]]女王から[[イギリス南アフリカ会社]]設立の特許状を付与された。その間,[[ロスチャイルド]]家の資金援助を得てダイヤモンド鉱山の買収,併合を強行し,また[[トランスバール]]の金鉱の併合にも成功して巨富をなした([[デビアス・コンソリデーテッド・マインズ]])。1890年ケープ植民地の首相に就任。在任中は教育,農業振興,先住民政策,鉄道の開発などに力を尽くしたが,外政面ではトランスバール共和国をケープ植民地を中心とする南アフリカ連邦に併合する目的で,[[ジェームソン侵攻事件]]として知られる非常手段をとったため,1896年首相辞任を余儀なくされた。その後一個人としてローデシアに赴き,同地の開発に専念した。ケープ植民地で死亡。遺言により財産の大半 600万ポンドは各種公共事業に寄付された。重要なものの一つにオックスフォード大学[[ローズ奨学制度]]がある。
ローズは地主出身の[[牧師]]の子に生まれたが、生まれつきの病弱を心配した父は、気候のよい[[南アフリカ]]に行っているローズの兄のもとに彼を送った。健康を取り戻したローズは、兄とともに[[キンバリー]][[坑夫]]として[[つるはし]]を振るった。
 
  
彼は[[ダイアモンド]]を掘り当てて作った資金で、ダイアモンドの採掘権への投機を行ったり、採掘場への[[揚水ポンプ]]の貸し出しで儲け、[[ロンドン]]の[[ユダヤ人]][[財閥]][[ロスチャイルド]]の[[融資]]もとりつけて、[[1880年]]、[[デビアス|デ・ビアス]][[鉱業]]会社を設立した。この会社は、ほぼ全キンバリーのダイアモンド[[鉱山]]をその支配下に置き、全世界のダイアモンド産額の9割を独占するに至った。彼はデ・ビアス鉱業会社を通じて[[トランスヴァール共和国]]の産金業にも進出して、世界最大の産金王にのし上がるとともに、南アフリカの[[鉄道]]・[[電信]]・[[新聞]]業をもその支配下に入れるまでになった。
 
 
ローズはこの経済力をバックに政界へも進出し、[[1880年]]、[[ケープ植民地]]議会の議員、[[1884年]]にケープ植民地政府の[[財務相]]になり、[[1990年|90年]]には遂に[[首相]]にまで上り詰めた。この間彼は、[[ンデベレ人]]の[[首長]]に武器弾薬を提供し、それと引き換えに[[鉱山]]の利権を獲得したり、[[1889年]]、イギリス本国政府の要人を買収して、征服地に対する[[警察権]]・[[統治権]]をもつ[[イギリス南アフリカ会社]]設立の[[特許 (行政法)|特許]]を獲得したりしている。[[1894年]]、ローズはこの会社を盾に、遠征軍をンデベレ人や[[ショナ人]]の居住区に派遣して、イギリス本国の4倍半にも相当する広大な土地を奪って南アフリカ会社の統治下に置いた。会社はこの地を、征服者ローズの名にちなんで[[ローデシア]]と命名した。
 
 
ローズは首相として数々の政策を行ったが、それらは全て、[[大英帝国]]の下に南アフリカに広大な統一された植民地、[[南アフリカ連邦]]を建設することを意図して行われたものであった。彼はまた、[[ケープ地方|ケープ]]と[[カイロ]]間を電信と[[ケープ・カイロ鉄道|鉄道]]で結ぶ計画(いわゆる[[3C政策]]の一環)を推進した。ローズはまさに南アフリカの[[政治]]・[[経済]]の実権を一手に握り、その威風は帝王を思わせ「'''[[アフリカ]]の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]'''」と呼ばれた。
 
 
「神は[[世界地図]]が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。できることなら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と著書のなかで豪語した。
 
 
== ローズの失脚 ==
 
その得意の絶頂が、1つの事件で一挙に崩れることになった。彼は勢いに乗じて、[[トランスヴァール共和国]]を一気に征服、併合する計画を立てた。トランスヴァール内のイギリス人に密かに武器弾薬を送り込み、反乱を起こさせ、その支援を口実にジェームソンの指揮する会社軍を派遣して、一挙に併合してしまおうというものであった。しかし、反乱を起こすことに失敗し、ジェームソン率いる南アフリカ会社の軍隊が国境を越えたとの知らせに、[[ボーア人]]は直ちに反撃を開始して会社軍を包囲し、全軍を捕虜にしてしまった。この事件は、ボーア人の怒りを買うとともに、広く世界中の世論の非難を浴びることとなった。この世論に押されてイギリス政府もローズを助けなかったため、ローズは[[1896年]]、首相と南アフリカ会社を辞めざるをえなくなり、完全に失脚した。
 
 
イギリスは世論の沈静化を待って、この2つのボーア人の国に対する本格的な戦争である第二次[[ボーア戦争]]([[南アフリカ戦争]]・[[1899年]]~[[1902年]])を開始した。ローズは、開戦直後にキンバリーでボーア人に包囲され、4か月後に救出された。この間[[健康]]を悪化させ、一旦[[ヨーロッパ]]へ帰った後再度[[ケープタウン]]へ戻り、戦争終結2ヶ月前に[[ムイゼンバーグ]]にて48歳で死去した。[[マトボ]]にある墓地World's View Lookoutに埋葬されている。
 
 
生涯独身を通した彼は、600万ポンドに及ぶ膨大な遺産の大半を[[オックスフォード大学]]に寄贈した。大学では[[ローズ奨学制度]](ローズ奨励基金)として、現在も毎年多くの学生に奨学金を提供し続けている。
 
 
==ローデシアの歩んだ道==
 
[[1964年]]、北ローデシアは[[ザンビア]]として独立した。一方、南ローデシアでは、白人が[[1965年]]に一方的に独立を宣言して白人支配を維持した。しかし、当時人口610万人中、白人はわずかに27万人に過ぎなかった。この白人少数支配に対して黒人は、かつてこの地に繁栄していた黒人王国[[グレート・ジンバブエ遺跡|ジンバブエ]]の名を冠した組織を結成して独立闘争を続け、ついに[[1980年]]、独立を達成し「[[ジンバブエ|ジンバブエ共和国]]」を樹立した。
 
 
{{see also|ローデシア}}
 
 
== 人物 ==
 
父親の生き写しのような性格であったと言われている。
 
 
生涯独身であり、女性との関わりが極端に少なかったため、ローズは[[同性愛者]]であったという噂があり、彼を扱った映画『[[セシル・ローズ―その生涯と伝説―]]』などでそのように描かれている。ただし、真偽は不明。
 
 
ローズは熱心な[[帝国主義]]者であるとともに[[人種差別]]主義者でもあった。彼は[[アングロサクソン]]こそ最も優れた人種であり、アングロサクソンにより地球全体が支配されることが人類の幸福に繋がると信じて疑わなかった。
 
 
成功する以前は、イギリス(アングロサクソン)による世界支配を目指す[[秘密結社]]の設立を公言していたが、ビジネスの多忙もあり、そのような組織を作ることはなかった。しかし、あまりに莫大な資産を残して亡くなったため(また独身であったため)、「セシル・ローズの秘密結社がある」という陰謀論が絶えない。また、ローズは[[フリーメイソン]]であり、死ぬまで会員であり続けた。
 
 
晩年、[[ポーランド]]の大[[貴族]][[カタジナ・ラジヴィウ]][[公爵]]夫人から執拗な[[ストーキング]]を受けたことがある。
 
 
===現在の評価===
 
しかし、近年になってローズの人種差別主義への反発の声が南アフリカ及び祖国イギリスで高まっている。[[2015年]][[12月17日]]、オックスフォード大学の[[オリオル・カレッジ (オックスフォード大学)|オリオル・カレッジ]]が学生の要求を受けてローズを顕彰する銘板を校舎の壁から撤去することを決め、銅像についても撤去する意向を明らかにした。それと共に同カレッジはローズの人種差別主義を非難する声明を発表、アフリカ系の学生への奨学金を充実するなど反差別活動に力を入れる方針を明らかにした<ref name="digest">[http://www.news-digest.co.uk/news/news/uk-news/14500-2015-12-22.html 人種差別の象徴と決別-英・南ア、大学のセシル・ローズ像撤去]、[[ニュースダイジェスト]]・英国発ニュース、2015年[[12月22日]]、同年[[12月25日]]閲覧</ref>。
 
 
南アフリカでも、[[アパルトヘイト]]に代表されるアフリカの[[植民地主義]]の象徴として黒人を中心にローズへの非難の声が高まっており、[[2015年]]4月に[[ケープタウン大学]]がローズの銅像を撤去したのを皮切りに、南アフリカ各地にあるローズの銅像や記念碑を撤去しようという動きが広がりつつある<ref name="digest" />。
 
 
旧ローデシアであるジンバブエでは、マトボに葬られたローズの亡骸を掘り返してイギリスに返還しようとする反植民地主義的な動きも起きるも、歴史的意義を重視する地方政府や[[ロバート・ムガベ]]大統領が反対したことによって阻止された<ref>Laing, Aislinn (22 February 2013). "Robert Mugabe blocks Cecil John Rhodes Exhumation". The Telegraph. </ref>。
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
==関連項目==
 
*[[ローズ大学]]
 
*[[ローズ奨学金]]
 
*[[ローズ奨学生]]
 
*[[イギリス帝国]]
 
*[[偏見教室]](『[[空飛ぶモンティ・パイソン]]』より)
 
*[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ウェールズ公妃ダイアナ]] - 高祖父、曾祖父が南アメリカを支配
 
 
==外部リンク==
 
{{Commonscat|Cecil_Rhodes | セシル・ローズ}}
 
* [http://wsafrica.free.fr/s-CR01.htm Biographie sommaire (peu favorable)]
 
* [http://www.stortfordhistory.co.uk/guide13/cecil_rhodes.html Biographie de Cecil Rhodes]
 
* [http://www.rhodeshouse.ox.ac.uk/ La bourse Rhodes]
 
* {{Find A Grave|2313}}
 
* [http://fxthegate.com/2007/10/10.html ヨーロッパの財閥と企業グループ ロスチャイルド家の興亡 セシル・ローズ]
 
 
{{Normdaten}}
 
 
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{{DEFAULTSORT:ろおす せしる}}  
 
[[Category:イギリスの政治家]]
 
[[Category:イギリスの政治家]]

2019/6/19/ (水) 12:31時点における最新版

セシル・ローズ.jpg

セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日

イギリス出身の南アフリカの政治家。19世紀イギリス帝国史上有数の植民地開拓者の一人。牧師 F.ローズの 5男として生まれた。1870年南アフリカに移住。オックスフォード大学を卒業したのち,1881年ケープ植民地議会議員となった。1889年のちにローズの名にちなんでローデシア(今日のザンビアジンバブエ)と名づけられた地方の開発のため,ビクトリア女王からイギリス南アフリカ会社設立の特許状を付与された。その間,ロスチャイルド家の資金援助を得てダイヤモンド鉱山の買収,併合を強行し,またトランスバールの金鉱の併合にも成功して巨富をなした(デビアス・コンソリデーテッド・マインズ)。1890年ケープ植民地の首相に就任。在任中は教育,農業振興,先住民政策,鉄道の開発などに力を尽くしたが,外政面ではトランスバール共和国をケープ植民地を中心とする南アフリカ連邦に併合する目的で,ジェームソン侵攻事件として知られる非常手段をとったため,1896年首相辞任を余儀なくされた。その後一個人としてローデシアに赴き,同地の開発に専念した。ケープ植民地で死亡。遺言により財産の大半 600万ポンドは各種公共事業に寄付された。重要なものの一つにオックスフォード大学ローズ奨学制度がある。