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'''スレイマン1世'''({{La|'''Kanuni Sultan Süleyman I'''}}, {{Rtl翻字併記|ota|سلطان سليمان اول|Sultān Suleimān-i evvel}}, {{lang-tr| I. Süleyman}}、 [[1494年]][[11月6日]] - [[1566年]][[9月7日]])は、[[オスマン帝国]]の第10代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](在位:[[1520年]] - 1566年)。9代皇帝[[セリム1世]]の子。
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'''スレイマン1世'''({{La|'''Kanuni Sultan Süleyman I'''}}, {{Rtl翻字併記|ota|سلطان سليمان اول|Sultān Suleimān-i evvel}}, {{lang-tr| I. Süleyman}}、 [[1494年]][[11月6日]] - [[1566年]][[9月7日]]
  
46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。[[英語]]では「'''壮麗帝'''(the Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、日本ではしばしば'''スレイマン大帝'''と称される。[[トルコ]]では法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「'''立法帝'''(カーヌーニー、 {{Rtl翻字併記|ota|القانونى|al‐Qānūnī}}, {{lang-tr|Kanuni}})」のあだ名で知られている。
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オスマン帝国第 10代スルタン (在位 1520~66) 。[[セリム1世]]の子。母はクリム・ハンの息女ハフサ。父の在位中は小アジア西部の[[サンジャク・ベイ]]職にあった。スレイマンの治世中,帝国は絶頂期を迎え,東はイラン国境,西はウィーン近くまで領土を拡大し,北アフリカのアルジェリア,南アラビアのイエメンを含む大帝国となった。彼は[[ウィーン包囲]] (29) を含めて,前後 13回に及ぶ親征を企て,[[モハーチの戦い]] (26) でハンガリーを征服し,[[プレベザの海戦]] (38) で地中海の制海権を握った。国内では戦利品の流入で商工業が発達したが,1535年フランスに[[カピチュレーション]] (通商特権) を与え,将来に災いの種をまいた。カーヌーニー (立法者) と呼ばれたように大法典を集大成し,諸般の制度,機構を整備した。
 
 
名前のスレイマン(Süleyman)とは、[[ユダヤ教]]や[[キリスト教]]と共に[[イスラム教]]でも聖典とされる[[旧約聖書]]に記録された[[古代イスラエル]]の王、「[[ソロモン|ソロモン王]]」のアラビア語形である「スライマーン」({{lang-ar|سليمان}}, Sulaymān)の[[トルコ語]]発音である。
 
 
 
またオスマン帝国の歴史において「スレイマン」の名を持つ最初の皇帝であることから「スレイマン1世」と呼ばれるが、まれに[[バヤズィト1世]]が[[アンカラの戦い]]で[[ティムール]]に敗れた直後に[[エディルネ]]で君臨したバヤズィト1世の長男[[スレイマン・チェレビー]]を1世に数えることがあるので、その場合は「スレイマン2世」と呼ばれることもある。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 周辺領域の鎮定 ===
 
1494年11月6日、セリム1世の息子として[[アナトリア半島]]北東の[[トラブゾン]]で誕生。[[マムルーク朝]]を滅ぼして[[歴史的シリア|シリア]]、[[エジプト]]の[[アラブ]]地域を初めて征服した父が不在の間は所領としてあてがわれた[[マニサ]]の軍事長官を務めていたが、父が在位わずか8年で1520年に没すると首都[[イスタンブール]]へ帰還・即位した。前回と前々回のスルタン死去の際には熾烈な後継者争いがあり、後継者になれなかった王子やその子らがほとんど全員処刑されるといった経緯があったが、セリム1世死去の際にはそうした争いはなく、スムーズにスレイマン1世が即位した。スレイマンの他に男児の記録はないことから、スレイマンが唯一の後継者候補だった可能性が示唆される。
 
 
 
若くして[[東ヨーロッパ]]から[[中東]]にまたがる帝国の支配者となったスレイマン1世は即位の同年にシリア知事の反乱に直面、翌[[1521年]]にアナトリア中央で[[イラン]]の[[サファヴィー朝]]に通じた部族の反乱も勃発したが、スレイマン1世はいずれも1521年の内に鎮圧して足元を固め、ヨーロッパ方面に向けた遠征を計画した<ref>三橋、P23 - P26、P32 - P33、クロー、P35 - P45、林、P118 - P121。</ref>。
 
 
 
=== ヨーロッパ遠征 ===
 
1521年からは外征に乗り出し、[[ハンガリー王国]]から[[ベオグラード]]を奪い取り、翌[[1522年]]の[[ロドス包囲戦 (1522年)|ロドス包囲戦]]で[[聖ヨハネ騎士団]]から[[ロドス島]]を奪うなど活発な外征を行った。この2ヶ所は曽祖父の[[メフメト2世]]が最後まで征服できなかったところであり、これにより帝国内におけるスレイマン1世の支持、評価は著しく向上した。また、ロドス島の征服によって3大陸にまたがるオスマン帝国領土内の海上交通のとげが取り除かれ、領土内の航行が円滑となった。
 
 
 
ロドス島征服の直後に、スルタン即位前からの寵臣で義弟の[[パルガル・イブラヒム・パシャ|イブラヒム・パシャ]]を大宰相に抜擢しているが、ベオグラード、ロドス島ともに、若いスルタンの実力を国内向けの演出する効果を狙ったイブラヒム・パシャの進言によるものとも言われている。オスマン帝国はこの時点でもまだ支配が安定せず、[[1522年]]から[[1524年]]にかけてエジプトで反乱が起こったが、イブラヒム・パシャは反乱を鎮圧、[[1525年]]に総督に赴任してエジプトの支配を安定させ、[[1526年]]・[[1527年]]にアナトリア南部で親サファヴィー派の部族が起こした反乱も収拾させ、軍事・行政共に有能な手腕を示し、スレイマン1世の信任を深めていった。
 
 
 
[[ファイル:Hunername 257b.jpg|thumb|right|200px|[[第一次ウィーン包囲]](『ヒュネル・ナーメ』より)]]
 
1526年には、[[モハーチの戦い]]でハンガリー王[[ラヨシュ2世]]を討ち取りハンガリー中央部を平定し、[[ハプスブルク家]]の[[ハプスブルク帝国|オーストリア大公国]]と国境を接した。スレイマン1世はラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン帝国に服属した[[トランシルヴァニア]]の領主[[サポヤイ・ヤーノシュ]]を推し、傀儡としてハンガリーの間接統治を狙った。しかし、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の[[神聖ローマ皇帝]]兼[[スペイン]]王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の弟[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]](後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)と対立すると、[[1529年]]に[[第一次ウィーン包囲]]を敢行し、ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。
 
 
 
スレイマン1世は[[1532年]]にも再びオーストリア遠征を敢行したが、どちらも戦端を開こうとせず和睦の話し合いが行われ、[[1533年]]にフェルディナントの使者とイブラヒム・パシャとの協議の結果和睦が成立した([[コンスタンティノープル条約 (1533年)|コンスタンティノープル条約]])。内容はヤーノシュの王位を認め、オスマン帝国に貢納金を支払うことが確約されたため、ハンガリーに対するオスマン帝国の優位が明言され、スレイマン1世はしばらくヨーロッパ遠征は控える代わりに東方遠征へ向かった<ref>三橋、P33 - P64、クロー、P49 - P120、永田、P240 - P241、トレモリエール、P83 - P84、林、P121 - P128。</ref>。
 
 
 
=== 東方遠征 ===
 
オスマン帝国にとって東のサファヴィー朝は油断ならない相手だった。何故ならば、アナトリア半島でオスマン帝国の支配に反発した土着勢力がサファヴィー朝と結びつく危険性が常に存在していたからである。しかし、アナトリア半島とイランの中間にある[[クルディスタン]]で領主間の抗争が起こると、スレイマン1世はこれをきっかけに1533年に東征へ向かい、先遣隊を率いたイブラヒム・パシャは[[アゼルバイジャン]]を制圧した。スレイマン1世は翌[[1534年]]に[[イラク]]へ出陣、[[バグダード]]を占領しイブラヒム・パシャと合流、[[1535年]]にアゼルバイジャンの首都[[タブリーズ]]に到着したが、サファヴィー朝の軍勢を見かけることなくイスタンブールへ帰還した。
 
 
 
遠征でバグダードを占領して南イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、東方の国境を安定させたスレイマン1世だったが、[[1548年]]の2回目の遠征と、[[1553年]]から[[1554年]]にかけて行われた3回目の遠征は[[タフマースブ1世]]率いるサファヴィー朝が騎兵を中心とする軍の機動力とゲリラ・焦土作戦で抵抗したため、オスマン帝国も成果を上げられず、最終的に[[1555年]]に[[アマスィヤの講和]]で和睦して国境線を取り決め、イラク領有は確定したが(アゼルバイジャンはサファヴィー朝が奪回)、サファヴィー朝の完全征服はできなかった。
 
 
 
なお、最初の遠征終了後の[[1536年]]にこの遠征の責任者だったイブラヒム・パシャは処刑されたが、決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマン1世の不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためともいわれているが、いずれも伝聞に過ぎず真相は不明。また、1536年を境にスレイマン1世の大規模な領土拡張政策は終わりを告げ、以後は周辺国との交戦と重要拠点の確保、制海権や内政重視に目を向けていった<ref>三橋、P90 - P95、クロー、P120 - P132、P204 - P216、永田、P242、トレモリエール、P84、林、P136 - P143。</ref>
 
 
 
=== 制海権の確保 ===
 
海軍の育成にも力を注ぎ、1533年に[[アルジェ]]を本拠地とする[[海賊]]勢力の[[バルバロス・ハイレッディン]]が帰順すると彼を海軍提督=[[パシャ]]とした。彼の帰順により[[アルジェリア]]もオスマン帝国領となり、西地中海に足がかりを得ると共に、海軍力も大幅に増強された。彼の率いる[[オスマン帝国海軍]]は[[1538年]]の[[プレヴェザの海戦]]で[[スペイン]]・[[ヴェネツィア]]・[[教皇|ローマ教皇]]の連合艦隊を破り、[[地中海]]の制海権を握った。同年に[[モルドバ]]へ遠征し従属国[[クリミア・ハン国]]との通路を確保、[[黒海]]も事実上支配下に収めた。[[ピーリー・レイース]]が海軍で名を挙げるのもスレイマン1世の時代である。
 
 
 
また、[[1540年]]にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、フェルディナントが和睦を破り[[ブダ]]を占拠したため、[[1541年]]に再びハンガリーへ遠征して平定、[[トランシルヴァニア]]も属国とした上でハンガリーを分割することに決め、フェルディナントは北と西の領土([[王領ハンガリー]])、ヤーノシュの遺児[[ヤーノシュ・ジグモンド]]はハンガリー東部([[東ハンガリー王国]])、オスマン帝国は中央と南([[オスマン帝国領ハンガリー]])を領有した。以後も小競り合いは続いたが、[[1547年]]に和睦しフェルディナントがオスマン帝国に貢納金を支払い、それぞれの領地は認められた。
 
 
 
ハプスブルク家に対抗するため[[1535年]]に[[フランス王国|フランス]]国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟を結び、[[1543年]]には、オスマン艦隊とフランス艦隊が共同で[[ニース]]を攻略した。さらに、ハプスブルク家と対立していたドイツの[[ルーテル教会|ルター派]]をフランソワ1世を通じて間接的に援助したとも言われ、フランソワ1世とその後継者[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]がルター派諸侯に送った資金の大部分はオスマン帝国から供出されていたようである。後にスレイマン1世は、ハプスブルク家の支配下であった[[ネーデルラント]]のルター派に対しても援助を申し出た。
 
 
 
この他、[[紅海]]と[[インド洋]]に進出している[[ポルトガル王国|ポルトガル]]とも対立、1538年に遠くインド北西部の[[グジャラート・スルターン朝]](ポルトガルと対立していた)からの救援要請に応えインド洋に艦隊を派遣したり、[[アラビア半島]]に進出して[[イエメン]]の[[アデン]]を獲得、対岸も占領してポルトガルを牽制しようと図ったり、[[1552年]]に[[ペルシア湾]]の港を奪い取りポルトガルを妨害しようとしたが、いずれも海上政策では上手であるポルトガルの前に失敗している。ただしイエメンは確保、ポルトガルとオスマン帝国は後に互いの海域を設定して住み分けている<ref>三橋、P64 - P86、P99 - P107、クロー、P133 - P203、永田、P241 - P243、トレモリエール、P86、林、P128 - P136。</ref>。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
一方で、長きに渡った治世の後半には政争が相次ぎ、[[16世紀]]末から激化する帝国の混乱の始まりが見られた。
 
 
 
特にスレイマン1世は他の后妾を差し置いて、[[ハレム|後宮]]の女奴隷であった[[ロクセラーナ|ヒュッレム・スルタン]]を寵愛し、極めて異例なことに、1534年に彼女を奴隷の身分から解放して{{仮リンク|ハセキ・スルタン|en|Haseki sultan|tr|Haseki sultan|label=皇后}}として迎えるとともに、ヒュッレムのライバルと目されていた{{仮リンク|マヒデヴラン・スルタン|en|Mahidevran|label=マヒデヴラン・スルタン}}を後宮から追い出した。このことから、ヒュッレムの子と異腹の子たち、更にヒュッレムの子同士の間でスレイマン1世の後継者を巡る激しい争いが行われ、後宮の女性が政治に容喙する端緒を作ったと言われる。また、ヒュッレムと娘の{{仮リンク|ミフリマー・スルタン|en|Mihrimah Sultan|label=ミフリマー・スルタン}}及びその夫で大宰相[[リュステム・パシャ]]はスレイマン1世の傍近くで讒言を繰り返したとして世間から非難されている。
 
 
 
1543年に次男メフメトが病死、1553年にイラン遠征の最中に長男ムスタファを謀反の罪で処刑、同年に末子ジハンギルも病死、[[1558年]]の最愛の妻ヒュッレムの死後、[[1559年]]に反乱を起こした皇子バヤズィトを[[1561年]]に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送ったスレイマン1世は、[[1565年]]に[[マルタ島]]への遠征軍を派遣したが失敗([[マルタ包囲戦 (1565年)|マルタ包囲戦]])、1566年に神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]が和睦を破りハンガリーを攻撃すると報復のためハンガリー遠征を敢行、9月7日に[[シゲトヴァール]]包囲中([[シゲトヴァール包囲戦]])に陣中で没した。
 
 
 
軍の指揮は大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が代行して落とし、スレイマン1世の遺骸を運び撤退した。遺骸はイスタンブールに運ばれて、自身がスィナンに建造させた[[スレイマニエ・モスク]]の墓地に葬られた。次のスルタンには、政争の結果唯一生き残った皇子[[セリム2世]]が即位、政治はソコルル・メフメト・パシャの主導で動いていった<ref>三橋、P108 - P116、P125 - P142、クロー、P206 - P212、P216 - P246、トレモリエール、P87 - P88、林、P154 - P172。</ref>。
 
 
 
== スレイマン1世治下の帝国 ==
 
=== 支配体制 ===
 
スレイマン1世の治世でオスマン帝国は更に拡張したが、それは限界を迎えていた。度重なる遠征で財政は枯渇しかかっていて、新たな領土も維持費が莫大にかかるからである。ハンガリー・エジプト・イエメン・地中海沿岸はあまりにも中央から遠いため間接統治となり、総督が現地の募兵と守備兵で軍事力を担うことになった。また、海賊を取り込む方法で地中海を確保したが、陸軍を主眼に置いていたため補助戦力としかなりえず、ポルトガルとの争いで遅れを取っていた。
 
 
 
一方、内政で法と官僚機構の整備が整えられ、地方の法を編集して地方法令集を生み出し、合わせて中央官僚の統制と帝国支配の要として統治法令集も編纂された。法を宗教の観点から見た場合違反かどうかの判定も行われ、その担当である[[ウラマー]]の教育課程及び上下関係も定めると共に、ウラマーの最高権威として[[シェイヒュルイスラーム]]という職種がスルタンの側近として重んじられるようになった。スレイマン1世の治世でエブースードという人物がこの職業を務め、法の編纂とイスラム法による正当性を保障、文官として重要な役割を果たした<ref>三橋、P123 - P125、永田、P241 - P244、林、P130 - P136、P143 - P150。</ref>。
 
 
 
=== 文化 ===
 
スレイマン1世は[[哲学]]などの学問や芸術を好み、「ムヒッビー(恋する者)」の筆名で詩作を行う[[詩人]]でもあった。また詩も流行したが、宮廷のゴシップをイスタンブールの大衆に伝える噂としての役割もあり、スレイマン1世とヒュッレムの結婚、皇子ムスタファの処刑、黒幕とされるリュステムの非難にまで及んでいる。詩人は上流階級をパトロンに求めている部分もあり就職の斡旋を依頼しているが、時に政治的背景も絡む場合もあるため、上記の記事は詩人ドゥカーギンザーデ・ヤフヤーがムスタファに同情的な軍人の心情を歌ったものとされている<ref>三橋、P143 - P152、永田、P245 - P247、トレモリエール、P86 - P87、林、P151 - P156、P162 - P165。</ref>。
 
 
 
[[建築]]の分野では[[ミマール・スィナン]]を登用し、帝国全土のモスク、墓廟、橋梁、上水道など、建築物の建設・修復の任務を与えた<ref name="ビタール1995" />{{rp|98}}。スィナンがスレイマン治世下で建設した代表的な建物としては{{仮リンク|シェフザーデ・ジャーミイ|en|Şehzade Mosque}}や[[スレイマニエ・モスク|スレイマニエ・ジャーミイ]]などがある<ref name="ビタール1995" />{{rp|100}}。
 
 
 
== 評価 ==
 
スレイマン1世の治世には軍事的に成功が続き、オスマン帝国がヨーロッパ諸国・イスラム諸国を圧倒したスレイマン1世の治世は栄光の時代として記憶され、「帝国の最盛期」と言われる。また[[イェニチェリ]]などの精強な軍事組織や中央集権的な行政制度が、スレイマン1世の時代に完成されると共にもっとも円滑に機能したと言われ、後にオスマン帝国が軍事的な衰退を続ける中で、「栄光のスレイマン1世の時代に立ち返ろう」という主張が繰り返されることになる。
 
 
 
だが、しばしばオスマン帝国の軍事的衰退の原因とされるイェニチェリの急速な拡大などの軍事組織の構造変化も、スレイマン1世の時代に始まったものである。軍事的弛緩はスレイマン1世の晩年に始まっていたと考えることができ、事実、スレイマン1世の死後20年たって、16世紀末イランのサファヴィー朝に名君[[アッバース1世]]が現れると、スレイマン1世の治世に獲得されたイラク、アゼルバイジャンの領土は17世紀前半に奪還された。
 
 
 
このほか、フランスと同盟を結んだ際にフランス人に対する[[領事裁判権]]や租税免除などの[[カピチュレーション|恩恵的な特権]]を与えた(後にイギリスやオランダにも適用された)ことも、当時は国力差が圧倒的だったため、友好国への恩恵としてのみ機能しており、社会への実害はなかったものの、後にオスマン帝国が衰退するにつれて不平等条約化し、列強の介入要因となって帝国を苦しめることとなる。加えて皇帝自らが政務を行うことが少なくなり、実権は大宰相の手へと移っていった。
 
 
 
しかし、1565年に大宰相となったソコルル・メフメト・パシャは名宰相と誉れ高く、これら大宰相による政治と優れた[[官僚]]制度によって、スレイマン1世の築いた大帝国を維持し、帝国の衰退はなお1世紀の後、17世紀末のこととなる<ref>三橋、P163 - P170、永田、P247 - P250。</ref>。
 
 
 
== 子女 ==
 
愛妾{{仮リンク|マヒデヴラン・スルタン|en|Mahidevran|label=マヒデヴラン・スルタン}}との間に1人の子を儲けた。
 
* {{仮リンク|ムスタファ (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Mustafa|label=ムスタファ}}(1515年 - 1553年)
 
 
 
愛妾(後に皇后)[[ロクセラーナ|ヒュッレム・ハセキ・スルタン]]との間に6人の子を儲けた。
 
* {{仮リンク|メフメト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Mehmed|label=メフメト}}(1521年 - 1543年)
 
* {{仮リンク|ミフリマー・スルタン|en|Mihrimah Sultan|label=ミフリマー・スルタン}}(1522年 - 1578年) - 大宰相[[リュステム・パシャ]]と結婚
 
* {{仮リンク|アブドゥラー (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Abdullah|label=アブドゥラー}}(1522年 - 1526年) - 疫病に罹り病死
 
* [[セリム2世]](1524年 - 1574年)
 
* {{仮リンク|バヤズィト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Bayezid|label=バヤズィト}}(1525年 - 1561年)
 
* {{仮リンク|ジハンギル (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Cihangir|label=ジハンギル}}(1531年 - 1553年)
 
 
 
== 年表 ==
 
*[[1494年]][[11月6日]] - 誕生
 
*[[1520年]] - 即位
 
*[[1521年]] - [[ベオグラード]]を占領
 
*[[1522年]] - [[ロドス島]]を占領([[ロドス包囲戦 (1522年)|ロドス包囲戦]])
 
*[[1526年]] - [[モハーチの戦い]]に勝利。ハンガリー中央部を平定。
 
*[[1529年]] - [[第一次ウィーン包囲]]
 
*[[1533年]] - [[海賊]][[バルバロス・ハイレッディン]]が帰順。彼を海軍提督=[[カプダン・パシャ]](カプダヌ・デルヤー)に。
 
*[[1534年]] - [[バグダード]]を占領。[[イラク]]と[[アゼルバイジャン]]の大半を支配下に。
 
*[[1538年]] - [[プレヴェザの海戦]]に勝利。[[地中海]]の制海権を掌握。
 
*[[1543年]] - フランス艦隊と共同で[[ニース]]を攻略
 
*[[1561年]] - 反乱を起こした皇子バヤズィトを処刑
 
*[[1566年]][[9月7日]] - ハンガリー遠征の陣中で死去
 
 
 
== ギャラリー ==
 
<gallery>
 
Image:Semailname_47b.jpg|1528年頃のスレイマン
 
Image:Suleyman I of the Ottoman Empire.jpg|欧州での肖像
 
Image:Suleiman I. after 1560.jpg|老年期のスレイマン
 
Image:Hunername 264.jpg|モルドバ遠征
 
Image:Tughra Suleiman.jpg|スレイマン1世の[[トゥグラ]](花押)
 
Image:Sueleymanname nahcevan.jpg|1556年夏 [[ナヒチェヴァン自治共和国|ナヒチュヴァーン]]遠征(『スレイマン・ナーメ』)
 
</gallery>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist|refs=
 
<ref name="ビタール1995">[[#ビタール1995|ビタール『オスマン帝国の栄光』(1995年、創元社)]]</ref>
 
}}
 
==日本語文献==
 
* [[三橋冨治男]]『スレイマン大帝 オスマン帝国の栄光』[[清水書院]]、1971年(新装版、1984年)。 
 
* [[アンドレ・クロー]]著、[[浜田正美]]訳『スレイマン大帝とその時代』[[法政大学出版局]](りぶらりあ選書)、1992年5月。 
 
* [[永田雄三]]編『新版 世界各国史9 西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』[[山川出版社]]、2002年。
 
* [[フランソワ・トレモリエール]]・[[カトリーヌ・リシ]]編、[[樺山紘一]]日本語版監修『図説 ラルース世界史人物百科Ⅱ ルネサンス-啓蒙時代』[[原書房]]、2004年。
 
* [[林佳世子]]『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』[[講談社]]、2008年。
 
* {{cite book|和書|first=テレーズ|last=ビタール|others=[[鈴木董]]監修|title=オスマン帝国の栄光|publisher=[[創元社]]|series=知の再発見双書51|date=1995-11-10|isbn=4-422-21111-0|ref=ビタール1995}}
 
 
 
== スレイマン1世が登場する作品 ==
 
=== テレビドラマ ===
 
* [[オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜]] (トルコ)
 
 
 
=== 漫画 ===
 
* [[篠原千絵]]『[[夢の雫、黄金の鳥籠]]』([[小学館]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|Suleiman I}}
 
* [[プロテスタントとイスラム]]
 
  
 
{{オスマン帝国皇帝}}
 
{{オスマン帝国皇帝}}
{{Authority control}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
  
 
{{DEFAULTSORT:すれいまん1}}
 
{{DEFAULTSORT:すれいまん1}}

2018/10/6/ (土) 15:32時点における最新版

スレイマン1世Kanuni Sultan Süleyman I, ota: سلطان سليمان اول‎, ラテン文字転写: Sultān Suleimān-i evvel, トルコ語: I. Süleyman1494年11月6日 - 1566年9月7日

オスマン帝国第 10代スルタン (在位 1520~66) 。セリム1世の子。母はクリム・ハンの息女ハフサ。父の在位中は小アジア西部のサンジャク・ベイ職にあった。スレイマンの治世中,帝国は絶頂期を迎え,東はイラン国境,西はウィーン近くまで領土を拡大し,北アフリカのアルジェリア,南アラビアのイエメンを含む大帝国となった。彼はウィーン包囲 (29) を含めて,前後 13回に及ぶ親征を企て,モハーチの戦い (26) でハンガリーを征服し,プレベザの海戦 (38) で地中海の制海権を握った。国内では戦利品の流入で商工業が発達したが,1535年フランスにカピチュレーション (通商特権) を与え,将来に災いの種をまいた。カーヌーニー (立法者) と呼ばれたように大法典を集大成し,諸般の制度,機構を整備した。




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