スモールボール

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スモールボール (small ball) は、野球における戦略の一つである。機動力や小技(バントなど)を特に重視する。スモール・ベースボール (small baseball) とも呼ばれる。対語は、ビッグボールMLBロサンゼルス・ドジャースの名スカウト、アル・キャンパニスが『ドジャースの戦法』を著して定型化した。かつてはドジャース戦法と呼ばれ、スモールボールと言われるようになったのはごく最近のことである[1]

概要

攻撃面においては、長打力(本塁打)に依存せず、出塁した走者を犠打ヒットエンドラン、機動力(盗塁)で確実に次の塁へ進め、安打犠牲フライで本塁へ生還させ、確実に1点を取ることを理想とする。スモールボールの思想の根幹を担うのが“アウトの生産性”という概念である。スモールボールでは、アウトには生産的なものと非生産的なものの2種類があると考える。生産的アウト(Productive Outs)とは、犠打や進塁打、犠牲フライなど走者を次の塁に進めたり得点をしたアウトのことである。スモールボールでは、いかに生産的なアウトを多くするかを重要視する。これは選手の査定にも反映される。

プロ野球においてスモールボール戦略を採用した場合は、比較的年俸の高騰しやすい長打力の高い打者をたくさん抱え込む必要がないため、予算は抑制できるが、長打力が低いため大量得点は期待できない。セイバーメトリクスによる統計学上の観点から見て、無死一塁から犠打で一死二塁にした場合、1点が入る確率は高まるが、2点以上得点できる確率は下がる[2]ため、確実に1点を稼ぐこと(アウトの部分的生産性)に執着して、総獲得点を統計的に下げ、ひいては勝率を下げているとの指摘が存在する。

よって、打線に乏しい一方で守備面においては少ない得点を守りきる、高い守備力や投手力があるチームに適する戦略であると言える。また反対に、投手力および守備力に難があるチームでは逆効果となる。しかし、試合後半で同点や接戦である場合には、確実に点を取りに行く場合に非常に効果的な戦術である。上記の理由から、予算規模の小さいチームや本塁打の出にくい球場を本拠地とするチームで好んで採用されるだけでなく、試合終盤にはよく採用される戦術である。

歴史

MLBのロサンゼルス・ドジャースのように、伝統的にこの戦略をとり続けるチームも存在する。スモールボールの歴史は古く、1890年代の最強チームであるボルチモア・オリオールズ(※現存するボルチモア・オリオールズとは全くの別物)がヒットエンドランやボルチモア・チョップなど新しいスタイルを完成させ、1910年代まではボール反発力が低く粗悪なものであったため、極めて長打が出にくい状況だったので、全てのチームが基本戦術として採用していた[2]。当時の主力選手ジョン・マグローは、このようなスタイルをインサイド・ボール(頭脳的野球)と呼んでいた。

1920年代に入ると、ボール反発力が上がったことによりホームラン時代が幕開けし、それ以降、2008年現在に至るまでビッグボールがMLB全体の主流になったわけであるが、「ステロイド時代の終焉」と歩調を合わせるかのように、かつてのドジャース戦法が最近になってスモールボールと名を変えて、一躍脚光を浴びることになった[1][2][3]ロサンゼルス・エンゼルス2002年に球団史上初のワールド・シリーズを制覇したのみならず、2004年から2007年までの4年間に3度の地区優勝を果たし、今やスモールボールの代名詞的存在となっている。なお、エンゼルスが「現在最もスモールボールを効果的に活用している」と言われるようになった背景には、首脳陣の存在の大きさがある。マイク・ソーシア監督は現役時代及び指導者として通算22年間をドジャースで過ごし、他に当時のコーチ陣もディノ・イーベル三塁コーチが17年、ミッキー・ハッチャー打撃コーチとロン・レニキーベンチコーチが13年、アルフレッド・グリフィン一塁コーチが4年、それぞれドジャースの組織内に所属していた経験がある。彼らが選手・指導者として学んで来たスタイルは、ドジャース戦法 = スモールボールである[1]。また、2005年にはシカゴ・ホワイトソックスが本塁打の出やすい本拠地球場ながらこの戦略に方針転換し、ワールドシリーズを制した(ただし、MLB全体で5位となる200発もの本塁打を放ったこの年のホワイトソックスが、純粋な意味でスモールボールの実践例と見られるかは、後述のV9時代の巨人同様賛否両論ある)。

ただし、以前ほどではないにせよ、打高投低・打撃戦傾向が続いている2008年時点のMLBにあってはビッグボールの有効性が依然として高く、八・九番打者ですらパワー・ヒッターがざらにいる現代のMLBにはスモールボールはフィットしない、とも言われている。実際、2007年度シーズンの統計では、本塁打が出た試合では30チーム中27チームが勝ち越しており、逆に本塁打なしでは全チーム負け越している。その点については、スモールボールの総本山と見なされるエンゼルスで指揮を執るソーシア監督も、「スピードを積極的に駆使して来たのはパワー不足に一つの要因があるからで、スラッガーが揃っているならその必要性は薄まる」とスモールボールの限界を認めている[2]

日本における「スモールボール」

日本では、読売ジャイアンツ川上哲治監督(1961年 - 1974年)が「本場・アメリカ仕込みの野球」としてドジャースの戦術を導入しようとしたことで知られ[4]、また後述するように学生野球にもスモールボールが用いられることは多く、スモールボールは日本人の野球観に多大な影響をもたらしてきた。

この影響で、“小技(犠打など)、機動力を駆使した野球こそ至上(あるいは美徳)であり、長打力に頼る野球は大味であり邪道である”という「ホームラン性悪説」的な固定観念が形成されており、スモールボールといえばバント(犠打)が必須という考えが一般的である。この観念は、スモールボールを駆使した1980年代後半から1990年代前半の西武ライオンズの黄金時代到来によって決定的なものとなった。

ただし、V9時代のジャイアンツは、セリーグの打点王をV9時代を挟む17シーズンにわたって独占したON(王貞治長嶋茂雄)という稀代の長距離打者が打点を稼いでいたし[4]森祇晶監督時代(1986年 - 1994年)の西武は秋山清原+外国人の長距離打者(ブコビッチバークレオデストラーデ)でクリーンアップを固め、多くのシーズンでチーム本塁打数リーグ1位を記録しており(1986年、1987年、1988年、1990年、1992年)、共々厳密な意味ではスモールボールとはいえない、あるいは対照的な野球であるといった意見もある。

また日本でスモール主義が尊ばれている理由の一つに、アマチュア野球が盛んなことが挙げられる。学生野球など一般に、レベルが低くなるほど打線には巧打者・強打者が少なくなると言われ、そうなると連打・長打には期待できず、必然的にスピードと小技に頼らざるを得なくなる[2]。また、それ以上に日本でスモール主義が普及しているのは、高校野球においてスモールボール戦略が必須であることがあげられる。これは日本の高校野球はリーグ制でなく、勝ち抜き制であるからである。リーグ制であれば勝ち越すことが重視されるため、統計的に最も獲得平均点が高い戦略が優先される。これに対して、勝ち抜き戦の場合は一度でも負けることが許されないので、最も安全に(統計的に偏差が少ないように)点を取りにいき、守備のエラーを最小限に抑える戦略が支配的となる。また、このような環境では多くのチームがスモール主義に近い戦略をとるので、スモール主義の欠点が露呈しにくい。ほとんどのプロ選手が日本の甲子園(勝抜き戦)を頂点とする高校野球を通過するので、自然にスモール主義が日本の選手に固定観念として染み付く結果となっている。また、前述したアマチュアで支配的なスモール主義の影響から、日本人のファンやスポーツ記者の間では、スモール主義が一戦略に過ぎないということが意識されないほど浸透しており、これに反する采配が失敗すると大いにそれを叩き、逆に過度に安全パイを狙う戦略には寛容であるという土壌も影響している。

例えば2006年WBC日本代表監督である王貞治は、投手を中心とした守備を重点においた機動力重視のスモールベースボールを標榜した(ただし、WBC開幕直前にスローガンを「ストロング&スピーディー」に変えている)が、実際にはバントの要素ばかりを意識しすぎてしまい、バントの苦手な長距離打者にもバントを指示して自滅するなど、ちぐはぐな采配が目立った。結局、準決勝・韓国戦の決勝点に象徴されるようにバントミスを長打で取り返すという展開となった。しかし、前述の日本人の野球観やホワイトソックス優勝の影響もあってスモールボール至上論が支配的だった日本のマスコミでは、これを批判的に取り上げるメディアはごくわずかで「スモールベースボールの勝利」と伝えるのが大半だった。

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 三尾圭 「エンゼルスが実践するベースボール ソーシア・ボール」 『月刊スラッガー No.123 , 2008年7月号』 日本スポーツ企画出版社、16 - 19頁。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 出野哲也 「スモール・ボールは最高の"戦略"なのか」 『月刊スラッガー No.123 , 2008年7月号』 日本スポーツ企画出版社、44 - 46頁。
  3. 「MLB版 『スモール・ボール』論」 『月刊スラッガー No.123 , 2008年7月号』 日本スポーツ企画出版社、8 - 9頁。
  4. 4.0 4.1 テンプレート:G5000 同書では、1974年に末次利光が年間打率3割を超えたことが「ON以外では58年の与那嶺要以来…」と評されている(p.57)。

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