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{{複数の問題|出典の明記=2012年6月|正確性=2016年10月20日 (木) 07:17 (UTC)|Cleanup=2016年10月20日 (木) 07:17 (UTC)|観点=2016年10月20日 (木) 07:17 (UTC)}}
 
{{otheruses|古代ギリシアの都市国家|現代の都市|スパルティ|その他の用法|スパルタ (曖昧さ回避)}}
 
{{基礎情報 過去の国
 
|略名          =
 
|日本語国名    =スパルタ
 
|公式国名      ='''{{Lang|el|Σπάρτα}}'''
 
|建国時期      =[[紀元前10世紀|前10世紀]]頃
 
|亡国時期      =[[紀元前146年|前146年]]
 
|先代1        =暗黒時代 (古代ギリシア)
 
|次代1        =共和政ローマ
 
|次旗1        =Spqrstone.jpg
 
|国章画像    = Coloured Lambda.png
 
|国章幅  =75px
 
|位置画像      =Sparta territory.jpg
 
|位置画像説明  =スパルタの支配領域
 
|公用語        =[[古代ギリシア語]]
 
|首都          =スパルタ
 
|元首等肩書    =[[国王]]/僭主
 
|元首等年代始1 =前489年
 
|元首等年代終1 =前480年
 
|元首等氏名1  =[[レオニダス1世]]
 
|元首等年代始2 =前235年
 
|元首等年代終2 =前222年
 
|元首等氏名2  =[[クレオメネス3世]]
 
|元首等年代始3 =前206年
 
|元首等年代終3 =前192年
 
|元首等氏名3  =[[ナビス]]
 
|変遷1        =[[テルモピュライの戦い]]
 
|変遷年月日1  =前480年
 
|変遷2        =[[レウクトラの戦い]]
 
|変遷年月日2  =前371年
 
|変遷3        =[[セッラシアの戦い]]
 
|変遷年月日3  =前222年
 
|変遷4        =[[ナビス戦争]]
 
|変遷年月日4  =前195年
 
|変遷5        =ローマの属州化
 
|変遷年月日5  =前146年
 
}}
 
'''スパルタ'''({{仮リンク|ドーリス方言|label=ドーリス語|en|Doric Greek}}: '''{{lang|el|Σπάρτα}}''' / {{lang|el-Latn|Spártā}} <small>スパルター</small>、{{lang-en|Sparta}})は、現在の[[ペロポネソス半島]]南部[[スパルティ]]にあった[[古代ギリシア]]時代の[[ドーリア人|ドーリス人]]による[[都市国家]]([[ポリス]])である。自らは'''ラケダイモーン'''({{lang|el|Λακεδαίμων}} / {{lang|grc-Latn|Lakedaimōn}})と称した。
 
  
古代ギリシア世界で最強の[[重装歩兵]]軍を誇り、[[ペルシア戦争]]ではギリシア軍の主力であった。[[ペロポネソス同盟]]の盟主となり、[[アテナイ]]を破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍事的教育制度は「[[スパルタ教育]]」として知られる。
+
'''スパルタ'''({{仮リンク|ドーリス方言|label=ドーリス語|en|Doric Greek}}: '''{{lang|el|Σπάρτα}}''' / {{lang|el-Latn|Spártā}} <small>スパルター</small>、{{lang-en|Sparta}})
  
== 名称 ==
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アテネと並ぶ古代ギリシアの都市国家。歴史時代の公称はラケダイモンという。スパルタの完全市民はスパルチアタイと呼ばれた。ペロポネソス半島に侵入した[[ドーリス人]]の一部が前 10世紀頃ラコニアに来住し,村落を形成。前8世紀頃にはラコニアのほぼ全域とメッセニアの多くを併合し,ドーリア人やその先住民を[[ペリオイコイ]]や[[ヘロット]]の身分に落し,ポリスが成立した。今日[[リュクルゴス]]の国制として知られる国制や社会的,軍事的諸制度は,前8世紀頃から前6世紀中頃にかけてヘロットの大反乱や市民間の経済的問題を克服することにより形成された。国制は2人の王の下に 30人の長老会と全市民が構成する民会があり,王は軍事指導者であり,行政は毎年民会より選出された5人の[[エフォロス]]たちが司り,この役職は前6世紀の間に国家最高の権限をそなえた。市民は必ずしも平等ではないが,軍務に専念するに十分な土地を分配され,これをヘロットに耕作させ,ペリオイコイに商工業をゆだね,幼児からのきびしい教育と共同食事を軸とした戦士共同体を形成した。このきびしい教育と訓練から今日スパルタ式教育の名が残る。スパルタはギリシア第1の陸軍国となり,前6世紀の間にペロポネソス半島ほぼ全域に[[ペロポネソス同盟]]を形成し,[[ペルシア戦争]]でも中心的役割を果した。[[ペロポネソス戦争]]ではアテネをくだし,ギリシアの覇権を握って全盛を誇ったが,貨幣経済の流入と土地制度の変質とから戦士共同体がくずれ,前 371年レウクトラにおいてテーベに敗れ,メッセニアを失うにいたり,ポリスとしての力を失った。ローマ帝国治下の2世紀に繁栄をみたが,4世紀末ゴート人の侵入によって壊滅した。
「スパルタ」はドーリス語([[古代ギリシア語]]{{仮リンク|ドーリス方言|en|Doric Greek}}){{lang|el|Σπάρτα}} / {{lang|el-Latn|Spártā}} がもとになっており、原音の発音に沿ってカナで表記すれば「スパルター」となる。
 
  
[[アッティカ]](アッティケー)方言では「スパルテー」({{lang|el|Σπάρτη}} / {{lang|el-Latn|Spartē}})と呼ばれる。アッティカ方言をもとにした[[ギリシャ語|現代ギリシャ語]]では「スパルティ」({{lang|el|Σπάρτη}} / {{lang|el-Latn|Sparti}})となる。
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1834年古代の遺跡の上に新都市スパルティが建設された。新都市は現エブロタス川流域の商工業中心地で,柑橘類,オリーブ油などを集散。人口1万 5496 (1991推計)
 
 
== 地理 ==
 
エウロタス河畔に位置するスパルタは、[[ラコニア|ラコーニアー]]と[[メッセニア|メッセーニアー]]を治めた。彼らの支配地は城壁が無かったが、誰にも侵略されることがなかった。それはスパルタの陸軍は最強であるというのが当時のギリシア世界の常識であり、スパルタに攻め入ることは自殺行為に等しかったからである。事実、スパルタの戦士共同体が弱体化し、[[レウクトラの戦い]]で敗れるまでは、スパルタの支配地に侵入することのできた軍隊は存在しなかった。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 成立 ===
 
[[ファイル:Ancient sparta theater.jpg|300px|thumb|スパルタの劇場跡]]
 
紀元前10世紀ころに祖先がギリシア北方からペロポネソス半島に侵入し、[[ミュケナイ時代]]の先住民[[アカイア人]]を征服し[[ヘイロタイ]](奴隷)にした。
 
 
 
紀元前8世紀から7世紀にかけて無法状態を経験したことは、ヘロドトスやトゥキュディデスにより伝えられている。社会的な不満から社会改革の動きが活発化し、{{仮リンク|スパルタのリュクルゴス|en|Lycurgus of Sparta}}({{lang|el|Λυκούργος}}, {{lang-en|Lycurgus}})と呼ばれる伝説的立法者によって秩序がもたらされた。リュクルゴスは、諸国遍歴の末、この制度をスパルタに成立させ、スパルタ市民はリュクルゴスの制度に基いた社会生活を営んだ。土地の均等配分、長老会設置、民会設置、教育制度、常備軍の創設、装飾品の禁止、共同食事制がその基本である。
 
 
 
[[紀元前743年]]、スパルタは自分たちの部族の統一もままならない中、西の隣国、[[メッセニア]]を征服した([[第一次メッセニア戦争]])。この戦争はスパルタがギリシアの強国となるための一つのステップであったといえる。このため、スパルタは、当時の[[ポリス]]のなかでもその領域は例外的に広かった。奪った土地はスパルタ市民に均等配分され、約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは奴隷の身分から解放されることも移動することも許されず、土地を耕してスパルタ人に貢納した。スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千~1万人であったが家族を含めて5万人程度)、多数の被抑圧民を抱えたことから市民皆兵主義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、{{仮リンク|クリュプテイア|en|Crypteia}}({{lang|el|κρυπτεία}})と呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘイロタイの集落を襲った。
 
 
 
[[紀元前685年]]、スパルタの軛に耐えかねたメッセニア人たちは反乱を起こし([[第二次メッセニア戦争]])、それは周辺諸国をも巻き込んだ戦争になった。前半の戦況はメッセニア優位であったが、[[大掘割の戦い]]でのスパルタの勝利が転換点となり、戦局はスパルタ優位に転換し、ついに{{仮リンク|エイラ (メッセニア)|en|Eira, Messenia|label=エイラ山}}({{lang|el|Είρα}})の陥落を以ってスパルタの勝利に終わった。この事件からスパルタ人はヘイロタイに対する締め付けを強化した。
 
 
 
=== ペロポネソス同盟とペルシア戦争 ===
 
 
 
 
 
{{Main|ペルシア戦争}}
 
第二次メッセニア戦争を戦った[[テオポンポス (スパルタ王)|テオポンポス]]の頃に[[エフォロイ]]の制度が始まり、王権への制限は強化された。その一方で徐々にスパルタはペロポネソス半島での影響力を増やしていき、[[紀元前6世紀]]には[[ペロポネソス同盟]]を結成し、その盟主の座に就いた。
 
 
 
[[紀元前5世紀]]初頭の第二次以降の[[ペルシア戦争]]でスパルタは[[アテナイ]]と共にギリシア諸国を主導して[[アケメネス朝ペルシア|ペルシア帝国]]と戦った。有名な戦いは[[テルモピュライの戦い]]であり、スパルタを主力としたギリシア同盟軍は数は数十倍はあるかというペルシア軍に対して奮戦した。この戦いで英雄的に討ち死にした[[レオニダス1世]]はその名をギリシア中に轟かせた。[[プラタイアの戦い]]では、4万ほどのスパルタ軍が30万とも伝えられるペルシア軍を打ち破り、敗走させている。ペルシア戦争でスパルタの無敵さは世界でも通じるものであると証明し、陸上戦においてペルシア帝国の野望を何度も打ち砕いた。
 
 
 
=== ペロポネソス戦争とギリシャの覇権 ===
 
{{Main|ペロポネソス戦争}}
 
[[デロス同盟]]の盟主となったアテナイの強大化に伴ってアテナイとの関係は悪化し、[[紀元前460年]]から[[紀元前445年]]まで[[第一次ペロポネソス戦争]]と呼ばれる断続的な戦争状態に陥った。この戦いは30年間の休戦を条件に終わったが、その半分もいかないうちに[[ペロポネソス戦争]]が勃発した。籠城戦を選択したアテナイに疫病が蔓延したこともあり、前404年に勝利してギリシアの覇権を獲得した。このギリシア中を巻き込んだ大戦はスパルタの勝利に終わり、ギリシアでのスパルタの[[覇権]]が成立した。しかしその勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらした事により、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じたため、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。
 
 
 
[[紀元前395年]]、スパルタに対してアテナイ、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]、[[テバイ]]らが挑戦し([[コリントス戦争]])、両陣営は一進一退の攻防を繰り広げたが、ペルシア王[[アルタクセルクセス2世]]の仲介の元での[[アンタルキダスの和約]](大王の和約とも)によって戦争は終わり、スパルタは海上での覇権をアテナイに引き渡した。その後、[[エパメイノンダス]]と[[ペロピダス]]に率いられたテバイとの対立が激化し、[[紀元前371年]]の[[レウクトラの戦い]]でエパメイノンダスに率いられたテバイ軍に[[クレオンブロトス1世]]率いるスパルタ軍は敗れ、スパルタはギリシアでの覇権を失った。
 
 
 
=== ヘレニズム期からローマへ ===
 
{{Main|セッラシアの戦い|ナビス戦争}}
 
[[紀元前4世紀]]中頃から[[ピリッポス2世]]の元で強大化した[[マケドニア王国]]がギリシアでの影響力を強め、アテナイやテバイはそれに対抗していたが、スパルタはそれには加わらず、ついにマケドニア軍が[[カイロネイアの戦い]]でアテナイ・テバイ軍を撃破すると、マケドニアの主導で[[コリントス同盟]]が組織され、マケドニアのギリシアでの覇権が確立した。しかし、スパルタはこの同盟に加わらずに反マケドニアの態勢を貫き、[[紀元前331年]]には[[アギス3世]]のもとでマケドニアに反乱を起こしたが鎮圧された([[メガロポリスの戦い]])。
 
 
 
紀元前3世紀以降、[[アギス4世]]や[[クレオメネス3世]]、[[マカニダス|マカーニダース]]や[[ナビス]]らが国政改革を実施して、[[アカイア同盟]]やマケドニア、[[共和政ローマ]]と戦ったが、[[セッラシアの戦い]]や[[マンティネイアの戦い (紀元前207年)|マンティネイアの戦い]]、[[ナビス戦争]]に各々敗北。この時期に名実共に独立国家としての地位を失った。
 
 
 
[[紀元前146年]]にローマはアカイア同盟を[[コリントスの戦い]]で破ったのを機に、スパルタを含むギリシア全土をローマの[[属州]]に組み込んだ([[アカエア]])。ただし、アテナイ並びにスパルタはかつての功績から一定の自治権を認められた。
 
 
 
=== その後 ===
 
{{see|スパルティ}}
 
古代スパルタは[[395年]]の[[西ゴート族]]長[[アラリック]]の攻撃により崩壊し、間もなく[[キリスト教]]都市として再建された。その後、6世紀に始まる[[スラヴ人]]の侵入と定住の中、再度スパルタ市は放棄され、市民の一部は[[シチリア島]]に移住、別の一団は半島南東端の沿岸に[[モネンバシア|モネンヴァシア市]]を建設してスラヴ人の波を逃れることになった。10世紀にスラヴ人のギリシア[[正教会|正教]]文化への同化が完了してペロポニソスに於ける東ローマの支配(初期はセマ・エラスの一部、後にセマ・ペロポニソスとして独立)が再建されると、スパルタ市も再び[[府主教]]座都市ラケデモン(ラケデモニアとも。古代名[[ラケダイモン]]に由来)として再建され、その後長く安定した時代が続いた。13世紀、郊外の[[ミストラス]]を首府とする[[モレアス専制公領]]が成立すると、ラケデモンは衰退した。その後、[[1834年]]に現在のスパルタが再建された。
 
 
 
== 政治と社会生活 ==
 
[[File:SpartaGreatRhetra.png|400px|thumb|スパルタの政治システムの模式図]]
 
国政においては2人の世襲の[[王]]が並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。2王家はそれぞれ{{仮リンク|アギス朝|en|Agiad dynasty|label=アギス家}}({{lang-en|Agiad dynasty}})と{{仮リンク|エウリュポン朝|en|List of kings of Sparta#Eurypontid dynasty|label=エウリュポン家}}({{lang-en|Eurypontid dynasty}})といい、スパルタの統一過程で採られた妥協の遺制と思われる。[[ペルシア戦争]]の[[テルモピュライの戦い]]で有名な[[レオニダス1世]]はアギス家の王である。{{仮リンク|長老会 (スパルタ)|label=長老会|en|Gerousia}}は、全市民参加の[[民会]]によって兵役免除に達した60歳以上の中から選出された28人に、2人の王を加えた30人で構成され、その地位は終身であった。民会の決定に対して[[拒否権]]を有し、事実上の最高決定機関であった。また、民会によって30歳以上の市民の中から、毎年5人の[[エフォロイ]]が選ばれて、王を含む全市民に対する監督権と[[司法権]]を保持した。
 
 
 
新生児は[[部族]]長老の面接を受け、虚弱者は山奥の洞穴に遺棄された。男性は7歳で家庭を離れ共同生活を送り、12歳から本格的な肉体的訓練とスパルタ人としての教育(アゴベ)を受けた。軍事訓練の一つとして、ヘイロタイから物を盗み殺害することも奨励された。こうして、彼らは質実剛健、忍耐と服従を身につけ、18歳で民会の全会一致により成人の仲間入りを果たした。こうした人材育成は[[スパルタ教育]]と言われる。
 
 
 
軍事に携わるようになると将軍の管理下に置かれ、毎日15人単位の夕食会に参加して、政治談義に加わった。共同食事は団結を醸成する場であり若者を教育する場であった。兵舎での生活を常としたため、妻をもっても夜には兵舎に戻る必要があった。戦場で臆病と見なされた場合、全ての共同体から排除され顎髭の半分を刈りとられた姿で生きなければならなかった。60歳になると兵役が免除された。
 
 
 
女性にも体育が奨励され健康な子を持つことが期待された。15歳位になると親が決めた30歳位の男性と結婚させられた。戦死することが多かったスパルタでは、兄弟で一人の女性を妻に迎えたと伝えられる。妻は夫と昼間に顔を合わせることはほとんどなかった。しかし家庭の奥に籠もって一生を送ったアテナイの女性に比べれば自由であった。
 
 
 
元来のスパルタ人は優れた金属工芸技術とそれによってもたらされた大きな経済力を有していたが、国民皆兵制度の導入以降は徹底的に贅沢を排除して、貴金属の装飾品を身につけることさえ禁じた。商業は2万人の半自由民である[[ペリオイコイ]]に従事させたが、基本的には通商では抑制策を採り、[[鉄貨]]の使用しか認めていなかったので他の諸都市との[[貿易]]は振るわず、かつての技術力も衰退し、必需品が流通するばかりであった。
 
 
 
このようにスパルタは、ギリシアの他の地域とは違う制度を有していたようである。
 
 
 
== 対外関係 ==
 
[[ファイル:Léonidas aux Thermopyles (Jacques-Louis David).PNG|300px|thumb|[[テルモピュライの戦い]]]]
 
数的に劣る市民のみで被抑圧民の反乱を鎮圧するためにも、勇猛果敢な市民兵軍団を組織する必要があったスパルタは、前6世紀半ばまでにはギリシア屈指の強国へと成長し、周辺の[[エーリス|エリス]]・テゲアなどとペロポネソス同盟を結んだ。この同盟締結は、アテネのデロス同盟結成より早いものであり、早い段階よりスパルタが対外関係を構築していたことを示している。
 
 
 
そのスパルタの市民軍は、ペルシア戦争においてその真価を発揮した。[[紀元前480年]]、破竹の勢いで侵攻を進めるペルシアの大軍に対し、ギリシア諸都市連合軍の作戦立案を担当したアテナイの[[テミストクレス]]は、山間の[[テルモピュライ]]でペルシアの侵攻を食い止める作戦を立てた。この戦場は主にスパルタが担った。しかし地元民に内通者が出てペルシア軍に迂回路を教えたため、背後を突かれて窮地に陥ることとなった。そこでスパルタ王[[レオニダス1世]]は他の諸都市の兵4000を先に逃亡させた後、自ら300人のスパルタ兵と700人の[[テスピアイ]]兵、400人のテバイ兵を率いて囮となり、[[玉砕]]した([[テルモピュライの戦い]])。この時間稼ぎが、アテナイ海軍にペルシア軍を海上で迎撃する態勢を整えさせ、[[サラミス沖の海戦]]での勝利を可能にした。レオニダスとスパルタ軍の勇敢な戦いぶりは全ギリシア人から称賛を受けた。
 
 
 
== ギリシア神話 ==
 
[[ギリシア神話]]では、[[トロイア戦争]]の原因となった[[ヘレネ]]の夫[[メネラオス]]がスパルタ王となっているが、トロイア戦争は[[ミケーネ文明]]時代の話であるため、メネラオスのスパルタは後世のスパルタとは別の国である。
 
 
 
後世のスパルタの建国神話は[[ヘラクレイダイ]]([[ヘーラクレース]]の末裔)のペロポネソス半島への帰還と共に語られている。王位簒奪を恐れた[[エウリュステウス]]によって故郷を追われていたヘラクレスの子孫たちは、[[アルゴス]]を打ち倒し、三代目にしてやっと故郷の地であるペロポネソス半島へと帰還することができた。この時、ヘラクレイダイは領地を分け合った。すなわち、アルゴスをテメノスが、メッセニアをクレスポンテスが、スパルタを[[アリストデーモス]]が支配することになった。この中で、アリストデーモスは雷に打たれて既に死亡していたため、その子供たちがスパルタを支配することになった。彼らの名前は[[エウリュステネス]]と[[プロクレス]]と言い、エウリュステネスがスパルタ王家のアギス朝、プロクレスがエウリュポン朝の創始者となった。彼らは仲が悪かったため、二つの王家は一つになることはなく、スパルタには代々二人の王が並立することになった。
 
 
 
こうして、スパルタはヘラクレイダイによって統治され、スパルタ人は大英雄ヘーラクレースの血統に組み込まれたのであった。
 
 
 
==関連項目==
 
*『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』[[ヘロドトス]]
 
*[[映画]]
 
**『[[スパルタ総攻撃]]』
 
**『[[300 〈スリーハンドレッド〉]]』
 
*[[スパルタ王]]
 
*[[侍政]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Sparta}}
 
*[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/lac_rep.html ラケダイモン人の国制]
 
*[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/plutarkos/Laconica.html ラケダイモン人たちの古習]
 
*[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/plutarkos/Apophthegmata.html ラコニア女たちの名言集]
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:すはるた}}
 
{{DEFAULTSORT:すはるた}}
 
[[Category:スパルタ|*]]
 
[[Category:スパルタ|*]]

2018/12/29/ (土) 11:25時点における最新版

スパルタドーリス語English版: Σπάρτα / Spártā スパルター英語: Sparta

アテネと並ぶ古代ギリシアの都市国家。歴史時代の公称はラケダイモンという。スパルタの完全市民はスパルチアタイと呼ばれた。ペロポネソス半島に侵入したドーリス人の一部が前 10世紀頃ラコニアに来住し,村落を形成。前8世紀頃にはラコニアのほぼ全域とメッセニアの多くを併合し,ドーリア人やその先住民をペリオイコイヘロットの身分に落し,ポリスが成立した。今日リュクルゴスの国制として知られる国制や社会的,軍事的諸制度は,前8世紀頃から前6世紀中頃にかけてヘロットの大反乱や市民間の経済的問題を克服することにより形成された。国制は2人の王の下に 30人の長老会と全市民が構成する民会があり,王は軍事指導者であり,行政は毎年民会より選出された5人のエフォロスたちが司り,この役職は前6世紀の間に国家最高の権限をそなえた。市民は必ずしも平等ではないが,軍務に専念するに十分な土地を分配され,これをヘロットに耕作させ,ペリオイコイに商工業をゆだね,幼児からのきびしい教育と共同食事を軸とした戦士共同体を形成した。このきびしい教育と訓練から今日スパルタ式教育の名が残る。スパルタはギリシア第1の陸軍国となり,前6世紀の間にペロポネソス半島ほぼ全域にペロポネソス同盟を形成し,ペルシア戦争でも中心的役割を果した。ペロポネソス戦争ではアテネをくだし,ギリシアの覇権を握って全盛を誇ったが,貨幣経済の流入と土地制度の変質とから戦士共同体がくずれ,前 371年レウクトラにおいてテーベに敗れ,メッセニアを失うにいたり,ポリスとしての力を失った。ローマ帝国治下の2世紀に繁栄をみたが,4世紀末ゴート人の侵入によって壊滅した。

1834年古代の遺跡の上に新都市スパルティが建設された。新都市は現エブロタス川流域の商工業中心地で,柑橘類,オリーブ油などを集散。人口1万 5496 (1991推計) 。



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